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四章 ありうべきことと、そうではないこと
四章 ありうべきことと、そうではないこと・Ⅰ
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四章 ありうべきことと、そうではないこと
それから数日経ったあと、雄太は、一人アパートで、芦を待っていた時のように御子に電話をかける。それは昼前の10時だった。一回かけただけでは出なかった。雄太は寝ているのかな、と思ったが、名残惜しく、もう一度だけ花澤御子に電話をかけると、今度はワンコール以内に彼女が出る。
雄太が「もしもし?」と尋ねると、「なぁにぃ」と、起きたばかりの声のあとに、喉を鳴らすのが聴こえた。「ごめん、寝てたか」と雄太が言うと、「別に。気にしないで」と御子は欠伸をし、「4時間か」とひとりごつ。
「うわ、それしか寝てないときに起こしちゃったのか、ごめん。昨日出勤してた?」そう言うと、「当たり前でしょ。お金稼ぎたいんだから」と御子は怒ったような声で答える。
「最近来てないね、そういえば」と御子が呟くと、「ああ、ちょっと、色々あったんだよ」というと、御子は素早く、「女できたな」と言う。
*
「いや」と雄太は言い淀む、御子に言おうと思って電話をかけたのに、気が引けたのだった。「なにがいや、なの?はやく言いなよ」と御子は聴いたこともない声で囃す。「なんだよ、その声」「声?そんなことが今重要ですか」と御子が、今度はからかうような声で言った、「寝起きに雄太が喜ぶような声が出るって思わないでよ」それを聴いて雄太は笑った。「そうだよな。顔はいいのに接客態度の悪いお前だから」
「お前?」御子は聞き返した。「御子ね、花澤御子」はいはい、と雄太が笑う。御子も笑っていた。「そうだよな。御子は名前って重要だって、言ってたもんな」「よく覚えてるじゃん、そうですよ。名前は重要」雄太はいつも不思議そうな顔をしている御子が、なぜか自慢げに言うのが、その自慢げな顔が思い浮かぶ。
「うん。御子のいうことは、実はけっこう正しかった」と雄太がすこしどもりながら言うと、「え、急に何?」と御子の声が真剣な、神妙なものに変わる。「いや、違うんだよ」と雄太が言うと、「さっきから、なんなの、もう。早く言ってよ、じらさないでよ」いやさ、と脳味噌に浮かぶが、雄太はそれをこらえる。
*
「恋人。出来たんだよ」すこし沈黙した後に、御子は「よかったじゃん」と言う。「誰か、あててあげようか」と御子が言うので、とりあえず「うん」と雄太は返す。「緑川くん」と、いったあと、少し間が空いて、答えが口から音が出そうになるが、御子の喋り出すのが先だった。
「が、好きって言ってたあの男の子でしょ」という。その声音は、いつもより少しだけ冷静で、暗い所に或る水、瀞のようなものに響く、雄太はその御子の声を知らないので、驚いている。
「どう。正解?あってるでしょ」と御子の声はいつも通りになった。
「ああ、正解」と雄太は答えた。
*
「どうしてわかったの」と雄太が訊くと、御子は笑う。「だって、あの写真見てるときの雄太、なんか真剣だったよ。それに」と御子はまた喉を鳴らした。「雄太って、人とか物がすごい、とかいい、っておもったときほど、いや案外これは、とか、普通だよ、とか言ったりするもん。負けず嫌い?なんていえばいいのかわからないけど」と御子が言うので、「すげえな」と雄太は感嘆する。
*
「なんでそんなに人のしぐさとか、行動とかみてられるわけ」と雄太が訊くと、「さあ」とどうでもいいというような返事が返って来る。「半分も当たってないよ、こんなのは」と御子はいい、「謙遜すんなよ。すげえよ」と雄太は素直にほめる。御子は「いいって。今は、雄太のことの方が重要でしょ」
雄太は「そうかもしれない」と電話越しに頷く。「とにかく、御子と話してたことが、たとえば青春のこととか、人を好きになれるか、とか、そういうことが、芦、あいつ、芦って言うんだけど。そういうことが、芦と関係を持つ中で、よく自分の中に染み込んできた。御子が言ってたことばがよくわかるから。そういう言葉が、俺を支えたかもしれないって思うんだよ。だから、御子に感謝を伝えたいんだよ」と雄太は微笑む。「ありがとう」と言う。
御子は「いやいや」と謙遜するような声で言う。「改めておめでとう」「ありがとう、本当に」と雄太は続ける、「また、話そうよ。お店いくから」と言うと、「それ、芦くんは許すの?」と御子が訊く、雄太が笑う。
「なんでいけないんだよ。芦だって、まだデリヘルで働いてるさ」と言うと、「へえ」と御子が相槌を打った。「時間取らせてごめんな。またな」と雄太は携帯の画面を見る。「ありがとう」と言うと、「うん、またね。おめでとう」と御子が電話を切った。
*
雄太はその数日あと、今度は緑川に電話をかけた。雄太には、その必要があるのだと思った。slitに連絡先を教えてもらい、電話をかけた。何回目かのコールで、緑川は電話に出た。休日の二時、よく晴れた日だった。
「もしもし。緑川?」
雄太の言葉に返事はなかった。電話先でガサゴソと音がしたあと、ようやく声がした。「ああ、お前か。誰かと思った。どうしたんだよ。なんで電話番号知ってんだよ」と訊くと、「slitに訊いたんだよ。お前、SNSもやってないのかよ」
「最初から文句か?」と緑川は雄太らしいというように鼻で笑った。雄太も笑った。「ごめん。ごめん」
*
「で、用事は何?」と緑川が尋ねると、「何でもない、って言ったら、怒る」と言う。「お前さ」とため息を吐くのが聞こえた。「違うって。本当は、用事、あるんだ」「おう」と緑川が言う。「話してみろ」
「実はさ」
「うん」
「芦と俺、セックスしてるんだ」
「今じゃないよな?」
「そんなわけあるか」と雄太はふざけてどなった。
「そうだよな。え、そうなのか……」と緑川が黙っている。雄太も黙っている。
「それは、なんで俺に言ってきたんだ?」と緑川が訊く。それは当然の質問だった。
「お前がゲイなのか、確かめるために」
「冗談だろ?」「冗談だよ。別に悪いことなんてしてないけどさ、でも、緑川には伝えておかなきゃいけないかなって思って」
「俺が好きって言った人を奪うからか?」「違うよ」と雄太は唸る。
「主語と述語の話、あっただろ」雄太が言うと、電話越しで緑川は頷く。「ああ、あれな。あれ、まだよくわからないんだ。俺の性も絡む気がするよ。明治でも、大正でも、昭和でも、青春小説って言うのは、いっつも何かと別れてる。ちょっと、逆に聴いてくれないか」「いいよ。もちろん」と雄太は言う。外ではゆるやかな春の風が吹いている。葉が裏返しに為ったり、また表になったり、葉の厚い面と薄い面、それぞれに光を反射し、風の流れを雄太に見せつける。
「たとえば、俺たちの実人生には、なにかの柱が必要なんだ。もう少しわかりやすく言うと、偏見かな、俺はこの言い方があまり好きじゃないんだけど。雄太、たとえば何もない空間を想像できるか。真白で、何もない空間を」と緑川が尋ねる。その声は何時もより真剣だった。
*
「うん。できるよ」「その空間にさ、一人の人間だけがいる。お前は、自由か?どう思う」
「自由かな。走りまわっていられる。でも、なぜかわからないけど、窮屈な思いをするかもしれない」
「そこさ」と緑川が言う。電話越しに、緑川は右手の人差し指をたててジェスチャーする。
「窮屈なんだ。あるいは、何にも感じないかもしれないけどな。でも窮屈なんだ、なんにもないのに。変な話さ。ところが、そこに、なんでもいい。ギリシャのパルテノン神殿の支柱を一本持ってこい。できるか。パルテノン神殿が崩れるのはまた別のお話さ。重要だけどな。それも文学かもしれないけど」
*
そう言われると、雄太は頭の中で想像する。「うん、出来たよ」
「頼もしくないか。柱があることがさ」と緑川が言う、「いや、どうだろう」と雄太が唸ると、緑川は「じゃあ、こう考えてみろ。まずは柱もない世界。お前は美をそこに見出せるか」
「見出せるかもしれない」
「本当か。それが本当なら、やはり、お前は散文家じゃないな、お前はなんにもいらないだろうな」
「やっぱり?」と雄太は尋ねる。
「そんなのは、今問題じゃない。とにかく、俺の推測だが、その美っていうのは、結局お前が望むものを空見してるんじゃないか。幻視してはいないか。あるいは、そうだな。結局、何かがある世界を下敷きに考えているから、そうして美を見いだせるんじゃないか。俺が言ってるのは有と無の二項対立じゃない。無そのものにおまえはいるんだ。そこで美をかんがえるだろうか、と訊いてるんだ。雄太」
「たしかに」と雄太は答える。「そうであれば、考えないかもしれない」
「そうだろう」と緑川は言う。「じゃ、柱があったらどうだ、パルテノンは今関係ないぜ」「たしかに、それは頼りにするかもしれない」
「うん、だと思う。夜暗い時にそれを抱くとか、自分だけじゃないって思う以上に、おれはこう考えるのさ」
「どうやって?」雄太は尋ねた。電話に僅かな沈黙が流れた。
*
「つまりな、俺はポールダンサーになる。その瞬間からな。その柱に絡み合って、誰もいないかもしれない世界でも、誰かに見せるように、踊る。これが、美の誕生さ。美が、できるようになるんだ」
「へえ」と雄太は答える。緑川は続ける。
「美ができるようになるということは、いとまが生まれるということだ。自由になるということだ」緑川は咳をする。「そして、これが実人生においてもいえる。難しいかも知れないけど、柱があった方が、結局、自由なのさ。何もなかったら、自由もくそもない。苦しいんだ、皆、柱をふりまわしてるんだぜ。そんな中で、宇宙の中で、柱を振り回さないでいられる自信、雄太にはあるか。俺はないよ。お前には、あるかもしれないけど」
雄太は頷きながら「ないよ。多分、いや、うん、多分。お前が言いたいことが完全にはわからないけど、でも、その話は、俺が緑川に話そうと思った主語の述語の話と通じると思うよ」そう答えると、「そうか。それは、ものすごく、聴きたいな」と緑川が少し嗚咽したような声を出す。「泣いてんの?」と雄太が訊くと、「違うよ、喉が一瞬へんになったんだ」
「なら、よかった。話していいか?」
*
「いや、まだ少しだけ俺の話を聴いてくれ」と緑川が言い、雄太は黙る。「柱はでもさ、重いんだよ。なんでかわかるか?多分、答えられるだろうけど、俺に言わせてくれ」と緑川は数秒置いて話始める。
「俺が俺になる前の俺がいる。だれでも、それを大切にしたいと思ってる。でも、柱をもつとさ、それは潰れちまう。昔書いた詩に、俺、そういうこと書いたよ。それはさ、誰が何と言おうと、純粋なんだよ。それを、俺たちは、俺たちは、持ってる。俺はそれを、「ありうべき我々の自殺」って呼んでた」
*
「でも、それは押しつぶされたはずなのに、空中に、プラプラ浮いたように、縊死したいみたいに、暗闇の中で、俺たちに背中を見せている。俺たちは心のどこかでそれを、ふとした瞬間、そしてずっと見てる。それを忘れたくない。でも、忘れそうになるんだな。その柱は、それでも、持たないと、自由になれないんだ。それが、苦しいんだ」と緑川は言う。
「ほかにも、柱をもつことはさ、単純な重さじゃなくて、自分の持つ重さじゃなくて、他人に対しても発生してる。それは責任ってやつさ。だれしも、その柱を振りかざすだろ。誰が誰の柱のせいで傷つくのかわからないほど、世界ではいろんな柱がそこらじゅうで振り回されてる。それでも、誰かが誰かを傷つけていても、やむことはないんだ。だから、持つことに重大な責任が伴う。俺が俺になる前の俺と、俺が俺になったあとの俺、そして他人は、例えばslitでもいいさ、御子ちゃんでも、お前でもいい。雄太が雄太になる前の雄太を、殺さなければいけなかったってこと、そして、誰かを殺すほど傷つけたかもしれないってこと、そういうことを了解したうえで生きていなきゃ、人は横暴になる。ひどい暴力が蔓延しだす、必要な暴力のことを忘れ、あるいは盾にして、他人の尊厳を、踏みにじってな。青春の意味って、たぶんそういうことなんだ」
*
緑川は少し興奮したように息を吐いた、それでも少し呼吸が荒かった。「どうだ、少しは分ったか」
雄太は言った。「ありがとう。それを言ってくれて。俺、電話して良かったと思ってる。今。緑川の話もまた、会って聴かせてくれよ」と言うと、少し息を詰まらせた後、「おう。でも、用事は、お前がもってるんだろ」
「うん」と雄太は電話越しに頷く。「これから話すことは、芦との話だけど、緑川が言うことと、すごくつながるような気がするんだ」と微笑んで、緑川の言葉に胸を躍らせながら話始めた。
それから数日経ったあと、雄太は、一人アパートで、芦を待っていた時のように御子に電話をかける。それは昼前の10時だった。一回かけただけでは出なかった。雄太は寝ているのかな、と思ったが、名残惜しく、もう一度だけ花澤御子に電話をかけると、今度はワンコール以内に彼女が出る。
雄太が「もしもし?」と尋ねると、「なぁにぃ」と、起きたばかりの声のあとに、喉を鳴らすのが聴こえた。「ごめん、寝てたか」と雄太が言うと、「別に。気にしないで」と御子は欠伸をし、「4時間か」とひとりごつ。
「うわ、それしか寝てないときに起こしちゃったのか、ごめん。昨日出勤してた?」そう言うと、「当たり前でしょ。お金稼ぎたいんだから」と御子は怒ったような声で答える。
「最近来てないね、そういえば」と御子が呟くと、「ああ、ちょっと、色々あったんだよ」というと、御子は素早く、「女できたな」と言う。
*
「いや」と雄太は言い淀む、御子に言おうと思って電話をかけたのに、気が引けたのだった。「なにがいや、なの?はやく言いなよ」と御子は聴いたこともない声で囃す。「なんだよ、その声」「声?そんなことが今重要ですか」と御子が、今度はからかうような声で言った、「寝起きに雄太が喜ぶような声が出るって思わないでよ」それを聴いて雄太は笑った。「そうだよな。顔はいいのに接客態度の悪いお前だから」
「お前?」御子は聞き返した。「御子ね、花澤御子」はいはい、と雄太が笑う。御子も笑っていた。「そうだよな。御子は名前って重要だって、言ってたもんな」「よく覚えてるじゃん、そうですよ。名前は重要」雄太はいつも不思議そうな顔をしている御子が、なぜか自慢げに言うのが、その自慢げな顔が思い浮かぶ。
「うん。御子のいうことは、実はけっこう正しかった」と雄太がすこしどもりながら言うと、「え、急に何?」と御子の声が真剣な、神妙なものに変わる。「いや、違うんだよ」と雄太が言うと、「さっきから、なんなの、もう。早く言ってよ、じらさないでよ」いやさ、と脳味噌に浮かぶが、雄太はそれをこらえる。
*
「恋人。出来たんだよ」すこし沈黙した後に、御子は「よかったじゃん」と言う。「誰か、あててあげようか」と御子が言うので、とりあえず「うん」と雄太は返す。「緑川くん」と、いったあと、少し間が空いて、答えが口から音が出そうになるが、御子の喋り出すのが先だった。
「が、好きって言ってたあの男の子でしょ」という。その声音は、いつもより少しだけ冷静で、暗い所に或る水、瀞のようなものに響く、雄太はその御子の声を知らないので、驚いている。
「どう。正解?あってるでしょ」と御子の声はいつも通りになった。
「ああ、正解」と雄太は答えた。
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「どうしてわかったの」と雄太が訊くと、御子は笑う。「だって、あの写真見てるときの雄太、なんか真剣だったよ。それに」と御子はまた喉を鳴らした。「雄太って、人とか物がすごい、とかいい、っておもったときほど、いや案外これは、とか、普通だよ、とか言ったりするもん。負けず嫌い?なんていえばいいのかわからないけど」と御子が言うので、「すげえな」と雄太は感嘆する。
*
「なんでそんなに人のしぐさとか、行動とかみてられるわけ」と雄太が訊くと、「さあ」とどうでもいいというような返事が返って来る。「半分も当たってないよ、こんなのは」と御子はいい、「謙遜すんなよ。すげえよ」と雄太は素直にほめる。御子は「いいって。今は、雄太のことの方が重要でしょ」
雄太は「そうかもしれない」と電話越しに頷く。「とにかく、御子と話してたことが、たとえば青春のこととか、人を好きになれるか、とか、そういうことが、芦、あいつ、芦って言うんだけど。そういうことが、芦と関係を持つ中で、よく自分の中に染み込んできた。御子が言ってたことばがよくわかるから。そういう言葉が、俺を支えたかもしれないって思うんだよ。だから、御子に感謝を伝えたいんだよ」と雄太は微笑む。「ありがとう」と言う。
御子は「いやいや」と謙遜するような声で言う。「改めておめでとう」「ありがとう、本当に」と雄太は続ける、「また、話そうよ。お店いくから」と言うと、「それ、芦くんは許すの?」と御子が訊く、雄太が笑う。
「なんでいけないんだよ。芦だって、まだデリヘルで働いてるさ」と言うと、「へえ」と御子が相槌を打った。「時間取らせてごめんな。またな」と雄太は携帯の画面を見る。「ありがとう」と言うと、「うん、またね。おめでとう」と御子が電話を切った。
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雄太はその数日あと、今度は緑川に電話をかけた。雄太には、その必要があるのだと思った。slitに連絡先を教えてもらい、電話をかけた。何回目かのコールで、緑川は電話に出た。休日の二時、よく晴れた日だった。
「もしもし。緑川?」
雄太の言葉に返事はなかった。電話先でガサゴソと音がしたあと、ようやく声がした。「ああ、お前か。誰かと思った。どうしたんだよ。なんで電話番号知ってんだよ」と訊くと、「slitに訊いたんだよ。お前、SNSもやってないのかよ」
「最初から文句か?」と緑川は雄太らしいというように鼻で笑った。雄太も笑った。「ごめん。ごめん」
*
「で、用事は何?」と緑川が尋ねると、「何でもない、って言ったら、怒る」と言う。「お前さ」とため息を吐くのが聞こえた。「違うって。本当は、用事、あるんだ」「おう」と緑川が言う。「話してみろ」
「実はさ」
「うん」
「芦と俺、セックスしてるんだ」
「今じゃないよな?」
「そんなわけあるか」と雄太はふざけてどなった。
「そうだよな。え、そうなのか……」と緑川が黙っている。雄太も黙っている。
「それは、なんで俺に言ってきたんだ?」と緑川が訊く。それは当然の質問だった。
「お前がゲイなのか、確かめるために」
「冗談だろ?」「冗談だよ。別に悪いことなんてしてないけどさ、でも、緑川には伝えておかなきゃいけないかなって思って」
「俺が好きって言った人を奪うからか?」「違うよ」と雄太は唸る。
「主語と述語の話、あっただろ」雄太が言うと、電話越しで緑川は頷く。「ああ、あれな。あれ、まだよくわからないんだ。俺の性も絡む気がするよ。明治でも、大正でも、昭和でも、青春小説って言うのは、いっつも何かと別れてる。ちょっと、逆に聴いてくれないか」「いいよ。もちろん」と雄太は言う。外ではゆるやかな春の風が吹いている。葉が裏返しに為ったり、また表になったり、葉の厚い面と薄い面、それぞれに光を反射し、風の流れを雄太に見せつける。
「たとえば、俺たちの実人生には、なにかの柱が必要なんだ。もう少しわかりやすく言うと、偏見かな、俺はこの言い方があまり好きじゃないんだけど。雄太、たとえば何もない空間を想像できるか。真白で、何もない空間を」と緑川が尋ねる。その声は何時もより真剣だった。
*
「うん。できるよ」「その空間にさ、一人の人間だけがいる。お前は、自由か?どう思う」
「自由かな。走りまわっていられる。でも、なぜかわからないけど、窮屈な思いをするかもしれない」
「そこさ」と緑川が言う。電話越しに、緑川は右手の人差し指をたててジェスチャーする。
「窮屈なんだ。あるいは、何にも感じないかもしれないけどな。でも窮屈なんだ、なんにもないのに。変な話さ。ところが、そこに、なんでもいい。ギリシャのパルテノン神殿の支柱を一本持ってこい。できるか。パルテノン神殿が崩れるのはまた別のお話さ。重要だけどな。それも文学かもしれないけど」
*
そう言われると、雄太は頭の中で想像する。「うん、出来たよ」
「頼もしくないか。柱があることがさ」と緑川が言う、「いや、どうだろう」と雄太が唸ると、緑川は「じゃあ、こう考えてみろ。まずは柱もない世界。お前は美をそこに見出せるか」
「見出せるかもしれない」
「本当か。それが本当なら、やはり、お前は散文家じゃないな、お前はなんにもいらないだろうな」
「やっぱり?」と雄太は尋ねる。
「そんなのは、今問題じゃない。とにかく、俺の推測だが、その美っていうのは、結局お前が望むものを空見してるんじゃないか。幻視してはいないか。あるいは、そうだな。結局、何かがある世界を下敷きに考えているから、そうして美を見いだせるんじゃないか。俺が言ってるのは有と無の二項対立じゃない。無そのものにおまえはいるんだ。そこで美をかんがえるだろうか、と訊いてるんだ。雄太」
「たしかに」と雄太は答える。「そうであれば、考えないかもしれない」
「そうだろう」と緑川は言う。「じゃ、柱があったらどうだ、パルテノンは今関係ないぜ」「たしかに、それは頼りにするかもしれない」
「うん、だと思う。夜暗い時にそれを抱くとか、自分だけじゃないって思う以上に、おれはこう考えるのさ」
「どうやって?」雄太は尋ねた。電話に僅かな沈黙が流れた。
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「つまりな、俺はポールダンサーになる。その瞬間からな。その柱に絡み合って、誰もいないかもしれない世界でも、誰かに見せるように、踊る。これが、美の誕生さ。美が、できるようになるんだ」
「へえ」と雄太は答える。緑川は続ける。
「美ができるようになるということは、いとまが生まれるということだ。自由になるということだ」緑川は咳をする。「そして、これが実人生においてもいえる。難しいかも知れないけど、柱があった方が、結局、自由なのさ。何もなかったら、自由もくそもない。苦しいんだ、皆、柱をふりまわしてるんだぜ。そんな中で、宇宙の中で、柱を振り回さないでいられる自信、雄太にはあるか。俺はないよ。お前には、あるかもしれないけど」
雄太は頷きながら「ないよ。多分、いや、うん、多分。お前が言いたいことが完全にはわからないけど、でも、その話は、俺が緑川に話そうと思った主語の述語の話と通じると思うよ」そう答えると、「そうか。それは、ものすごく、聴きたいな」と緑川が少し嗚咽したような声を出す。「泣いてんの?」と雄太が訊くと、「違うよ、喉が一瞬へんになったんだ」
「なら、よかった。話していいか?」
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「いや、まだ少しだけ俺の話を聴いてくれ」と緑川が言い、雄太は黙る。「柱はでもさ、重いんだよ。なんでかわかるか?多分、答えられるだろうけど、俺に言わせてくれ」と緑川は数秒置いて話始める。
「俺が俺になる前の俺がいる。だれでも、それを大切にしたいと思ってる。でも、柱をもつとさ、それは潰れちまう。昔書いた詩に、俺、そういうこと書いたよ。それはさ、誰が何と言おうと、純粋なんだよ。それを、俺たちは、俺たちは、持ってる。俺はそれを、「ありうべき我々の自殺」って呼んでた」
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「でも、それは押しつぶされたはずなのに、空中に、プラプラ浮いたように、縊死したいみたいに、暗闇の中で、俺たちに背中を見せている。俺たちは心のどこかでそれを、ふとした瞬間、そしてずっと見てる。それを忘れたくない。でも、忘れそうになるんだな。その柱は、それでも、持たないと、自由になれないんだ。それが、苦しいんだ」と緑川は言う。
「ほかにも、柱をもつことはさ、単純な重さじゃなくて、自分の持つ重さじゃなくて、他人に対しても発生してる。それは責任ってやつさ。だれしも、その柱を振りかざすだろ。誰が誰の柱のせいで傷つくのかわからないほど、世界ではいろんな柱がそこらじゅうで振り回されてる。それでも、誰かが誰かを傷つけていても、やむことはないんだ。だから、持つことに重大な責任が伴う。俺が俺になる前の俺と、俺が俺になったあとの俺、そして他人は、例えばslitでもいいさ、御子ちゃんでも、お前でもいい。雄太が雄太になる前の雄太を、殺さなければいけなかったってこと、そして、誰かを殺すほど傷つけたかもしれないってこと、そういうことを了解したうえで生きていなきゃ、人は横暴になる。ひどい暴力が蔓延しだす、必要な暴力のことを忘れ、あるいは盾にして、他人の尊厳を、踏みにじってな。青春の意味って、たぶんそういうことなんだ」
*
緑川は少し興奮したように息を吐いた、それでも少し呼吸が荒かった。「どうだ、少しは分ったか」
雄太は言った。「ありがとう。それを言ってくれて。俺、電話して良かったと思ってる。今。緑川の話もまた、会って聴かせてくれよ」と言うと、少し息を詰まらせた後、「おう。でも、用事は、お前がもってるんだろ」
「うん」と雄太は電話越しに頷く。「これから話すことは、芦との話だけど、緑川が言うことと、すごくつながるような気がするんだ」と微笑んで、緑川の言葉に胸を躍らせながら話始めた。
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