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第四章 本能寺編「悪魔の祈り」
第一話① 上洛 前編
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一五六八年(永禄十一年)七月。
岐阜城の居館の二階から、山の稜線に沿って上へと延びる階段を、帰蝶は駆け上る。
最上階四階の見晴らし台に上がれば、美濃の城下町を見渡せるほどの高さだ。
息を切らしてたどり着くと、見晴らし台に立った二人の男たちが足音に気づき、美濃の空を背にして振り返った。
「帰蝶、戻ったぞ」
信長が室内に降り、帰蝶の前に立った。
自然な仕草で帰蝶を抱きしめたあと、両肩を抱いて双眸を覗き込んできた。
信長の目が、あたりに散らばるあらゆる光を集めたようにきらきらと輝いている。
「将軍様が、越前から美濃の立政寺に入られた」
信長は言うと、まだ見晴らし台に立っている男の方に振り向いた。
「美濃まで将軍様を連れてきたのは光秀だ」
日差しのもとに立った光秀が、夏空の眩しさに目を細めるような顔で、帰蝶を見て微笑んだ。
「久しぶりだな、姫。何年ぶりだろう」
急な問いかけに狼狽する帰蝶をよそに、光秀は続けた。
「輿入れ以来だからもう十九年ぶりだな」
「お互い年を取ったわね」
帰蝶は微笑みかえした。
心臓が鳴り響くのは、小走りでここまで来たせいでないのは明らかだった。
この世で最も好きな男二人が、同時に自分を見つめている。
一度この場を味わってみたかったような気もするし、これほど恐ろしい状況は他にないとも思う。激しいときめきと罪悪感と恐怖心で、帰蝶の胸は激しく脈打っている。
「光秀は将軍様の側近筆頭だそうね」
帰蝶が言うと光秀はうなずき、白い歯を見せて微笑んだ。
「義昭様はまだ正式には将軍ではないのだが・・・間もなく俺たちの手でそうなるだろう」
前回会ったのは、一年前。美濃の稲葉一鉄を尋ねた時だ。
あの頃越前で浪人生活を送っていた光秀は従者もつけずに一人奔走していた。それが今や幕臣ともいえる立場になっている。
───これこそが本来の高貴な血を引く光秀の姿だわ
戦で傷だらけになった姿も、剣術修行で筋骨たくましい荒武者然とした姿も、これまで見た光秀の姿はどれも彼らしいものではあった。
けれども、今こうして折烏帽子に直垂姿の正装に身を包み、知性を漂わせたほほえみを浮かべる今の光秀こそが、本来の光秀だと帰蝶は思った。打たれ、鍛えられ、研ぎ澄まされて、あるべき姿にたどりついたのだ。
「将軍様は各地の大名を一つに束ねるために、俺の力が必要だと仰せになった。おれは将軍様についていくぞ」
信長は隠しきれない嬉しさを口元に滲ませて帰蝶に言った。
新しい君主を迎えた信長は、今ここにいぬ将軍を記憶の中に描き、尊いものを見る顔をした。従順でまっすぐな目をした信長を、帰蝶は愛らしく、逞しいと思った。
信長は見晴らし台から降りた光秀と向かい合い、言った。
「武士たちの頂にたつ室町幕府を再興すれば、この乱世を終えることができる」
「将軍様には、国を一つにまとめ、平らかな世にしようとする情熱がある。将軍様の崇高な理想に、信長殿の武力の裏付けが伴えば、天下静謐が実現する」
光秀がうなずく。
「俺たちが、尊い精神をもつ将軍様の矢となり盾となり、お守りせねば」
信長が力強く応えた。
それから二人は、今後のお互いの仕事について話し始めた。
信長は、三好に与して上洛の従軍要請を拒んだ六角承禎討伐のための準備をするという。
「近江は上洛の際の通り道。北近江の浅井長政には妹のお市を嫁がせて同盟関係が結べた。だが南近江の六角氏は、三好三人衆に与して将軍様の上洛の従軍要請を断固拒否し、俺たちに交戦の構えを見せている。俺たちに刃を向けると言うことは、将軍様の命に逆らうと言うことと同義。かつて桶狭間では援軍を出してもらった借りはあるが、将軍様の名のもとに、討伐しなければならない」
信長は言うと、光秀には将軍の御所の手配と、武器の調達を要請した。
「上洛後は当面、本圀寺を将軍様の御所としたい。大切な身であるから、居場所が露見しないよう、秘密裏に手配してほしい。それから、武器の調達のために、堺へ」
信長が言うと、二人でしかと見つめ合い、頷き合った。
光秀は岐阜城内の宿所で一泊することになった。
夜。
御殿二階にある帰蝶の寝所に、信長が訪れた。
「今は目の前にどんな敵が現れても、勝てるような気がしている」
信長は帰蝶を抱き、荒く息を吐きながら言った。
信長の唇が、帰蝶の耳を食み、首筋を辿って肩へと降りる。
まるで一つの大陸を侵略するかのように、じわじわと帰蝶の肌に手や舌を這わせた。
帰蝶は両足を広げ、信長の愛撫に絆された体を明け渡した。
翌朝。
饗宴の間に朝食をそろえ、光秀と三人で顔を合わせた。
「このあとすぐに、堺へ出立する。一泊し、明日には本圀寺に入り、将軍様の滞在のための準備に入る」
光秀は言うと立ち上がった。
「待って」
帰蝶は思わず光秀に声をかけた。光秀が目で尋ねる。
「あの・・・私も堺に行ってみたいのだけど」
言ってから、帰蝶はハッとして言葉を呑み込んだ。もうすこし、光秀と一緒にいたい。そんなわがままな気持ちが口をついて出てしまったのだ。
すると信長は笑った。
「帰蝶は、どこへでもしゃしゃりでたがるな。でも光秀の仕事の邪魔はするな」
「そうよね」
帰蝶はくすっと笑って肩をすくめた。
「邪魔しないなら、行っていいぞ。お前にもここしばらく戦続きで苦労を掛けた。慰労もかねて遊びに行くといい。光秀が護衛についてくれていれば、俺も安心だからな」
一度立ち上がった光秀は再び帰蝶の前にひざまずいて微笑んだ。
「ではご案内しましょう」
堺の町は、摂津と和泉の国境にありながら、それらの国々の支配権から独立した特別な商業地域だ。
ここに集まる人々には身分の差はない。海外からやってきた美しい品々や珍しい動物、新鮮な魚や見たこともないものたちであふれている。耳にも笛や太鼓、聞きなれない弦楽器の響きがにぎやかで、歩いているだけで帰蝶は浮足立った。
そうでなくても隣には光秀がいるのだ。はしゃがずにはいられない。
南蛮から来た透き通る器、怪しげな赤い色の酒、人真似をする真っ白の巨大な鳥。帰蝶はこれまで目にした事のない不思議に美しい品々を見て、驚嘆の声を上げた。
そんな帰蝶を、光秀は静かにほほ笑んで見守っている。
「あれは」
帰蝶はある店先で立ち止まった。三本足の蛙の香炉がそこにある。
「信長が以前京と堺に出向いたときに、お土産に持ち帰ったものだわ」
「可愛らしい蛙だな」
光秀はちょこんとすわった小さな香炉を見下ろして微笑んだ。
「そう。あのとき信長は京から私に向けて文を送ってきたのよ。あなたが書いた文をね」
帰蝶は言って、光秀の胸を指で突いた。
「なんのことかな」
光秀は眉根をひそめてとぼけている。
「白状しなさいよ。京で信長と会って、二人で私を騙そうと企んだことを」
帰蝶が言うと、光秀はじっと帰蝶を見た。
「俺は騙そうとなんて思ってない。あれは俺の本心を書いただけだ」
帰蝶は文面を思い出し、頬が熱くなった。
「俺は今も同じ気持ちだ・・・『どこにいても、誰といようとも、誰かが俺たちのことをせめようとも、俺の体が滅びようとも、俺はあなたを想っている』・・・」
堺の町の喧騒が、帰蝶の耳から消えた。光秀の声だけが、まっすぐに胸まで響いた。胸まで響いたその声が、帰蝶の心臓をわしづかみにして締め付けた。
「一緒に堺に来ると言ってくれて、俺がどんなに嬉しかったか、わかるか?」
人波に紛れて光秀が帰蝶の指に指を絡めた。
見つめ合った瞬間、誰かが光秀の腕に飛びついてきた。帰蝶はハッと身構えた。
身丈の長い派手な色の小袖を着流した、遊女だ。
「旦那さん、遊んでいかない」
しなを作って腕に絡みつき、猫のような甘い声で女は言った。追い払おうとしてよく見れば、それはそばかすと細眉を描いて変装した菫だった。
菫は帰蝶に目配せし、二人の耳元に顔を寄せると囁いた。
「堺におられる、今井宗久殿。彼が三好三人衆に武器を提供しています」
それだけ言うと、菫は光秀の腕を突き放し、
「なんだ、つれないなぁ」
とぼやいてふらふらと離れ、人ごみに紛れてしまった。
そのあと二人は今井宗久を訪ねて歩き、その商家にたどり着いた。
慌ただしく荷を運ぶ少年が、ふと立ち止まって帰蝶と光秀に目をとめた。
二人が頭を下げると、少年は近づいてきた。
「今井様にお会いしたいのか?約束は」
ない、と光秀が答えると
「何の知らせもなく来られても、会えるわけがないよ。今井さまはお忙しいんだ。俺が代わりに用件を聞くよ。俺は納屋助左衛門だ。今井の納屋番だ」
帰蝶は光秀が口を開きかけたのをとめて、一歩前に進み出た。今井宗久以外の誰かに武器の調達と知られるのは危険だった。
「紅が、欲しいの。明日の朝にはここを発つから、早く欲しいの」
助左衛門は、なるほど、といったふうにうなずきながら値踏みするように帰蝶を見た。
「やはり、どこぞの姫様か。紅といったら黄金並みの対価が必要だが」
「承知の上よ」
帰蝶は金子(きんす)をしまった胸元に手を当て、対価を支払う準備があることを示した。
助左衛門は今井宗久に話を通す対価として十文を要求した。
「さすが商人の町だ」
光秀は金子を手渡し苦笑した。
ほどなくして、助左衛門の案内で今井宗久の茶室へと案内された。
宗久は茶のしつらえを整えて二人を迎え入れた。
「織田信長殿の奥方、帰蝶さまと、その従兄の明智十兵衛光秀殿。明智殿のうわさはあちこちで耳にしています。帰蝶さまの美しさについても、評判は堺まで届いております。直々においでいただけるとは」
宗久は茶をたてながら二人に尋ねた。
「茶会にはよくお出になられますか」
帰蝶は微笑んでうなずいた。
光秀が口を開く。
「美濃の国主であった斎藤道三様に付き従っていた頃、道三様は不住庵梅雪殿を美濃へ招き、茶会を開かれていました。私はそこで茶の湯を学びました。道三様から、これからの武士は文化に精通していなければならない、と教えられました」
帰蝶は久しぶりの茶の席で少しばかり緊張していたが、今井宗久の優美な所作と茶室に漂う歓待の温かな空気で、体が緩むのを感じた。乾いたのどに、茶が驚くほどに美味だった。
「さて、今日、欲しいのは、果たして本当に紅でしょうか」
宗久は光秀を鋭い目つきで見た。光秀は微笑んだ。
「お見通しでいらっしゃいますね。包み隠さず申します。私は織田信長の遣いでここに来ました。どうか三好三人衆への武器の提供をやめ、織田の軍勢に武器の提供をお願いしたいのです」
「なるほど・・・してこれは、商談と思ってよいのですね」
光秀はうなずいた。
「織田勢に協力いただけるのでしたら、何十倍、何百倍にしてお返しします。信長殿の尾張には熱田の湊があり、それにより栄えた国です。実際いまも、瀬戸の焼物の売買を促して利を得て、戦の資金を集めている。商いが国を豊かにすることを身にしみて感じているお方です。これから国を豊かにするのは、戦ではなく、商業である、それをよくわかっている。そんな若い信長に、財を投じてみていただきたいのです。その見返りは必ずや、今井さまに受けていただけると私が保証します」
宗久は光秀を見つめ、なにやら嬉しそうにほほ笑みを噛み締めている。
いい獲物を見つけた、とでも言いたげな表情だ。
「実は私の方でも、これ以上三好三人衆に加担するのもどうかと思っていたところです。何しろ彼らが擁立した義栄様・・・義昭様のいとこですが・・・が病に伏して上洛できずにいる。これによって三好勢の求心力が失われた。
そこに織田軍が上洛するや、とたんに彼らは散り散りになってしまった。
光秀さまのお申し出、渡りに船とはこのことだ。いかほどの武器が必要か、おっしゃっていただければ用意しましょう」
光秀は、呆けた顔になった。光秀はすんなりと宗久が応じたものだから、拍子抜けしたのだった。
「光秀殿、どうされましたか」
「いや、宗久様からこんなに快くお受けいただけるとは・・・」
「私には、そのものに価値があるかを見極められる目があります。茶器だけではない。人もそうです。この方には、協力する価値がある・・・あなたを、そう見定めたまでのこと」
それから光秀と宗久は、軍事物資の運送などの細かな話し合いを始めた。
「鉄砲に火薬など、一万の兵にあてがいたい。半分は近江佐和山城、半分は本圀寺に・・・」
帰蝶はひと足先に茶室を出、助左衛門とともに庭を歩いた。
歩きながら帰蝶は、助左衛門の将来の夢の話に耳を傾けた。
「おれは、稼いだ金で大きな船を買って外国へ行き、日ノ本の人々が喜びそうな品々を買い付け、売り、さらに稼ぐ。そうやって世界一の商人になりたいんだ」
助左衛門は目を輝かせて語った。
ただの強欲な男ではない。ポルトガル語を体得し、船の操縦も心得ている。夢に向かってたゆまぬ努力を続けているのだ。
助左衛門の話に感心していると、光秀が戻ってきた。
翌日の本圀寺への出立に備え、堺の宿場の中で最も豪奢な旅籠に入った。帰蝶に用意された部屋は、南蛮の家具や調度品がしつらえられ、寝台が置かれていた。
「姫、いいか」
しばらくすると別室の光秀が訪ねて来た。
渡したいものが、と言って、手の上にのせた小さな香合を差し出した。美しい文様が描かれたふた付きの小さな器だ。
「今井さまのところで、これを。ふたを開けてごらん」
指先で蓋を摘まみそっと持ち上げるが、何も入っていない。
「空っぽね」
すると光秀は微笑んだ。
「そう見えるだろう?でもこの器の内側の、玉虫色の塗りに触れてごらん、薬指で」
言われるままに薬指の先で玉虫色の表面に触れると、指先に移った色が、瞬く間に輝きを失い、鮮やかな紅色に変化した。
「これが、紅」
光秀がうなずいた。
「笹紅と言って、紅の中でも色素の純度が高いものだそうだ」
「聞いたことがあるわ。とても貴重なものだって」
言いながら帰蝶は指先をほんのり染め上げた美しい紅色をうっとり眺めた。
「姫にはぴったりの代物だ。あげるよ。今日の記念に」
光秀は言って、おやすみ、と戸を閉めようとした。
「待って」
帰蝶は光秀を部屋に招き入れ、鏡台に向かって座ると紅を掬った薬指を唇に滑らせた。
「紅は、人によって違う色合いになるそうよ。私の肌の上ではどんな色になるかしら・・・どう?」
光秀の方を振り向けば、光秀は息を呑んで帰蝶に目をとめたまま、しばしのあいだ体を固くした。
「おかしい?」
帰蝶が首をかしげると、光秀は帰蝶の腕を引いて抱き寄せた。
「姫、これは誰にも見せるな。絶対だ」
また改めて顔を見つめ、荒々しく唇を重ねた。
そうして体をもつれあわせ、寝台に身を投げた。
玉の汗を額に滑らせる光秀の唇の端に、紅がひとすじ刷かれている。
帰蝶との接吻で、こすりつけられた笹紅だ。
艶然と微笑む光秀の顔を見上げ、その頬に描かれた紅のすじ道を、指でなぞる。
この光秀の肌を、すみずみまで真っ赤に染め上げてしまいたいと帰蝶は思った。
光秀は恍惚の中にも焦燥をにじませた表情で囁いた。
「誰にも渡したくない」
岐阜城の居館の二階から、山の稜線に沿って上へと延びる階段を、帰蝶は駆け上る。
最上階四階の見晴らし台に上がれば、美濃の城下町を見渡せるほどの高さだ。
息を切らしてたどり着くと、見晴らし台に立った二人の男たちが足音に気づき、美濃の空を背にして振り返った。
「帰蝶、戻ったぞ」
信長が室内に降り、帰蝶の前に立った。
自然な仕草で帰蝶を抱きしめたあと、両肩を抱いて双眸を覗き込んできた。
信長の目が、あたりに散らばるあらゆる光を集めたようにきらきらと輝いている。
「将軍様が、越前から美濃の立政寺に入られた」
信長は言うと、まだ見晴らし台に立っている男の方に振り向いた。
「美濃まで将軍様を連れてきたのは光秀だ」
日差しのもとに立った光秀が、夏空の眩しさに目を細めるような顔で、帰蝶を見て微笑んだ。
「久しぶりだな、姫。何年ぶりだろう」
急な問いかけに狼狽する帰蝶をよそに、光秀は続けた。
「輿入れ以来だからもう十九年ぶりだな」
「お互い年を取ったわね」
帰蝶は微笑みかえした。
心臓が鳴り響くのは、小走りでここまで来たせいでないのは明らかだった。
この世で最も好きな男二人が、同時に自分を見つめている。
一度この場を味わってみたかったような気もするし、これほど恐ろしい状況は他にないとも思う。激しいときめきと罪悪感と恐怖心で、帰蝶の胸は激しく脈打っている。
「光秀は将軍様の側近筆頭だそうね」
帰蝶が言うと光秀はうなずき、白い歯を見せて微笑んだ。
「義昭様はまだ正式には将軍ではないのだが・・・間もなく俺たちの手でそうなるだろう」
前回会ったのは、一年前。美濃の稲葉一鉄を尋ねた時だ。
あの頃越前で浪人生活を送っていた光秀は従者もつけずに一人奔走していた。それが今や幕臣ともいえる立場になっている。
───これこそが本来の高貴な血を引く光秀の姿だわ
戦で傷だらけになった姿も、剣術修行で筋骨たくましい荒武者然とした姿も、これまで見た光秀の姿はどれも彼らしいものではあった。
けれども、今こうして折烏帽子に直垂姿の正装に身を包み、知性を漂わせたほほえみを浮かべる今の光秀こそが、本来の光秀だと帰蝶は思った。打たれ、鍛えられ、研ぎ澄まされて、あるべき姿にたどりついたのだ。
「将軍様は各地の大名を一つに束ねるために、俺の力が必要だと仰せになった。おれは将軍様についていくぞ」
信長は隠しきれない嬉しさを口元に滲ませて帰蝶に言った。
新しい君主を迎えた信長は、今ここにいぬ将軍を記憶の中に描き、尊いものを見る顔をした。従順でまっすぐな目をした信長を、帰蝶は愛らしく、逞しいと思った。
信長は見晴らし台から降りた光秀と向かい合い、言った。
「武士たちの頂にたつ室町幕府を再興すれば、この乱世を終えることができる」
「将軍様には、国を一つにまとめ、平らかな世にしようとする情熱がある。将軍様の崇高な理想に、信長殿の武力の裏付けが伴えば、天下静謐が実現する」
光秀がうなずく。
「俺たちが、尊い精神をもつ将軍様の矢となり盾となり、お守りせねば」
信長が力強く応えた。
それから二人は、今後のお互いの仕事について話し始めた。
信長は、三好に与して上洛の従軍要請を拒んだ六角承禎討伐のための準備をするという。
「近江は上洛の際の通り道。北近江の浅井長政には妹のお市を嫁がせて同盟関係が結べた。だが南近江の六角氏は、三好三人衆に与して将軍様の上洛の従軍要請を断固拒否し、俺たちに交戦の構えを見せている。俺たちに刃を向けると言うことは、将軍様の命に逆らうと言うことと同義。かつて桶狭間では援軍を出してもらった借りはあるが、将軍様の名のもとに、討伐しなければならない」
信長は言うと、光秀には将軍の御所の手配と、武器の調達を要請した。
「上洛後は当面、本圀寺を将軍様の御所としたい。大切な身であるから、居場所が露見しないよう、秘密裏に手配してほしい。それから、武器の調達のために、堺へ」
信長が言うと、二人でしかと見つめ合い、頷き合った。
光秀は岐阜城内の宿所で一泊することになった。
夜。
御殿二階にある帰蝶の寝所に、信長が訪れた。
「今は目の前にどんな敵が現れても、勝てるような気がしている」
信長は帰蝶を抱き、荒く息を吐きながら言った。
信長の唇が、帰蝶の耳を食み、首筋を辿って肩へと降りる。
まるで一つの大陸を侵略するかのように、じわじわと帰蝶の肌に手や舌を這わせた。
帰蝶は両足を広げ、信長の愛撫に絆された体を明け渡した。
翌朝。
饗宴の間に朝食をそろえ、光秀と三人で顔を合わせた。
「このあとすぐに、堺へ出立する。一泊し、明日には本圀寺に入り、将軍様の滞在のための準備に入る」
光秀は言うと立ち上がった。
「待って」
帰蝶は思わず光秀に声をかけた。光秀が目で尋ねる。
「あの・・・私も堺に行ってみたいのだけど」
言ってから、帰蝶はハッとして言葉を呑み込んだ。もうすこし、光秀と一緒にいたい。そんなわがままな気持ちが口をついて出てしまったのだ。
すると信長は笑った。
「帰蝶は、どこへでもしゃしゃりでたがるな。でも光秀の仕事の邪魔はするな」
「そうよね」
帰蝶はくすっと笑って肩をすくめた。
「邪魔しないなら、行っていいぞ。お前にもここしばらく戦続きで苦労を掛けた。慰労もかねて遊びに行くといい。光秀が護衛についてくれていれば、俺も安心だからな」
一度立ち上がった光秀は再び帰蝶の前にひざまずいて微笑んだ。
「ではご案内しましょう」
堺の町は、摂津と和泉の国境にありながら、それらの国々の支配権から独立した特別な商業地域だ。
ここに集まる人々には身分の差はない。海外からやってきた美しい品々や珍しい動物、新鮮な魚や見たこともないものたちであふれている。耳にも笛や太鼓、聞きなれない弦楽器の響きがにぎやかで、歩いているだけで帰蝶は浮足立った。
そうでなくても隣には光秀がいるのだ。はしゃがずにはいられない。
南蛮から来た透き通る器、怪しげな赤い色の酒、人真似をする真っ白の巨大な鳥。帰蝶はこれまで目にした事のない不思議に美しい品々を見て、驚嘆の声を上げた。
そんな帰蝶を、光秀は静かにほほ笑んで見守っている。
「あれは」
帰蝶はある店先で立ち止まった。三本足の蛙の香炉がそこにある。
「信長が以前京と堺に出向いたときに、お土産に持ち帰ったものだわ」
「可愛らしい蛙だな」
光秀はちょこんとすわった小さな香炉を見下ろして微笑んだ。
「そう。あのとき信長は京から私に向けて文を送ってきたのよ。あなたが書いた文をね」
帰蝶は言って、光秀の胸を指で突いた。
「なんのことかな」
光秀は眉根をひそめてとぼけている。
「白状しなさいよ。京で信長と会って、二人で私を騙そうと企んだことを」
帰蝶が言うと、光秀はじっと帰蝶を見た。
「俺は騙そうとなんて思ってない。あれは俺の本心を書いただけだ」
帰蝶は文面を思い出し、頬が熱くなった。
「俺は今も同じ気持ちだ・・・『どこにいても、誰といようとも、誰かが俺たちのことをせめようとも、俺の体が滅びようとも、俺はあなたを想っている』・・・」
堺の町の喧騒が、帰蝶の耳から消えた。光秀の声だけが、まっすぐに胸まで響いた。胸まで響いたその声が、帰蝶の心臓をわしづかみにして締め付けた。
「一緒に堺に来ると言ってくれて、俺がどんなに嬉しかったか、わかるか?」
人波に紛れて光秀が帰蝶の指に指を絡めた。
見つめ合った瞬間、誰かが光秀の腕に飛びついてきた。帰蝶はハッと身構えた。
身丈の長い派手な色の小袖を着流した、遊女だ。
「旦那さん、遊んでいかない」
しなを作って腕に絡みつき、猫のような甘い声で女は言った。追い払おうとしてよく見れば、それはそばかすと細眉を描いて変装した菫だった。
菫は帰蝶に目配せし、二人の耳元に顔を寄せると囁いた。
「堺におられる、今井宗久殿。彼が三好三人衆に武器を提供しています」
それだけ言うと、菫は光秀の腕を突き放し、
「なんだ、つれないなぁ」
とぼやいてふらふらと離れ、人ごみに紛れてしまった。
そのあと二人は今井宗久を訪ねて歩き、その商家にたどり着いた。
慌ただしく荷を運ぶ少年が、ふと立ち止まって帰蝶と光秀に目をとめた。
二人が頭を下げると、少年は近づいてきた。
「今井様にお会いしたいのか?約束は」
ない、と光秀が答えると
「何の知らせもなく来られても、会えるわけがないよ。今井さまはお忙しいんだ。俺が代わりに用件を聞くよ。俺は納屋助左衛門だ。今井の納屋番だ」
帰蝶は光秀が口を開きかけたのをとめて、一歩前に進み出た。今井宗久以外の誰かに武器の調達と知られるのは危険だった。
「紅が、欲しいの。明日の朝にはここを発つから、早く欲しいの」
助左衛門は、なるほど、といったふうにうなずきながら値踏みするように帰蝶を見た。
「やはり、どこぞの姫様か。紅といったら黄金並みの対価が必要だが」
「承知の上よ」
帰蝶は金子(きんす)をしまった胸元に手を当て、対価を支払う準備があることを示した。
助左衛門は今井宗久に話を通す対価として十文を要求した。
「さすが商人の町だ」
光秀は金子を手渡し苦笑した。
ほどなくして、助左衛門の案内で今井宗久の茶室へと案内された。
宗久は茶のしつらえを整えて二人を迎え入れた。
「織田信長殿の奥方、帰蝶さまと、その従兄の明智十兵衛光秀殿。明智殿のうわさはあちこちで耳にしています。帰蝶さまの美しさについても、評判は堺まで届いております。直々においでいただけるとは」
宗久は茶をたてながら二人に尋ねた。
「茶会にはよくお出になられますか」
帰蝶は微笑んでうなずいた。
光秀が口を開く。
「美濃の国主であった斎藤道三様に付き従っていた頃、道三様は不住庵梅雪殿を美濃へ招き、茶会を開かれていました。私はそこで茶の湯を学びました。道三様から、これからの武士は文化に精通していなければならない、と教えられました」
帰蝶は久しぶりの茶の席で少しばかり緊張していたが、今井宗久の優美な所作と茶室に漂う歓待の温かな空気で、体が緩むのを感じた。乾いたのどに、茶が驚くほどに美味だった。
「さて、今日、欲しいのは、果たして本当に紅でしょうか」
宗久は光秀を鋭い目つきで見た。光秀は微笑んだ。
「お見通しでいらっしゃいますね。包み隠さず申します。私は織田信長の遣いでここに来ました。どうか三好三人衆への武器の提供をやめ、織田の軍勢に武器の提供をお願いしたいのです」
「なるほど・・・してこれは、商談と思ってよいのですね」
光秀はうなずいた。
「織田勢に協力いただけるのでしたら、何十倍、何百倍にしてお返しします。信長殿の尾張には熱田の湊があり、それにより栄えた国です。実際いまも、瀬戸の焼物の売買を促して利を得て、戦の資金を集めている。商いが国を豊かにすることを身にしみて感じているお方です。これから国を豊かにするのは、戦ではなく、商業である、それをよくわかっている。そんな若い信長に、財を投じてみていただきたいのです。その見返りは必ずや、今井さまに受けていただけると私が保証します」
宗久は光秀を見つめ、なにやら嬉しそうにほほ笑みを噛み締めている。
いい獲物を見つけた、とでも言いたげな表情だ。
「実は私の方でも、これ以上三好三人衆に加担するのもどうかと思っていたところです。何しろ彼らが擁立した義栄様・・・義昭様のいとこですが・・・が病に伏して上洛できずにいる。これによって三好勢の求心力が失われた。
そこに織田軍が上洛するや、とたんに彼らは散り散りになってしまった。
光秀さまのお申し出、渡りに船とはこのことだ。いかほどの武器が必要か、おっしゃっていただければ用意しましょう」
光秀は、呆けた顔になった。光秀はすんなりと宗久が応じたものだから、拍子抜けしたのだった。
「光秀殿、どうされましたか」
「いや、宗久様からこんなに快くお受けいただけるとは・・・」
「私には、そのものに価値があるかを見極められる目があります。茶器だけではない。人もそうです。この方には、協力する価値がある・・・あなたを、そう見定めたまでのこと」
それから光秀と宗久は、軍事物資の運送などの細かな話し合いを始めた。
「鉄砲に火薬など、一万の兵にあてがいたい。半分は近江佐和山城、半分は本圀寺に・・・」
帰蝶はひと足先に茶室を出、助左衛門とともに庭を歩いた。
歩きながら帰蝶は、助左衛門の将来の夢の話に耳を傾けた。
「おれは、稼いだ金で大きな船を買って外国へ行き、日ノ本の人々が喜びそうな品々を買い付け、売り、さらに稼ぐ。そうやって世界一の商人になりたいんだ」
助左衛門は目を輝かせて語った。
ただの強欲な男ではない。ポルトガル語を体得し、船の操縦も心得ている。夢に向かってたゆまぬ努力を続けているのだ。
助左衛門の話に感心していると、光秀が戻ってきた。
翌日の本圀寺への出立に備え、堺の宿場の中で最も豪奢な旅籠に入った。帰蝶に用意された部屋は、南蛮の家具や調度品がしつらえられ、寝台が置かれていた。
「姫、いいか」
しばらくすると別室の光秀が訪ねて来た。
渡したいものが、と言って、手の上にのせた小さな香合を差し出した。美しい文様が描かれたふた付きの小さな器だ。
「今井さまのところで、これを。ふたを開けてごらん」
指先で蓋を摘まみそっと持ち上げるが、何も入っていない。
「空っぽね」
すると光秀は微笑んだ。
「そう見えるだろう?でもこの器の内側の、玉虫色の塗りに触れてごらん、薬指で」
言われるままに薬指の先で玉虫色の表面に触れると、指先に移った色が、瞬く間に輝きを失い、鮮やかな紅色に変化した。
「これが、紅」
光秀がうなずいた。
「笹紅と言って、紅の中でも色素の純度が高いものだそうだ」
「聞いたことがあるわ。とても貴重なものだって」
言いながら帰蝶は指先をほんのり染め上げた美しい紅色をうっとり眺めた。
「姫にはぴったりの代物だ。あげるよ。今日の記念に」
光秀は言って、おやすみ、と戸を閉めようとした。
「待って」
帰蝶は光秀を部屋に招き入れ、鏡台に向かって座ると紅を掬った薬指を唇に滑らせた。
「紅は、人によって違う色合いになるそうよ。私の肌の上ではどんな色になるかしら・・・どう?」
光秀の方を振り向けば、光秀は息を呑んで帰蝶に目をとめたまま、しばしのあいだ体を固くした。
「おかしい?」
帰蝶が首をかしげると、光秀は帰蝶の腕を引いて抱き寄せた。
「姫、これは誰にも見せるな。絶対だ」
また改めて顔を見つめ、荒々しく唇を重ねた。
そうして体をもつれあわせ、寝台に身を投げた。
玉の汗を額に滑らせる光秀の唇の端に、紅がひとすじ刷かれている。
帰蝶との接吻で、こすりつけられた笹紅だ。
艶然と微笑む光秀の顔を見上げ、その頬に描かれた紅のすじ道を、指でなぞる。
この光秀の肌を、すみずみまで真っ赤に染め上げてしまいたいと帰蝶は思った。
光秀は恍惚の中にも焦燥をにじませた表情で囁いた。
「誰にも渡したくない」
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