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第四章 本能寺編「悪魔の祈り」
第一話② 上洛 後編
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一五六八年(永禄十一年)九月。
近江・蓑作城の六角承禎を討った信長軍は、九月、上洛に成功した。
京を席巻していた三好三人衆は、今井宗久からの軍事支援を断たれたこともあり、信長の大軍を前になすすべもなく三日で敗走した。こうして三好の勢力が畿内から駆逐されると、時を同じくして彼らが擁立していた足利義栄が病死した。
その後、信長と光秀らが支える足利義昭が、第十五代将軍となり、畿内は平定された。
「摂津の芥川城に、次々と各国大名から、美術品、絵画、名物とよばれる由緒ある茶道具などが貢物として届けられている」
信長は鎧の装備を解きながら帰蝶に意気揚々と話した。
芥川城は上洛直後に、三好氏が明け渡した城で、京に幕府を再興する足掛かりの拠点だ。
「やはり将軍様のご威光というものはすごい。俺が大声を出したところであつまるのはせいぜい家々で余った三男坊四男坊のごろつきくらいのものだ」
「そういう方たちがいままさに、信長を支えてくれてここまで来たんじゃないの」
帰蝶が言うと信長がうなずいた。
「ああ。だから俺にとっての宝は家臣だ・・・そうだ、戦功の褒美に、領地ばかりでなくああした名物を家臣に譲るのもいいな」
信長は上機嫌だった。
「信長、おめでとう」
帰蝶が言うと、信長は背中から帰蝶を抱きしめ、肩に顎をのせた。
「帰蝶のその言葉を聞きたくて俺は帰ってきた。光秀からも、帰蝶のもとにもどって少し休んだ方がいいと言われたのもあってな」
光秀の、本心とは裏腹であろう心遣いが、嬉しくもあり胸が痛む思いもした。
今頃どんな思いで、本圀寺にひそむ将軍様をお守りしているのだろう。
「光秀だって、妻子の元に戻りたいはずだけどな」
信長のつぶやきに、帰蝶は振り返り信長を見た。
「今、なんて」
「光秀だって妻子のもとに帰りたいだろう、と」
信長は帰蝶に何が起きたのかもわからずにきょとんとしている。
───光秀には妻子がいた
帰蝶は愕然とした。信長に動揺を悟られないように向き直り、信長の手のひらに手を重ねた。
その夜。
帰蝶の隣で、信長が珍しく、深い眠りを貪って寝息を立てている。
夢の中に落ちてしまえば、信長の寝顔は純粋無垢で、初めて閨を共にした日と変わらないあどけなさを今も残している。
帰蝶はその寝顔をじっと見下ろしながら、光秀のことを考えていた。
───どうして妻と子がいること、自分から話してくれなかったの
帰蝶は櫛台から香合を取り出した。指先に紅を取り、じっと見つめた。
誰にも渡したくない、光秀はそう囁いた。
それなのにあの男には、すでに妻子がいたのだ。
───光秀をこれ以上信じてはいけない
悔しさと怒りのせいだろうか。指先を染める紅の色が、燃えるように濃い。
香合を床に投げつけようとしたが、できなかった。
光秀への思いをそうするように、香合をそっと櫛台の引き出しの奥にしまい込んだ。
一五六九年(永禄十二年) 正月四日。
夜の本圀寺。
真っ黒い空からちらちら舞い降りる雪が、松明の火の上で溶けて消える。
境内に建つ櫓に上った木下藤吉郎が、遠方から押し寄せてくる三好三人衆の幟の群れに気付いた。
返り咲きを目論んで再び京に攻め入った三好の軍勢だ。
藤吉郎は光秀を呼んだ。
「兄者、やつらがついに来たぞ。雪を見計らって来やがった。とんだ新年のあいさつだ」
本圀寺の境内を囲う塀を、更に土塀で囲う作業を終えたのは大みそかのことだった。土塀には無数の狭間を用意し、鉄砲の筒を突き出して外敵を襲撃できるようにしてあった。櫓も境内の六か所に構え、いまや寺というよりも要塞に近いたたずまいに姿を変えている。
材料の調達から運搬も含め、作事にかかった日数はたったの十日。かつて墨俣砦をひと晩で改修した藤吉郎の経験がものを言った。
光秀は将軍義昭を本堂のご本尊裏に避難させ、側近たちに護衛を任せると、陣を整えて藤吉郎のいる櫓に上がった。
藤吉郎は鉄砲に弾を込め、戦の前の昂ぶりに顔をにやつかせて言った。
「飛んで火にいる冬の虫とはこのことだ」
「それを言うなら夏だ」
光秀はあきれて答えつつ、冷静な顔つきで弓に矢をつがえて構えた。
「光秀の兄者はうるせえな、わかってるよ。俺は三好の虫どもをせん滅してやるんだ。今夜挙げる首級は八百だ」
「人を殺めるのが大嫌いなくせによく言うな」
塀の内側では五百の鉄砲隊が三好の軍勢を待ち構えている。
三好にしてみれば奇襲攻撃のはずが、本圀寺はいつのまにか鉄壁の防御がなされ、どこを突いても境内への突破口が見つからない。
周囲を走り惑ううちに、塀を飛び越えて降ってくる無数の矢を浴びて、つぎつぎと馬もろともに転がった。
敵勢を十分に引き付けたところで、藤吉郎が唸った。
「今だ、撃て!」
鉄砲放ちは着火と構えを連携し、立て続けに狭間から発砲した。火薬は十分にあった。何しろあの堺の今井宗久がこの寺に、有り余るほどの武器を供与している。
それでも押し寄せる三好軍は、苦心の末に寺の門を突破した。だが迎撃する織田軍は強い。
刀を抜いて激しい切り合いが始まった。光秀と藤吉郎も櫓から降りて体当たりに及んだ。
「くそ、敵は一万はいるぜ兄者」
藤吉郎は刀を振るいながら叫んだ。
「だから俺はもっと人を厚くと言ったんだ!」
光秀が応戦しながら敵を数人切り捨てた。
「織田方がここにわらわらいたら意味がねえだろ」
「いいから今は、だまって討て」
光秀は、藤吉郎が一人と討ち合う間にも、向かい来る敵を四五人切り倒すが追いつかない。このままでは義昭将軍の潜む本堂まで三好が深く入り込んでくるのも時間の問題だ。
「奥まで入れるな、押しきれ」
光秀の号令に合わせて手勢の軍が三好を押しにかかった。
そのとき、馬蹄の響きが耳に届いた。援軍が駆け付けたのだ。
「よし。漸くの援軍だ。ここからは挟み討ちだ」
光秀の顔に、余裕の笑みが戻った。
背後から突かれた三好軍はそこから一気に勢いを失った。
わずかになった三好の軍は将軍義昭の襲撃を諦めて退散していった。
一五六九年春。
信長軍が本圀寺で三好三人衆を撃退した数か月後。
帰蝶は岐阜城の自室から、外庭に咲いた満開の桜を見ていた。
廊下から足音が近づいてくる。大股の素早い脚運びから、すぐに信長と分かった。
「信長」
帰蝶は廊下に飛び出して駆け寄った。
信長は正月早々、数名の馬周り衆だけを引き連れて、雪の中を本圀寺に向かって飛び出して行った。あのころ雪で白く染まっていた稲葉山はもう、桜色にけぶって輝いている。
信長は迎えに出た帰蝶の横を通り過ぎて居室に入るなり、仰向けに寝転んだ。
信長はいらだっている。
「なぜ、将軍様が本圀寺にいるのが漏れた?」
信長がつぶやく。
庭でちらちらと舞う桜の花びらが、信長の瞳に映ってはかなげな光となった。身内の裏切りを疑わざるを得ないことに、人知れず傷ついていることが帰蝶には分かった。
しかし信長の切り替えは早かった。立ち上がって伸びをすると、春の日差しを顔に浴びてすっきりとした表情に変わった。
「堅牢な防御壁のおかげで寺はほとんど無傷だった。将軍様も無事だ。光秀と藤吉郎の籠城戦は見事だった」
帰蝶はホッとして微笑んだ。
「それなら、よかったと思うしかないわね」
それから数日後。
信長は芥川城で評定を開き、光秀、藤吉郎、ほか二名の武将に、京都周辺の政務を任じた。光秀と藤吉郎は、本圀寺での籠城戦の武功を認められ、旧来の家臣を差し置いての異例の出世となった。
光秀にあっては、将軍の側近でありながら信長の家臣としての役割も担うことになった。
それだけの実力を信長が認めたということだった。
さらにその年の夏、信長は、足利義輝将軍が居住していた跡地に、将軍義昭のために、御座所「二条城」を完成させた。
堀は二重に築かれ、三重の天主がそびえる、厳重な警護を張り巡らした城だ。
───将軍様をお守りするために、堅牢な城を早急に建てなくては
本圀寺襲撃を経て、将軍義昭を保護するための強固な居城が早急に必要だと考えた信長は、七十日でこの二条城を完成させてしまった。建設中は信長自身も建設現場で働いた。
帰蝶は信長に呼ばれ、完成したばかりの二条城を見に訪れた。
城内では、摂津の芥川城にあった各大名からの献上品が運び込まれている最中だった。
運搬を取り仕切っているのは木下藤吉郎。
信長は帰蝶を藤吉郎と引き合わせた。
「藤吉郎の動きは、周到で無駄がない」
「お館様にそう褒められると、あっちこっちがむずむずするぜ。勘弁してくれ。褒美は京都奉行の任で十分だ。もと百姓の俺が帝のおわす都の要職をおおせつかったってだけで、ひっくりかえりそうなんだ。もうこれ以上俺を調子づかせないでくれよ、お館様」
褒められた藤吉郎がはしゃいで見せると、すかさず信長は言葉をつづけた。
「・・・が、無駄口だけはどうにもならない」
そのあと帰蝶は、将軍義昭の政務室として用意された大広間を尋ねた。
次々と運び込まれる調度品やふすまと言った建具の配置に采配を振るう光秀が、帰蝶に気づいて微笑んだ。
「光秀、無事でよかった。本圀寺はずいぶん堅牢に守られていたと聞いてはいたけど」
「あの藤吉郎の差配さ。この二条城が七十日で出来上がったのも、あの男の力が大きいよ。本圀寺の塀は十日でできた。必要とあらばとんでもない俊敏さを発揮する」
「必要とあらば・・・」
帰蝶は先ほどの信長の言葉を思い出した。
───藤吉郎は、無駄のない男。
無駄と分かれば、本圀寺にそこまで強固は守りを築いたりはしなかったはず・・・。
───もしかして、藤吉郎は三好三人衆の襲撃を事前に把握していた?
「光秀、もしかして、三好勢が本圀寺を襲ってくることがわかっていたの? 信長は将軍の居場所を内密にしていたはずだけど・・・」
問いかけた帰蝶の目元は、わずかにひきつっていた。
光秀はまっすぐに帰蝶を見つめ返してくるだけで、肯定も否定もない。
堺で、光秀と宗久の間で交わされた会話を思い出す。
───あの時光秀は、今井宗久からの武器をどこへ送り届けて欲しいと言った・・・?半分は同盟国の近江、のこりは・・・
『鉄砲に火薬など、一万の兵にあてがいたい。半分は近江佐和山城、半分は本圀寺に・・・』
そうだ、確かにあの時宗久に、本圀寺、と言った。
それとなく光秀は、堺の今井宗久に将軍の潜伏先を漏らしていたのだ。
そして、本圀寺への武器の運搬を担ったのはあの生粋の商人、助左衛門。
彼なら取引と称して、知りえた情報などやすやすと売るだろう。
さらに堺の町は、もともと三好との関係が深い。
光秀は堺に敷かれた情報網を、逆手にとって利用したのだ。
信長を岐阜へ戻らせて京を無防備な状態にしたのは、三好をおびき寄せるためだったのだろう。
帰蝶のもとにもどって少し休んだ方がいい・・・などと体のいいことを言いながら、本当の目的はこれだったのだ。
本圀寺で武功を上げるために、光秀と藤吉郎が仕掛けた罠だったのだ。
「光秀、異例の出世、本当におめでたいことね」
「ありがとう」
光秀は帰蝶の言葉を皮肉とわかりながら、美しい顔に爽やかな笑みを浮かべた。
───光秀、あなたは何を考えているの
光秀の微笑みが、空恐ろしく帰蝶の目に映った。
「帰蝶、どうだ。何か気に入ったものはあるか。どれかひとつ、帰蝶のものにするといい」
信長がやってきて帰蝶の背後から声をかけ、ずらりと並ぶ焼き物や装飾品を指し示した。
「信長・・・」
体の芯が震えた。得も言われぬ不安が帰蝶を襲っていた。
「どうした」
信長が帰蝶の顔を覗き込む。曇り一つ無い信長の瞳だけが、美しく見えた。
───絶対にどこへも行かないで。信長以外に信じられる人はいない
「私、なにもいらない」
帰蝶は言って、信長の袖をぎゅっとつかんだ。
近江・蓑作城の六角承禎を討った信長軍は、九月、上洛に成功した。
京を席巻していた三好三人衆は、今井宗久からの軍事支援を断たれたこともあり、信長の大軍を前になすすべもなく三日で敗走した。こうして三好の勢力が畿内から駆逐されると、時を同じくして彼らが擁立していた足利義栄が病死した。
その後、信長と光秀らが支える足利義昭が、第十五代将軍となり、畿内は平定された。
「摂津の芥川城に、次々と各国大名から、美術品、絵画、名物とよばれる由緒ある茶道具などが貢物として届けられている」
信長は鎧の装備を解きながら帰蝶に意気揚々と話した。
芥川城は上洛直後に、三好氏が明け渡した城で、京に幕府を再興する足掛かりの拠点だ。
「やはり将軍様のご威光というものはすごい。俺が大声を出したところであつまるのはせいぜい家々で余った三男坊四男坊のごろつきくらいのものだ」
「そういう方たちがいままさに、信長を支えてくれてここまで来たんじゃないの」
帰蝶が言うと信長がうなずいた。
「ああ。だから俺にとっての宝は家臣だ・・・そうだ、戦功の褒美に、領地ばかりでなくああした名物を家臣に譲るのもいいな」
信長は上機嫌だった。
「信長、おめでとう」
帰蝶が言うと、信長は背中から帰蝶を抱きしめ、肩に顎をのせた。
「帰蝶のその言葉を聞きたくて俺は帰ってきた。光秀からも、帰蝶のもとにもどって少し休んだ方がいいと言われたのもあってな」
光秀の、本心とは裏腹であろう心遣いが、嬉しくもあり胸が痛む思いもした。
今頃どんな思いで、本圀寺にひそむ将軍様をお守りしているのだろう。
「光秀だって、妻子の元に戻りたいはずだけどな」
信長のつぶやきに、帰蝶は振り返り信長を見た。
「今、なんて」
「光秀だって妻子のもとに帰りたいだろう、と」
信長は帰蝶に何が起きたのかもわからずにきょとんとしている。
───光秀には妻子がいた
帰蝶は愕然とした。信長に動揺を悟られないように向き直り、信長の手のひらに手を重ねた。
その夜。
帰蝶の隣で、信長が珍しく、深い眠りを貪って寝息を立てている。
夢の中に落ちてしまえば、信長の寝顔は純粋無垢で、初めて閨を共にした日と変わらないあどけなさを今も残している。
帰蝶はその寝顔をじっと見下ろしながら、光秀のことを考えていた。
───どうして妻と子がいること、自分から話してくれなかったの
帰蝶は櫛台から香合を取り出した。指先に紅を取り、じっと見つめた。
誰にも渡したくない、光秀はそう囁いた。
それなのにあの男には、すでに妻子がいたのだ。
───光秀をこれ以上信じてはいけない
悔しさと怒りのせいだろうか。指先を染める紅の色が、燃えるように濃い。
香合を床に投げつけようとしたが、できなかった。
光秀への思いをそうするように、香合をそっと櫛台の引き出しの奥にしまい込んだ。
一五六九年(永禄十二年) 正月四日。
夜の本圀寺。
真っ黒い空からちらちら舞い降りる雪が、松明の火の上で溶けて消える。
境内に建つ櫓に上った木下藤吉郎が、遠方から押し寄せてくる三好三人衆の幟の群れに気付いた。
返り咲きを目論んで再び京に攻め入った三好の軍勢だ。
藤吉郎は光秀を呼んだ。
「兄者、やつらがついに来たぞ。雪を見計らって来やがった。とんだ新年のあいさつだ」
本圀寺の境内を囲う塀を、更に土塀で囲う作業を終えたのは大みそかのことだった。土塀には無数の狭間を用意し、鉄砲の筒を突き出して外敵を襲撃できるようにしてあった。櫓も境内の六か所に構え、いまや寺というよりも要塞に近いたたずまいに姿を変えている。
材料の調達から運搬も含め、作事にかかった日数はたったの十日。かつて墨俣砦をひと晩で改修した藤吉郎の経験がものを言った。
光秀は将軍義昭を本堂のご本尊裏に避難させ、側近たちに護衛を任せると、陣を整えて藤吉郎のいる櫓に上がった。
藤吉郎は鉄砲に弾を込め、戦の前の昂ぶりに顔をにやつかせて言った。
「飛んで火にいる冬の虫とはこのことだ」
「それを言うなら夏だ」
光秀はあきれて答えつつ、冷静な顔つきで弓に矢をつがえて構えた。
「光秀の兄者はうるせえな、わかってるよ。俺は三好の虫どもをせん滅してやるんだ。今夜挙げる首級は八百だ」
「人を殺めるのが大嫌いなくせによく言うな」
塀の内側では五百の鉄砲隊が三好の軍勢を待ち構えている。
三好にしてみれば奇襲攻撃のはずが、本圀寺はいつのまにか鉄壁の防御がなされ、どこを突いても境内への突破口が見つからない。
周囲を走り惑ううちに、塀を飛び越えて降ってくる無数の矢を浴びて、つぎつぎと馬もろともに転がった。
敵勢を十分に引き付けたところで、藤吉郎が唸った。
「今だ、撃て!」
鉄砲放ちは着火と構えを連携し、立て続けに狭間から発砲した。火薬は十分にあった。何しろあの堺の今井宗久がこの寺に、有り余るほどの武器を供与している。
それでも押し寄せる三好軍は、苦心の末に寺の門を突破した。だが迎撃する織田軍は強い。
刀を抜いて激しい切り合いが始まった。光秀と藤吉郎も櫓から降りて体当たりに及んだ。
「くそ、敵は一万はいるぜ兄者」
藤吉郎は刀を振るいながら叫んだ。
「だから俺はもっと人を厚くと言ったんだ!」
光秀が応戦しながら敵を数人切り捨てた。
「織田方がここにわらわらいたら意味がねえだろ」
「いいから今は、だまって討て」
光秀は、藤吉郎が一人と討ち合う間にも、向かい来る敵を四五人切り倒すが追いつかない。このままでは義昭将軍の潜む本堂まで三好が深く入り込んでくるのも時間の問題だ。
「奥まで入れるな、押しきれ」
光秀の号令に合わせて手勢の軍が三好を押しにかかった。
そのとき、馬蹄の響きが耳に届いた。援軍が駆け付けたのだ。
「よし。漸くの援軍だ。ここからは挟み討ちだ」
光秀の顔に、余裕の笑みが戻った。
背後から突かれた三好軍はそこから一気に勢いを失った。
わずかになった三好の軍は将軍義昭の襲撃を諦めて退散していった。
一五六九年春。
信長軍が本圀寺で三好三人衆を撃退した数か月後。
帰蝶は岐阜城の自室から、外庭に咲いた満開の桜を見ていた。
廊下から足音が近づいてくる。大股の素早い脚運びから、すぐに信長と分かった。
「信長」
帰蝶は廊下に飛び出して駆け寄った。
信長は正月早々、数名の馬周り衆だけを引き連れて、雪の中を本圀寺に向かって飛び出して行った。あのころ雪で白く染まっていた稲葉山はもう、桜色にけぶって輝いている。
信長は迎えに出た帰蝶の横を通り過ぎて居室に入るなり、仰向けに寝転んだ。
信長はいらだっている。
「なぜ、将軍様が本圀寺にいるのが漏れた?」
信長がつぶやく。
庭でちらちらと舞う桜の花びらが、信長の瞳に映ってはかなげな光となった。身内の裏切りを疑わざるを得ないことに、人知れず傷ついていることが帰蝶には分かった。
しかし信長の切り替えは早かった。立ち上がって伸びをすると、春の日差しを顔に浴びてすっきりとした表情に変わった。
「堅牢な防御壁のおかげで寺はほとんど無傷だった。将軍様も無事だ。光秀と藤吉郎の籠城戦は見事だった」
帰蝶はホッとして微笑んだ。
「それなら、よかったと思うしかないわね」
それから数日後。
信長は芥川城で評定を開き、光秀、藤吉郎、ほか二名の武将に、京都周辺の政務を任じた。光秀と藤吉郎は、本圀寺での籠城戦の武功を認められ、旧来の家臣を差し置いての異例の出世となった。
光秀にあっては、将軍の側近でありながら信長の家臣としての役割も担うことになった。
それだけの実力を信長が認めたということだった。
さらにその年の夏、信長は、足利義輝将軍が居住していた跡地に、将軍義昭のために、御座所「二条城」を完成させた。
堀は二重に築かれ、三重の天主がそびえる、厳重な警護を張り巡らした城だ。
───将軍様をお守りするために、堅牢な城を早急に建てなくては
本圀寺襲撃を経て、将軍義昭を保護するための強固な居城が早急に必要だと考えた信長は、七十日でこの二条城を完成させてしまった。建設中は信長自身も建設現場で働いた。
帰蝶は信長に呼ばれ、完成したばかりの二条城を見に訪れた。
城内では、摂津の芥川城にあった各大名からの献上品が運び込まれている最中だった。
運搬を取り仕切っているのは木下藤吉郎。
信長は帰蝶を藤吉郎と引き合わせた。
「藤吉郎の動きは、周到で無駄がない」
「お館様にそう褒められると、あっちこっちがむずむずするぜ。勘弁してくれ。褒美は京都奉行の任で十分だ。もと百姓の俺が帝のおわす都の要職をおおせつかったってだけで、ひっくりかえりそうなんだ。もうこれ以上俺を調子づかせないでくれよ、お館様」
褒められた藤吉郎がはしゃいで見せると、すかさず信長は言葉をつづけた。
「・・・が、無駄口だけはどうにもならない」
そのあと帰蝶は、将軍義昭の政務室として用意された大広間を尋ねた。
次々と運び込まれる調度品やふすまと言った建具の配置に采配を振るう光秀が、帰蝶に気づいて微笑んだ。
「光秀、無事でよかった。本圀寺はずいぶん堅牢に守られていたと聞いてはいたけど」
「あの藤吉郎の差配さ。この二条城が七十日で出来上がったのも、あの男の力が大きいよ。本圀寺の塀は十日でできた。必要とあらばとんでもない俊敏さを発揮する」
「必要とあらば・・・」
帰蝶は先ほどの信長の言葉を思い出した。
───藤吉郎は、無駄のない男。
無駄と分かれば、本圀寺にそこまで強固は守りを築いたりはしなかったはず・・・。
───もしかして、藤吉郎は三好三人衆の襲撃を事前に把握していた?
「光秀、もしかして、三好勢が本圀寺を襲ってくることがわかっていたの? 信長は将軍の居場所を内密にしていたはずだけど・・・」
問いかけた帰蝶の目元は、わずかにひきつっていた。
光秀はまっすぐに帰蝶を見つめ返してくるだけで、肯定も否定もない。
堺で、光秀と宗久の間で交わされた会話を思い出す。
───あの時光秀は、今井宗久からの武器をどこへ送り届けて欲しいと言った・・・?半分は同盟国の近江、のこりは・・・
『鉄砲に火薬など、一万の兵にあてがいたい。半分は近江佐和山城、半分は本圀寺に・・・』
そうだ、確かにあの時宗久に、本圀寺、と言った。
それとなく光秀は、堺の今井宗久に将軍の潜伏先を漏らしていたのだ。
そして、本圀寺への武器の運搬を担ったのはあの生粋の商人、助左衛門。
彼なら取引と称して、知りえた情報などやすやすと売るだろう。
さらに堺の町は、もともと三好との関係が深い。
光秀は堺に敷かれた情報網を、逆手にとって利用したのだ。
信長を岐阜へ戻らせて京を無防備な状態にしたのは、三好をおびき寄せるためだったのだろう。
帰蝶のもとにもどって少し休んだ方がいい・・・などと体のいいことを言いながら、本当の目的はこれだったのだ。
本圀寺で武功を上げるために、光秀と藤吉郎が仕掛けた罠だったのだ。
「光秀、異例の出世、本当におめでたいことね」
「ありがとう」
光秀は帰蝶の言葉を皮肉とわかりながら、美しい顔に爽やかな笑みを浮かべた。
───光秀、あなたは何を考えているの
光秀の微笑みが、空恐ろしく帰蝶の目に映った。
「帰蝶、どうだ。何か気に入ったものはあるか。どれかひとつ、帰蝶のものにするといい」
信長がやってきて帰蝶の背後から声をかけ、ずらりと並ぶ焼き物や装飾品を指し示した。
「信長・・・」
体の芯が震えた。得も言われぬ不安が帰蝶を襲っていた。
「どうした」
信長が帰蝶の顔を覗き込む。曇り一つ無い信長の瞳だけが、美しく見えた。
───絶対にどこへも行かないで。信長以外に信じられる人はいない
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