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第1部:【知恵】泥を這う、高みの見物
第10話:蛇の愉悦
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文化祭を目前に控えた放課後の教室は、熱病のような浮き足立った空気に包まれていた。
段ボールやペンキの匂い、無理に声を張り上げる実行委員たちの指示。黒瀬凪は、その喧騒から一歩引いた壁際で、静かにその瞬間を待っていた。
舞台の中央には、今日も安堂朔夜がいた。
だが、その輪郭はどこか危うい。昨日まであった「光」は消え、どす黒い静寂が彼の身体に纏わりついている。
「あ、安堂! 悪い、この看板の装飾、今日中にやっといてくれよ。俺らこれから打ち上げ……じゃなくて、買い出しに行かなきゃいけないからさ」
実行委員の佐藤が、馴れ馴れしく安堂の肩を叩く。その周囲の連中も
「さすが安堂だよな」
「お前がいれば安心だわ」
と、無責任な賞賛を投げ、自分たちの仕事を押し付けて教室を出ようとした。
その時だった。
「……ふざけるなよ」
地を這うような低い声が、教室の喧騒を凍りつかせた。
全員の視線が安堂に集まる。安堂は、佐藤の手を乱暴に振り払い、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、かつての温厚な輝きなど微塵もなく、煮えたぎるような憎悪が宿っていた。
「……安堂? 急にどうしたんだよ、冗談だろ?」
「冗談? ……ああ、冗談だな。君たちの存在そのものが、反吐が出るほど滑稽な冗談だよ。佐藤。君は自分の足で買い物に行く知能もないのか? それとも、俺のことを自分の欠陥を埋めるための便利な部品だとでも思っているのか?」
教室中が、水を打ったように静まり返った。
安堂の口から放たれたのは、これまで彼が飲み込んできた「言葉の泥」そのものだった。
「いつもいつも、『安堂ならいいだろ』って。感謝してるようなふりをして、内心では僕を見下して利用している。……気づいていないとでも思ったか? 君たちのその醜い顔、その汚い本音。全部、透けて見えてるんだよ」
「朔夜くん……! やめて、どうしちゃったの……!」
一ノ瀬唯花が、震える声で安堂の腕を掴もうとした。だが、安堂はその手を、まるで汚らわしいものを見るような目で一蹴した。
「唯花、君もだ。……君のその『心配してます』っていう顔。それが一番気持ち悪いんだよ。君は僕を助けているつもりで、実際には自分に酔っているだけだ。僕を理想の王子様という檻に閉じ込めて、満足している。……僕の本当の苦しみなんて、君は一度だって考えたことがないだろう!」
「……っ、そんな……私、私はただ……」
唯花はその場に泣き崩れた。
安堂はそんな彼女を一顧だにせず、手近にあった制作途中の看板を、力任せに床へと叩きつけた。ベニヤ板が真っ二つに割れる不快な音が響く。
「もうやめだ。……こんな茶番、勝手に自分たちだけでやってろ」
安堂は呆然とする生徒たちを突き飛ばし、嵐のような足取りで教室を去っていった。
後に残されたのは、崩壊した制作物と、唯花の泣き声、そして「あいつ、何様だ?」という、さっきまでの賞賛が嘘のような、周囲の冷たい手のひら返しだった。
黒瀬凪は、その全てを壁際で見届けていた。
(……素晴らしい。実に、美しい墜落だ)
黒瀬の口角が、無意識に吊り上がる。
安堂が初めて見せた、むき出しの醜悪。唯花が初めて直面した、自分への拒絶。
二人の間にあった偽りの楽園は、今、完全に瓦解した。黒瀬が望んだ通り、彼らはその美しい無垢を剥ぎ取られ、裸のまま泥沼へと叩きつけられたのだ。
黒瀬は、床に散らばった看板の破片を見下ろした。
自分の内側から溢れ出すのは、これまでにないほどの濃厚な愉悦。そして、自分の「知恵」が正しかったという、孤独な証明。
(ほら、安堂。君の楽園は、こんなにも脆かった。……君が憎んでいたもの、君が恐れていたもの。全てを吐き出した今の気分は、どうだい?)
黒瀬は、まだ教室で泣き続けている唯花を一度だけ一瞥し、静かに踵を返した。
「蛇の愉悦」は、まだ始まったばかりだ。
二人は今、ようやく黒瀬と同じ「孤独」の入り口に立った。
外に出ると、雨は上がっていた。
湿ったアスファルトの匂いと共に、黒瀬凪は満足げに深呼吸をする。
段ボールやペンキの匂い、無理に声を張り上げる実行委員たちの指示。黒瀬凪は、その喧騒から一歩引いた壁際で、静かにその瞬間を待っていた。
舞台の中央には、今日も安堂朔夜がいた。
だが、その輪郭はどこか危うい。昨日まであった「光」は消え、どす黒い静寂が彼の身体に纏わりついている。
「あ、安堂! 悪い、この看板の装飾、今日中にやっといてくれよ。俺らこれから打ち上げ……じゃなくて、買い出しに行かなきゃいけないからさ」
実行委員の佐藤が、馴れ馴れしく安堂の肩を叩く。その周囲の連中も
「さすが安堂だよな」
「お前がいれば安心だわ」
と、無責任な賞賛を投げ、自分たちの仕事を押し付けて教室を出ようとした。
その時だった。
「……ふざけるなよ」
地を這うような低い声が、教室の喧騒を凍りつかせた。
全員の視線が安堂に集まる。安堂は、佐藤の手を乱暴に振り払い、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、かつての温厚な輝きなど微塵もなく、煮えたぎるような憎悪が宿っていた。
「……安堂? 急にどうしたんだよ、冗談だろ?」
「冗談? ……ああ、冗談だな。君たちの存在そのものが、反吐が出るほど滑稽な冗談だよ。佐藤。君は自分の足で買い物に行く知能もないのか? それとも、俺のことを自分の欠陥を埋めるための便利な部品だとでも思っているのか?」
教室中が、水を打ったように静まり返った。
安堂の口から放たれたのは、これまで彼が飲み込んできた「言葉の泥」そのものだった。
「いつもいつも、『安堂ならいいだろ』って。感謝してるようなふりをして、内心では僕を見下して利用している。……気づいていないとでも思ったか? 君たちのその醜い顔、その汚い本音。全部、透けて見えてるんだよ」
「朔夜くん……! やめて、どうしちゃったの……!」
一ノ瀬唯花が、震える声で安堂の腕を掴もうとした。だが、安堂はその手を、まるで汚らわしいものを見るような目で一蹴した。
「唯花、君もだ。……君のその『心配してます』っていう顔。それが一番気持ち悪いんだよ。君は僕を助けているつもりで、実際には自分に酔っているだけだ。僕を理想の王子様という檻に閉じ込めて、満足している。……僕の本当の苦しみなんて、君は一度だって考えたことがないだろう!」
「……っ、そんな……私、私はただ……」
唯花はその場に泣き崩れた。
安堂はそんな彼女を一顧だにせず、手近にあった制作途中の看板を、力任せに床へと叩きつけた。ベニヤ板が真っ二つに割れる不快な音が響く。
「もうやめだ。……こんな茶番、勝手に自分たちだけでやってろ」
安堂は呆然とする生徒たちを突き飛ばし、嵐のような足取りで教室を去っていった。
後に残されたのは、崩壊した制作物と、唯花の泣き声、そして「あいつ、何様だ?」という、さっきまでの賞賛が嘘のような、周囲の冷たい手のひら返しだった。
黒瀬凪は、その全てを壁際で見届けていた。
(……素晴らしい。実に、美しい墜落だ)
黒瀬の口角が、無意識に吊り上がる。
安堂が初めて見せた、むき出しの醜悪。唯花が初めて直面した、自分への拒絶。
二人の間にあった偽りの楽園は、今、完全に瓦解した。黒瀬が望んだ通り、彼らはその美しい無垢を剥ぎ取られ、裸のまま泥沼へと叩きつけられたのだ。
黒瀬は、床に散らばった看板の破片を見下ろした。
自分の内側から溢れ出すのは、これまでにないほどの濃厚な愉悦。そして、自分の「知恵」が正しかったという、孤独な証明。
(ほら、安堂。君の楽園は、こんなにも脆かった。……君が憎んでいたもの、君が恐れていたもの。全てを吐き出した今の気分は、どうだい?)
黒瀬は、まだ教室で泣き続けている唯花を一度だけ一瞥し、静かに踵を返した。
「蛇の愉悦」は、まだ始まったばかりだ。
二人は今、ようやく黒瀬と同じ「孤独」の入り口に立った。
外に出ると、雨は上がっていた。
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