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第三章 天下布武編「愛しき光 妖しき影」
第二話 大軍
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───二万五千の今川の大軍が、尾張の国境までやってきている。
早馬からの知らせが入ると、信長は立ち上がり、部屋を行きつ戻りつした。
信長の軍勢は、たった三千。
今川義元が、駿府・遠江・三河の三国を掌握する大大名なのは承知のこと。
けれども尾張程度の小国相手に、ここまで大規模な軍勢で攻め入るとは、思いもよらないことだった。
尾張ごときに割く兵力は、せいぜい五千くらいのものだろうと高を括っていた。
───到底かなわない。
ひと桁違う大軍を前にむやみに出陣しても、大敗するのは目に見えていた。
───さあ、どうする?
信長は拳に汗を握り締めた。
帰蝶の居室を訪ねる。
切羽詰まる夫をよそに、狩装束に身をかため、綾蘭笠を頭に載せて顎紐を結んでいるところだった。
「帰蝶、聞いていないのか? 今川軍が攻め入ってくると」
「聞いたわ」
「なのに鷹狩か」
「だから、鷹狩なのよ」
帰蝶は廊下に出て、振り向きざまに信長に言った。
「今川義元は、尾張の国境にいる。その場所は、義元が乗っ取った尾張内の城、沓掛城に近いわ。きっと義元は、沓掛城に立ち寄る」
「そうだろうな」
信長がうなずいた。そんな当たり前のことにも考えが及んでいなかった。
それほど信長は二万五千という人数に動揺していたのだった。
「信長、まさか、すぐに出陣しようとは思ってないわよね」
「もちろんだ」
「そうよね。よかった。まずは情報を待っていて」
帰蝶は微笑むと、峰花を腕に載せ、数十人の従者を連れて御殿を出て行った。
帰蝶は鷹狩要員を街道ぞいに配備して、今川軍の動向を探るつもりなのだ。
───たとえ動向が知れたとしても、それに対抗する手立てがなければどうにもならない。
信長は居室に戻り、大の字に寝転んだ。
天井を見上げ、とりとめもなく思索をめぐらせたあと、目をとじた。
俺が甘かった。これは俺の失敗だ。
そこまで考えると、信長は現実から逃げるようにそのまま眠ってしまった。
次の瞬間、帰蝶に揺り起こされて目を覚ました。すでに狩りから戻ったようで、打掛姿で座っている。
「本当にあなたは大物ね。こんな事態の時に呑気に眠れるなんて」
信長を見下ろす帰蝶の目は、呆れているというよりも、安堵の眼差しに近い。
夕餉の支度が出来ている、と帰蝶は言って信長と食事部屋へ進んだ。
部屋にはすでに奇妙丸と茶筅丸がいて、膳を前にしていた。乳母の眞砂が櫃から米をよそっている。
「信長、こういう時こそ、ちゃんと食べないとだめよ」
帰蝶は手ずから信長の分の米をよそって椀を渡した。
そのとき、奇妙丸が椀をひっくり返し、米粒の塊を床にこぼした。
眞砂が落ちた米を素早く取り去り、櫃の蓋の上によける。
「あたらしいのをちょうだい」
奇妙丸が椀を差し出した。
椀を受け取ろうとした眞砂を、帰蝶が制した。
「櫃にまだたくさんあるよ」
奇妙丸が首を傾げた。
帰蝶は奇妙丸の前に座って屈みこみ、幼い息子と顔の高さをそろえるとゆっくりと話し始めた。
「たくさんあれば少しくらい無駄にしてもかまわない、そういう考え方は、母は好きじゃないわ。たくさんのものに恵まれても、一粒一粒の大切さは変わらない。こぼしたお米はそんなに汚れていないわ。それをお食べなさい」
言うと奇妙丸は蓋に載った米を椀に戻して食べ始めた。
「母上、この椀に米粒は何粒くらい入ってるの」
「母は小さいころに数えたの。そしたら、三千二百二十二粒入っていたわ」
「お前も暇だな」
信長は、小さな帰蝶が真剣に箸で米を選っているところを想像して微笑んだ。
「子供だったからね」
帰蝶もいたずらそうに微笑んだ。
信長は不意に滲みそうになった涙をこらえた。こんな当たり前の日常が、明日にはないかもしれない。そう思うと、急に愛おしい気持ちがこみ上げてきた。
同時に、底知れない恐怖が信長を襲った。
五月一八日昼。沓掛城内。
沓掛城城内に、次々と流れ込んでくる今川軍の兵たち。彼らの間を縫って、下女たちが給仕に駆け回っている。
そのなかに、亀次の次女・みつの姿があった。
帰蝶が森で仕留めた小鹿を提げて、深田の亀次の住まいを尋ねたのは、前日の夕方のことだった。
「ちよ、みつ、私からお願いがあるの」
帰蝶は亀次の二人の娘たちにそう言って、小鹿を沓掛城に献上するように頼んだ。
「そして、女中として下働きを申し出て欲しいの。やれる?」
「帰蝶さま、ついにこの日が来たのね」
ちよとみつは真剣なまなざしで頷くと、出立の準備を整え、亀次と向かい合った。亀次も娘たちを送り出す覚悟を決めたように、ちよとみつのまだ幼さの残る手を、ぎゅっと握り締めたのだった。
沓掛城の御殿の広間では、義元が主だった家臣を集めて作戦を練っていた。
みつは、女中たちが働く奥の間でわざと水をこぼし、床を拭くふりをして、軍議の様子を隙間から覗き見た。
「今夜のうちに軍勢の一部を織田方の砦に近い大高城に移す。明日の朝に、織田方の砦を襲う」
聞きつけたみつは、調理場へ走った。
調理場裏の井戸で野菜を洗うちよに耳打ちすると、今度はちよが駆け出した。
魚を運び込んだ車借の夫婦が、城の裏手、調理場専用の門前で待っている。馬に付けた車を引いてきたのは、車借に扮した梁田政綱と橘だ。
ちよはざるに載った川魚を受け取りながら、軍議の広間で聞いた情報を二人に伝えた。
政綱と橘はその後、馬を引いて何食わぬ顔で城外に出た。
死角の竹やぶに入り込んだとたんに、政綱は車と馬をつないだ縄を解き、馬にまたがって駆け出した。
橘は、桶狭間に向かって走る。
ちよは先ほど、橘にこう言った。
「沓掛城から大高城方面に進むなら、明日、桶狭間が通り道になる。父上に伝えてほしい。我が家の田んぼが、戦場になるかもしれないと」
桶狭間では亀次が田植えの準備をしていた。橘の話を聞くと、呆然としつつもうなずいた。
娘たちが間者として見事な働きをしたことに、驚きと安堵があった。同時に自分が耕してきた場所が武士たちの戦いの場になると聞き、動揺を隠しきれなかった。
亀次は不安げに空を指さして言った。
「この様子だと明日は大雨が降るぞ。雨なら戦は中止ではないのか?」
「明日降るとわかるのか」
橘がふと顔を上げて訊いた。
「ああ、こんな場所で田んぼをしてれば、そのくらいのことは分かる」
「助かった、亀次」
橘は再び駆け出した。
五月十八日夕刻。清州城。
───明日の朝には尾張の地の奥深くまで今川勢が押し寄せ、大高城近くの丸根砦、鷲津砦が攻撃を受ける。
その話は瞬く間に家臣たちの耳に届いた。男たちは戦支度を始め、信長の下知を今かいまかと待った。
清州城内の空気が、張り詰めている。
帰蝶は眞砂に子供を任せ、一人寝所に閉じこもった。
怖くて筆を持つ手が震えるのを何とかおさえ、光秀に文をしたためた。
明日にはすべてが変わるかもしれない。その前にお礼と、さようならを伝えたい。
文を書き終え、遣いに託そうと廊下に出たところで、信長の政務の間に向かう佐久間大学と鉢合わせた。
大学は信長の父・信秀の代から織田家に仕える旧臣だ。若いころから数々の武功を収めた名将だと聞いている。
体は大きく、普段はどちらかというとゆったりしているのに、いざ戦に出れば刀捌きは俊敏で、「颯の大学」と呼ばれている。目鼻立ちがくっきりした顔立ちと、笑えば優しい陰影をもたらす皺。どことなく、父・道三の面差しを想わせた。
「帰蝶さま、どうされた、あなたがそんなに気弱な様子だと、私も元気が出ない。いつものように、太陽みたいに笑っていてくだされ」
「そんなの無理よ。こんなときに」
大学はうなずいてから、そうだ、と目を上げて言った。
「帰蝶さまも、殿と一緒に私の話を聞いてくだされ」
信長に部屋を通され、大学はゆったりとした態度で座した。
帰蝶はその後ろにそっと座った。
初めはとりとめもない雑談だった。奇妙丸が飯をこぼした話、帰蝶が鷹狩に出てキジを持ち帰った話。
しばらくすると大学が切り出した。
「殿は、今川の大軍を前に勝ち目はないとお考えか」
「数が違いすぎる」
信長が苦々しげに答えた。
「明日、丸根砦に私を置き、今川の先鋒を迎え討たせてくだされ。少しでも今川勢を削れるよう持ちこたえます」
「大学、相手は砦の攻撃に少なくとも五、六千の兵を出すだろう。こちらはせいぜい丸根・鷲津の二つの砦、合わせて千の兵だ」
信長の言葉に、大学は微笑んでうなずいた。
その顔を見て、帰蝶はこみ上げてくる嗚咽をこらえた。
───大学は討ち死にを覚悟している。
「私は父上・信秀さまの頃からお側に仕える家臣だ。
葬儀の時の信長殿の失態には、肝を冷やしたものだ。けどあの時に私は確信した。信秀さまのあとは、この方しかいない、とね。
あなた様は、自分でどうにもすることのできないほどの溢れる感情の持ち主だ。
信秀さまもそうだった。一見荒くれ物のように見えたかもしれない。けどあの力の源は、多くの人々への想いだった。
尾張の領民たちは、ひたすらに、よく頑張って米や麦を育てる。それでも、干ばつや水害、飢饉にも襲われた。
そうした苦難をなんとかできないか、と父上は、交易による利益を得てまかなおうとした。領民が豊かに暮らすため、農作物以外の収入源を求めたのだ。
ただむやみに他人の領地を欲しがっていたのではない。
それに、死ぬために戦をしていたのではない。
命を生かすために戦をしてきたのだ。父上も、この私も。
天下の将軍様は、もはや信じることはできない。自分たちが生き抜くために、誰かが死ぬ。そうやって命をつないでいくしかない。
殿、あなたはご自身の死はおそらく、とっくに覚悟しているであろう。
だが、家臣たちの死を恐れている。
でも案ずる必要はありません。私ら家臣にとって、死ぬことは誇りだ。
死ぬことは、舞うことと似ている。どう生きたかを語るための、最後の舞だ。
私は丸根砦で五千の兵を打ち倒す。少しでも兵力を削ぐ。あとは信長殿に託すのみ」
信長はうつむいた。肩が震えている。涙の粒が、にぎりしめたこぶしにぼたぼたと落ちた。
大学は立ち上がった。
「恥ずかしながら、殿のお好きな舞を、私も見よう見まねでやってみようと思う。お笑いくだされ」
大学は大きな手のひらを扇に見立ててまっすぐに突き出し、ゆっくりと歩き、舞った。
「どうだ、なかなかだろう」
そう言って大学は大きく笑った。笑いながら、信長の許を辞していった。
「死なないでくれ大学。大学は俺にとって大事な・・・」
信長は歯を食いしばり、床の上で這うように体をよじった。涙がこみ上げて溢れ、止まらなかった。
「まるでわがままな子どもね」
ようやく落ち着きを取り戻した信長から顔をそむけたまま、帰蝶は言った。
「大軍を率いる義元とは、そこがちがうわね」
帰蝶は言うと、信長に微笑みかけた。
帰蝶の言葉に仰ぎ見た信長は、閃いたように、まだ乾ききらない瞳を帰蝶に向けた。
「二万五千の兵があれば、多少の犠牲は痛くもかゆくもない、義元にとっては、兵はただの駒・・・」
「大将から「ただの駒」と思われていることを、当人たちは感じていると思うわ」
帰蝶は信長の言わんとした言葉を継いで、うなずいた。
「軍勢は、次々と支配を広げた三河、遠江からの寄せ集め・・・」
信長は立ち上がった。
───大将さえ討ち取れば、総崩れになる
刹那、信長の目が猛獣のそれに変わった。
「帰蝶、俺は、大将・義元の首だけを狙う」
帰蝶は身震いを覚えた。
もうこの男に誰も手出しできない、そう思わせるほどの獰猛な炎が、瞳の奥に揺れているのが見えた。
早馬からの知らせが入ると、信長は立ち上がり、部屋を行きつ戻りつした。
信長の軍勢は、たった三千。
今川義元が、駿府・遠江・三河の三国を掌握する大大名なのは承知のこと。
けれども尾張程度の小国相手に、ここまで大規模な軍勢で攻め入るとは、思いもよらないことだった。
尾張ごときに割く兵力は、せいぜい五千くらいのものだろうと高を括っていた。
───到底かなわない。
ひと桁違う大軍を前にむやみに出陣しても、大敗するのは目に見えていた。
───さあ、どうする?
信長は拳に汗を握り締めた。
帰蝶の居室を訪ねる。
切羽詰まる夫をよそに、狩装束に身をかため、綾蘭笠を頭に載せて顎紐を結んでいるところだった。
「帰蝶、聞いていないのか? 今川軍が攻め入ってくると」
「聞いたわ」
「なのに鷹狩か」
「だから、鷹狩なのよ」
帰蝶は廊下に出て、振り向きざまに信長に言った。
「今川義元は、尾張の国境にいる。その場所は、義元が乗っ取った尾張内の城、沓掛城に近いわ。きっと義元は、沓掛城に立ち寄る」
「そうだろうな」
信長がうなずいた。そんな当たり前のことにも考えが及んでいなかった。
それほど信長は二万五千という人数に動揺していたのだった。
「信長、まさか、すぐに出陣しようとは思ってないわよね」
「もちろんだ」
「そうよね。よかった。まずは情報を待っていて」
帰蝶は微笑むと、峰花を腕に載せ、数十人の従者を連れて御殿を出て行った。
帰蝶は鷹狩要員を街道ぞいに配備して、今川軍の動向を探るつもりなのだ。
───たとえ動向が知れたとしても、それに対抗する手立てがなければどうにもならない。
信長は居室に戻り、大の字に寝転んだ。
天井を見上げ、とりとめもなく思索をめぐらせたあと、目をとじた。
俺が甘かった。これは俺の失敗だ。
そこまで考えると、信長は現実から逃げるようにそのまま眠ってしまった。
次の瞬間、帰蝶に揺り起こされて目を覚ました。すでに狩りから戻ったようで、打掛姿で座っている。
「本当にあなたは大物ね。こんな事態の時に呑気に眠れるなんて」
信長を見下ろす帰蝶の目は、呆れているというよりも、安堵の眼差しに近い。
夕餉の支度が出来ている、と帰蝶は言って信長と食事部屋へ進んだ。
部屋にはすでに奇妙丸と茶筅丸がいて、膳を前にしていた。乳母の眞砂が櫃から米をよそっている。
「信長、こういう時こそ、ちゃんと食べないとだめよ」
帰蝶は手ずから信長の分の米をよそって椀を渡した。
そのとき、奇妙丸が椀をひっくり返し、米粒の塊を床にこぼした。
眞砂が落ちた米を素早く取り去り、櫃の蓋の上によける。
「あたらしいのをちょうだい」
奇妙丸が椀を差し出した。
椀を受け取ろうとした眞砂を、帰蝶が制した。
「櫃にまだたくさんあるよ」
奇妙丸が首を傾げた。
帰蝶は奇妙丸の前に座って屈みこみ、幼い息子と顔の高さをそろえるとゆっくりと話し始めた。
「たくさんあれば少しくらい無駄にしてもかまわない、そういう考え方は、母は好きじゃないわ。たくさんのものに恵まれても、一粒一粒の大切さは変わらない。こぼしたお米はそんなに汚れていないわ。それをお食べなさい」
言うと奇妙丸は蓋に載った米を椀に戻して食べ始めた。
「母上、この椀に米粒は何粒くらい入ってるの」
「母は小さいころに数えたの。そしたら、三千二百二十二粒入っていたわ」
「お前も暇だな」
信長は、小さな帰蝶が真剣に箸で米を選っているところを想像して微笑んだ。
「子供だったからね」
帰蝶もいたずらそうに微笑んだ。
信長は不意に滲みそうになった涙をこらえた。こんな当たり前の日常が、明日にはないかもしれない。そう思うと、急に愛おしい気持ちがこみ上げてきた。
同時に、底知れない恐怖が信長を襲った。
五月一八日昼。沓掛城内。
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そのなかに、亀次の次女・みつの姿があった。
帰蝶が森で仕留めた小鹿を提げて、深田の亀次の住まいを尋ねたのは、前日の夕方のことだった。
「ちよ、みつ、私からお願いがあるの」
帰蝶は亀次の二人の娘たちにそう言って、小鹿を沓掛城に献上するように頼んだ。
「そして、女中として下働きを申し出て欲しいの。やれる?」
「帰蝶さま、ついにこの日が来たのね」
ちよとみつは真剣なまなざしで頷くと、出立の準備を整え、亀次と向かい合った。亀次も娘たちを送り出す覚悟を決めたように、ちよとみつのまだ幼さの残る手を、ぎゅっと握り締めたのだった。
沓掛城の御殿の広間では、義元が主だった家臣を集めて作戦を練っていた。
みつは、女中たちが働く奥の間でわざと水をこぼし、床を拭くふりをして、軍議の様子を隙間から覗き見た。
「今夜のうちに軍勢の一部を織田方の砦に近い大高城に移す。明日の朝に、織田方の砦を襲う」
聞きつけたみつは、調理場へ走った。
調理場裏の井戸で野菜を洗うちよに耳打ちすると、今度はちよが駆け出した。
魚を運び込んだ車借の夫婦が、城の裏手、調理場専用の門前で待っている。馬に付けた車を引いてきたのは、車借に扮した梁田政綱と橘だ。
ちよはざるに載った川魚を受け取りながら、軍議の広間で聞いた情報を二人に伝えた。
政綱と橘はその後、馬を引いて何食わぬ顔で城外に出た。
死角の竹やぶに入り込んだとたんに、政綱は車と馬をつないだ縄を解き、馬にまたがって駆け出した。
橘は、桶狭間に向かって走る。
ちよは先ほど、橘にこう言った。
「沓掛城から大高城方面に進むなら、明日、桶狭間が通り道になる。父上に伝えてほしい。我が家の田んぼが、戦場になるかもしれないと」
桶狭間では亀次が田植えの準備をしていた。橘の話を聞くと、呆然としつつもうなずいた。
娘たちが間者として見事な働きをしたことに、驚きと安堵があった。同時に自分が耕してきた場所が武士たちの戦いの場になると聞き、動揺を隠しきれなかった。
亀次は不安げに空を指さして言った。
「この様子だと明日は大雨が降るぞ。雨なら戦は中止ではないのか?」
「明日降るとわかるのか」
橘がふと顔を上げて訊いた。
「ああ、こんな場所で田んぼをしてれば、そのくらいのことは分かる」
「助かった、亀次」
橘は再び駆け出した。
五月十八日夕刻。清州城。
───明日の朝には尾張の地の奥深くまで今川勢が押し寄せ、大高城近くの丸根砦、鷲津砦が攻撃を受ける。
その話は瞬く間に家臣たちの耳に届いた。男たちは戦支度を始め、信長の下知を今かいまかと待った。
清州城内の空気が、張り詰めている。
帰蝶は眞砂に子供を任せ、一人寝所に閉じこもった。
怖くて筆を持つ手が震えるのを何とかおさえ、光秀に文をしたためた。
明日にはすべてが変わるかもしれない。その前にお礼と、さようならを伝えたい。
文を書き終え、遣いに託そうと廊下に出たところで、信長の政務の間に向かう佐久間大学と鉢合わせた。
大学は信長の父・信秀の代から織田家に仕える旧臣だ。若いころから数々の武功を収めた名将だと聞いている。
体は大きく、普段はどちらかというとゆったりしているのに、いざ戦に出れば刀捌きは俊敏で、「颯の大学」と呼ばれている。目鼻立ちがくっきりした顔立ちと、笑えば優しい陰影をもたらす皺。どことなく、父・道三の面差しを想わせた。
「帰蝶さま、どうされた、あなたがそんなに気弱な様子だと、私も元気が出ない。いつものように、太陽みたいに笑っていてくだされ」
「そんなの無理よ。こんなときに」
大学はうなずいてから、そうだ、と目を上げて言った。
「帰蝶さまも、殿と一緒に私の話を聞いてくだされ」
信長に部屋を通され、大学はゆったりとした態度で座した。
帰蝶はその後ろにそっと座った。
初めはとりとめもない雑談だった。奇妙丸が飯をこぼした話、帰蝶が鷹狩に出てキジを持ち帰った話。
しばらくすると大学が切り出した。
「殿は、今川の大軍を前に勝ち目はないとお考えか」
「数が違いすぎる」
信長が苦々しげに答えた。
「明日、丸根砦に私を置き、今川の先鋒を迎え討たせてくだされ。少しでも今川勢を削れるよう持ちこたえます」
「大学、相手は砦の攻撃に少なくとも五、六千の兵を出すだろう。こちらはせいぜい丸根・鷲津の二つの砦、合わせて千の兵だ」
信長の言葉に、大学は微笑んでうなずいた。
その顔を見て、帰蝶はこみ上げてくる嗚咽をこらえた。
───大学は討ち死にを覚悟している。
「私は父上・信秀さまの頃からお側に仕える家臣だ。
葬儀の時の信長殿の失態には、肝を冷やしたものだ。けどあの時に私は確信した。信秀さまのあとは、この方しかいない、とね。
あなた様は、自分でどうにもすることのできないほどの溢れる感情の持ち主だ。
信秀さまもそうだった。一見荒くれ物のように見えたかもしれない。けどあの力の源は、多くの人々への想いだった。
尾張の領民たちは、ひたすらに、よく頑張って米や麦を育てる。それでも、干ばつや水害、飢饉にも襲われた。
そうした苦難をなんとかできないか、と父上は、交易による利益を得てまかなおうとした。領民が豊かに暮らすため、農作物以外の収入源を求めたのだ。
ただむやみに他人の領地を欲しがっていたのではない。
それに、死ぬために戦をしていたのではない。
命を生かすために戦をしてきたのだ。父上も、この私も。
天下の将軍様は、もはや信じることはできない。自分たちが生き抜くために、誰かが死ぬ。そうやって命をつないでいくしかない。
殿、あなたはご自身の死はおそらく、とっくに覚悟しているであろう。
だが、家臣たちの死を恐れている。
でも案ずる必要はありません。私ら家臣にとって、死ぬことは誇りだ。
死ぬことは、舞うことと似ている。どう生きたかを語るための、最後の舞だ。
私は丸根砦で五千の兵を打ち倒す。少しでも兵力を削ぐ。あとは信長殿に託すのみ」
信長はうつむいた。肩が震えている。涙の粒が、にぎりしめたこぶしにぼたぼたと落ちた。
大学は立ち上がった。
「恥ずかしながら、殿のお好きな舞を、私も見よう見まねでやってみようと思う。お笑いくだされ」
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「どうだ、なかなかだろう」
そう言って大学は大きく笑った。笑いながら、信長の許を辞していった。
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「まるでわがままな子どもね」
ようやく落ち着きを取り戻した信長から顔をそむけたまま、帰蝶は言った。
「大軍を率いる義元とは、そこがちがうわね」
帰蝶は言うと、信長に微笑みかけた。
帰蝶の言葉に仰ぎ見た信長は、閃いたように、まだ乾ききらない瞳を帰蝶に向けた。
「二万五千の兵があれば、多少の犠牲は痛くもかゆくもない、義元にとっては、兵はただの駒・・・」
「大将から「ただの駒」と思われていることを、当人たちは感じていると思うわ」
帰蝶は信長の言わんとした言葉を継いで、うなずいた。
「軍勢は、次々と支配を広げた三河、遠江からの寄せ集め・・・」
信長は立ち上がった。
───大将さえ討ち取れば、総崩れになる
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「帰蝶、俺は、大将・義元の首だけを狙う」
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美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
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その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
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※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
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