帰蝶の恋~Butterfly effect~

平梨歩

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第三章 天下布武編「愛しき光 妖しき影」

第四話② 愛しき光 妖しき影 後編

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数日後。

光秀は美濃に入った。

明智の館跡地には、驚いたことに立派な屋敷が建っていた。

長良川の戦いで美濃の逆賊となった明智家の館は焼き払われた。それを、地元の領民たちが協力し合って、少しずつ再建していたのだ。

「光秀さま」

農民をしながら家来として明智家を支えていた者たちが、主人の帰郷を聞きつけて集まった。彼らが光秀の姿をみとめ、つぎつぎに大声で仲間を呼ぶと、あちこちの畑や住まいから、わらわらと懐かしい顔が集まった。


「よかった、お元気そうだ」

「立派になられて」

「ここへ戻ってくださるのか」

「竜興さまの配下の方々は、明智の方々とは違ってとても厳しい。どうか早く、もどってきてくだされ」

口々に光秀に訴えかける人々ひとりひとりに、光秀は深くうなずいて微笑み返した。

「そうだ、屋敷の中で大事な方がお待ちだ」

「おれたちのことはあとでいい、早く中へ」


領民たちは波となって光秀を押し、屋敷内へと送り届けた。


くちなしの花の季節だった。屋敷の中庭では、咲き乱れる白い花が優しい芳香を放っていた。

焼け跡と化した明智の敷地に、濃い緑の新芽が芽吹いたのは聞いていた。それを近隣の領民たちが、枯らさぬように育ててくれたにちがいなかった。

鼻腔をくすぐるその甘い香りに、涙を呼び起こされそうになる。

「光秀」

庭の奥から、帰蝶が姿を現した。

「姫・・・」


光秀は美濃へ出立する前に、菫あてに文を書いていた。おそらく菫が手はずを整えて、帰蝶を隠密に美濃まで送り届けてくれたのだろう。

「姫、俺はこれから、稲葉一鉄殿に会ってくる。道三様の頃からの重臣、西美濃三人衆と呼ばれるあの方々は、美濃の内政と戦のかなめだ」

稲葉一鉄は、氏家卜全、安藤守就とともに西美濃三人衆と呼ばれ、古くから美濃の君主に従ってきた。誰よりも美濃を知り尽くす重鎮だ。

「私も連れて行って」

帰蝶は硬い決心で光秀に請うた。



忍びで参じた帰蝶の従者は数名だった。浪人の身の光秀にもちろん従者はない。



美濃国内では、帰蝶の身辺は非常に危うい。

なにせ敵方の大将の正室なのだ。正体が知れれば命が危ない。

帰蝶は麻の小袖に桂巻で変装し、脚絆を付けて馬にまたがった。

光秀はその夫を装い、二人して一頭の馬にまたがり、従者も連れずに出立した。



「俺は、竜興殿に美濃から出ていただくのが最良だと思う。まだお若い竜興殿が討ち死にすることは避けたい。そして、美濃の内政は西美濃三人衆に執り行ってもらう」


馬上で光秀が言った。

帰蝶は光秀の考えに頷いたが、果たして稲葉一鉄がその請願をのんでくれるかはまだ分からない。帰蝶はさらに先の方策を、胸の中で温めていた。



曽根城は、稲葉一鉄が家督を継いで以来居城する城だ。

城下町は大きくはないが、住む人々の利便性がよく考慮され、大きく巡らせた堀が人々の安全な暮らしを守っている。質実剛健なつくりは、城主の人となりをそのまま表すようだ。

城内の茶室で二人を出迎えた稲葉一鉄は、帰蝶の姿を見るなり目を赤くした。

「帰蝶さま、お美しくなられて」

帰蝶が敵国の正室であることなど忘れたように、顔をほころばせる。

父・道三の時代から重臣として君主に仕えていた一鉄は、帰蝶からすれば親戚の叔父同然の存在だ。長良川の戦いでは一鉄が義龍側についたために袂を分かつ結果となったが、美濃の内政が揺らぐ今、手を取り合って今後を考える相手としてこれ以上の頼れる存在はほかにない。

思慮深い一鉄だ。敵方の要人が何のために自ら出向いて来たのか。疑り深い眼差しを一瞬向けたが、帰蝶が親愛を込めた微笑を自身に向けてくるのを見て、猜疑心を解いた。

帰蝶は、甥の竜興に国主の荷は重いこと、今後の美濃の先行きが不安であることを忌憚なく一鉄に打ち明けた。

一鉄は茶をたてながら、静かに語った。

「私たちの口から、わが君主について何も言えることはありません。ただ私たちが考えているのは、ひたすらに、美濃国の領民の安寧だけです。この城の周辺の人々が米を作りながら、平穏に暮らす。その米を徴収する代わりに、私たちは皆の安全を守る。ただそれだけです」

一鉄はみずからの手柄や官位、まして一国の主などといった地位が欲しいわけではないのだ。ただ、自分を頼りにしている人々を、自らの持つ力と知恵で守り抜きたい。それだけなのだ。

光秀が口を開いた。

「竜興殿のふるまいは、残念ながら周辺国に噂となっています。尾張軍を伏兵攻撃で破った、あの優秀な軍師・竹中半兵衛殿が、竜興殿のもとを離れられたと聞きます。それによって美濃の屋台骨が崩れた、などと口にする方もおられます」

一鉄は茶を光秀に差し出しながら、薄く笑った。

「さすが光秀殿。各地の色々な情勢に詳しいと聞いています。美濃を離れられた今も、そこまで内情を知っているとは。お恥ずかしい限り。ですが、それが事実です」

「でも、ひとつ真実でないことがあります。それは、屋台骨が崩れた、ということです。実際は違います。美濃には西美濃三人衆がおられます」

光秀は一鉄に訴えた。

「どうか一鉄殿、氏家卜全殿、安藤守就殿、三人衆と呼ばれる方々で、美濃を率いてはくれませんか」

「光秀殿、声が大きいですぞ。それは私に、謀反を起こせと言うのと同義」

一鉄が厳しい目を光秀に向け、すぐにうつむいた。優美に手を動かしながら、低い声で語り始める。

「私は言ったように、美濃に君臨する男ではありません。土地の領民たちを守ることが私の信念ですし、私の力量なのです。数々の立派な君主を見て来ました。この年齢になれば、自分の身の丈は痛いほどに分かるものなのです」



しばしの沈黙のあと、帰蝶が不意に顔を上げた。

「一鉄殿、今こそ、私を利用してちょうだい」

一鉄は突然の言葉に一瞬目をしばたたいたが、そのあと帰蝶の真意を探るように見開かれた瞳を見つめた。



「私たちの婚姻は、尾張国と美濃国を結びつけるためのもの。何のために私が信長のそばにいるのか・・・その意味を今こそ、利用してほしいの」

目の前で真剣に語る帰蝶は、思慮深くも勇敢な、成熟した女性だった。おてんばで負けず嫌いだった少女の成長ぶりに、一鉄は言葉を詰まらせた。

「それは帰蝶さま、信長殿と帰蝶さまを、信じていいと言うことですか」

帰蝶は一鉄の目を見据えたまま、ゆっくりと深くうなずいた。

「お二方のお考えはよくわかった。氏家卜全と安藤守就とともに十分に話し合う」



明智の館への帰路。

「今日は姫に、いいところを持っていかれたな」

「カッコつけに行ったんじゃないのよ」

帰蝶は笑った。

「いや、さきほどの姫は、本当に勇敢だった。そこらの武将とはくらべものにならないくらいだ」

「でも、光秀が呼んでくれなかったら、私ひとりではここまでのことはできなかった。光秀がそばにいてくれると、私すごい力が湧いてくるの。峰花を捕まえに崖を這い降りた時もそうだった」

夜の道を馬に揺られ、光秀と帰蝶は子供の頃の思い出を語り合った。

故郷である美濃の地を踏めば、忘れていた思い出までもが生き生きとよみがえった。

そうするうちに、光秀に抱いていたまっすぐな想いが、まるで冬眠から目を覚ましたようにむくむくと胸をいっぱいにしていく。帰蝶は昔の自分に戻っていた。

周囲に咎めるものは誰もいない。ただ光秀と二人だけ。
体を支えるために添えられた光秀の手に、手を被せた。
何かを察したかのように、馬がふと、立ち止まる。
帰蝶が振り返ると、光秀はその唇に唇を重ねた。

静かな夜だった。輝く弓張月だけが、二人を見下ろして青い光を投げていた。




一五六七年 稲葉山城。

稲葉一鉄は、斎藤竜興が一枚の書状に目を走らせるのを、固唾をのんで見守っていた。
読み終えるなり竜興は、文を丸めて放り投げた。

「なぜだ? 俺が協力を請う先々で、すでに信長が手を組んでしまっている。あいつはどういうずるい手を使っているんだ」

竜興は信長に対抗するため、甲斐の武田信玄に同盟締結の打診をしていた。しかし、信長も同時期に武田と手を組むべく交渉を進めていた。
竜興が武田に援軍を依頼すると、武田からはあっさりと中立の立場をほのめかす書状が届いて、この事実が明らかになったのだった。

一鉄は静かにため息を漏らした。
───竜興殿の行動は、信長にはすべてお見通しなのだ。

数年前、近江との同盟交渉も信長に先を越されて辛苦を味わった。にもかかわらず、竜興はこれを省みることもなく同様の失敗を犯し、それを単に「信長がずるい」という解釈で片付けようとしている。

この鬱憤はこのあと家臣たちに向けられ、一鉄をはじめとする重臣たちがいわれのない八つ当たりに耐えねばならないのだ。

八つ当たりに耐えるくらいはなんてことはない。

辛いのは、まだ何も知らない若者が国主という重圧に喘ぎながら、なんとか自ら国を守ろうとあがく姿を、ただ見守ることしかできないことだ。

安定した内政を保ち、信長の攻勢にも怯まなかった父・義龍。
その背中を見てきた竜興は、自ら考え、道を切り開くことに固執しつづけている。そのため、一鉄をはじめとする旧来の家臣団の具申には耳を貸そうとしなかった。
自分が選んだ新参の側近たちと内政を話し合い、相談もなく独断で実行しては、そのたびに失態を犯し続け、しまいには竹中半兵衛といった有力な知将たちを失う結果となった。

───もう限界かもしれない

そう一鉄が思ったその時、竜興が喉を震わせた。

「俺にはもう、無理だ」

一鉄はハッとして顔を上げた。そこにはまだ少年の面影が残る竜興の本来の姿があった。

本当ならまだたくさん、父親に教えられ、鍛えられ、励まされ、一人前の武将として鍛錬を積まなければならないはずだった。しかしその父親が突然病気で倒れ、帰らぬ人となった。竜興は自らを鍛え、自らを励まし、何とかここまで奮闘してきたのだ。
竜興なりに、最大限の力を振り絞ってきたのだ。

「殿。あなた様のことを、よく言わない者たちがいます。けれどもそれは違う。
殿は賢く、勇敢です。ただ、若くして義龍殿と言う父親を失ったばかりに、不遇な経験を積まされている。私はもう、殿のお気持ちを察するだけで、その苦しみに堪えかねる思いです。
殿、いちど、あなた様のその重圧の大きい居場所から、離れられてみてはいかがでしょうか。知識と経験を積み、殿の活躍すべき場を、再び手にすることができるまで、一度自由の身に自らを投じてみては」

「そんなことが許されるか」

「美濃の国を捨てる覚悟は必要です。でも、あなたは美濃の国主である以前に、竜興さまと言う一人の人間だ。まずは、ご自身とゆっくり向かい合い、本当に求めるものを探してみるのはいかがでしょうか」

一鉄は一気に自らの思いを吐露した後、はっと我に返った。出過ぎた真似をした。
案の定竜興は立ち上がり、刀を抜いた。

「一鉄、分をわきまえよ!」

一鉄は平伏し、打ち首を覚悟した。
───もはや、これまでか
静かに目を閉じ、竜興の動きに神経を集中した。

刀を握りなおす音がして、竜興が声を震わせて叫んだ。

「一鉄、刀を抜け。俺の地位を奪いたいなら、俺の首を取るがいい」

顔を上げると、涙にぬれて歯を食いしばる竜興が刀を構えていた。

「竜興殿、おやめください」
「やめない。刀を抜け!」

取り乱した若者を相手に、一鉄は身構えた。
冷静に刀を交えようとする相手とは違い、むやみに突っ込んで切りかかってくるだろう。そうなれば。
───危うい
自分が竜興を切ってしまうことになる。

一鉄が刀を抜くと、案の定竜興はなりふり構わず隙だらけの恰好で一鉄に切り込んできた。心のどこかで、一鉄が自分に刃を向けることがないとわかっているのだ。甘え切った竜興の心根を叩くべく、一鉄は腕を振り上げ、鞘を斜めに打って竜興の刀を床に振り落とした。

そして一鉄は、鬼の形相に変貌して叫んだ。
「私は今から謀反を起こす。竜興、覚悟!命が惜しいならば逃げおおせるがいい。この城から出ていけ!出ていけ!」

一鉄は切先を竜興に向けて腹から声を振り絞った。このような怒声を竜興に浴びせることは初めてのことだった。腰を抜かした竜興は、異変を察知して駆け付けた側近たちに抱かれるようにして一鉄から逃げていった。

「謀反だ!」
一鉄は死を覚悟して竜興を追った。

しかし城中の家臣団は誰一人、一鉄を咎めない。むしろ男たちは逃げていく竜興のもとに駆けつけ、その逃亡を手助けするべく瞬く間に準備を整えた。

安藤守就、氏家卜全が一鉄を追いかけてきた。卜全が、一鉄に耳打ちする。

「一鉄殿、織田軍が攻め入ってきました」

城中の混乱を察したように、織田の軍勢が稲葉山城を包囲していると言う。

「なんと手回しのいい・・・」

一鉄は自ら起こした混乱の最中にありながら、信長の周到さに称賛の意を禁じえなかった。

竜興は、数人の側近たちと城を出た。木曽川まで逃げると、船に乗って城を離れて行った。


一鉄は事をなし終えたと知るや、震える手で刀をおさめ、膝から崩れ落ちた。

───どうか、竜興殿、生きてくれ

一鉄は、代々仕えた美濃斎藤氏の流れを、自ら断ち切ってしまったことに強い罪悪感を覚えた。
卜全と守就が、両脇に控えている。

「私はとんでもないことをしてしまった」

守就はかぶりを振った。

「これが最良の選択だったんです。一鉄殿」

稲葉山城はこうして、西美濃三人衆の手にするところとなった。
直後、三人は信長への従属の意思を示し、稲葉山城を信長に明け渡した。


約八年の歳月を経た信長の美濃攻略戦は、こうして幕を閉じた。
稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就の西美濃三人衆には従来の所領を安堵し、美濃西部の土地の税収をあてがった。
稲葉一鉄はこれまで通り曽根城の城主として、美濃西部の地域を治めることになったのだった。


───尾張は美濃の下に敷かれることはなかった。隣同士に並んだ国として、国も民も守られたのだ。

一鉄は、信長と帰蝶とが、横に並んで未来を見据える姿を想った。




そののち、稲葉山城の開城と信長の美濃制圧のうわさは瞬く間に京にまで広がった。越前を始め、越後や甲斐といった国々も、信長の勢力を無視できないはずだった。


───なのに、光秀は美濃に戻って来ない

帰蝶は美濃領内の長良川沿いを馬で駆けたり、稲葉山城の改修作業を見る口実で金華山周辺を回ったりしたが、光秀の姿はない。


帰蝶はしびれを切らして筆を執った。

───もう美濃は私たちの手に戻った。是非美濃に帰ってきてほしい

文を送ってしばらくたっても、返信は届かなかった。

そうするうちに、稲葉山城の改修が完了した。美濃国の大工たちの手によって、さらに美しく生まれ変わった山頂の白い孤城が、美濃の濃い青空を背景に輝いている。

帰蝶は信長に連れられ、天主に上った。豊かに茂る木々の向こう、はるか下に長良川が見える。

那古野城も清洲城も、帰蝶は好きだった。
けれどもやはりここには、父や母、愛しい家族と過ごした思い出が染み付いている。もう二度と戻らないけど、自分の記憶にはしっかりと、満たされていた頃の思い出が残っている。温かな幸福感が胸を満たし、帰蝶は気づかぬうちに涙を流していた。

信長が背中から帰蝶を抱きしめた。二人で長良川上空の青空を眺める。

「お前が長良川の戦場に薙刀を持って乗り込んだときのことを、片時も忘れることはなかった。やっとお前のもとに美濃を返してやることができた」

信長が、帰蝶の肩に顎を乗せた。
まるで子犬が甘えるような、親愛の情に満ちた懐っこい仕草だった。
帰蝶は信長の腕に手を重ねた。

「この美濃を制圧したのは、私のため?」

「それ以外何の理由がある?」

帰蝶の耳に、フフッと笑った信長の吐息が触れた。

一人の女のために、広大な領地を力尽くで手に入れてしまう男。
途方もない執念と、狂気にも似た意地の持ち主だ。
そして、帰蝶への愛も、計り知れないほどに深く、強い。

───この男には、どうしても抗えない。

帰蝶は振り向きざまに信長の首に手を回し、唇を重ねた。信長は荒々しく帰蝶の唇を貪りながら、打ち掛けを剥いで投げ捨てた。

こんなことが昔あったような・・・帰蝶は肌が熱くなるのを感じながら、稲葉山城の天主で留守居をしていた光秀に、同じ場所でこうして抱かれたことを思い出していた。

光秀の手つきは優しく、ゆっくりとした動きで、帰蝶が言わずとも求めるところに愛撫を与え、焦らしながらとろけさす。

信長は帰蝶の肌のすべてを知り尽くそうとするかのように隅々をまさぐり、帰蝶自身も知らないような秘密の場所を探りあて、ひりつくような快感を与えてくる。

どちらが好きか・・そんな不埒な考えがよぎると、その罪悪感で一層体が熱くなった。



天主から見上げる月は、近い。
帰蝶は激しく抱き合った余韻が残る肌に信長の静かな愛撫を受けながら、星空を見上げていた。

「この城の名前を、岐阜城に変えようと思う。文王の本拠地、岐山と、周公旦の本拠地、曲阜から一文字ずつもらうんだ」

信長は静かに語った。
「そして俺はここを本拠にして、武で天下を治めに行く」

帰蝶は信長に顔を向けた。信長は目に、穏やかな深い光をたたえている。

「帝のおられる都がいま、窮に瀕している。お助けできるのは武士の力しかない。天下を、武の力でたいらかにする」

帰蝶は固唾をのんだ。たった今信長の口から語られた夢は、帰蝶の想像をはるかに超えた壮大なものだった。

「このあと、京の都に侵攻するつもり?」

信長はうなずいた。

「征夷大将軍の足利義輝公を討った三好三人衆に、天下を牛耳らせるわけにはいかない。俺は義輝公の跡を継ぐ方として、弟君である義昭殿をお助けし、京へ上る」

「信長、いつの間にそんな決心を?」

「実は以前、義昭殿から上洛の協力を請われた。けど竜興軍に阻まれて、できなかった。でもいまは、邪魔するものはもういない。しかも、上洛のために心強い味方が現れたんだ。誰だと思う?」
帰蝶は首を傾げた。

「明智十兵衛光秀だ」

呼吸が止まる。

「今義昭殿は越前におられる。越前にいた光秀は、義昭殿に請われて今は側近という立場だ。義昭殿の動向をこまごまと俺に報告してくれている。上洛の準備のためだ。光秀は正統の流れをくむ義昭殿を征夷大将軍に擁立し、世を平らかにしたいと言っている。俺と光秀の目指すところが、合致したんだ」

帰蝶は信長から目をそらし、背中を向けたまま信長の話に聞き入った。

───知らないうちに信長と光秀が深いつながりを持っていた。私なんかに文を書く暇など無かったというわけね

男たちは、自分そっちのけで夢を語り合っていたのだ。
わりなき嫉妬心が、胸をざわつかせた。


これまで光秀は祖国を追われた浪人として、表立った活躍ができない境遇ゆえに、影のように人知れず信長を支え、助けてきた。

───その光秀が、次期将軍の側近になった

「将軍の側近」という肩書は、いわば沈みがたい船だ。
容易に沈まぬ堅固な船を得たならば、光秀は当然に日の光を燦然と浴びてこの戦乱の荒波に漕ぎ出すはずだ。

信長と光秀が対面し、二人がそろって日の当たる場所に立つのを帰蝶は想像した。

二人が踏み出す先には、これまで見たこともないような風景が待っているように思えた。
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