虚ろな檻と翡翠の魔石

篠雨

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第1章

第9話:曇り硝子の向こう側

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 書庫という名の「死者の知恵」が眠る場所に通い詰めるようになってから、数日が過ぎた。 

 指先を這わせる医学書の冷たい頁の感触だけが、僕に「自分以外の知性」との繋がりを思い出させてくれる。魔法が万能を誇るこの世界で、あえて不自由な肉体と対峙しようとした先達の記録。その部屋は、塔という名の牢獄の中で唯一、僕を「魔力という名の資源」ではなく「思考する人間」として扱ってくれる聖域になっていた。

 けれど、その聖域に身を置けば置くほど、僕の心には拭い去れない飢餓感が募っていた。 

 視線の先にある、この部屋の窓だ。 

 天に向かって高く、切り裂くように細長いその窓は、何十年もの風雨に晒され続けてきたのだろう。降り積もった砂埃と、凍りついた雨垂れの跡が幾層にも重なり、硝子は真っ白に曇りきっている。外界と僕を隔てる、無慈悲な白壁のように。

「……外が、見たいな」

 静寂を破った自分の声の、あまりの掠れ具合に、僕は自分自身で驚愕した。 

 ここに来てからというもの、僕の喉は呼吸をするためだけに機能し、言葉を紡ぐことを忘れていた。独り言でさえ、どこか異国の言葉のように耳に響く。このまま誰とも話さず、何も見ず、自分という存在が希釈されて消えてしまうのではないか――そんな、底なしの恐怖が背筋を伝った。

 僕は二階の台所から持ってきた、使い古しの薄汚れた布切れを固く握りしめ、窓の前に立った。 

 窓枠は煤け、炭のように黒ずんでいる。指をかけると、芯まで冷え切った鉄の感触が、容赦なく指の節々を突き刺した。 

 かつてこの部屋で医学を志した人は、どんな思いでこの窓に手をかけたのだろう。絶望に震える手だったのか、それとも未来への希望を抱いた手だったのか。

 僕は、一番汚れのひどい箇所に布を押し当て、全身の体重を乗せて擦り始めた。  

ギィ、ギィ……ッ。 

 乾いた硝子と布が擦れ合う、不快で耳障りな音が、静まり返った書庫の天井に跳ね返る。 

 一度や二度擦った程度では、長年こびりついた汚れはびくともしない。僕は肩の関節が悲鳴を上げ、腕の感覚が失われていくのも構わず、何度も、何度も、呪いをなじり落とすように繰り返した。 

 そして、ようやく――。指先ほどの、小さな、小さな一角だけが、宝石のような透明な輝きを取り戻した。

「あ……っ」

 その針の穴のような隙間から、鮮烈な「色」が僕の網膜を打った。 

 それは、暴力的なまでに鮮やかな青だった。 

 王都の煤煙に汚されたくすんだ空ではない。凍てつくほどに澄み渡り、凛と張り詰めた、冬の終わりの空。境界線のない、自由そのものの青だ。

 僕は取り憑かれたように、窓を拭き続けた。 

 腕の筋肉は熱を持ち、心臓は破裂しそうなほどに早鐘を打つ。魔力を根こそぎ奪われ、抜け殻となったこの体にとって、ただ窓を拭くというだけの作業が、まるで峻険な山を登るような、命を削る大仕事に感じられた。 

 脂汗が顎をつたい、床に落ちる。視界が明滅し、酸欠で頭がふらついても、僕は手を止められなかった。

 ようやく窓の半分ほどが、本来の透明度を取り戻し、外の世界を僕の瞳に受け入れた、その時だった。

 ――コツン。

 乾いた、無機質な音が、硝子のすぐ向こう側で響いた。

 僕は心臓を鷲掴みにされたような衝撃に、びくりと肩を震わせて後ずさった。 

 誰かが、外にいる。 

 ありえない。ここは塔の三階、地上からはるか高い場所だ。人間が足場もなく立てるはずがない。

 ……脳裏に、あの冷酷な騎士団長の宣告が蘇る。 

『お前だけは中から出られない。結界が張ってある。ここは生者のための場所ではないのだ』

 僕はこの世界から、この塔から、明確に拒絶されている。 

 外から聞こえるこの異音は、結界を揺るがした不届き者への「罰」の予兆だろうか。それとも、僕をさらに深い絶望へ追い落とすための死神の合図か。

 僕は震える手で、黒く汚れた布を胸元で握りしめたまま。 

 ようやく手に入れたばかりの、透明で残酷な硝子の向こう側を、ただ怯えるように、祈るように見つめ続けた。
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