ヘヴン・ランペイジ

一島時

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四章 ありうべきことと、そうではないこと

四章 ありうべきことと、そうではないこと

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 雄太からの話を一通り聴き終えたあと、緑川は「それ、小説で書いてもいいかな」という。雄太は「いいよ。でもパクリになるなよ」と言い笑う。
「楽しみにしてる」と雄太は言った。緑川は「おう」と言った。雄太は「じゃあ、また」と言って電話を切ろうとする。でも、その前に緑川は雄太に訊きたいことがあったのを思い出した。「あっ、ちょっと待って」
 *
「何?」「そういえば、お前、本名、なんていうの?」と緑川が尋ねると、ふ、と雄太がいつもの笑顔で笑うのが聞こえる。緑川はその顔を今、ありありと思い浮かべることができる。
「堀越雄太」と雄太が答える。「堀越雄太」、と緑川は繰り返し、「いい名前」と笑った。
雄太も笑った。いつもの軽口ではない言葉が返ってきた。「ありがとう」そう言って、雄太から電話を切った。
緑川はしばらく、自分の電話帳を見つめ続けていた。

 数ヶ月したあと、緑川は小説を書き終えてペンを置いた。その小説は、どこかから取り出してきた引用と、このような書き出しから始まっている。
 *
『恋とは、結局のところ、あらゆるものと決別する季節のことである。』

 無の上に立つ。乖離する、確かめるものたちが原初にある。
 故に偶然である。飛び込む、だから運まかせ。つまり愛とは一体になることだが、そんなことはありえない。運命などないと彼らは思った。
 恋のもとで言葉は信じられないほどに互いに乖離していく。
 「言葉の天使たち」、彼らに性別はない。生むものはない。けれど結びあう。だが区別がある。ラングイッジ・エンジェルズは乖離していく。どこまでも乖離していき、それ故に確かだった。
苛烈な乖離が恋だと思った。
何も言えない、何も生まない自分を見る。言語は愛に向かうのではない、恋なのだ。言の葉とは性的な概念ではなかった。無性なのだ。あるいは性は一体になることはなかった。
言語とはホモセクシュアルだった。ゲイだし、レズだった。
 言葉は突き詰めていくと限界がある。乖離は苛烈だった。熱を持った。理屈は分別である。そうすると恋が見えてくるのだった。
人間の主語と述語は離れている。それを繋ぐのはことばだった。言葉の主語と述語は遠く離れていく。それを生きている間、必死に結びつけるのは人間という偶然である。
理屈が世界を支配し始めると、天国は暴走する。
主語と述語は乖離を始める、すると段々ホモセクシュアルが蔓延する。これは当然の帰結だった。そして性は潰える。だから、言葉を信じなければいけない理由はない。まさに理由は。僕達が言葉を使っているために。
 天国は暴走する。主語と述語が乖離する。この現象を僕たちは恋と呼ぶ。
 ただ、それは、何よりも大切な、はじまりにすぎない。
 *
 緑川と電話した二日後に、雄太はslitとジャズバーへ行った。雄太からの誘いだった。緑川は誘ったが来なかった。
「よお」と言ってslitの肩を雄太は叩いた。顔をあげたslitは泣いていた。
「おい、どうしたんだよ」と雄太が訊いたら、「楊ちゃんに嫌われたァ」と泣いている。
今日はやけにジャズがうるさかった。「カッペ」だった。安川もいる。
いつも通りの演奏だった。みなが熱心だった。
安川がこっちをちらっと見た。だが、すぐに演奏に戻った。slitのとなりに座って「カッペ」の演奏を聴いていると、slitがつぶやく。
「楊ちゃんと喧嘩しちまったんだよ」と言う。雄太は背中を撫でる。「いつだよ?」「一週間前」と返し、「なんで」というと「ラップなんてダサいってさ」
「そんなこと思ってるわけないだろ」
「薄っぺらい返ししやがって」とslitは怒る、「お前に楊ちゃんにわかってたまるか。慰めろなんて言ってないだろ」
おうおう、と言って背中を叩くと思いきり手を払い除ける。その腕は元気だった。

「なんで一週間も前のことで、今泣いてんのサ」と雄太が訊くと、「お前、人の心、何にも知らないのか。馬鹿」とまた怒って、「さっき、あのジャズバンがあれ弾いたんだよ。≪恋は離れて≫みたいなやつ」
雄太は注文したウイスキーを煽りながら横目でslitを見、そして「カッペ」を見る。今はもう、白人ジャズを演奏していた。
「ああ、あれね。≪恋って誰かを置いていくことさ 恋人はいつだって他人なんだから 離れれば離れていくだけ 恋は深まる≫」
「やけに覚えてるじゃないか」と、段々泣き止んできたslitが訊くと、「まあ、色々あってさ」と返す、ウイスキーを煽る。
slitは訝し気に雄太を見つめた後、「まあ、いいや。後でそれは訊くから」slitもジンフィズを傾け、「それより、俺の新曲。聴いた?」
今度はしっかりと、聴いた?と雄太の耳に聴こえる。まだ酔っぱらって意識が曖昧ではないからかもしれない。雄太は頷く。飲みの予定をいれたあと、音楽のアプリのURLがメッセージのあとに送られてきていた。
「結構、何度も聴いたよ。あれ。いいよな」
「あっそう、そうか。そうか」とslitは喜んだような顔をして余計にジンフィズを飲む。このあと悪酔いするな、と雄太は思う。
 *
「どこがよかった。歌詞か、やっぱり」とslitは尋ねる。雄太はすこし悩んで天井を見上げた後、「あれって、昔作ったビートだろ?俺が好きって言ってた」「そう」とslitと、カウンターに両腕をついて、前傾姿勢で横にいる雄太を見つめる、次の言葉を待っている。
「どっかの音楽家のサンプリングだよね、確か。もともと歌詞のない、ラップじゃない曲の」雄太はまたウイスキーを舐める。「だからかな、かなり、かなり心にしみてくる。別に電子音でガチャガチャしてるのもいいんだけど、ああいう曲は、すごい、良いな。それに、お前のリリックが、すげえ合ってたよ」そう言うと、slitは「たとえば?」と間髪入れずに訊いて来る。
「そうだな」と雄太は思い出す。
「あれかな。ちょっとうまく歌えないけど、≪別れ知るために lyricsは書かない back again illmaticに feelin'good 過去はないよ≫ってとこ。過去はない、で少しずれるじゃん、それまでの、今引用する前のところからのリズムが。そっから、hookに入るとこ、すげー気持ちいい」「だろ」とslitが笑い、「俺もそこが気に入ってるんだけど」と言って、「あ、そうだ。思い出した」とslitが言う。
「お前、御子ちゃんがどこ行ったか、知ってる?今、店どころか、湯ノ川さんが御子ちゃん家行っても、いなかったらしい、どっかいっちゃったんだよ。行方不明」

 雄太は驚いて、「いつから?」「大体、一週間前。ああ、そう、楊ちゃんと喧嘩した日」そこで、slitは溜息をつく。「でも、知らないよな。そりゃそうだ。最近、お前来てなかったらしいしな」とジンフィズを煽る。「どうしたのかな」と呟く。
 雄太がずっと、御子のことで頭を回していると、「いやさ、「過去はない」ってところ、実は御子ちゃんからもらった言葉なんだよね」とslitが言う。雄太は不思議に思った。
「御子が?」「うん」とslitが頷いた。
「いや、二人で恋の話、したことがあってさ。その時、御子ちゃん笑ってたよ。「男の人ってそんなに恋だのなんだの気になるの?」って。なんで、って聞いたらお前のことだったから、腹立って色々お前の悪口言ったんだよ。酒飲んでさ。御子ちゃん、いつも笑ってるよな、楊ちゃんより笑ってるよ」
 *
「で、なんで過去はないって、御子が言うの」と雄太が訊くと、いやさ、とまたslitは話し出す。「「恋って何?」って聞いたんだよ。なんて言ったと思う?」
「わかんない」と雄太は答えた。頭がうまく回らなかった。「「別れを知ること」って。真面目な顔で。いっつも、ぽかんとした顔してるのに」「それで」と雄太は訊く。
「キザだね、って俺が言って、そんなんでもないよっていうんだよ。で、そういう経験でもあるの?って聞いたら、過去なんてないよっていうんだ。過去がなければ平等だし、いつでもその人を手放すことができるって。そういや、御子ちゃんは思ってることはいうけど、過去のことをしゃべろうとはしないしな」
 過去なんてない、と御子が言うとは思えなかった。それは雄太が知らない御子の顔だった。
今まで話してきた御子の言葉が思い浮かぶ。「御子は恋できる?」と訊いたときに御子が顔を震わせたことを思い出す。「青春、送ったの?」と訊いたとき、「まさか」と言った御子のことを思い出す。体を重ねた御子のことを。「雄太」と名前を呼んだ御子のことを、そのとき、何かが変わったと思ったことを思い出す。母のことを語る御子、自らの事を話す花澤御子を。
御子と体を重ねたあの夜、雄太は死にたくないと思った。生きたいと願うこと、言葉を纏う聖者、八尾比丘尼、花澤御子。

 雄太の頭の中にある黒い光景が広がる。それは芦とともにいたときに見た筈のそれだった。
御子が立つ。笑うが、笑おうとするが、隣に雄太はいない。花澤御子とは、いったい何者なのか、それは本当の名前だったのか。黒い風が吹く。月はもうない。あたりには海がある。岬にいる、御子は岬にいる。風が吹く。強く風が吹く、上空に紛れて消える。あるはずのない月光が混ざる。海の音が聞こえる。
御子はもうこの街にいない。雄太の近くにいない。だれにも語り掛けることのない花澤御子らしき黒い影が、岬に立っている。
 うめきのようなものが聞こえる気がする。過去はない、と言う失踪した聖者の呻きが聞こえる。
 *
「恋とは何か」という砂漠の看板に砂がかかる。それを強く求めるように。夜の砂漠に強い風が吹いて、砂嵐が舞い上がる。渇きとはおおよそ反対の場所へ、海にいる女の、黒い髪の毛が風に揺れる。隣には誰もいない。
 向きをかえた、暗い海の底を海流に逆らい泳ぐナポレオンフィッシュが、その大きな目で見つめている。
 ジャズバーから、ある男は出て行く。そこでは、安川という男の、情熱的で、しかし難解な、トランペットソロが始まっている。あるものは眠り、あるものはそのトランペットソロに聴き惚れて、あるいは酒に耽る、
だから、誰もその男が出て行くことには気が付かない。
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