玲眠の真珠姫

紺坂紫乃

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空の章

漆、君と出逢ったわだつみの森

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漆、「君と出逢ったわだつみの森」


 家に居場所など無かった。左眼が人と違うというだけで、寝床は砂利の上、食事は自分で取ってきたなんの味付けもない海藻だった。ただ生きているだけで存在を全否定され、隣近所の者達すら近寄らなかった。家族がくれたものは、この身体と罵倒と暴力だ。
 心のよりどころは、海底の奥深くにあった珊瑚の森だ。天井までびっしりと珊瑚に覆われ、イソギンチャクが開いては閉じて、回遊蝶というこの森だけに生息する蝶は、きらきらと鱗粉を零して飛んでいく。
 生き物で当時のロンに優しかったのはここだけだった。珊瑚の森に住みたいと何度も願ったが、ここは王家の私有地なので一般開放は暮れ六つまでと決められていた。

「……帰りたくないなあ……」

 小さな湧泉の畔――藻の上にごろりと寝転んで刻々と迫る時刻に気鬱になる。

「帰りたくないの?」

 ごろりと寝返りをうったところに、澄んだ鈴音のような声がしたことにびくりとして起き上がった。目をくりくりとして、小首を傾げる少女がこちらを覗き込んでいた。

「え……あ、う……」

 他人と話すなど久しぶりすぎて、舌が上手く回らないのだ。

「帰りたくないの?」

 夢だろうかと思ったが、少女はもう一度同じ質問を口にした。白の曲裙、朱色の襟の縫い取りは細やかな銀糸。肩よりも少し長いつやつやとした黒髪を結い上げることなく、金の髪留めで一纏めにしただけと非常に簡素だが、王宮に住まう上流階級の令嬢であることは確かだ。

「帰りたくないのはその左眼のせい? 見せてくださらない?」

 急いで左眼を手で覆ったが、意外にも力が強い少女は塞いだ手を無理やり引きはがした。

「や、めろ!!」

 少女を振り払い「しまった」と思ったが、少女はころりと受け身をとって、何事も無かったかのようにまたこちらに近寄ってくる。

「ごめんなさい。見られたくなかったのね――こうすればいいわ」

「いや、俺の方こそ……怪我はない? ……って、帯!!」

「もう一本あるから大丈夫です」

「そういう問題じゃあ……」

 結局、こちらの意見など聞かず、少女は帯を左眼に巻き付けた。その出来に満足したのか、少女はしゃがみ込んでにんまりと笑う。その肩に回遊蝶が止まった。

「あら」

「しっ、驚かせちゃ駄目なんだ。好きにさせてやればいい。機嫌が良ければ、とても綺麗な鱗粉を出すんだ。でも、機嫌を損ねると毒の鱗粉を出すから、危険」

 「綺麗と危険が隣り合わせなんだよ」と言ったロンに、少女はにんまりと笑った。

「詳しいのですね」

「……ほとんど毎日来ているから……」

「私、セツカと申します。貴方は?」

「ごめん……俺には名前が無いんだ。好きに呼んでくれ」

 セツカはまじまじと見つめて「ロン」と呼んだ。

「龍という意味よ。呼びやすいし、覚えやすいわ――あなた、面白いもの」

 「ロン」と口の中で与えられた「名前」を噛みしめ、砕いて、自身の血肉となるようにロンは与えられた名前を反芻した。

「ねえ、ロン。この森、少しだけ元気が無いの。海の水に問題はないし、専門家も調査をしているけれど、あなたなら原因が解るかしら?」

 セツカの問いは唐突だった。胡坐をかいて座っているロンの傍らでセツカはぐるりと森を眺める。ロンも倣って首を巡らせるが、子供で、なんの知恵もないロンに専門家もわからないような原因を突き止める自信は無かった。言われてみれば、最近は蝶の数が減ったような気がする程度だ。
 しかし、二人で観察していると、蝶の飛び方がおかしいと気づいた。回遊蝶の餌は、イソギンチャクから排出される老廃物の泡だ。泡を蝶が取り込み、鱗粉を発して藻の餌になる。
ここはそういう食物連鎖で成り立っている。

「蝶の数が減ったせい、かな? 俺が気づいたのは、それくらいだけど……」

「蝶の数? 減ると森の元気が無くなるの?」

「いや、逆だ。たぶん珊瑚かイソギンチャクに異変があると思う。蝶が減ったのは餌が減った証拠――ああ、やっぱり。ほら、森の入り口付近、天井が低くなっている部分に壊れた珊瑚があるだろう? あれ、いつもなら薄い桃色なんだ。でも今はわずかに紫が入っている。ここは王家の私有地だから、見回りの兵士の槍か何かが事故で当たったんじゃないかな。珊瑚は繊細だから、たったあれだけの傷でも循環が乱れる」

 ロンの指さす方向には、確かに目を凝らさなければ解らないほど変色した珊瑚があった。セツカはすっと右手をかざした。すると、傷ついた珊瑚に泡が集まる。泡は薄い膜を張って、傷口を保護した。

「これでいいわ。あとは王宮の庭師に薬を作ってもらえば治るはず。それより、あなたは博識ね」

「単にここの滞在時間が長いせい。俺は文字の読み書きもできないから、書物も読めない。王様がここを開放してくれてるおかげで、家から逃げているだけ」

「ふうん、家から逃げてるの」

 口を滑らせたロンは、妙な空気になったので立ち上がった。早々にここを去ろうとセツカに忠告をする。

「……ごめん。聞き流してくれ。君は竜宮に住んでいるんだろう。俺と話していると𠮟られてしまうから、早く帰った方がいい」

 そう言い残して立ち去ろうとしたら、セツカが腰に巻き付いた。

「ちょ、っと……服、汚れる……」

「やっぱりあなたは面白いわ。もっとお話しを聞かせてくださらない? 服はどうせ洗えばいいだけの話です」

 二人ですったもんだと暴れていると「セツカ!!」と低い男の声が響いた。セツカは「義父上様!! ここです」と男を呼ぶ。銀と黒の鎧を着た男が、森の入り口を通ってやってきた。
 軍人だと覚ったロンは抵抗を強めた。

 男は駄目だ。ましてや軍人。きっと父よりもずっと力が強い。殴られたら今度こそ死んでしまうかもしれない。 

 ロンの頭の中はぐちゃぐちゃになった。不意にセツカが力を緩めた時に脱兎と逃げようとしたら、右手をがっちりと捕まえられ、半ば引きずるように長身の軍人の前に連れていかれた。

「セツカ、その少年は?」

「ここで出逢いました。この殿方、面白いのよ。森の異変も解ったわ。この方、帰りたくないと申すのです。義父上様、私の付き人にして下さらない?」

「え!?」

 ロンは慌てて口を塞いだ。そろり、と横眼で見た軍人はきょとりとしている。

「……お前と言う奴は……また勝手に決めおって。少年、君は構わないのか?」

「お、俺は……ご令嬢の付き人など大役過ぎて務める自信がございません……」

「しかし、家に帰りたくもないのだろう? 見れば、全身傷だらけではないか。二人とも、ひとまずは王宮に来なさい。セツカ、お前も衣服を改めるように。今の姿を女官長が見たら卒倒してしまうぞ」

「女官長が神経質過ぎるだけです。義父上様、宰相に森の修復をお願いしてください。あそこ。私が水膜で保護しているところです」

「ほう、よく見つけたな」

「見つけたのはこの方よ。ロンとおっしゃるの」

「ロンか。私は第二十一代海底龍王エイシャ・ランという。これは姪のセツカ・ラン王女だ。君には手を焼かせると思うが、セツカがここまで他人に興味を持つのは稀なのでな。是非とも、この元気すぎる娘を見守ってやってくれ」

 ――龍王、王女。ロンは許容範囲を超える言葉の数々に眩暈を起こした。

 返事もしていないのに、セツカは垢まみれの手を繋いだまま離そうとはしない。
 結局は半ば強引にセツカに竜宮に連れていかれる羽目になったのだが。

 この日から、ロンの新しい生活が始まった――。

続...
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