帰蝶の恋~Butterfly effect~

平梨歩

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第三章 天下布武編「愛しき光 妖しき影」

第一話 調略

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「帰蝶

遠く離れ、今、お前のことを想っている。

俺を叱るとき、俺を責めるとき、そして俺に抱かれているとき、
お前の心の内にも俺への愛があることを知っている。

どこにいても、誰といようとも、
誰かが俺たちのことを責めようとも、
俺の体が滅びようとも、俺はお前を想っている。

大望を果たすには、まだまだ時間がかかりそうだ。

けれどもいつでも心の中にお前がいるから、
俺は力強く生きていくことができる。

俺が信じることができるのは、帰蝶、お前の心だけだ。
遠く離れてみて、あらためて気づいた。

早く会いたい。

信長」


一五五九年、清州城の御殿。

帰蝶は京に滞在する信長から届いた文を閉じ、大きく息を吸いこんだ。
ほろ酔いに似た心地がして、頬が熱くなった。心臓が早鐘を打つ。
文を胸に抱いて、帰蝶は男の体温を求めて体が疼くのを感じた。


そのころ京では、信長が征夷大将軍・足利義輝との謁見を果たしたところだった。

尾張の頂点に立つ斯波氏を配下に置いた信長は、その後、尾張上四郡を支配する敵対勢力に打ち勝ち、彼らに与して信長の命を狙った弟・信行も、死に追いやった。

こうして尾張全域を掌握した信長は、勢いに乗じて、尾張統一の承認を得るために将軍・義輝のもとへ参じたのだった。

将軍・義輝との謁見を終えたあと、堺まで足を伸ばした。賑わう市を歩きながら、信長は帰蝶を思った。

実は、京に発つ日の朝、帰蝶と激しい口論をしたすえ、そのまま清州を発ってしまったのだった。

きっかけは、出立の前日に、吉乃が生んだ息子二人を帰蝶に預けたことだった。


───誰の腹であろうと、俺の子供は生まれた順にその家督を継がせる

信長は前からそう決めていた。そうなれば二年前に吉乃が生んだ奇妙丸が、家督を継ぐ嫡男ということになる。

自分はいつ戦で死ぬかわからない。死ねば奇妙丸が跡を継ぎ、帰蝶が後見を担うことになる。
そう考えると、すぐにでも嫡男を帰蝶のもとに置いておかなければ、と気が急いていた。

そして、次男の茶筅丸。
この子には将来、兄・奇妙丸を盛り立てる役割を果たしてもらう。そのために兄弟はふたりとも母親のもとで育て、その愛情を平等に与える。信長はそう心に決めていた。

───上洛で城を空けているあいだ、俺に何があってもいいように、帰蝶のもとに跡継ぎたちを置いておかなくては

信長は帰蝶の事情を無視して事を急いだ。
それが悪かった。

帰蝶にしてみれば、他の女が産んだ子を自分の子として慈しむには、心の準備が必要だった。

帰蝶は、信長の突然の身勝手な行動に対して怒り、これまでのいら立ちと鬱憤をまとめてぶつけてきた。
突然母にならなければならない重圧だけでなく、度重なる戦で夫の生死を案じて心労が続いていたこともある。
そしてなにより、信長が実の弟を殺めたことに心を痛めていた。

憤る帰蝶を後にして、清州城を出てきた。


───帰蝶は今頃清州でどうしているだろうか。あの文を読んで、少しは機嫌をなおしただろうか

上洛は信長にとって、大きな躍進の時だった。
本当なら、こんな誉れ高い人生の節目には、帰蝶が横にいて欲しかった。
だから、文を送った。


市を歩いて回り、信長はある店で足を止めた。
可愛らしい蛙の形の香炉に目が留まる。
なぜか、脚が三本。不思議な造形だった。

「これはなんだ」
「南蛮からの品です」

信長はこれを土産にし、数日後清州へと戻った。



旅先から気の利いた文を送った。さらに京で珍しい土産も手に入れた。
信長は意気揚々と帰蝶の居室を訪ねた。

「帰蝶、もどったぞ。お前に土産がある」

帰蝶は茶筅丸を抱き、傍らに座らせた奇妙丸をあやしていた。
こちらを見ようともしない。

「まだ怒ってるのか」

「やめてください」

帰蝶は言って、乳母の眞砂に二人を託し、廊下に出て信長と並んだ。庭に目をやったまま、帰蝶は冷ややかに言った。

「子供たちの前で夫婦喧嘩はだめよ」

信長はすでに母親然としている帰蝶に驚きつつ、うなずいた。

「・・・てことは、また俺たちは喧嘩をするのか」

信長はおずおずと尋ねる。

「喧嘩上等よ」

「もしかして、文を読んでないのか」

「読んだわ。だから怒りが収まらないのよ。他人に文を書かせるなんていったいどういうつもりなの?こんなにずるいこと、子供がしたらあなたはどうするつもり」

「なぜわかった?字も花押も、俺のものにそっくりだったはず」

「ええ、そっくりだったわ。でもそっくりなだけで、あなたが書いたものではない。そんなの、妻にはすぐにわかるわ。私以外だったら完全に騙せるかもしれないけど」

帰蝶はぷいっと背中を向けた。

信長はその背中を見ながら、とある考えが脳裏をよぎる。

「帰蝶以外だったら完全に騙せる・・・」

信長は踵を返し、すたすたと自分の書斎に向かって歩き出した。

「信長、なんとか言ったらどうなの」

帰蝶が追いかけると信長は振り向いた。

「俺はこれから偽の文を使って、山口教継に復讐する」


山口教継。

父・信秀の代からの織田家の家臣だが、信長に代替わりしたとたんに離反、尾張の隣国にまで領地を広げる駿府の今川義元に寝返った男。
そして調略の末、尾張の重要拠点を次々と今川の傘下にしてしまった裏切り者だ。

この裏切り者のせいで、尾張の内情は今川に筒抜けになっていた。おかげで今川に対抗したくても身動きがとれない。このままでは、じわじわと今川の手が侵食し、尾張全域が義元のものになってしまう。

信長はそれを危惧し、常々何か手立てはないかと考えていたのだった。



「見ていろ帰蝶、俺の中でひとつの筋書きができあがったぞ」

信長は目を輝かせて帰蝶の肩に手をのせた。




それから数日後、信長の手元に一通の文が届いた。信長はそれを満足げな顔で帰蝶に差し出し、読んでみろと言った。

「織田信長殿

駿府の今川義元殿は、先日、嫡男氏真殿に家督を譲りました。

氏真殿は歌、蹴鞠がお好きな、駿府国内では風雅な文化人として名の通ったお方です。

そうした点、軍事力に長けた父上の義元殿とはまた違ったお方。このままですと駿府内の情勢も、大きく変わることもあるかもしれません。

私は鳴海城を守ることが最大の使命。その望みを果たすことさえできれば、導いてくださる方についてゆく次第です。

山口教継」


「これは、山口教継が信長につく心づもりだ、ということ?」


帰蝶が文から顔を上げて聞くと、信長はうなずいた。

「そういうふうに、勝手に書いた偽の文だ。実際には教継は、俺に与してなどいない」

字体は力強く、別人を装って書くのだから当然とはいえ、以前信長の文をまねた文字とは全く違うものだった。

「これをわざと、今川義元の手に渡らせて読ませるのね・・・」

「そうだ。これを読んだ義元は、どうすると思う」

「教継が実は信長側の人間だったと知れば、教継を処罰するわ・・・」

信長はうなずいた。


教継が義元の手で亡き者にされたら、のちに、
―山口教継の死は信長の調略―
と噂を流す。

そうすれば<信長を裏切れば命がない>と尾張の武将たちに知らしめることができる。
今川義元も、尾張勢を調略することに二の足を踏むようになるだろう。


「これ以上今川義元が尾張の領地に手出しするのはゆるさない。乗っ取られた城も、ことごとくこの手に取り戻す」

信長は奥歯を噛み締めて呟いた。


夕闇の駿府の城下町。
梁田政綱が、牛に車を引かせて歩いている。
脚絆は汚れ、顔も砂塵や泥で汚れている。もともと特徴のない顔が、薄闇のなかでさらに印象のないものになっている。

今川義元の居城・駿府城の前にたどり着くと牛を止め置き、門番をしている武者の前に素早く近づいた。

「なあ、あんた、門番なんてもんから早く抜け出して、殿のおそばに仕えたいだろう?」

門番に耳打ちする。

「急になんだ、お前は」

武者が槍を傾けた。

「物騒なことはやめてくれよ。俺はただの三河の車借だ。殺す価値などありゃしないよ」

槍をふいっと手先でよけて、一枚の書状を差し出した。

「旦那、よく聞け。俺は今日、尾張に荷物を運んだ折に、宮宿の通りで白いものが落ちていたんで拾ったら、おどろいた・・・山口教継殿が、織田信長殿にあてた書状だった」

「なにっ。お館様の家臣の山口殿が、敵方の織田信長に書状だと・・・? よこせ」
門番の武者は言って取り上げ、目で文字を追うと血相を変えて政綱を見た。戸惑いの影が顔をかすめた後、欲深い色が目に浮かんだ。

「俺が預かる」

「まってくれ。殿様に裏切り者を通報したなら、あんたは出世できるだろう?ならば、礼にはそれなりのものをいただかないと」

政綱が言うと、門番の武者は袋から銭をとりだして政綱にむかって投げ捨てた。

「このことは絶対、誰にも言うな」

居丈高に言われて、政綱は地に伏して頭を下げた。
土に顔をこすりつけつつ、顔だけはにやりとほくそ笑んでいた。



政綱は今川義元に偽の文を送り込んだのち、山口教継が今川義元に切腹させられたという知らせを土産に、信長のもとに帰ってきた。

「よくやった政綱。このあと尾張内の今川の息のかかった城はみな、今川義元の重臣が城主になるだろう。そうすれば俺の計画通りにまた事が運ぶ。みていろ、帰蝶、政綱」

信長の目が輝いた。



その夜、信長は帰蝶の閨におとずれた。

「帰蝶、お前のひと言がきっかけで、俺の作戦が軌道に乗り始めた。こんな夜はお前といたい」

信長は言うが早いか帰蝶の唇を塞ぎ、帯を解いた。
体のほてりを持て余していた帰蝶は、すがりついて信長の接吻に応じた。
肌小袖の合わせ目を開かれ、露わになった肌に信長の舌が這う。帰蝶は熱い舌の感触に体をよじりながらせがんだ。

「信長、今日は、暗くして。ゆっくり、優しく抱いて・・・」

信長の目が、ぎらりと煌めいた。
「お前からそんな風に求めるのは珍しいな。悪くない」

信長は灯りを吹き消すと、帰蝶の巻いていた細帯を目にあてがって結んだ。目隠しをされた帰蝶の手首に、信長が外した帯を巻き付けて動きを封じる。
両腕を上げた帰蝶の肌が、青白い月の光を受けて艶めいている。信長は全身を丹念に愛撫した。

視界を封じられた帰蝶は、信長に触れられるたびにかすかに跳ね、甘美な刺激に小さく声を漏らした。
ゆっくりと体の線をなぞる熱い手の感触に、神経を集中した。

帯の下でぎゅっと目を閉じ、暗闇に一つの像を描いてみる。
きりりとした眉の下の切れ長の目。煌めく濃紺の瞳。微笑むとのぞく白く美しい歯、知性と気品が漂う、光秀の顔だ。

───光秀。抱いて
体が熱くなる。男を求めて疼く柔らかな場所から、幾筋も涙のようなものが流れ出るのを感じた。

「帰蝶、感じるか」
帰蝶は吐息を荒らげ、うなずいた。

鼻腔の奥に、くちなしの花の甘い香りが蘇る気がした。

あれは土岐頼充に輿入れする前日、光秀のいる明智の館を訪れた時に庭に咲き乱れ、むせ返る芳香を放っていた白い花。その香りをかぐたびに、帰蝶は光秀との初めての夜のことを思い出さずにはいられなかった。

先日信長から届いた文には、くちなしの花の香りが付けてあった。
その香りで、光秀が書いたものだと帰蝶は悟ったのだった。

光秀はかつて比叡にこもり、書物の書写に明け暮れていた時期があった。そのころにさまざまな字体の書を会得したことは想像に難くない。

───光秀、あなたは残酷ね。夫の名を借りて私への思いを綴ってよこすなんて

信長に抱かれながら、帰蝶は文にしたためられた言葉を思い返した。


───遠く離れ、今、あなたのことを想っている。
俺を叱るとき、俺を責めるとき、そして俺に抱かれているとき、
あなたの心の内にも俺への愛があることを知っている。

どこにいても、誰といようとも、
誰かが俺たちのことを責めようとも、
俺の体が滅びようとも、俺はあなたを想っている。

大望を果たすには、まだまだ時間がかかりそうだ。

けれどもいつでも心の中にあなたがいるから、
俺は力強く生きていくことができる。

俺が信じることができるのは、姫、あなたの心だけだ。

遠く離れてみて、あらためて気づいた。

早く会いたい。



───私も会いたい。光秀

まるで二人の男に同時に愛されているような感覚と背徳感で、帰蝶はこれまでにない愉悦を覚えた。
快楽に震える体を反り返らせ、帰蝶は信長とともに果てた。



深夜。
信長は胸に頬を寄せる帰蝶の頭を撫でながら、奇妙丸と茶筅丸を帰蝶に託した理由を語った。

信長は、自身が兄弟離れ離れで育てられたことを今も悔やんでいた。
信長自身が親元を離れて孤独に育ち、傍若無人のバカ者になった。
一方信行は、母からあり余るほどの愛情を受けて育ち、体裁は整ったものの、無いものねだりの甘ったれになった。
結果、兄弟の折り合いが悪く、争いあう結果となってしまった。

俺たち兄弟のような不幸な思いを、息子たちにさせたくない、そう信長は言った。

「自分と弟のような兄弟にはしないために、二人一緒に、お前に育てて欲しいのだ。俺たちの子として、育てたいのだ」

信長はすでに、帰蝶に言われなくても、弟を殺したことで深く胸を痛めていたのだ。

帰蝶は信長の傷ついた心に触れ、愛おしい思いでいっぱいになった。胸から頬を離し、帰蝶から信長に、優しく口づけた。


それから、話は偽の文の正体に移った。


「あれを書いたのは、お前のいとこの明智十兵衛光秀だ。

叡知と武を併せ持つ男と評判のあの男が、帰蝶のいとこだと聞いて、俺はこれを逃す手はないと思った。正室がいとこだというよしみで、尾張に来ないかと再三誘いの文を送っていた。

そうしたらあの男、見聞を深めるべくしばらくどこにも仕官するつもりはないが、俺のためにできることは何でもやる、と返してきた。

そして、たまたま京で落ち合うことができて対面し、まずお前の話になった。喧嘩別れの末清州を出たと話すと、文が苦手な俺に代わって帰蝶に謝罪文を書こう、と向こうが申し出た。

それがきっかけで、山口教継に成りすました文を作るのにも協力してくれたのだ」


そう言って信長はさも面白そうに笑った。

「さすがお前のいとこだ、なんでも器用で考えることも面白い。おそらくあの男は、俺がこの先どこまで成長するか、様子見と言ったところなのだろう。
向こうから仕官を願い出てくるような、そんな男に俺がなるしかないな」

調略の成功も、夫婦仲の修復も、光秀の力によるところが大きかった。

こうやって自分の後ろにはいつも光秀がいて、かならず手助けしてくれる。

だけど今日ばかりは、光秀の影がちらつくことに、罪の意識を抱かずにはいられなかった。
夫に抱かれて他の男を想うなど、許されるはずがない。

それでも彼から逃れることができない。
光秀の手の上で転がされることを甘んじて受け入れてしまっている自分の、ずるさと醜さを直視し、帰蝶は自分に呆れて微笑んだ。
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