大好きな君と離れる日まで

矢田川いつき

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第五章 キミに好きだと言った日のこと

第二十六話

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 偶然にも、遼くんが運び込まれた病院のそばには桜並木があった。
 病院を囲むようにして植えられた桃色の花々は、遼くんの病室がある二階の廊下からもよく見えた。
 遼くんのお父さんとわかれた私は、夕陽が淡く照らすリノリウムの床を踏み締め、今日一日だけ入院することになった彼の病室に向かっていた。

「調子はどう? 遼くん」

 篠山遼、と書かれた名札を確認して、病室の中に入る。四人部屋になっているその部屋には、幸いにも遼くんしかいなかった。

「お、彩月。ありがとう、おかげさまで大丈夫だ」

 窓の外から見える桜をバックに、ベッドで上半身を起こした遼くんが微笑みかけてくる。少しだけ開けられた窓から爽やかな風が吹き込んできて、彼の短い髪を小さく揺らした。
 ずるいな、と思う。
 私が無理に思い出させようとしたから倒れたのに、遼くんは怒ることなくお礼なんかを返してきた。そんな優しい気持ちを向けられたら、私の心はいやでも弾んでしまう。 
 けれど、私はそんな温かくて心地よい感覚を振り払い、ベッドの近くにある丸椅子に腰掛けた。

「大丈夫なら良かった。明日には退院だもんね。学校には、明後日から来るの?」
「ああ、そのつもり。だから明日の板書はよろしくな、彩月。数学は特にだぞ」
「ふふっ。遼くん、昔から数字苦手だもんね」

 小さく笑って、遼くんの顔をのぞき見る。そこには、数時間前と変わらない柔らかな表情の幼馴染がいる。
 でも、そんな表情の裏には、きっと今も大きな不安と恐怖が潜んでいる。
 私は、わかっていなかった。
 わかろうとはしていたと思う。でも、まだまだ甘かった。
 最初に気づくべきだった。遼くんが「好意を伝えること」、すなわち「告白」に関して過剰な精神的負荷を受けた可能性があると知った時点で、思い至るべきだった。
 遼くんが言ってくれた「好き」という言葉を、宝物として大切にしていたのなら、同時に起こった負の側面も本来は忘れてはいけなかった。

「ねぇ、遼くん」

 数学の授業の話から、この前の動物園の話、そして次の手がかり探しの話に移ろうとしていたところで、私はおもむろに幼馴染の名前を呼ぶ。

「ん? なに?」

 遼くんは何気ない様子で首を傾げた。
 そうした仕草にすら、好きだなあと思うくらいには、私の中にある遼くんの存在は大きい。
 でもだからこそ、遼くんには幸せでいてほしい。
 日々の生活の中で、余計な不安や恐怖に苛まれることなく笑っていてほしい。
 そう。だから、

「私ね、遼くんとの関係を今日で終わりにしようと思うんだ」

 しっかり伝わるように、遼くんが聞き逃さないように、私は真っ直ぐに彼を見つめて、はっきりと言った。

「え……?」

 遼くんは目を見張った。困惑に彼の瞳が曇ったのがわかった。でも、私は続ける。

「遼くんが抱えてる記憶障害。その根本的な原因は、私だったんだよ。私のせいで、遼くんは解離性健忘症になっちゃったの」
「え、な、なにを……」
「あの日、小三の三月三十一日に、私は遼くんから告白されたんだよ。覚えてる?」

 私の問いに、遼くんはそれと見てわかるほどに表情を歪ませた。
 戸惑い、驚愕、混乱、恐怖、悲しみ。様々な感情が彼の顔に浮かんでは上書きされ、口は拠り所を失ったかのように開閉を繰り返している。けれど、そこから何か言葉が発せられることはなかった。

「覚えてないよね。私ね、その時すごく嬉しくて、はしゃぎ回っちゃったんだ。クルクルって歩道で踊って、前をちゃんと見ないで、赤信号なのに道路に出ちゃったくらいに」
「っ!」

 遼くんの表情が、より険しいものになっていく。そして、苦痛に顔をゆがめて、頭を押さえ始めた。

「ごめんね、本当にごめんなさい。そんなに苦しめて、傷つけて、怖い思いをさせてしまって……ごめんなさい。この日記から破り取られたページが、遼くんの本心だって気づけなくて、本当に……ごめんなさい」

 私は、手に持っていた遼くんの日記から、一枚のクシャクシャになった紙片を取り出した。先ほど、無理言って遼くんのお父さんから預からせてもらったものだ。
 ゆっくりと、広げていく。
 しわだらけの紙片には、ただ一言だけ、乱れた文字で書き殴られていた。


『さつき、死なないで』


「こ、れは……?」
「私ね、遼くんのお父さんから聞いて、おぼろげにだけど、ようやく思い出したんだ」

 すっかり忘れていた。
 忘れちゃいけなかったのに、過去のトラウマからか、あるいはただの時間の経過からか、私は当たり前のように忘れていた。
 あの日。公園で遊んだ帰り道で、私は大好きな遼くんから好きだと言われて、大好きな遼くんに好きだと伝えられて、心の底から喜んでいた。桜舞う公園沿いの歩道で、私は無邪気にもステップを刻み、夢中になって後ろにいる遼くんに話しかけ、そして後ろ向きのまま歩いていって、赤信号に気づけず車道へ飛び出したのだ。
 そこへ、不運にもかなりのスピードを伴った乗用車が走ってきた。
 そうだった。あの時、時間が止まったような感覚があったんだ。
 目の前に青い車が迫ってきて、轢かれると思う前に――死んだ、と思った。

「でもね。私、死ななかったんだ。不幸中の幸い。車の運転手がハンドルを切って、ギリギリでかわしたから」

 電柱にぶつかった車は煙を上げて燃えていたが、運転手は奇跡的に軽傷だったらしい。
 そして、私も救急車で病院に搬送され、一日入院して検査したが、転倒して派手に擦りむき出血した程度の軽傷のみ。それ以上の怪我人はおらず、事故は滞りなく処理された。
 表向きは、そうだった。
 でも、実際にはもうひとり、心に傷を負った子どもがいた。

「遼くんのお父さんに、無理を言って教えてもらったんだ。事故の日の夜に、遼くんは泣きながらこの日記を書いて、そして破り取ったって」

 ――さつきが死んだら、おれのせいだ。
 ――おれが好きだって言ったから、あんなことになった。
 ――さつき、死なないで。
 ――お願い、いなくならないで。
 ――お母さんみたいに、おれをおいていかないで。
 ――お願い、お願い……お願いだから……。

 遼くんは小学校に上がる前に、お母さんを病気で亡くしていた。遼くんのお父さん曰く、私が救急車で病院に運ばれたことで、お母さんを亡くした当時のことを思い出しているようだったらしい。
 遼くんのお父さんは、泣き喚く遼くんを一晩中抱き締めてなだめた。今まで見たことがないほどに、遼くんは取り乱していた。けれど、そのまま疲れて眠ってしまった遼くんは翌日、何事もなかったかのようにけろりとして遊んでいた。遼くんのお父さんは不審に思ったが、本人が気にしていないのに敢えて事故の話題を出すことも躊躇われたため、尋ねることはしなかった。私自身もすぐに退院してきて、数日後には何食わぬ顔で遼くんと遊んでいたので、その話はそこで打ち切りとなったみたいだった。
 しかしその後、遼くんの会話にしばしば記憶の連続性が感じられないことがあったり、中学にあがった頃に何気なく話題にした当時の事故のことを不可解なほど覚えていなかったりしたらしい。挙句には、今日のように苦しそうにうめき出したために、遼くんのお父さんは遼くんを病院に連れて行き、記憶障害が判明したとのことだった。
 私は聞いたことを簡潔に話してから、ひとつ息を吐く。
 遼くんのお父さんは言っていた。「遼の母さんが病気になったのは、かなり苦労や負担をかけたからでね。遼にはそんな辛い思いをしてほしくなくて、原因については教えなかったんだ」と。「無理に向き合わず、日々の生活の中で少しずつ治していってくれたらいい」と。
 ……その通りだと、思った。
 私も、遼くんにはこれ以上負担をかけたくないし、心の奥深くに封じた辛い記憶に無理に向き合うこともしてほしくない。
 だからこそ……今だけはこの話をする。
 これはそのための、大事な準備だから。

「……だからね、間違いないんだよ。原因は、私。それと、私との思い出や、私と交わした約束。私とのことだけ……だったんだよ」
「くっ、ううっ……」
「……ごめんね。苦しいよね……。ほんとにごめんなさい。でも、それももう終わるから」

 頭を押さえて俯く遼くんの背中に、私はそっと手を置いた。

「もうね……私のこと、いっそ全部忘れちゃえばいいんだよ」
「は……え……?」

 過呼吸になりながら、遼くんは私を見てきた。
 私はもう一度呼吸を整えてから、自分の考えを話す。

「遼くんの記憶障害の原因は、私。
 優しい遼くんが、自分の告白のせいで事故が起こって、私を危険にさらしたって思ってるから。
 そして、事故で怪我をした私を見て、いなくならないでほしいって思ってくれたから。
 大切な人がいなくなるかもしれないことに、恐怖を覚えてるから。
 だから、遼くんは自分の心を守るために、事故のきっかけになった『告白』に関する記憶や、『告白してくれた人』に関する記憶を忘れてしまうんだよ。
 それならいっそ、私のことを全部忘れたら、それもなくなるんじゃないかな。
 私との思い出を忘れてしまえば、私を大切な人だって思うこともなくなる。
 私との約束を忘れてしまえば、遼くんが自分のせいだって思ってる交わした告白そのものも記憶から消える。
 そして私自身の存在、今話しているこの状況も全て忘れてしまえば、事故に関係する記憶のほとんどがなくなって、根本的な原因は取り除かれる。
 そうなればきっと、少なくとも今頻繁に起こっている記憶障害は、改善する」

 これが、私の出した答えだった。
 遼くんの解離性健忘症の根幹には、私がいる。
 一緒に築いてきた関係が、一緒に過ごしてきた思い出が、彼を苦しめる原因になっている。しかもそのきっかけは、私が無邪気に周囲を見ないではしゃいで、事故を招いてしまったからだ。
 私のせいだ。
 私がちゃんとしていれば、こんなことにはならなかった。
 交通事故で大切な人を亡くす苦しさは知っていたはずなのに。
 それなのに私はその苦しさから目を背けて忘れ、あろうことか遼くんから告白されたことに浮かれて事故を引き起こし、それすらも直視したくなくて良い思い出だけを切り取って他は忘れてしまった。
 遼くんのお父さんは悪くないと言ってくれた。
 けれど、他ならぬ私自身が自分を許せなかった。
 忘れなければ、ちゃんと現実と向き合えていれば、事故直後の遼くんの気持ちにも寄り添えていたかもしれない。異変に気づけたかもしれない。もっと早く、何かできたかもしれないのに。
 今度は、ちゃんと向き合いたい。
 逃げずに、自分にできる精一杯のことをしたい。
 そう考えた時に、私が辿り着いた答え。
 いっそのこと、私を忘れてしまえばいいのだ。
 遼くんが私を忘れてしまえば、事故を取り巻く多くの記憶が失われ、無意識のうちに思い出すこともなくなるはずだ。そうすれば、告白するたびに起こっている頻発的な解離性健忘症はなくなるかもしれない。

「もちろん確証はないよ。でも、やってみる価値はある」
「ま……て、それ……は……ダ、メ……!」

 遼くんが顔を歪めて、手を伸ばしてくる。
 私はその手を握って、ゆっくりと下ろさせた。
 遼くんが私を大切に思ってくれていることは知っている。素直に嬉しい。本当に嬉しい。
 私は、幸せ者だ。
 でも、時としてそうした気持ちは劇薬になり得る。そして今まさに、私の存在が彼を苦しめている。
 そんなのは、嫌だった。大好きな遼くんの負担になんか、なりたくなかった。

「……ごめんね、遼くん。本当にごめん、ごめんなさい……」

 次第に、視界がぼやけてくる。
 泣かないと決めたはずなのに、身体はとても正直で、わがままだった。
 私は、私の心は嫌だといっている。なんて自分勝手で、自己中なんだろうか。
 遼くんが、私の手をギュッと握った。
 その強さに、温かさに、愛おしさに、声が詰まった。

「……でも、ね、大丈夫だよ。遼くんならきっと、立ち直れるから。新しい恋をして、幸せになれるから」

 幸いにも、私と遼くんの思い出の大半は小学生の時のものだ。
 成長するにつれて、小学生の思い出なんてものは薄れていく。大切にしていたはずの物はどこかへしまって忘れ、思い出を懐かしむことも減り、目まぐるしい毎日を生きることに必死になっていく。
 遼くんの部屋には、もしかしたら私にまつわる物もあるかもしれない。でも、思い出そのものを忘れてしまえば、そんな品々はただの雑貨で、置物で、ガラクタになる。直接的に私のことが書いてあるこの日記さえ返さなければ、遼くんが私を気にすることもなくなるはずだ。
 記憶なんてものは、ほとんど当てにならない曖昧なものなのだ。
 だから、きっと大丈夫だ。

「待っ……さつ、き……おれ、は……!」
「遼くん、ありがとう」

 私は空いた手で目元を拭い、最後くらいは私らしい笑顔を見てほしくて、思い切り顔を綻ばせた。

「遼くん、大好きだよ」

 そして私は、十年間一番大切にとっておいた言葉を、彼に伝えた。

「ずっと、ずっと好き。大好き。初めて会った小学一年生の時から、私は遼くんに恋をしてた」

 本当は、こんなはずじゃなかった。
 本当は、こんなふうに伝えるつもりじゃなかった。
 ちゃんと言葉に責任を持って、仄かで甘酸っぱい、不安と希望に満ちた気持ちを抱いて、伝えるつもりだった。

「それからずっと一緒にいられて、私は幸せだった。すごく楽しかった。遼くんのことを好きになれて、本当に良かった」

 でもこれは、諦めと願いを込めた、無責任な告白。
 遼くんとの縁を切って、遼くんの病気が快復に向かうことを願って、一方的に伝えて別れるための儀式だ。
 明日以降、私は遼くんと関わるつもりはない。
 日野瀬くんや遼くんのお父さんには、ただ記憶障害が発症したと説明しよう。それで、一緒にいても辛くなるだけだから距離をとりたいと言おう。瀬奈には、フラれたとでも言っておこうか。お母さんには……適当に誤魔化しておけばいいや。

「だから遼くん、どうか幸せになってね。私は遠くから、静かに見守ってるから」

 遼くんがうずくまる。
 頭が痛むのか、うめき声ばかりが聞こえてくる。
 すぐに看護師さんを呼んで、私は遼くんの前から消えないといけない。
 お別れの時間だ。

「遼くん、大好き。ありがとう……さよなら」

 私は彼の手を振りほどいた。

 これが、私の一生の中で遼くんと交わした、最後の会話だった――。
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