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第二章 尾張国編「さまよう赤い糸」
第四話 さまよう赤い糸
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強い日差しに目を細め、帰蝶と信長はなだらかな丘陵に広がる草原を見つめていた。
馬にまたがったそれぞれの腕には、腹をすかせた鷹がとまり、じりじりと首を伸ばしたり縮めたりして、主人の号令を待っている。帰蝶の腕に乗る鷹は峰花、信長の鷹は小武王という。
草むらが、がさりと動いて黒い影が飛び出してきた。見ればそれは、手ぬぐいで顔半分を隠し、袖の短い小袖を着た梁田政綱であった。泥に汚れたその姿は、どこからどう見ても武士ではなく農民だ。
「殿、桶狭間山のふもとにキジがいます」
信長はうなずくと、馬で駆け出した。帰蝶も後を追う。
山間を縫って小さな窪地に出れば、その向こうに桶狭間山が見える。稲穂が揺れる窪地の名を、桶狭間という。
田んぼの真ん中で稲刈りをしていた男が、二頭の馬に気づいてこちらにやってくるが、足を土に取られ、膝を大きく持ち上げなければ前に進めない。ずぶずぶの土地で稲を育てているのだ。
この田を「ふけた(深田)」と呼ぶ、と信長に教えたのはこの男、深田の亀次だ。
稲の束を背負った亀次の娘、ちよとみつも二人に気づいて近づいてきた。
「若殿、獲物はあっちだ」
亀次が指さす方向を見て、信長はうなずいた。
「亀次、ちよ、みつ。獲れたらやるから、待ってろ」
そう言って深田を迂回して山のふもとへ進んだ。
山のふもとでは、待ち構えた農民姿の橘が、音もたてずにクマザサの影から出てきた。
「この奥です」
指さした向こう。木々の隙間に、キジの尾の影がちらついた。
「帰蝶、やれ」
信長が囁く。帰蝶はすかさず峰花の目隠しを外した。
音もなく、両翼が風を受け止め宙に浮く。
キジを見つけたとたんに胴体をくいっと縦にして、羽の角度を変えた後、最短経路で獲物に向かって急降下、音もなくキジの首元を足でつかむとくちばしでその目を一突きした。
「ほーーーーうかぁ」
帰蝶が歌うように呼ぶと峰花が振り返って舞い戻り、その手に握られた褒美のウサギの肉に飛びついた。
捕獲前からずっとキジの動きを近くで見張っていた、同じく農民に扮した小姓が、クマザサの影から飛び出してキジに縄をかけた。
「うまくいったな、帰蝶」
信長と帰蝶は見つめ合った。
「こうすると、遠くの獲物でも仕留めることができるわね。尾張全体が鷹場になるわ」
この鷹狩の手法は、帰蝶と信長がともに考え、手順を練った。鷹狩をただの気晴らしではなく、実用的な戦の演習にならないか、と考えたものだった。
家臣たちに変装させて周辺の偵察に回らせ、獲物を発見したら連絡役がその場所を知らせに走る。その間獲物には見張り番を付けて逃がさない。
「この鷹狩は、敵方の情報を伝達する訓練になる」
信長は満足げにほほ笑んだ。
「しかも、土地に詳しい領民からもいろいろと情報がもらえる。武士以外に亀次やちよ、みつのような人たちも味方に付いていれば、領内での戦は無敵だわ」
帰蝶もうなずく。
「帰蝶、お前との鷹狩が、いちばんおもしろい」
信長が、眩しげに帰蝶を見つめた。帰蝶はほおを紅潮させて微笑み返した。
獲物のキジを深田の亀次親子に渡した帰り道。
信長は帰蝶と並んで馬に乗り、言った。
「子が生まれた」
帰蝶は突然の言葉に首をかしげて信長を見た。
「男だった」
信長は、照れくさそうな申し訳なさそうな目をした後、にんまりと笑った。嬉しくてたまらないと言った顔だ。
「誰が生んだ子の話?」
「吉乃という女だ」
「だれ、吉乃って」
帰蝶が問う。生駒という馬借の豪商の娘で、戦で夫を失って出戻った女だという。
「吉乃殿というひとが、信長の子を生んだ、というのね」
帰蝶は言うなり、馬首を巡らせ、反対方向に駆け出した。
「あいつ、いきなりどうした」
小さくなっていく帰蝶の影を見送りながら、信長はとり残された橘にたずねた。
「殿、ひさびさに、ばかって言ってもいいですか」
橘は低い声で信長に言った。
帰蝶は無心に走り続けた。賢い峰花は、必死に帰蝶の肩にしがみついている。翼を帰蝶の肩に添え、まるで、落ち着け、行くな、となだめているようだった。
生駒屋敷は知っている。そしてその家の吉乃という女性も、見かけたことがある。
信長が道三に対面するときに馬をそろえた豪商で、後日そのお礼にと信長が生駒家の当主・生駒家宗をもてなした際、吉乃も城に来ていた。しとやかで、美しい女だった。
生駒屋敷にたどり着いた帰蝶は、馬から降りて門から遠く離れた場所に立った。が、立ちすくんでそこから前に進むことができなかった。
結局、そのまま元来た道を帰ることにした。
「私、なにやってるんだろう。吉乃さんに会ったところで、何をどう話すつもりなの」
帰蝶は大人げない自分の行動を恥じた。
「側室のひとりや二人も設けないで、一人前の男とは言えないわ。むしろ、信長の血を絶やさないためには子に恵まれない私たちに代わって生んでくれる人は必要よ。そうよ、これくらいのことで妬くなんて、私どうかしてるわ。ねえ、峰花」
肩の上の鷹に話しながら、帰蝶は馬に乗る。
「でもやりきれない。私は信長だけ、そう決めた矢先なの。でも信長には、私だけじゃない、ほかのひとがいた」
馬は心乱れる帰蝶を気遣うように、優しい歩調でほたほたと歩いている。
そのとき後ろから、一頭の馬のひづめの音が近づいて来た。
「峰花は話せるまでに育ったのか」
声をかけられ振り返る。
「光秀、どうしてここに」
馬にまたがった光秀は、伊賀袴の旅姿だ。
道三に仕えていた頃の上質な装束に比べ、小袖は麻のもので袖口にあて布がしてあり、越前での浪人暮らしが楽ではないのを物語っている。
それでも、すっと伸びた背筋や気品のある顔だちから、いやがおうにも源氏の流れをくむ血筋の良さがにじみ出る。
「以前世話になった生駒様に吉事があったときいて、あいさつを」
「顔が広くて結構なことね」
帰蝶は向き直って馬を進めた、が、すぐに光秀を振り返って尋ねた。
「まさか、吉乃さまのややこを見たの」
「ああ。お会いした」
光秀にしては珍しく、凛々しい顔を蕩けさせた。
「赤ん坊っていうのは、なんてかわいいものなんだ」
帰蝶は緩んだ顔の光秀を見て、わけもなく嫉妬にかられた。
「だれにでもそうやって呆けた顔を見せて。それが光秀のずるいところだわ」
帰蝶が言って頬を膨らませると
「姫、今日もまたご機嫌麗しいな」
光秀が微笑む。
「・・・そのややこは、信長の子なのよ」
帰蝶が言うと、光秀は笑いを収めてぐっと黙った。
「光秀のばか。信長のばか」
帰蝶は言いながら、悔し涙をぽろぽろと流した。
「ややこを産むことこそが、妻の役割、そうでしょう光秀。それができない私は、妻だとはいえないわ」
「姫らしくないな、そんなに妻らしいことが大事なのか」
「だって私は正室なのよ?それに周りのみんなは私のことを、世継ぎを産むための腹、としか思ってないわ」
帰蝶は光秀の顔を見ると、つい不満をまっすぐにぶつけてしまう。光秀がどんな怒りもやんわりと受け止め、心の尖りを消し去ってくれるのをいいことに。
「姫、俺はあなたをそんな風には見ていない。会うたびにより魅力的な女性になっている。妻としてのあなたがどうこうなんて俺には関係ない。目の前の今のあなたが俺にとってはこの世で一番いい女だ」
「光秀、お世辞が過ぎるわ。むずむずする」
帰蝶は涙を拭って笑った。
「いや、本当にそう思っているよ、姫。今だってあなたを抱きたくてうずうずしている。俺をこんな風にさせる女は他にいない。明日の朝、越前に向けて発つ。美濃を縦断できないから迂回して琵琶湖に沿いを北上する。今夜は熱田の松乃屋にいるよ。まってるから」
光秀は言うと帰蝶の手を取った。甲に優しく接吻をのせると、馬を蹴って走り去ってしまった。
その晩、帰蝶は松乃屋の光秀の部屋で、髪の玉結びを解いた。
「姫、よくきてくれた」
光秀は帰蝶の髪を指で梳き、そのまま抱き寄せて口づけた。
今夜は信長も、吉乃のもとへ出かけている。
可愛いややこと、自分の子を産んでくれた愛しい側室に会いたくて仕方ない、といった風だったので、早く行ったら、となぜか帰蝶が追い立てるはめになった。
帰蝶の胸の内を、寂しさと悔しさが占めていた。
けど、夕暮れが闇夜に変わるにつれて、じわりじわりと、後ろめたさと罪悪感と、抑えようのないときめきとが侵食していった。
結局帰蝶は菫に留守を頼み、熱田へやってきたのだった。
「姫、まだ吉乃殿に妬いてるのか」
後ろから抱きしめ、襟元から手を滑り入れてくる。手のひらの温度が柔らかな肌につたわり、帰蝶は思わず吐息をこぼした。
「俺だって姫が輿入れしてからずっと妬いてる。姫があの方といる間、俺がどれだけ苦しい思いをしてるか、考えたことがあるか」
首元に接吻を落としながら、帯が解かれ、肌が露わになる。
「信長殿はあなたを、人として一生涯大切にすると言った。国と国との結婚とも言った。でも俺にとってはあなたは生涯のただ一人の女だ」
体同士が結ばれ、電流が走るような快感に帰蝶の背中が反り返った。
「殿は今頃、べつの人と一緒なんだ。だから姫は、今は俺のことだけ考えて」
光秀がそう言って微笑んだ瞬間、快楽が体を貫くのと同時に、戦慄が背筋を走った。
───これは光秀の罠?
「光秀は、生駒さまと、いつから知り合いに?」
荒い息の隙間で、切れ切れに尋ねた。
「姫が尾張に嫁ぐ前からだ」
合点がいった。
道三と信長の会見の際、まず光秀は、菫を通じて兵を用意した。
人数が増えれば馬も鎧も増やす必要がある。そこで光秀は豪商・生駒家宗に、信長に馬を供するよう進言した。
さらにそのとき、娘の吉乃を信長の側室に、と申し出るよう助言していたとすれば。
生駒家宗にとって、夫を失った不憫な娘が領主に娶られたなら、こんなにいい話はないだろう。生駒はそうと知って馬と同時に娘も信長に売り込んだのだ。
それらはすべて、裏で糸を引く光秀の仕業だったのだ。
「光秀、信長の気を吉乃殿へ逸らすことで、隙を作ったの?私がこうして、いつでもあなたの都合のいいときにやってこれるように。菫だけでなく、吉乃殿も、光秀が用意した罠だったのね・・・」
帰蝶が言うと、光秀は何も答えず微笑んだ。
「あなたが仕組んだのはこの尾張のため?それとも、私との逢瀬のため?」
「その両方さ。言っただろ、俺は信長殿のようにいつもあなたのそばにはいられない。でもあなたを守ることだけを考えている、と」
光秀の、愉悦に潤んだ目が帰蝶を見下ろしている。
その妖艶な輝きに、帰蝶の肌がざわめき立った。光秀を抱き、背中に手を這わせ、脚を絡ませた。
意識が遠のく。快楽の深淵に、光秀の甘い手技に、帰蝶は深く、堕ちて行く。
馬にまたがったそれぞれの腕には、腹をすかせた鷹がとまり、じりじりと首を伸ばしたり縮めたりして、主人の号令を待っている。帰蝶の腕に乗る鷹は峰花、信長の鷹は小武王という。
草むらが、がさりと動いて黒い影が飛び出してきた。見ればそれは、手ぬぐいで顔半分を隠し、袖の短い小袖を着た梁田政綱であった。泥に汚れたその姿は、どこからどう見ても武士ではなく農民だ。
「殿、桶狭間山のふもとにキジがいます」
信長はうなずくと、馬で駆け出した。帰蝶も後を追う。
山間を縫って小さな窪地に出れば、その向こうに桶狭間山が見える。稲穂が揺れる窪地の名を、桶狭間という。
田んぼの真ん中で稲刈りをしていた男が、二頭の馬に気づいてこちらにやってくるが、足を土に取られ、膝を大きく持ち上げなければ前に進めない。ずぶずぶの土地で稲を育てているのだ。
この田を「ふけた(深田)」と呼ぶ、と信長に教えたのはこの男、深田の亀次だ。
稲の束を背負った亀次の娘、ちよとみつも二人に気づいて近づいてきた。
「若殿、獲物はあっちだ」
亀次が指さす方向を見て、信長はうなずいた。
「亀次、ちよ、みつ。獲れたらやるから、待ってろ」
そう言って深田を迂回して山のふもとへ進んだ。
山のふもとでは、待ち構えた農民姿の橘が、音もたてずにクマザサの影から出てきた。
「この奥です」
指さした向こう。木々の隙間に、キジの尾の影がちらついた。
「帰蝶、やれ」
信長が囁く。帰蝶はすかさず峰花の目隠しを外した。
音もなく、両翼が風を受け止め宙に浮く。
キジを見つけたとたんに胴体をくいっと縦にして、羽の角度を変えた後、最短経路で獲物に向かって急降下、音もなくキジの首元を足でつかむとくちばしでその目を一突きした。
「ほーーーーうかぁ」
帰蝶が歌うように呼ぶと峰花が振り返って舞い戻り、その手に握られた褒美のウサギの肉に飛びついた。
捕獲前からずっとキジの動きを近くで見張っていた、同じく農民に扮した小姓が、クマザサの影から飛び出してキジに縄をかけた。
「うまくいったな、帰蝶」
信長と帰蝶は見つめ合った。
「こうすると、遠くの獲物でも仕留めることができるわね。尾張全体が鷹場になるわ」
この鷹狩の手法は、帰蝶と信長がともに考え、手順を練った。鷹狩をただの気晴らしではなく、実用的な戦の演習にならないか、と考えたものだった。
家臣たちに変装させて周辺の偵察に回らせ、獲物を発見したら連絡役がその場所を知らせに走る。その間獲物には見張り番を付けて逃がさない。
「この鷹狩は、敵方の情報を伝達する訓練になる」
信長は満足げにほほ笑んだ。
「しかも、土地に詳しい領民からもいろいろと情報がもらえる。武士以外に亀次やちよ、みつのような人たちも味方に付いていれば、領内での戦は無敵だわ」
帰蝶もうなずく。
「帰蝶、お前との鷹狩が、いちばんおもしろい」
信長が、眩しげに帰蝶を見つめた。帰蝶はほおを紅潮させて微笑み返した。
獲物のキジを深田の亀次親子に渡した帰り道。
信長は帰蝶と並んで馬に乗り、言った。
「子が生まれた」
帰蝶は突然の言葉に首をかしげて信長を見た。
「男だった」
信長は、照れくさそうな申し訳なさそうな目をした後、にんまりと笑った。嬉しくてたまらないと言った顔だ。
「誰が生んだ子の話?」
「吉乃という女だ」
「だれ、吉乃って」
帰蝶が問う。生駒という馬借の豪商の娘で、戦で夫を失って出戻った女だという。
「吉乃殿というひとが、信長の子を生んだ、というのね」
帰蝶は言うなり、馬首を巡らせ、反対方向に駆け出した。
「あいつ、いきなりどうした」
小さくなっていく帰蝶の影を見送りながら、信長はとり残された橘にたずねた。
「殿、ひさびさに、ばかって言ってもいいですか」
橘は低い声で信長に言った。
帰蝶は無心に走り続けた。賢い峰花は、必死に帰蝶の肩にしがみついている。翼を帰蝶の肩に添え、まるで、落ち着け、行くな、となだめているようだった。
生駒屋敷は知っている。そしてその家の吉乃という女性も、見かけたことがある。
信長が道三に対面するときに馬をそろえた豪商で、後日そのお礼にと信長が生駒家の当主・生駒家宗をもてなした際、吉乃も城に来ていた。しとやかで、美しい女だった。
生駒屋敷にたどり着いた帰蝶は、馬から降りて門から遠く離れた場所に立った。が、立ちすくんでそこから前に進むことができなかった。
結局、そのまま元来た道を帰ることにした。
「私、なにやってるんだろう。吉乃さんに会ったところで、何をどう話すつもりなの」
帰蝶は大人げない自分の行動を恥じた。
「側室のひとりや二人も設けないで、一人前の男とは言えないわ。むしろ、信長の血を絶やさないためには子に恵まれない私たちに代わって生んでくれる人は必要よ。そうよ、これくらいのことで妬くなんて、私どうかしてるわ。ねえ、峰花」
肩の上の鷹に話しながら、帰蝶は馬に乗る。
「でもやりきれない。私は信長だけ、そう決めた矢先なの。でも信長には、私だけじゃない、ほかのひとがいた」
馬は心乱れる帰蝶を気遣うように、優しい歩調でほたほたと歩いている。
そのとき後ろから、一頭の馬のひづめの音が近づいて来た。
「峰花は話せるまでに育ったのか」
声をかけられ振り返る。
「光秀、どうしてここに」
馬にまたがった光秀は、伊賀袴の旅姿だ。
道三に仕えていた頃の上質な装束に比べ、小袖は麻のもので袖口にあて布がしてあり、越前での浪人暮らしが楽ではないのを物語っている。
それでも、すっと伸びた背筋や気品のある顔だちから、いやがおうにも源氏の流れをくむ血筋の良さがにじみ出る。
「以前世話になった生駒様に吉事があったときいて、あいさつを」
「顔が広くて結構なことね」
帰蝶は向き直って馬を進めた、が、すぐに光秀を振り返って尋ねた。
「まさか、吉乃さまのややこを見たの」
「ああ。お会いした」
光秀にしては珍しく、凛々しい顔を蕩けさせた。
「赤ん坊っていうのは、なんてかわいいものなんだ」
帰蝶は緩んだ顔の光秀を見て、わけもなく嫉妬にかられた。
「だれにでもそうやって呆けた顔を見せて。それが光秀のずるいところだわ」
帰蝶が言って頬を膨らませると
「姫、今日もまたご機嫌麗しいな」
光秀が微笑む。
「・・・そのややこは、信長の子なのよ」
帰蝶が言うと、光秀は笑いを収めてぐっと黙った。
「光秀のばか。信長のばか」
帰蝶は言いながら、悔し涙をぽろぽろと流した。
「ややこを産むことこそが、妻の役割、そうでしょう光秀。それができない私は、妻だとはいえないわ」
「姫らしくないな、そんなに妻らしいことが大事なのか」
「だって私は正室なのよ?それに周りのみんなは私のことを、世継ぎを産むための腹、としか思ってないわ」
帰蝶は光秀の顔を見ると、つい不満をまっすぐにぶつけてしまう。光秀がどんな怒りもやんわりと受け止め、心の尖りを消し去ってくれるのをいいことに。
「姫、俺はあなたをそんな風には見ていない。会うたびにより魅力的な女性になっている。妻としてのあなたがどうこうなんて俺には関係ない。目の前の今のあなたが俺にとってはこの世で一番いい女だ」
「光秀、お世辞が過ぎるわ。むずむずする」
帰蝶は涙を拭って笑った。
「いや、本当にそう思っているよ、姫。今だってあなたを抱きたくてうずうずしている。俺をこんな風にさせる女は他にいない。明日の朝、越前に向けて発つ。美濃を縦断できないから迂回して琵琶湖に沿いを北上する。今夜は熱田の松乃屋にいるよ。まってるから」
光秀は言うと帰蝶の手を取った。甲に優しく接吻をのせると、馬を蹴って走り去ってしまった。
その晩、帰蝶は松乃屋の光秀の部屋で、髪の玉結びを解いた。
「姫、よくきてくれた」
光秀は帰蝶の髪を指で梳き、そのまま抱き寄せて口づけた。
今夜は信長も、吉乃のもとへ出かけている。
可愛いややこと、自分の子を産んでくれた愛しい側室に会いたくて仕方ない、といった風だったので、早く行ったら、となぜか帰蝶が追い立てるはめになった。
帰蝶の胸の内を、寂しさと悔しさが占めていた。
けど、夕暮れが闇夜に変わるにつれて、じわりじわりと、後ろめたさと罪悪感と、抑えようのないときめきとが侵食していった。
結局帰蝶は菫に留守を頼み、熱田へやってきたのだった。
「姫、まだ吉乃殿に妬いてるのか」
後ろから抱きしめ、襟元から手を滑り入れてくる。手のひらの温度が柔らかな肌につたわり、帰蝶は思わず吐息をこぼした。
「俺だって姫が輿入れしてからずっと妬いてる。姫があの方といる間、俺がどれだけ苦しい思いをしてるか、考えたことがあるか」
首元に接吻を落としながら、帯が解かれ、肌が露わになる。
「信長殿はあなたを、人として一生涯大切にすると言った。国と国との結婚とも言った。でも俺にとってはあなたは生涯のただ一人の女だ」
体同士が結ばれ、電流が走るような快感に帰蝶の背中が反り返った。
「殿は今頃、べつの人と一緒なんだ。だから姫は、今は俺のことだけ考えて」
光秀がそう言って微笑んだ瞬間、快楽が体を貫くのと同時に、戦慄が背筋を走った。
───これは光秀の罠?
「光秀は、生駒さまと、いつから知り合いに?」
荒い息の隙間で、切れ切れに尋ねた。
「姫が尾張に嫁ぐ前からだ」
合点がいった。
道三と信長の会見の際、まず光秀は、菫を通じて兵を用意した。
人数が増えれば馬も鎧も増やす必要がある。そこで光秀は豪商・生駒家宗に、信長に馬を供するよう進言した。
さらにそのとき、娘の吉乃を信長の側室に、と申し出るよう助言していたとすれば。
生駒家宗にとって、夫を失った不憫な娘が領主に娶られたなら、こんなにいい話はないだろう。生駒はそうと知って馬と同時に娘も信長に売り込んだのだ。
それらはすべて、裏で糸を引く光秀の仕業だったのだ。
「光秀、信長の気を吉乃殿へ逸らすことで、隙を作ったの?私がこうして、いつでもあなたの都合のいいときにやってこれるように。菫だけでなく、吉乃殿も、光秀が用意した罠だったのね・・・」
帰蝶が言うと、光秀は何も答えず微笑んだ。
「あなたが仕組んだのはこの尾張のため?それとも、私との逢瀬のため?」
「その両方さ。言っただろ、俺は信長殿のようにいつもあなたのそばにはいられない。でもあなたを守ることだけを考えている、と」
光秀の、愉悦に潤んだ目が帰蝶を見下ろしている。
その妖艶な輝きに、帰蝶の肌がざわめき立った。光秀を抱き、背中に手を這わせ、脚を絡ませた。
意識が遠のく。快楽の深淵に、光秀の甘い手技に、帰蝶は深く、堕ちて行く。
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引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
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神崎 未緒里
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※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
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