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001 女流画家ジリアンの失恋
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ハイドランジア王都オルテンセは王族の住まう宮殿兼政治と軍事の中枢を担うハイドランジア城を中心に、四つの区画に分けられている。
公爵、侯爵などの高位貴族のタウンハウスと、ハイドランジア正教会の総本山と聖騎士隊の駐屯地のある第一区画。
伯爵以下の中流の宮廷貴族の邸と地方貴族のタウンハウスがある第二区画。
魔法街と名のある商人たちの店が連なる最も活気のある商業区画である第三区画。
自由民が暮らす住宅街で一部スラム化も問題視されているが、のどかな田園風景が広がる第四区画だ。
その第三区画の商業区画にとある女流画家の絵画教室がある。
新進気鋭と言われている女流画家ジリアン・ゴールドバーグ。肖像画と風景画、抽象画、宗教画など様々なジャンルの絵を女性ならではの繊細なイメージで独創的な油彩画を数々生み出している、目の肥えた貴族にも注目をされ始めた新人の画家である。
また見た目も、ブルネットの髪を緩やかにまとめ、ヘイゼルブラウンの瞳のたれ目が穏やかな性格を思わせる、なかなかの美人であった。
子供の頃は画商である父の仕事の関係でハイドランジア国内を転々としていたが、太目の販売ルートを手に入れた父の画商の仕事が落ち着いて、晴れて王都に住むことになって今に至る。
成人してから、趣味で描いていた絵を両親の店の片隅に置かせてもらったところ、とある貴族に好評だったようで、それを期に女流画家としてデビューした。
しかし当然それだけでは大した収入になるわけでもなく、両親に頼んで別邸で絵画教室を開かせてもらっていた。ほとんど物置だった別邸を友人の手を借りて掃除し、そこに移り住んで早三年が経つ。
生徒として中流階級の婦人や、子爵以下くらいの貴族と彼らの子供が嗜みや情操教育の一環として通ってくれているので、それなりに収入は入っているからありがたい。
貴族の子供達は学校のほかに家庭教師やお稽古と、朝から晩まで勉強づくしで子供らしく遊ぶ暇などないらしいが、ジリアンの絵画教室には、ほぼ遊びの感覚で気さくに来てくれる。生意気な子も多いけれど、もともと子供が好きなジリアンには楽しい仕事の一つだった。
ジリアンが画家を目指したのは、画商の父の影響もあるが、父の仕事で別の土地に一時的に住んでいたころに出会ったとある少女たちとの出会いが切っ掛けだった。
父の仕事の都合で比較的長く住んでいた郊外の港町、そこの教会では保育園もあって、よく神学生の少年少女が預けられた子供たちの面倒を見てくれていた。
ジリアンも五歳くらいのころ、両親が仕事で出ている日中はそこに預けられていたのだが、お絵描きが楽しすぎて没頭し、周囲から孤立していた。そんなジリアンに話しかけてよく面倒を見てくれた神学生の年上の少女たちがいた。
その神学生の少女たちは、長い金髪に青い瞳を持ったそれは美しい双子で、ジリアンはまだほんの子供だったので彼女らの本名もろくに覚えていないのだが、うろ覚えで「エリー」「オーシュ」などと舌ったらずに呼んでいた気がする。
『すごい。ジリアンは絵が上手だね』
『画家目指せば? お父さんは画商なんだもんね』
お絵描きが大好きなのは昔からだが、家族以外の人にそう言われたのは初めてだったので、子供心にそれが嬉しくて、今思えばそれが切っ掛けだったと思える。
その後も交流を深めるも、またすぐに父の仕事の都合でその土地を離れなければならなくなり、非常に残念ではあったが、その神学生の少女エリーとオーシュとは会えなくなってしまった。
あれから早十数年。ジリアンも今年で二十三歳になった。
一昔前ならとっくに行き遅れと呼ばれる年齢だが、昨今の女性の社会進出の影響や、あまりに若い年齢での妊娠出産は流産や死産などのリスクがあり、母体にも良くないという学会による医学的発表もあって、ハイドランジア王国の結婚適齢期は上がった。そのため、ジリアンもようやく結婚適齢期である。
あのエリーとオーシュも立派な聖職者になっているだろうか。それとも還俗して結婚をし、幸せな家庭を築いているかもしれない。子供ながらあれほどの美貌を持った二人であったから、きっと素晴らしく美しい女性に成長しているに違いない。
何はともあれ、今の自分をつくるきっかけとなった彼女らには、幸せでいて欲しいと願うばかりのジリアンだった。
ジリアンは画商の父の店を通じて恋人コリン・ベネットと知り合い、話が弾んで友人になったあと、彼に告白をされて交際するようになった。
コリンは老舗のベネット商会の跡取り息子で、やや八方美人的なところはあるけれど、それが高じて人脈作りが上手いので、跡取りとしては期待されている。人好きのする顔も美人だと評判の母親譲りでかなり整っているから女性客にも人気者なのが、ジリアンは少しモヤモヤするのだが。
だが、コリンは決まって「僕には恋人がいるのでごめんなさい」と丁寧に断ってくれているのでそこは心配はしていなかった。
その時までは、である。
その日は恋人コリンの誕生日だったので、ジリアンは贈り物を持って彼の家に向かっていた。
あいにくの雲模様で今にも降りそうな天気だったが、どうしても今日コリンの誕生日を祝ってあげたかったのだ。
最近はジリアンは画家仲間と一緒に行う芸術合同展の準備に忙しかったし、コリンも大店ベネット商会の仕事で忙殺されていたらしいので、なかなか連絡が取れなかった。
それでもカレンダーに印をつけてこの日だけはちゃんと予定を開けて置かねばと、仕事の調整をしていた。
おかげで少し疲れていたけれど、コリンの喜ぶ顔を想像すると嬉しくて疲れも気にならなかった。
ベネット家に到着し、呼び鈴を鳴らすと、いつものようにメイド長が出迎えてくれた。
「……っ、い、いらっしゃいませ、ジリアンお嬢さん」
コリンの恋人として彼に紹介してもらったメイド長はとても気立ての良い女性で、ジリアンにも人当たり良く接してくれていたのに、今日は何故かジリアンを見て困った顔をしている。
そういえば事前に訪れることを手紙にしていなかったことを思いだす。
「あの、アポイント取らずに来てごめんなさい。今日はコリンの誕生日でしょう? どうしてもプレゼントを渡したくて。少しの時間でいいので、コリンに会えますか?」
ジリアンの言葉に、メイド長はおろおろしながら「ええと、そのぅ……」と歯切れ悪く必死で言葉を選んでいるようだ。
しかし、意を決して息を吐くと、しっかりとジリアンに向き合った。
「ジリアンお嬢さん。悪いことは言いません。お帰りになったほうがよろしいです」
「えっ?」
「突然こんなこと言ってごめんなさいね。今、坊ちゃまにお客様がいらしていて……」
「あ、いえ。突然来た私が悪いので……。お客様なら仕方ないですよね。じゃあ、このプレゼントだけでも渡してくれますか? あと、忙しくない日を教えて欲しいって伝えてもらっていいでしょうか?」
「……ジリアンお嬢さん。もうこちらには来ちゃいけません。お嬢さんの悲しい顔を見たくありません」
「……ど、どういうことですか?」
「……」
申し訳なさそうな顔をするメイド長に、ジリアンはどうしていいのかわからなかった。
――来ちゃいけないってどういうこと? コリンとは最近少し会えなかっただけで、特にケンカなんてしてなかったよね?
お互いに忙しかったのは知っているので、コリンがジリアンに対して怒っているわけではないはずなのに、ジリアンの悲しむ顔を見たくないと言うメイド長。彼女はどうしてそんなことを言うのだろうかと、ジリアンは不安になってしまった。
メイド長に詰めよろうとしたジリアンだったが、そこに通りがかったコリンの母親であるベネット夫人が二人を見かけて声をかけてきた。
「メイド長、何をしているの? ……あら、貴女はゴールドバーグ氏のお嬢さんね」
ゴールドバーグ氏のお嬢さん、という他人行儀な呼び方に、ジリアンは違和感を感じた。コリンに紹介されて、彼女はジリアンと気さくに呼んでくれていたはずなのに。
「お、お久しぶりです、ベネット夫人」
呼び名の変化にジリアンが戸惑って、とりあえず挨拶をした。
夫人はジリアンの姿を上から下まで見たあと、一つため息を吐いて衝撃的なことを言った。
「お嬢さん。もうコリンと別れてくださらない? あの子には家柄の良い婚約者ができましたので」
「……えっ? ど、どういう、ことですか……? コリンはそんなこと何も!」
「貴女のその反応を見ると、あの子は貴女にまだ打ち明けていなかったのね。先頃、とある伯爵家のご令嬢にコリンは見初められましたのよ」
「は、伯爵家の……?」
「うちはこのオルテンセでも大店でしょう? 息子の結婚相手にはより家柄の良いご令嬢が望ましいの。貴女もそれなりに有名な画商のお嬢さんで、女流画家と名が売れてきていたからこれまでは息子との交際を許していたけれど、さすがに貴族のご令嬢と比べると……ねえ?」
「ま、待ってください! コリンもその話は納得しているんですか?」
「納得はしていないかもしれませんが、わかってはくれました。あの子もベネット商会の後継ぎという立場がありますからね」
夫人の言葉にジリアンは目の前が真っ暗になった気がした。
確かに夫人の言うとおり、コリンは大店の跡取り息子なので、今後の経営戦略の後ろ盾となる貴族との繋がりは必要不可欠だ。一番良いのはその貴族の女性と結婚し、その女性の実家と縁戚関係になることだった。
しかも、伯爵家といえば王家とも交流のある上位貴族だ。男爵家や子爵家ならともかく、名だたる貴族とも取引のある大店を持つとはいえ平民のベネット家としてみれば、そんな上位貴族の令嬢に一人息子のコリンが見初められたのは名誉以外の何物でもない。
市井の画商の娘で、女流画家として少しだけ名は売れたけれどそれで生活が出来てるわけでもなく、絵画教室講師で細々と暮らしているジリアンと、後ろ盾があって縁戚関係で商会に利益を生むことができるその貴族令嬢。今後のことを考えてコリンが選ぶべき女性はもちろん後者だろう。
――でも、だからと言ってコリンはそんなこと一言も言って無かったのに。
「それに、今そのお嬢さんと応接室で会っていましてよ。なかなか楽しそうでしたし、コリンもまんざらでない様子でしたわ」
「そんな……」
「……納得できないのなら、その目で直接確かめたらいかが?」
「えっ」
そうして中へ促すベネット夫人に、ジリアンは戸惑いながらも家に上がらせてもらい、応接室の前まで案内された。
扉がほんの少し開いていて、中から楽し気に会話する男女の声が聞こえてきた。ベネット夫人にそこから覗いてみなさいと促されて中の様子を確かめると、そこにはコリンともう一人、美しい女性がソファーに並んで座っているのが見えた。
並んで座ると言うにはかなり密着していて、女性はコリンにしなだれかかっているし、コリンもその女性の肩を抱いていて、二人の顔はかなり近い。
そっと彼女がコリンに何か囁いたかと思うと、コリンは彼女のそのバラ色の唇に己の唇を重ねた。
――そんな、コリン……! どうして、その人と……!
ジリアンは思わず息を飲み、ショックで身体が震えた。ガチガチと歯が戦慄いて音を鳴らす口元を両手で押さえたために、それまで持っていた贈り物の包みを取り落としてしまった。
コロン、という音がしたせいで、こちらに気付いたコリンが不機嫌そうに大股に近づいてきてそのドアを開け放った。
「誰だ! ……っ、き、君は、な、何で……」
「……」
怒りをあらわにしていたコリンだったが、ドアの向こうに立っていた涙目のジリアンを見て急に顔色を悪くした。何故彼女がここにいるのか、どうして今なのかと言いたいのに、慌てて言葉が出てこない様子だ。
ジリアンもまたどうしていいのか、何を言っていいのか全く頭に浮かばず、目に涙を溜めてコリンを見つめるしかなかった。
「私が案内したのです。彼女には現実を見てもらわないといけませんから」
ジリアンの後ろに立っていたベネット夫人がコリンにそう告げた。信じられないような顔で母親を見るコリン。
「母さん、な、何でそんなこと……ジ、ジリアン、これは何て言うか……その」
「コリン様? 一体どうなさったの?」
今度はコリンの後ろから先ほどの美しい令嬢がやってきて、コリンの腕に自分の腕をからめながらそう言った。その行為にコリンのほうが驚き焦り始める。
「あ、いや、これは、その」
「あらぁ? もしかしてコリン様が『前に』お付き合いしていらした方かしら?」
――『前に』って……私、まだコリンと別れてなんていないのに……。
「アンドレア様? そうなんですけれど、うちのコリンはこのように心優しいものですから、傷つけたくなくてまだ彼女にアンドレア様のことを伝えていなかったようですの。不快な思いをなされたでしょう、母の私からお詫び申し上げますわ」
ジリアンとコリンが何か言う隙も無く、ベネット夫人とこの令嬢、アンドレア嬢がそう会話を進めている。
アンドレア嬢は申し訳なさそうなそぶりでジリアンに向き直った。
「そうでしたの。初めましてお嬢さん。アンドレア・ドマーゴと申しますわ。ドマーゴ伯爵家の末妹で、このたびご縁がありましてこちらのコリン様と婚約を結ぶことになりましたのよ。ごめんなさいね。残念だけれどそういうことなので、コリン様のことは忘れてくださいまし。私、一緒になる方の『愛人』という存在はどうにも許せない性分なもので……わかってくださる?」
「……っ」
アンドレア城の最後の一言にはジリアンへの忠告とともに、コリンへの「浮気は許さない」という牽制も入っているようだ。コリンも気まずげに視線を逸らしている。
――『愛人』って。私はいつからそういう立場だったの……?
すがるようにコリンを見つめると、彼もジリアンの視線に気づいたようで見つめ返すも、すぐに逸らされてしまった。その瞬間ジリアンはコリンに捨てられたことを悟った。
「あらまあ。挨拶もできないくらいショックでしたの? まあ仕方ございませんわね。今日はもうお帰りになったら? もうこの場にも居づらいでしょうし」
このアンドレア嬢の穏やかだがねっとりと毒を含んだような言い方に腹が立ったが、それ以上に彼女の言葉が正論すぎて、悲しくなってしまった。震えて涙をぬぐいながら、ジリアンは腕を組んで並ぶ二人に深々と頭を下げた。
「ご、ご婚約、おめでとうございます。急に来てごめんなさい。……失礼いたします」
この場で、今の自分の立場で、ジリアンに他に何と言えただろうか。
踵を返したジリアンだったが、すぐにアンドレア嬢から声がかかる。
「ああ、その落とし物、もしかしてコリン様への贈り物だったのかしら? でもねえ……貴女の買えるくらいの安物じゃ、我がドマーゴ伯爵家の縁戚に連なることになるコリン様が恥をかいてしまいますから、申し訳ないけれど持ち帰ってくださらない?」
「……はい」
このプレゼントは一点物で決して安物ではないのだが、ドマーゴ伯爵令嬢を妻に迎えるコリンが元恋人からの贈り物などを身に付けたら、令嬢に対してかなり不誠実だ。意地悪な物言いかもしれないが、彼女の言っていることは正論だった。
ジリアンは、先ほど取り落としたその包みを拾ってから、改めて皆に頭を下げると、ふらふらとした足取りでベネット家を後にした。
ジリアンはもうこれまでのショックで何も考えられなかった。コリン本人からの言葉は何一つ無かったことに気づかないまま――。
公爵、侯爵などの高位貴族のタウンハウスと、ハイドランジア正教会の総本山と聖騎士隊の駐屯地のある第一区画。
伯爵以下の中流の宮廷貴族の邸と地方貴族のタウンハウスがある第二区画。
魔法街と名のある商人たちの店が連なる最も活気のある商業区画である第三区画。
自由民が暮らす住宅街で一部スラム化も問題視されているが、のどかな田園風景が広がる第四区画だ。
その第三区画の商業区画にとある女流画家の絵画教室がある。
新進気鋭と言われている女流画家ジリアン・ゴールドバーグ。肖像画と風景画、抽象画、宗教画など様々なジャンルの絵を女性ならではの繊細なイメージで独創的な油彩画を数々生み出している、目の肥えた貴族にも注目をされ始めた新人の画家である。
また見た目も、ブルネットの髪を緩やかにまとめ、ヘイゼルブラウンの瞳のたれ目が穏やかな性格を思わせる、なかなかの美人であった。
子供の頃は画商である父の仕事の関係でハイドランジア国内を転々としていたが、太目の販売ルートを手に入れた父の画商の仕事が落ち着いて、晴れて王都に住むことになって今に至る。
成人してから、趣味で描いていた絵を両親の店の片隅に置かせてもらったところ、とある貴族に好評だったようで、それを期に女流画家としてデビューした。
しかし当然それだけでは大した収入になるわけでもなく、両親に頼んで別邸で絵画教室を開かせてもらっていた。ほとんど物置だった別邸を友人の手を借りて掃除し、そこに移り住んで早三年が経つ。
生徒として中流階級の婦人や、子爵以下くらいの貴族と彼らの子供が嗜みや情操教育の一環として通ってくれているので、それなりに収入は入っているからありがたい。
貴族の子供達は学校のほかに家庭教師やお稽古と、朝から晩まで勉強づくしで子供らしく遊ぶ暇などないらしいが、ジリアンの絵画教室には、ほぼ遊びの感覚で気さくに来てくれる。生意気な子も多いけれど、もともと子供が好きなジリアンには楽しい仕事の一つだった。
ジリアンが画家を目指したのは、画商の父の影響もあるが、父の仕事で別の土地に一時的に住んでいたころに出会ったとある少女たちとの出会いが切っ掛けだった。
父の仕事の都合で比較的長く住んでいた郊外の港町、そこの教会では保育園もあって、よく神学生の少年少女が預けられた子供たちの面倒を見てくれていた。
ジリアンも五歳くらいのころ、両親が仕事で出ている日中はそこに預けられていたのだが、お絵描きが楽しすぎて没頭し、周囲から孤立していた。そんなジリアンに話しかけてよく面倒を見てくれた神学生の年上の少女たちがいた。
その神学生の少女たちは、長い金髪に青い瞳を持ったそれは美しい双子で、ジリアンはまだほんの子供だったので彼女らの本名もろくに覚えていないのだが、うろ覚えで「エリー」「オーシュ」などと舌ったらずに呼んでいた気がする。
『すごい。ジリアンは絵が上手だね』
『画家目指せば? お父さんは画商なんだもんね』
お絵描きが大好きなのは昔からだが、家族以外の人にそう言われたのは初めてだったので、子供心にそれが嬉しくて、今思えばそれが切っ掛けだったと思える。
その後も交流を深めるも、またすぐに父の仕事の都合でその土地を離れなければならなくなり、非常に残念ではあったが、その神学生の少女エリーとオーシュとは会えなくなってしまった。
あれから早十数年。ジリアンも今年で二十三歳になった。
一昔前ならとっくに行き遅れと呼ばれる年齢だが、昨今の女性の社会進出の影響や、あまりに若い年齢での妊娠出産は流産や死産などのリスクがあり、母体にも良くないという学会による医学的発表もあって、ハイドランジア王国の結婚適齢期は上がった。そのため、ジリアンもようやく結婚適齢期である。
あのエリーとオーシュも立派な聖職者になっているだろうか。それとも還俗して結婚をし、幸せな家庭を築いているかもしれない。子供ながらあれほどの美貌を持った二人であったから、きっと素晴らしく美しい女性に成長しているに違いない。
何はともあれ、今の自分をつくるきっかけとなった彼女らには、幸せでいて欲しいと願うばかりのジリアンだった。
ジリアンは画商の父の店を通じて恋人コリン・ベネットと知り合い、話が弾んで友人になったあと、彼に告白をされて交際するようになった。
コリンは老舗のベネット商会の跡取り息子で、やや八方美人的なところはあるけれど、それが高じて人脈作りが上手いので、跡取りとしては期待されている。人好きのする顔も美人だと評判の母親譲りでかなり整っているから女性客にも人気者なのが、ジリアンは少しモヤモヤするのだが。
だが、コリンは決まって「僕には恋人がいるのでごめんなさい」と丁寧に断ってくれているのでそこは心配はしていなかった。
その時までは、である。
その日は恋人コリンの誕生日だったので、ジリアンは贈り物を持って彼の家に向かっていた。
あいにくの雲模様で今にも降りそうな天気だったが、どうしても今日コリンの誕生日を祝ってあげたかったのだ。
最近はジリアンは画家仲間と一緒に行う芸術合同展の準備に忙しかったし、コリンも大店ベネット商会の仕事で忙殺されていたらしいので、なかなか連絡が取れなかった。
それでもカレンダーに印をつけてこの日だけはちゃんと予定を開けて置かねばと、仕事の調整をしていた。
おかげで少し疲れていたけれど、コリンの喜ぶ顔を想像すると嬉しくて疲れも気にならなかった。
ベネット家に到着し、呼び鈴を鳴らすと、いつものようにメイド長が出迎えてくれた。
「……っ、い、いらっしゃいませ、ジリアンお嬢さん」
コリンの恋人として彼に紹介してもらったメイド長はとても気立ての良い女性で、ジリアンにも人当たり良く接してくれていたのに、今日は何故かジリアンを見て困った顔をしている。
そういえば事前に訪れることを手紙にしていなかったことを思いだす。
「あの、アポイント取らずに来てごめんなさい。今日はコリンの誕生日でしょう? どうしてもプレゼントを渡したくて。少しの時間でいいので、コリンに会えますか?」
ジリアンの言葉に、メイド長はおろおろしながら「ええと、そのぅ……」と歯切れ悪く必死で言葉を選んでいるようだ。
しかし、意を決して息を吐くと、しっかりとジリアンに向き合った。
「ジリアンお嬢さん。悪いことは言いません。お帰りになったほうがよろしいです」
「えっ?」
「突然こんなこと言ってごめんなさいね。今、坊ちゃまにお客様がいらしていて……」
「あ、いえ。突然来た私が悪いので……。お客様なら仕方ないですよね。じゃあ、このプレゼントだけでも渡してくれますか? あと、忙しくない日を教えて欲しいって伝えてもらっていいでしょうか?」
「……ジリアンお嬢さん。もうこちらには来ちゃいけません。お嬢さんの悲しい顔を見たくありません」
「……ど、どういうことですか?」
「……」
申し訳なさそうな顔をするメイド長に、ジリアンはどうしていいのかわからなかった。
――来ちゃいけないってどういうこと? コリンとは最近少し会えなかっただけで、特にケンカなんてしてなかったよね?
お互いに忙しかったのは知っているので、コリンがジリアンに対して怒っているわけではないはずなのに、ジリアンの悲しむ顔を見たくないと言うメイド長。彼女はどうしてそんなことを言うのだろうかと、ジリアンは不安になってしまった。
メイド長に詰めよろうとしたジリアンだったが、そこに通りがかったコリンの母親であるベネット夫人が二人を見かけて声をかけてきた。
「メイド長、何をしているの? ……あら、貴女はゴールドバーグ氏のお嬢さんね」
ゴールドバーグ氏のお嬢さん、という他人行儀な呼び方に、ジリアンは違和感を感じた。コリンに紹介されて、彼女はジリアンと気さくに呼んでくれていたはずなのに。
「お、お久しぶりです、ベネット夫人」
呼び名の変化にジリアンが戸惑って、とりあえず挨拶をした。
夫人はジリアンの姿を上から下まで見たあと、一つため息を吐いて衝撃的なことを言った。
「お嬢さん。もうコリンと別れてくださらない? あの子には家柄の良い婚約者ができましたので」
「……えっ? ど、どういう、ことですか……? コリンはそんなこと何も!」
「貴女のその反応を見ると、あの子は貴女にまだ打ち明けていなかったのね。先頃、とある伯爵家のご令嬢にコリンは見初められましたのよ」
「は、伯爵家の……?」
「うちはこのオルテンセでも大店でしょう? 息子の結婚相手にはより家柄の良いご令嬢が望ましいの。貴女もそれなりに有名な画商のお嬢さんで、女流画家と名が売れてきていたからこれまでは息子との交際を許していたけれど、さすがに貴族のご令嬢と比べると……ねえ?」
「ま、待ってください! コリンもその話は納得しているんですか?」
「納得はしていないかもしれませんが、わかってはくれました。あの子もベネット商会の後継ぎという立場がありますからね」
夫人の言葉にジリアンは目の前が真っ暗になった気がした。
確かに夫人の言うとおり、コリンは大店の跡取り息子なので、今後の経営戦略の後ろ盾となる貴族との繋がりは必要不可欠だ。一番良いのはその貴族の女性と結婚し、その女性の実家と縁戚関係になることだった。
しかも、伯爵家といえば王家とも交流のある上位貴族だ。男爵家や子爵家ならともかく、名だたる貴族とも取引のある大店を持つとはいえ平民のベネット家としてみれば、そんな上位貴族の令嬢に一人息子のコリンが見初められたのは名誉以外の何物でもない。
市井の画商の娘で、女流画家として少しだけ名は売れたけれどそれで生活が出来てるわけでもなく、絵画教室講師で細々と暮らしているジリアンと、後ろ盾があって縁戚関係で商会に利益を生むことができるその貴族令嬢。今後のことを考えてコリンが選ぶべき女性はもちろん後者だろう。
――でも、だからと言ってコリンはそんなこと一言も言って無かったのに。
「それに、今そのお嬢さんと応接室で会っていましてよ。なかなか楽しそうでしたし、コリンもまんざらでない様子でしたわ」
「そんな……」
「……納得できないのなら、その目で直接確かめたらいかが?」
「えっ」
そうして中へ促すベネット夫人に、ジリアンは戸惑いながらも家に上がらせてもらい、応接室の前まで案内された。
扉がほんの少し開いていて、中から楽し気に会話する男女の声が聞こえてきた。ベネット夫人にそこから覗いてみなさいと促されて中の様子を確かめると、そこにはコリンともう一人、美しい女性がソファーに並んで座っているのが見えた。
並んで座ると言うにはかなり密着していて、女性はコリンにしなだれかかっているし、コリンもその女性の肩を抱いていて、二人の顔はかなり近い。
そっと彼女がコリンに何か囁いたかと思うと、コリンは彼女のそのバラ色の唇に己の唇を重ねた。
――そんな、コリン……! どうして、その人と……!
ジリアンは思わず息を飲み、ショックで身体が震えた。ガチガチと歯が戦慄いて音を鳴らす口元を両手で押さえたために、それまで持っていた贈り物の包みを取り落としてしまった。
コロン、という音がしたせいで、こちらに気付いたコリンが不機嫌そうに大股に近づいてきてそのドアを開け放った。
「誰だ! ……っ、き、君は、な、何で……」
「……」
怒りをあらわにしていたコリンだったが、ドアの向こうに立っていた涙目のジリアンを見て急に顔色を悪くした。何故彼女がここにいるのか、どうして今なのかと言いたいのに、慌てて言葉が出てこない様子だ。
ジリアンもまたどうしていいのか、何を言っていいのか全く頭に浮かばず、目に涙を溜めてコリンを見つめるしかなかった。
「私が案内したのです。彼女には現実を見てもらわないといけませんから」
ジリアンの後ろに立っていたベネット夫人がコリンにそう告げた。信じられないような顔で母親を見るコリン。
「母さん、な、何でそんなこと……ジ、ジリアン、これは何て言うか……その」
「コリン様? 一体どうなさったの?」
今度はコリンの後ろから先ほどの美しい令嬢がやってきて、コリンの腕に自分の腕をからめながらそう言った。その行為にコリンのほうが驚き焦り始める。
「あ、いや、これは、その」
「あらぁ? もしかしてコリン様が『前に』お付き合いしていらした方かしら?」
――『前に』って……私、まだコリンと別れてなんていないのに……。
「アンドレア様? そうなんですけれど、うちのコリンはこのように心優しいものですから、傷つけたくなくてまだ彼女にアンドレア様のことを伝えていなかったようですの。不快な思いをなされたでしょう、母の私からお詫び申し上げますわ」
ジリアンとコリンが何か言う隙も無く、ベネット夫人とこの令嬢、アンドレア嬢がそう会話を進めている。
アンドレア嬢は申し訳なさそうなそぶりでジリアンに向き直った。
「そうでしたの。初めましてお嬢さん。アンドレア・ドマーゴと申しますわ。ドマーゴ伯爵家の末妹で、このたびご縁がありましてこちらのコリン様と婚約を結ぶことになりましたのよ。ごめんなさいね。残念だけれどそういうことなので、コリン様のことは忘れてくださいまし。私、一緒になる方の『愛人』という存在はどうにも許せない性分なもので……わかってくださる?」
「……っ」
アンドレア城の最後の一言にはジリアンへの忠告とともに、コリンへの「浮気は許さない」という牽制も入っているようだ。コリンも気まずげに視線を逸らしている。
――『愛人』って。私はいつからそういう立場だったの……?
すがるようにコリンを見つめると、彼もジリアンの視線に気づいたようで見つめ返すも、すぐに逸らされてしまった。その瞬間ジリアンはコリンに捨てられたことを悟った。
「あらまあ。挨拶もできないくらいショックでしたの? まあ仕方ございませんわね。今日はもうお帰りになったら? もうこの場にも居づらいでしょうし」
このアンドレア嬢の穏やかだがねっとりと毒を含んだような言い方に腹が立ったが、それ以上に彼女の言葉が正論すぎて、悲しくなってしまった。震えて涙をぬぐいながら、ジリアンは腕を組んで並ぶ二人に深々と頭を下げた。
「ご、ご婚約、おめでとうございます。急に来てごめんなさい。……失礼いたします」
この場で、今の自分の立場で、ジリアンに他に何と言えただろうか。
踵を返したジリアンだったが、すぐにアンドレア嬢から声がかかる。
「ああ、その落とし物、もしかしてコリン様への贈り物だったのかしら? でもねえ……貴女の買えるくらいの安物じゃ、我がドマーゴ伯爵家の縁戚に連なることになるコリン様が恥をかいてしまいますから、申し訳ないけれど持ち帰ってくださらない?」
「……はい」
このプレゼントは一点物で決して安物ではないのだが、ドマーゴ伯爵令嬢を妻に迎えるコリンが元恋人からの贈り物などを身に付けたら、令嬢に対してかなり不誠実だ。意地悪な物言いかもしれないが、彼女の言っていることは正論だった。
ジリアンは、先ほど取り落としたその包みを拾ってから、改めて皆に頭を下げると、ふらふらとした足取りでベネット家を後にした。
ジリアンはもうこれまでのショックで何も考えられなかった。コリン本人からの言葉は何一つ無かったことに気づかないまま――。
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※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。
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