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さよならの夜明けに、きみと笑う
しおりを挟む月が、今日も綺麗だった。
冬の残滓を宿した風が頬をかすり、夜の闇へと吹き抜けていく。
2月も半ばをすぎ、暦の上ではとっくに春だ。けれど、うららかで生命の息吹を感じさせる陽気の気配はまるでない。
私のそばにあるのは、肌を刺す容赦のない冷気に、月明かりを微かに反射させる舗装したてのガードレール。縁石で仕切られ、車一台の影すら見えない県道が、田舎町らしく遥か彼方、地平の先まで長く伸びている。
もっとも、こんな何もない一本道を延々と歩くのはごめんだ。どうせなら、もう少し景色が変わる道を歩きたい。私は、途中にある脇道へと逸れ、住宅街へのほうへと進路を変えた。
誰もいない歩道に、私の足音ばかりが響く。遠目に見える家々の窓は暗く、近づかずともひっそり静まり返っているのがわかった。
当たり前だ。
時間は午前2時を少し過ぎたころ。丑三つ時で、草木もすっかり夢の中だ。
でも、人間の私は厚手のコートにマフラーを巻き、帽子とブーツも装備という防寒対策完璧な装いで外に出ている。夢遊病というわけではない。意識ははっきりと、鮮明かつ冷静に物事を考えることができる。きっと、高校で授業を受けている時よりも頭の回転は早い。
私は今、真夜中のお散歩の真っ最中なのだ。
思い返せば、いったいいつから私は真夜中にあちこちを徘徊、もといお散歩をするようになったのだろう。
あれは確か、半年ほど前。秋だったはずだ。いつも通り勉強にまったく集中できなくて、自室の窓から見える見事な銀杏並木に誘われるように、夜の10時頃に外へ出たのだ。そして無我夢中に歩き回り、気が済んで帰ったら夜中の3時だった。両親は既に寝ていたから、鍵を持って出ていなかったら人生初の野宿をするところだった。
ただ、今思えば、そのほうが良かったのかもしれない。
締め出されていたほうが、もう少し自分を許せていたのかもしれないと、あの日ベッドに潜り込んでから思った。
なぜ私ばかりが、自由を許されているのか。
どうして私だけが、好きにしていいのか。
心の中で自問自答してみるも、答えはひとつだ。
兄が、私を守ってくれたから。
兄が、私の代わりに親の期待を背負ってくれたから。
兄が、あらゆる呪縛から私を解放してくれたから。
いろいろと言い換えることはできるけれど、要するに私の実の兄、雪城陽斗のおかげなのだ。
優秀で優しい兄の人生を犠牲に、私という出来損ないの妹は一切の干渉なく青春生活を謳歌できる。交友関係も、学校の成績の良し悪しも、恋愛も、アルバイトも、夜中の徘徊すらも、すべて自由に選択することが可能だ。
一方の兄は、大学生になった今も、交友関係を縛られ、医師になるための勉強に明け暮れ、恋愛もアルバイトも禁止された毎日を過ごしているというのに。
「あーあ。最低だな、私……」
いつ思い出しても、自己嫌悪が薄れる気配はなく心に漂っている。
ノートを開けば、幼い頃に幾度となく浴びせられた怒号が蘇る。テストの点が悪い時は叩かれることもあった。
その度に、兄は私を庇ってくれた。父を説得し、母を宥め、懇切丁寧にわからないところを教えてくれた。兄の教え方は上手だったけれど、両親が怖かった私は勉強に集中できず、成績はほとんど上がらなかった。
両親のため息を、何度聞いたかわからない。
軽蔑した眼差しで、「陽斗はあんなにできるのに、どうしてあなたは……」と、何度比べられたかわからない。
そんな毎日が続いた小学6年生のある日、私はたまらなくなって家を飛び出した。勉強時間として割り当てられていた時間を過ぎ、夕食時を過ぎても帰る気にはならなかった。ひとりで公園のベンチに腰掛け、ひたすらに鼻をすすり上げていた。私はただ、穏やかに毎日を過ごしたかった。
いつまでそうしていたのか。気がつくと、柔らかな微笑みを浮かべた兄が横に座っていた。
「もう大丈夫だよ、月乃。一緒に帰ろう」
落ち着いた口調で話しかけ、兄はそっと私の手をとった。帰りたくなかったけれど、好きな兄を困らせたくなくて、私は何も言わずになされるがまま手を引かれていた。
そして家に帰ると、両親は玄関に仁王立ちしていて、私を見下ろした。
叩かれる……!
思わず頭を庇ったけれど、拳は降ってこなかった。
「早く入りなさい。ご飯、できてるから」
「先に手を洗うんだぞ」
意外なほど落ち着いた声だった。あれほど厳しかった父も、あんなに感情的だった母も、私を怒鳴りつけることはしなかった。
しかも、その日以降、2人は私のしていることに対して何も言わなくなった。成績が悪かろうと良かろうと、遊んでいようと勉強していようと、いっさい干渉してこなくなった。兄に尋ねても、笑って首を傾げるだけだった。
不思議に思い、盗み聞きした両親の深夜会議で、兄が両親と交渉した結果だと知った。
父も母も目指して叶わなかった、医師の夢。
その夢を、兄が必ず実現してみせる。その代わり、妹の私には強制することなく自由にさせる。私が嫌がるような過干渉をすれば、兄は医師にならない。
そんな交換条件を、私が家出した日に取り付けたらしい。
どこまでも妹に甘く、優しすぎる兄だった。
そんな自己犠牲なんて、やめてほしかった。私のせいで、兄の人生が狭まってしまうなんて嫌だった。
けれど、両親が怖くて、またあの憂鬱で怯えた日々に戻るのが辛くて、私は言い出すことができなかった。
気がつくと、こうして高校3年生の手前になるまで、私は自由に生きてきた。
ずっと後ろめたさがあった。罪悪感があった。
そんな負の感情を少しでも紛らわしたくて、私は半年ほど前から夜中にお散歩をするようになったのだ。
……いや。正しくは、もうひとつほど理由があるか。もっとも、それこそ私の人生においては無縁としたいものなのだけれど。
消したくても消せない記憶に浸っていると、いつの間にか住宅街の奥まったところにある公園の前まで来ていた。くだんの、私が最初で最後の家出をした時に、兄が迎えに来てくれた公園だ。
「はぁー……寒いな」
隅にポツンと置かれたベンチに腰掛け、肺に溜まった空気を吐き出す。大気中に広がった白い息は、瞬く間に夜の暗闇へと溶けて見えなくなった。どうせなら、私のこの憂鬱な気持ちも一緒に消えてくれればいいのに。
ふぅーっと、もう一度息を吐く。
深呼吸をするみたいに、今度は細く、長く。
頭の中が冷静になるように、なるべく心の熱が冷めるように。
「あれ? もしかして、雪城か?」
「ひゃっ!?」
反射的に肩が跳ねた。驚いて、私は振り返る。
「ごめんごめん。驚かすつもりはなかったんだ」
「え……た、小鳥遊、くん?」
公園の入り口に立つ街灯の下で、一人の男子がひらひらと手を振っていた。
短く切り揃えられた黒髪に、子供っぽい大きな瞳。未だに濃い冬の気配を吹き飛ばすような、爽やかで快活な笑顔が印象的だ。
「こんばんは。雪城月乃さん」
穏やかな口調で夜の挨拶をする小鳥遊くんを、私は何も返せずにただ呆然と見つめていた。言葉が出てこなかった。確かにコミュニケーションはそんなに得意じゃないけれど、それとこれとは話が別。だって……
「あ、あの……本当に、小鳥遊くん……? クラスメイトの、小鳥遊涼くん?」
「そうだけど、はははっ、なにその反応! 雪城、もしかして寝ぼけてる?」
「いや、だって、あまりにもクラスの時と雰囲気が違うから」
小鳥遊涼くんは、私と同じクラスの男子だ。席が右斜め前で、板書をする時や先生の話を聞く時、また休み時間の時にもどうしても視界に入る。
そんな視界の端で見る彼は、爽やかで快活な笑顔とは正反対の、とにかく無口で無愛想な感じの人だったはずだ。少なくとも、クラスで友達と笑い合っているところは見たことがない。というか、友達と話しているのすら見たことがない。
「あーまぁ、確かにそうかも。でも俺、そんなに笑ってないかな?」
「う、うん。悪いけど、私は見たことないかな……あ、でも、一度……」
校舎裏で野良猫を撫でていた時に小さく笑っていたっけ……。
言いかけて、私はハッとした。開きかけていた口を慌てて塞ぎ、記憶を振り払うべく首を横に振る。
「あははっ! 今度の反応はなに?」
「な、なんでもない! 一度……そう! 一度も見たことがない、のです!」
「のですって、あはははっ!」
あけすけに笑う彼の顔をもう一度凝視する。
……間違いない。
雰囲気が全然違うけど、目の前にいるのは、同じクラスの小鳥遊涼くんだ。
「も、もう。私のことはいいでしょ。それより、なんでこんなところにいるの?」
少し笑いすぎだと思いながら、私は話題を変えようと尋ねた。
「ああ、いや、ただの散歩だよ。雪城は?」
「わ、私も」
「へぇー意外だ。雪城って、クラスじゃ大人しくて真面目そうなのに、案外不良なんだな」
「た、たまたまだよ。たまたま、眠れなくて……」
声がすぼむ。もうひとつの理由に思い当たって、ほとんど無意識のうちに。
「ふーん? でも女子高生がこんな夜中にひとりで出歩いてたら危なくないか? あと補導されるだろ」
「ほ、補導は小鳥遊くんもでしょ」
「はははっ、違いない」
その日は、そんな他愛のない話だけしてすぐに解散した。
夜も遅かったし、気温も低くて寒かったから。
……もっとも、私の胸の内はさらに熱くなってしまったのだけれど。
*
翌朝、私は寝不足で授業を受ける羽目になった。
昨日の夜は肌を刺すほど寒かったのに、どうやら今日は暖かくなるらしい。なんとも気まぐれな気候だと思いつつも、今の私にとっては天敵以外の何者でもなかった。
やけに重い瞼、いつもより遠くに聞こえる先生の解説、ミミズみたいに折れ曲がった歪なノートの文字たち。端的にいえば、眠い。ただただ眠かった。
それもこれも、右斜め前の席で頬杖をつきながら授業を受けている彼のせいだ。
昨日、夜のお散歩から帰った私は、早々にベッドに潜り込んだ。頭を冷やすために外へ出たのに、帰ってきたらむしろ悪化していた。当然宿題どころではなく、もう何も考えたくないと思ったのだ。
けれど、いつもならすぐ眠くなるのにその日はまるで寝付けなかった。毛布にくるまり、枕に顔を埋めても、眠気はちっともきてくれなかった。代わりにちらつくのは、見慣れないクラスメイトの笑顔ばかりだった。
「私……あ~~もうっ」
本当にどうかしている。べつに何があったわけでもないのに。
くだらない、とこきおろしてみるも、どうしようもなく喜んでいる気持ちがあるのも事実だった。
私は、前々から小鳥遊涼くんのことが気になっていた。
最初は、一種の親近感のようなものだった。
周囲に壁を作っていて、誰にも心を許していない。他人はもちろん、自分すらも信じていない。常に醸し出している不機嫌さは、他人というよりも自分自身に対してのもので、そのやり場がわからない。そんなふうに見えた。
私に似ている、と思った。
自分を好きになれず、信用できず、ずっと過去の自分に、今の自分に腹を立てている。兄の人生を犠牲にして、のうのうと好きに使える時間がある。有意義で、生産性のある使い方ができるわけでもないのに。いったい何様なのだろうか。
やり場のない怒り。けれど、怖さゆえにどうすることもできない。本当に情けなくて、みじめだ。
それとわかるほどに表には出さないまでも、沸々と心の底に怒りを宿している日常で、私は彼の存在に気づいた。それからは、なんとなく目で追うことが増えた。
教室では、授業に集中することなく呆然と窓の外を眺めているか、明らかに板書ではない何かをノートに書いているか、延々とペン回しをしている。
休み時間は、引き続き窓の外を見ているか、机に突っ伏して寝ている。
放課後は、ホームルームが終わるとすぐに立ち上がって一人で帰っていく。
偶然、校舎裏で見かけた時は驚いた。茂みで怯えていたらしき野良猫を優しく撫でていた。その時は、珍しく子供っぽくて穏やかな笑顔を浮かべていたけど、どこか苦しそうな表情もしていた。
あとは、休日に遭遇したこともあった。彼は、ショッピングセンターにある本屋さんで立ち読みをしていた。漫画と文庫本だった気がするけれど、何を読んでいたのかまではわからなかった。それに、あまり楽しそうな感じではなかったと思う。
空き教室の掃除をしていたこともあった。用事を済ませてからまた寄ってみると彼はいなくて、教室はピカピカになっていた。
美化委員が忘れがちな、校舎裏の隅にある花壇の水やりをしていたこともあった。とても丁寧で、慣れているように見えた。
彼は、小鳥遊涼くんは、優しい人だった。
そして、何かに苦しんでいるようだった。
いつのまにか、小鳥遊くんのことを考えている時間が多くなっていた。
直接話したことはない。そんな勇気もきっかけもないし、関係性を変えたいとも思っていなかった。
恋愛なんて、私には過ぎたものだ。遠くから見つめる片想いだけでいい。それを叶えようなんておこがましいし、何より兄に申し訳ない。
だから、昨夜に彼と出会したのは完全に想定外だった。
無意識に渦巻く雑念や想いを消そうと出かけたのに、むしろそれらは増えてしまった。
私に向けてくれた彼の笑顔が、頭から離れてくれなかった。
悶々として寝返りを打つこと数十回。寝たのか寝てないのかわからない夢うつつの中で、気がつけば窓の外が明るくなっていた。
調子に乗るなよと自らに言い聞かせ、なんとか気持ちを落ち着けてから登校してみれば、異常なほどの睡魔が襲ってきた。当然のいえば当然なのだけど、私と同じように真夜中にお散歩をしていたはずの小鳥遊くんは、余裕そうに授業を受けていた。きっと、私と違ってあのあとすぐに眠れたのだろう。
「……それにしても」
少しでも眠気を紛らわせようと、私は視線の先を黒板から彼に向ける。相変わらず不機嫌そうに頬杖をつき、黒板ではなく窓の外を眺めている。まるで授業を聞いてない。それが後ろからでも一目でわかるほどだった。
……本当に、昨日話したのはあの小鳥遊くんなのだろうか。
一度は解決したはずの疑念が、再び浮上する。
朝のホームルームが始まる前も、一限が始まってからも、彼が昨日のように笑う気配は微塵もなかった。まあ、楽しいことがないと人は笑わないから当たり前なのだが、今の小鳥遊くんからはあんなに純粋に笑う姿はどうにも想像できない。けれど、クラスでの私のことを知っているみたいだったし、この高校に小鳥遊という苗字は彼だけで、顔が似ている人もいないから本人で間違いないはずだ。
つまり、昨日の彼はやっぱり今私の視界にいる小鳥遊涼くんその人であるわけで……。
他人のことをとやかく言えないほど授業そっちのけで、あれやこれやと考えているうちに、一限目終了のチャイムが鳴った。
「次どこだっけ~?」
「あー、視聴覚室だったはず」
「おっけー。さっさと行こうぜ~」
ガタガタと椅子を引く音とともに、クラスメイトが友達と連れ立って教室を出て行く。私には特に仲の良い友達もいないし、記憶にある限り彼にもいないはずだ。
寝不足の頭が、いつもの私なら絶対にしないであろう行動を命令するのに、そう時間はかからなかった。
「ねえ、小鳥遊くん」
クラスメイトの大半が出て行ったのを確認してから、私は未だに机でボーッとしている小鳥遊くんに声をかけた。
「……え?」
驚いたように、彼は振り返った。昨夜ぶりに目が合う。昨日感じた子供っぽさは全く感じられず、苛立たしげな視線が私を射抜いた。
「あの、その……昨日は、近くまで送ってくれて、その、あ、ありがと……」
びくつきながら、私はどうにか言葉を絞り出した。昨日の別れ際に言えなかったお礼と、自明ともいうべき確認も兼ねて。
「……は? いったいなんのこと?」
頭の中に漂っていた睡魔が、一瞬で消し飛んだ。
*
「いったい、どういうこと……?」
その日の夜、私は二日続けて真夜中のお散歩に繰り出していた。
「意味わかんない。知らないふり、してるのかな」
いつもなら無言で歩き続けるのに、今はいやに口の弁が緩かった。頭の中で処理しきれない感情が、次から次へとこぼれ落ちてくる。
「なんでそんなこと、って、クラスメイトがいるからか」
あのあと。小鳥遊くんの、「なに訳のわからないこと言ってんだ、こいつ。頭大丈夫か?」と言いたげな視線から逃げるように、私はダッシュで教室を後にした。
それからは、一日中小鳥遊くんのことを避けた。避けた、といっても彼は至っていつも通りで、べつに私に話しかけようとしていたわけではないだろうけど。
一応の理由は想像できる。
あの時、クラスにはまだ数人ほど人がいた。それに、真夜中の公園じゃなくて真昼の学校だ。当然、警戒心は強くなるし、思わず否定してしまうのもわかる。というか、きっと私でも同じことをしていただろう。寝不足だったし、どうやら正常な判断ができなくなってしまっていたらしい。小鳥遊くんには、申し訳ないことをした。
ただ、ひとつ気にかかるとすれば、彼の反応だった。あれは、本当に何のことかわからないといった感じだった。演技だとすれば、きっと役者になれると思う。
「でも、ちょっとショックだったな……」
口にしてから、ハッとした。慌てて首を振って思考を掻き消す。
違う。
違う違う。これは、そんなんじゃない。
余計な感情も含めて頭の中を再度整理していると、いつの間にか私は昨日の公園に来ていた。相変わらず街灯がぽつぽつとあるばかりで、人の気配はない。
もしかしたら、と思っていた。
もしかしたら、ここに来れば今日も彼に会えるんじゃないか。昼間のことも含めて、改めて謝罪とお礼を言えるんじゃないか。そう、思っていた。
けれど、今日は誰もいなかった。昼の陽気とは打って変わった冷気が、ちくちくと肌を刺激してくる。昨日と違って、今日はベンチでぼんやりもできなさそうだった。
「帰るか」
諦めて、私は帰ろうと踵を返した。
「雪城さん、こんばんは!」
「ほわぁっ!?」
変な声が出た。続けて、2、3歩後ずさる。
バクバクと激しく鼓動を打つ胸を押さえつつ見上げると、昨日と変わらない笑みを浮かべた彼が立っていた。
「た、小鳥遊、くん……」
「あは、あははっ! ほわぁって、ナイスリアクションだったよ、雪城」
前言撤回。昨日と変わらないんじゃなくて、意地悪なタイプの笑みだ。
「……何してるの?」
「あれ。雪城、もしかしなくても怒ってる?」
「……」
当たり前だ。昼間、というか今日一日どれだけ思考を巡らせたと思っているのか。
無言を肯定と受け取ったのか、目の前の小鳥遊くんはそれとわかるほどに慌て始めた。
「ご、ごめん! 怒らせるつもりは全然なくて! ただ、ちょーっと驚かせようかなって。その、悪戯心というか、出来心があったわけで……」
「……」
「はい、すみません。反省してます。ごめんなさい」
「……はあ、もういいよ」
なんだか、あんなにいろいろと考えていたのがバカらしくなってきた。これで、昨日のお礼と昼間の謝罪はチャラにしてもらおう。
ただ、それとはべつに、ひとつだけどうしても確認したいことがあった。
「それより、さ。あなたは本当に、小鳥遊涼くん、なんだよね?」
「え、そうだけど。なにその質問」
「いや、だって、今日の一限のあと……」
思い出して、声がしぼむ。どうやら、あの出来事は想像以上にショックだったらしい。
「あ、あーっ! ご、ごめん! あれは、その、なんというか……」
「ううん、大丈夫」
再び慌て出す小鳥遊くんを、私は手を振って制す。あれは私も配慮が足りなかった。
「その、私もごめんね。いつも話してるわけじゃないのに、いきなり話しかけて。今思えば、言い方も誤解されそうな感じだったし……」
「いやいやいやいやいや!」
「慌てすぎだよ……ふふっ」
気怠そうに授業を受けている普段からは想像できない慌てぶりに、思わず笑みが溢れた。可笑しい。
「おっ、やっと笑ったね」
「え?」
「昨日から、全然笑わないなーって思ってさ。雪城は、もっと笑ったほうがいいよ」
「え、え?」
今度は私が慌てる番だった。まさか、そんなことを言われるなんて。
「それとさ、クラスだとなかなか素直になれないけど、できれば普通に話しかけてもらえると嬉しい」
「え、えぇっ!?」
「だから慌てすぎだって。あはははっ!」
真っ暗な寒空に、明るい笑い声が響き渡った。
*
次の日。
私はいつもより1時間早く登校した。
「スーハー、スーハー……よしっ」
丹田に力を込め、気合を入れる。
時刻は朝の7時。朝練のある部活動に入っている生徒以外は、まだ家で支度をしている時間帯。当然、校舎内にはほとんど人影がなく、教室のドアも閉まっている。
それでも私は、一欠片の勇気と昨日の言葉を信じて、そのドアを開けた。
「え?」
間の抜けた声が聞こえた。朝日が差し込む黄色の教室には、一人の男子生徒が立っていた。
「お、おはよう。小鳥遊くん」
「お、おはよう……?」
まんまるに目を開いて私を見ているのは、昨日の夜も話した小鳥遊くんだ。その手には、ほうきとちりとりが握られている。
「私も、手伝うよ」
「へ? なんで?」
「た、たまたま早く起きたから」
足早に教室へ入り、自席に鞄を置くと、私は掃除ロッカーからほうきを取り出した。小鳥遊くんがはいていた教室前方とは逆の、後方から掃除を始める。
昨夜は、少しの間だけど、小鳥遊くんといろんな話をした。
今ハマっている小説と、それをコミカライズした漫画の話。猫が好きで、毎日寝る前には猫動画を見ていること。朝は早起きで、みんなより早く登校していること。綺麗好きであること。などなど。
その話の中で、私はピンと来た。いつも不思議に思っていたのだ。朝登校すると、教室が前日の放課後に比べて妙に綺麗なことに。
本当に、こんなことまでしてるなんて。
朝、教室のドアの小窓からのぞいて予想の正否を確認した時は驚いた。まさかとは思ったけれど、現実にそんなことをしている人がいるなんて思わなかった。
でも、さすがに本人の前で言うわけにはいかない。当人も褒められることは望んでいないだろうし、昨日の話も手伝ってほしいとかそういうことを期待したわけじゃないだろうから。
「小鳥遊くん、ちりとり貸して」
「え? あ、うん」
ぎこちない動作でちりとりを受け取る。なんだか恥ずかしい。私はちりとりを持ってからも、無言で教室の最後尾の列をはきつづけた。横目で小鳥遊くんの様子をうかがうと、彼も黙って黒板の下をはいていた。
放課後になると、私は決心の変わらないうちに校舎裏へと向かった。
「あ、いた」
校舎に沿うようにして植えられた垣根の下から、2つの小さな耳がひょっこり出ていた。
「わー可愛い」
続けて、丸くて黒い瞳と小さな髭が顔を出す。いつの日かに見た、あの野良猫だった。
これも、昨日の夜の話から予想したことだった。
前に小鳥遊くんが校舎裏で野良猫を撫でていたのは知っていた。あれ以来、この辺りにはなるべく近づかないようにしていたからわからなかったけれど、小鳥遊くんが毎晩猫動画を見るほどの猫好きなら、きっと一度ならず二度目以降も来ているはずだ。
そして、可能性として高いのは、きっとすぐ教室から出て行く放課後のはずで……。
「あれ? 雪城?」
「や、どうも」
思った通り、私が来て数分としないうちに小鳥遊くんがやってきた。なんだか、待ち構えていたみたいで気持ち悪いな、私。事実その通りなんだけど。
「どうしてここに?」
「んーん、たまたまだよ」
「ふーん」
朝に続いて苦しい言い訳かなと思ったけれど、小鳥遊くんは何も聞かなかった。もう少しだけなら、踏み込んでみてもいいかな。
「小鳥遊くんは、いつもこの子の面倒見てるの?」
「え、なんで?」
「えと、先々週だったかな。昼休みにたまたまこの辺りに用事があって、その時に小鳥遊くんを見かけたから」
バクバクと心臓がうるさい。猫を撫でる手に、じんわりと汗がにじむ。
「そうなんだ。まあ、うん。いつも、朝と、昼休みと放課後に見に来てる」
「え、朝も?」
すごい。じゃあ今朝はもっと早くに学校に来ていたのか。
「家じゃ飼えないし、餌をあげたり、ちょっと撫でたりするくらいだけどな」
「そっか。優しいんだね」
「……べつに」
不機嫌そうに、小鳥遊くんは明後日の方向を向いた。怒らせちゃったかな、と内心焦るも、頬が赤いのを見てすぐに照れているのだと気づく。意外と可愛いところがあるらしい。
「ね、私も猫好きでさ。たまに、ここに来てもいい?」
「べつに。野良猫みたいだし、好きにすればいいと思うよ」
「うん、わかった」
それからは、無言で猫の世話をする小鳥遊くんをなんとなく見ていた。
「小鳥遊くんってさ、昼間はすごくぶっきらぼうだよね」
「恥ずかしいんだよ。高校生って、そんなものでしょ?」
「えーそうかなあ」
その日の夜。また私は公園まで来ていた。今日は、小鳥遊くんが先にベンチに座っていた。
「そういう雪城だって、まさか朝に掃除に来るなんて思ってもみなかった」
「いやだから、あれはたまたま早起きしただけだって」
「放課後も?」
「うん、たまたまだよ」
「たまたま多いな」
「いいでしょ、べつに」
今になって指摘してくるのか。やっぱり小鳥遊くんには少し意地悪なところがあるらしい。
「でも雪城、少し柔らかくなったよ。一昨日会った時とか、挙動不審だったし」
「だ、だって小鳥遊くん、普段けっこう怖いから」
「それはごめんて。でも、今日とか普通に話しかけてくれたし、少しは軽減されたってこと?」
「んーまぁ、まだちょっと、怖いけど」
前よりは、大丈夫だと思う。
元々、怖さもさることながら、それ以上に恥ずかしさのほうが勝っている。最近はこうして夜に少し話すようになったし、慣れてきたけれど。
それに、もうひとつ。
「えー、そんなに怖い怖い言われるとわりと傷つくなぁー」
「ぜんぜん傷ついているように見えないけど」
「大正解。はははっ」
朗らかに笑う彼を見て、思う。
私も、こんなふうに笑えるだろうか。
笑えるように、なるだろうか。
私は、ずっと幸せになってはいけないと思って生きてきた。
兄の人生を犠牲にして成り立っている毎日。罪悪感を覚えない日はなかった。腹立たしかった。
だから、同じように、何かに怒っている小鳥遊くんが気になっていた。
そして最近は、それだけじゃなかった。
あの小鳥遊くんが、真夜中に会うといつも笑っている。笑顔になっている。
どうしてだろう。
なにが、彼を笑顔にさせるのだろう。
以前よりもっと気になっていた。もしかしたら、彼と過ごすうちに、私も心から笑えるようになるんじゃないだろうか。
兄の人生を犠牲にして、ただなんとなく過ぎていく毎日を変えられるんじゃないだろうか。少なくとも、そのヒントくらいは得られるんじゃないだろうか。
それに何より、小鳥遊くんと話せるのが純粋に楽しくて、嬉しかった。
「それでさ、良かったら明日は朝も猫見にこないか?」
「うん、そうだね。じゃあ行こっかな。起きれたら、だけど」
「おー、たまたまに期待してるよー」
「うるさい……です」
「あははっ! ですってなに、ですって」
「うるさい」
ずっとこんな日が続けばいいのにな。
柄にもない考えが浮かんで、私は恥ずかしくなって慌てて首を振って掻き消した。
また、小鳥遊くんが笑っていた。
*
翌日の早朝。
眠い目を擦りつつ、昨日よりもさらに早い時間に登校すると、本当に小鳥遊くんが猫の世話をしていた。
「雪城、来たんだ」
「うん。たまたま、目が覚めたから」
「そっか」
からかってくるかなと思ったけど、小鳥遊くんは相槌だけを返してきた。ちょっと、拍子抜けだ。
「ね。私もごはん、あげていい?」
「うん、どうぞ」
小鳥遊くんが空けてくれた隣にしゃがみ込む。彼の手からエサを受け取ると、用意されていた小皿にそっと乗せた。
「わっ、食べた!」
「そりゃあ、エサだし」
「わあっ、可愛い!」
茂みから顔だけ出していた猫は、ごはんを置くとすぐに出てきて夢中で食べ始める。そしてなくなると、催促するように上目遣いで見つめてくるのだ。私なんかと違って、すごく素直だ。可愛すぎる。
ついつい頬が緩み、ふわふわの毛並みを撫でていると、横から視線を感じた。
「ん? わわっ」
「あ、ごめん」
すぐ隣に、小鳥遊くんの顔があった。思っていたよりも近い……って、真横にしゃがんでいるんだから当然と言えば当然だ。
クラスメイトどころか家族にすら見せない緩み切った顔を見られ、頬が一気に熱くなる。
「って、あ。ごはん全部あげちゃったけど、大丈夫だった?」
「うん、大丈夫。ちょうど切れたところだったから。今日の放課後に買いに行こうと思ってたところ」
「へぇー、そうなんだ」
どうやら、買いに行くまでしてお世話をしているらしい。すごい。私には到底真似のできない清らかさだ。
「あの、さ」
「ん? なに?」
底なしの優しさに心の中で拍手を送りつつ、猫を撫でていると、ふいに小鳥遊くんがぎこちなく話しかけてきた。
「えっと、もしよかったら一緒に来る?」
「……へ?」
小鳥遊くんは、いつだっていきなりだ。
放課後。私と小鳥遊くんは、ショッピングセンターにあるペットショップに来ていた。
「わぁ……ペットショップって初めてきたけど、こんなにいろいろ売ってるんだね」
「うん。僕も最初来た時はびっくりした」
平日の夕方だからか、ペットショップはかなり空いていた。壁際に並べられたゲージでは、猫はもちろん、犬や鳥など様々な動物が不思議そうにこちらを見つめてきたり、気ままにおもちゃで遊んでいたり、ただただぼーっと立っていたりしていた。
「小鳥遊くんはペットとか飼ってるの?」
「昔は猫飼ってたけど、今は飼ってない。雪城は?」
「私の家は昔も今も飼ってないよ。結構親が厳しくて」
「そっか。親には左右されるよな」
「うん。だから、さっきの猫とか、ここの動物たちもすごく可愛くて、大人になったら飼いたいなーって思っちゃうくらい。あ、もしかして、だから誘ってくれたの?」
「あぁ、まあ。なんか、すごく嬉しそうにしてたし」
夜ほどじゃないけれど、学校から離れたからか、小鳥遊くんは少し話してくれるようになった。恥ずかしいのか、目はあんまり合わせてくれない。でも、やっぱり小鳥遊くんは小鳥遊くんで、私なんかにも優しくしてくれる。すごくいい人だ。
「さすが小鳥遊くん。ありがとうね」
「いや、いいけど。てか、そのさすがってなに」
「ううん。なんでもなーい」
誤魔化そうと、私は視線を逸らす。いつもついつい目で追っていて、その優しいところを知っているからだなんて言えない。それこそ、さすがに恥ずかしすぎる。
「ふーん、まあいいけど。それより、猫のエサはこっちだ」
「おーすごく種類があるね。なにが違うの?」
「んーとね、こっちはどちらかといえばおやつで、こっちがいわゆるキャットフードなんだ。それから……」
私の真横に来て、小鳥遊くんはいつになく饒舌に説明してくれた。その横顔からは、教室で見る不機嫌さはまったく感じられなかった。初めて公園で会った時とまではいかないけど、どこか子供っぽくすら思える。
「……ふふっ」
「え、なに?」
「あ、ごめんごめん。なんでもないよ。それより、どれにする?」
「なんか気になるけど……そうだな、これとかいいんじゃないかな。一番メジャーなやつだし、値段も手頃だし」
小鳥遊くんが手に取ったのは、真っ白な猫のイラストが描かれたキャットフードだった。他のものに比べて安く、量もそこそこ多い。
「よし、じゃあそれにしよう。私も半分出すよ」
「え? いや、いいよ。大した金額じゃないし」
「金額の問題じゃなくて、私もごはんをあげたいから出すの。いいでしょ?」
「ま、まぁ……」
まだ何か言いたげな小鳥遊くんの手に、私は千円札を握らせた。慌てる彼の反応が、少し面白い。
久しぶりに、心から楽しさを感じていた。
不思議といつもほどの罪悪感はなくて、もう少しだけこうしていたいと思った。
「ねっ、もしまだ時間あったら本屋に寄ってもいい?」
「いいけど、何買うの? 参考書?」
「ううん。ほら、前に小鳥遊くんが言ってたオススメの本を教えてほしくて」
本当に、あと少しの時間だけ。
本屋に寄って、前に小鳥遊くんがハマっていると言ってた小説と漫画を教えてもらうだけ。
それと、また嬉しそうに話す小鳥遊くんの表情が、見たいだけ。
純粋にそう思ってした、提案だった。
「僕、雪城にオススメの本なんて言ったっけ?」
「……え?」
ひゅっと、背中に微かな冷気が走った。
気のせいだと、思うことにする。
「あ、その……ほら、一昨日、だったかな? 夜に、公園で、教えてくれたやつ。小説と、なんだっけ……そう! 漫画! コミカライズされたって言ってた! それ、教えてよ!」
忘れてるだけで、思い違いをしているだけで。
あるいは、またちょっとショックだけど、知らないふりをしているだけで。
「ごめん。いったいなんのこと? 僕、夜中に公園で雪城と会ったこと、ないけど」
心に宿っていた温かさが、一瞬で凍りついた。
*
今日も、月が夜空に輝いていた。
肌寒い気候も、星空を流れる薄い雲も、人ひとり通らない静まり返った住宅街も、何もかもがいつも通りだった。
そう、ここ数日と、何も変わっていない。
違うのは、私の心の中くらいだ。
「小鳥遊、くん……」
月光が照らす夜道には、私ひとりの足音だけが響いている。
向かう先は、いつもの公園。
兄が私を見つけてくれた公園で、小鳥遊くんと初めてまともに話した公園だ。
……本当に?
本当にあれは、小鳥遊くんなのだろうか。
今日の放課後に、私は小鳥遊くんとキャットフードを買いに行った。楽しく話せるだけで良かった。夜の時みたいに、昼間でもお話ができるようになれたら、嬉しかった。
でも、現実は想像とまったく異なっていた。
「夜中に公園で会ったことない、か……」
小鳥遊くんは、確かにそう言っていた。
驚いた顔をしていた。もしくは、恐怖かもしれない。
当然だ。これまでクラスでしか会ったことない女子から、真夜中の公園で話したことあるよねとか言われたら、誰だって驚くし、怖くなる。何言ってんのこいつ、って思うのも当たり前。初めて教室で話しかけた時に言われたのは、知らないふりなんかじゃなくて、素直な反応だったわけだ。
結局、ショッピングモールでキャットフードを買ったあとは気まずくなって、なんとなく解散になった。もう少し詳しく話を聞きたい気持ちもあったけど、私自身、頭の中が混乱していて独りになりたかった。小鳥遊くんも、私の様子を察してか深くは追求してこなかった。
それからは、家に帰ってひたすら考えを整理していた。宿題なんかそっちのけで、夕ご飯も何を食べたか覚えていない。ベッドの上で毛布を被り、足を抱えてあれこれ考え込んでいたら、いつの間にか深夜になっていた。
そして毎度のごとく、考えのまとまらないまま私は真夜中の町を徘徊している。足の先が、いつの間にかあの公園へと向かっているのは、無意識のうちに「彼」に会いたいと思っているからだろう。会ってどうするのかは、何も決まっていないのに。
ただ、今日彼に会えば、何かが変わってしまう。
それだけは、確かだった。
彼は、いったい何者なんだろうか。
少なくとも、昼間私と一緒にクラスで授業を受けている小鳥遊くんではない。それは、今日の小鳥遊くんの反応が証明している。
じゃあ、いったい誰なのか。
よく笑うところ以外、外見は瓜二つだ。背格好も声も変わらない。
まるで双子。
一番可能性があるとすれば、その辺りだろう。双子とか、兄弟とか、親戚とか。
でも、彼はクラスでの私のことを知っている。しかも、小鳥遊くん自身のこともよく知っている。本人しか知りえないような、細かいことまで。
「っ……はぁー」
わからないし、怖い。
……本当に、いいのだろうか。
ようやく、心安らぐ時間が見つけられたのに。
まだ3日間しか会っていないけれど、私は彼と過ごす時間が楽しかった。
今日も、普通に会って、普通に話して、普通にバイバイして。そんなふうに、過ごせたら……。
「……あ」
公園の入り口に立つ街灯の下で、ひとりの人が佇んでいた。
遠目でもわかる。あれは、間違いなく。
「こんばんは、雪城」
「小鳥遊、くん……」
毎晩会って、話していた、彼だ。
「ん? どうかした? なんか顔真っ青だけど、大丈夫?」
「え、ああ、うん。大丈夫」
大丈夫なわけがない。既に、私の心臓はバクバクと大きな音を立てている。
何を、何を話せば……。
頭がぐるぐるする。春、というかほとんど冬に近い気温なのに、手汗がにじむ。背中にも、変な汗が流れていて気持ち悪い。
そんな私の心境をよそに、目の前に立つ彼は朗らかに笑っていた。
「今日さ、猫、見に来てくれてありがとうな。あいつ、人懐っこくて寂しがり屋だから、時間空いた時にでも来てくれると助かる」
「う、うん」
話の内容は、今日小鳥遊くんと一緒にお世話をした猫のこと。昼間は表面的なことしか話せなかったけど、今は猫の性格とか好きなおやつとか、いろんなことを話してくれた。本当に、いつもと変わらない。
「それでさ、一応俺、土日は昼だけ見に行ってるんだ。ずっと野良猫してたから多分大丈夫なんだけど、心配だし……」
猫好きなところも変わってないし、優しいところも同じ……。
……あれ。
「そうだ。その、もし雪城が良ければだけど、今週の昼とか見に行ってくれないかな? 俺も遅れてだけど行くから、少しの間だけ猫のこと見ててほしくて」
また、だ。
私は、ぎゅっと手を握った。
小さなことだけど、これもきっと、そういう意味なんだろう。
「……えと、小鳥遊くん」
「うん?」
彼が笑う。柔らかくて、穏やかな笑顔だ。吸い込まれそうなくらいに。
「あのね。もう……いいよ」
私の口からこぼれ落ちたのは、そんな言葉だった。
「えと、もういいっていうのは?」
数十秒ほどの間をあけて、彼はようやく口を開いた。
私も、意を決して正面から彼を見据える。
「そのままの意味。あなたは、小鳥遊涼くんじゃない。そうでしょ?」
「……なんで、そう思うの?」
彼は問う。もうその問いかけ自体が、答えだ。
「だって、今のあなたは、小鳥遊くんじゃないから。私の様子が変なのを知ってて、そのまま自分の話をするようなこと、しないでしょ。それに、小鳥遊涼くんは、自分のことを『僕』って呼んでるよ」
ついさっき、気づいたことだ。
小鳥遊くんは、昼間、自分のことを「僕」と呼んでいた。でも、彼は自分のことを「俺」と呼ぶ。すごく単純なことだけど、一人称が同じ人で違うなんてことは少ない。
そしてなにより、今の彼は、どうしようもなく「らしくなかった」んだ。
「私ね。ずっと小鳥遊涼くんのことが気になってた。まるで、自分の姿を見てるみたいで。ずっと不機嫌そうにしてるのは、自分に怒っているみたいで。そしてそれは、私にとってもすごくわかる気持ちだったんだ……」
心の奥底に溜まり続けている罪悪感。
兄の人生を犠牲にして生きている限り、この感情はきっとこれからも消えてくれないのだろう。
「でもね。真夜中に会った小鳥遊くんは別人みたいだった。明るくて、笑顔に溢れてて、自分の好きなものを好きと言える、普通の高校生だった」
あの時は、本当に心底驚いた。
わずか3日前の出来事なのに、遠い過去のように思えた。
「羨ましかったなー。どうしたら、私も小鳥遊くんみたいに笑えるようになるんだろうって。どうしたら、私も変われるかなって。小鳥遊くんと一緒にいたら、それがわかるかもって、思ってた。最低だよね」
もちろん、それだけじゃない。
小鳥遊くんと一緒にいる時間が楽しくて、心の中にわだかまっている嫌な感情を忘れて、ただお喋りに夢中になれる、そんな時間が好きだった。
だけど。一番の理由はやっぱり、どうしようもなく打算的で、自分勝手なものだった。
「本当に自己中で、ごめんなさい。でも、そんなわがままを通すなら、最後まで貫かせてほしい。あなたが小鳥遊くんじゃないなら、やっぱり小鳥遊くんは、笑えてないってことなのかな? やっぱり私は、いつまでも笑えないって、ことなのかな……? この気持ちは、罪悪感は……いつまでも、ずっと、消えてくれないって……そういう、こと」
「違うっ!」
真夜中の公園に、ひときわ大きい声が響いた。
「そんなことない! 違う! まったく違う! ちげぇよ! 雪城も、涼も、ぜんぜん違うんだよっ……!」
「え、え?」
彼の、今まで見たことないほどの形相に、思わず後ずさる。その表情は強張っていて、怖くて、とても悲しそうで……。
「他人のためじゃねえ。自分の、自分のために生きろよ。何勝手に、自分のせいだって決めつけてんだよ!」
その勢いのまま、彼は手を大きく振り払った。
「……え?」
男子高校生らしい力強い腕は、私の右腕に当たることなく、そのまま通り抜けて空を切った。
衝撃も、感触すらなかった。
呆然と、私は彼を見上げていた。
「……ハッ。ようやく、か」
そこで、彼はふっと息をついた。今ほどまで浮かんでいた怖くて悲しい表情が抜け、穏やかな笑顔が戻る。
その視線の先は、私……ではなく、その後ろ。
「もしかして……翔、か?」
振り返ると、小鳥遊くんがいた。
息が、つまりそうだった。
*
真夜中の公園を、月明かりばかりが照らしていた。
風はなく、音もない。
ただ静かに、寒さをまとう春の夜の時間が、そこにはあった。
「どうして? なんで、翔が……。だって、翔は、翔は……」
「死んだはずなのに、ってか?」
目の前に立つ彼が、ニカッと笑う。快活な笑顔。言葉とのミスマッチが激しい。
「って、ええっ!? 死んだはずって、えっ? えぇ?」
「はははっ、雪城も相変わらずいい反応するなあ。ほんともったいない。でもまぁ、ここまで来たら話すよ、全部。嘘ついてた理由も」
あけすけに笑ってから、彼は私のほうに向かって歩いてきた。びっくりして避けるも、彼は私の腕と足を通り抜け、そのまま公園の入り口付近で立ち尽くす小鳥遊くんの前まで歩を進めた。
「涼、最初に言っておくが、俺は死んだ。10年前にな。理由もお前の記憶通り、飼い猫だった"みーた"が脱走して俺とお前で探しに出て、その途中で俺はこの近くの交差点で車に撥ねられた。それで死んだ」
「……だよ、な。じゃあ、なんで……?」
「なんでもなにも、お前がだらしないからだ」
夜でもわかるくらい真っ青な小鳥遊くんに、彼はぴしゃりと言い放った。
「お前さ、何様のつもりなんだよ。確かにあの時、みーたはお前がドアを開けた隙に逃げ出した。でもそれだけで、なんでお前がそこまで自分を責めてんだよ。悪いのは、みーたを見つけて道路に飛び出した俺だろーが」
「違うっ! 悪いのは僕だっ! 僕が、あの時、みーたを逃さなかったら……翔が車に撥ねられることも、なかったんだ……」
小鳥遊くんの悲痛な叫びが耳を衝いた。胸の前で、思わず手を握る。
ようやくわかった。
そうだったんだ。だから小鳥遊くんは、あんなに自分に怒っていたんだ。
小鳥遊くんの瞳から涙が伝った。
気持ちが、痛いほどに伝わってきた。
誰かの人生を犠牲にして、自分が生きる。大切な人の人生が、自分のせいで狂わされる。それは、生き地獄そのものだ。
「まあ確かに、その可能性はある。もしあの時、涼がドアを開けるのを待っていれば、みーたは逃げなかったかもしれない。そして俺は、確かに轢かれなかったかもしれない」
「だ、だろ。だったら……」
「ハッ。だからどうしたってんだ」
彼が、嫌味っぽく笑った。
「思い上がりも大概にしろ。そんなたられば言ってても仕方ねーだろーが」
さらに数歩、彼は小鳥遊くんとの距離を詰めた。その表情には、怒りがこもっていた。
「どこの世界に、最善手だけ選んで生きてる人間がいるんだよ。神様じゃねーんだよ。まして、死んで幽霊になってても無理なくらいなんだよ。傲慢すぎるんだよ、お前は」
怒涛の勢いで、彼は小鳥遊くんに詰め寄った。さすがに、これは……。
「で、でも……僕が」
「でももだってもねーよ。うだうだ悩んでる暇があったら、少しでも有意義に楽しく毎日を過ごせよバーカ。はっきり言ってな、お前みたいなの見てるとイライラするんだよ。ほんと何様だよ、まったく」
「……い、言い過ぎだよ!」
私は、思わず声をあげた。土を蹴って小鳥遊くんに駆け寄ると、彼との間に割って入った。もう聞いていられなかった。
「あ、あなたに、小鳥遊くんの何がわかるの! 小鳥遊くんは、ずっと悩んでたんだよ! 授業中も、休み時間も、放課後も、大好きな猫と一緒にいる時だって! すごく、苦しそうにしてたんだから!」
感情が口から漏れ出す。言葉を考える前に、こぼれ落ちて音になる。もう、止められなかった。
「大切な人の人生を犠牲にして、それでも生きないといけないって、すごく苦しいんだから。自分の気持ちとか全部押し殺して生きていくって、すごく辛いんだから。あなたに生きてほしいって、自由に生きてほしかったって、いつもいつも、思ってて。それなのに、小鳥遊くんは優しくて、私なんかよりもっと苦しんでるのに、そんな酷いこと言わないで!」
息が切れる。冷たい空気ばかりを吸い込んで、喉が、肺が痛い。ヒリヒリと胸も焼けている気がする。
嘘だ、と思った。
同時に、嘘じゃない、とも思った。
これは、確かに私が思っていたことだ。気持ちだ。
でも、本当は、私が聞きたくなかっただけだ。
彼の、小鳥遊翔くんの言葉は、そのどれもが私にも向けられている気がしてならなかった。
痛かった。
苦しかった。
そんなこと、言わないでほしかった。
「もっと、小鳥遊くんの気持ち、考えてよ……」
本当は、私が私のために言った言葉だった。
どこまでもズルい女だな。そう思った。
一通り叫び終えると、静けさが辺りに満ちていった。
小鳥遊くんも、翔くんも、何も言わない。
心が、頭が、冷えていく。
……これ、どうしたらいいんだろう。
「……くっ」
「え?」
笑い声が聞こえた気がして、私は顔を上げた。
「ははははははははっ!」
「え、ええっ!?」
突然、翔くんが笑い出した。今までで、一番大きくて楽しそうな笑い声だ。私は戸惑った。
「ははははっ、あーおかしいっ。ククッ、やっぱ雪城、面白いよ。ほんと」
「お、面白いって、私は本当に……」
「あぁ、出せたじゃん。本当の自分」
「え?」
彼の言葉に、首を傾げる。
「雪城も、涼と同じでずっと何かに悩んでたみたいだったからな。放っておけなかった。少し笑ってくれたり、ちょっとだけ話してくれたりはするけど、自分のことは全然言わないじゃん。こっそり盗み見てた涼と同じ顔してたから、同じようなことで悩んでるんだろうなって思ってさ」
「え、同じようなことって……雪城、それほんと?」
「え、あ、えと……まあ」
しまった。勢いでいろいろ言ってしまったけど、自分のことを話す心の準備はしていなかった。私の場合、兄は生きているし、さすがにこの場で言えるようなことじゃない。
「おい、涼。そういう詮索はもっと仲良くなってからだろ。それより、もっと大事なことに気づけよな」
「大事な、こと?」
「え? なに?」
思わず私も訊いてしまう。え、なに、怖い。
「雪城は、どうやら授業中も休み時間も放課後も涼のこと見てたらしいぞ~。それも、表情がわかるくらいには真剣に」
「え?」
「あ、あーーーっ!」
しまった! そうだ! そういえば私、そんなこと言ってた!
「ちょっ、なし! あれは、なんというか、そう、勢いで!」
「本当の気持ちを言ってしまった、と」
「ちっがーう!」
「ははははっ!」
大失態だ。勢い余って、盛大に誤爆してしまった。しかも本人を前にして口にしてしまうとか、公開処刑そのものだ。
もう小鳥遊くんのほう見れない……。
私が右往左往していると、ようやく意地悪そうに笑うのをやめた翔くんが小さくため息をついた。
「まっ、つまり、そんくらいでいいんだよ。そんくらい肩の力抜いて適当に、そして自分のために真剣に生きろよ。お前らが思ってるように、俺だってさ、涼や雪城には自由に楽しく生きていてほしいんだ」
「あ……」
「翔……」
翔くんの身体が、透けていた。
向こう側には、白んだ空が見えた。
「ははっ。まぁ、今すぐにってわけじゃない。ゆっくりでいい。自分のペースで、ゆっくり自分を許してやってほしい。少なくとも俺はそう思ってるし、きっと雪城が考えてる相手も、同じだと思うぞ」
「え、なんで……」
「だって、雪城が罪悪感を持ってしまうほど、大切に思ってる人なんだろ? だったら相手も同じくらい大切に思ってるはずだ。そんな人が、雪城に楽しく自由に生きてほしくないわけがない、だろ?」
「あ……」
随分と薄くなった翔くんの顔が、いつの日かの兄の笑顔と重なった。
確かにあの日、私を迎えにきてくれた兄も、優しく笑っていた。
「じゃあな、涼。ずっと見てるからな。雪城の笑顔を最初に引き出したのは俺だけど、その先は任せた。泣かすんじゃねーぞ!」
「うっせ。……その、ありがと、翔」
「ああ」
二人が笑い合う。心が暖かくなった。
もう、翔くんの姿はほとんど見えない。
「んじゃな、雪城。たった4日だけど、いろいろ話せて楽しかった。ありがとな」
「私も楽しかったよ。こちらこそ、ありがと……」
お礼を言い切る前に、翔くんは朝日の中に溶けていった。
夜が、明けた。
「……小鳥遊くん」
「……なに?」
「途中まで、送ってくれないかな?」
「……ああ、もちろん」
私たちの夜明けも、そう遠くない。
そんな気がした。
応援ありがとうございます!
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