虚ろな檻と翡翠の魔石

篠雨

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第1章

第8話:古書の残り香

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 静寂が支配する書庫の中で、僕はひたすらに医学書と対峙していた。 

 震える指先で一文字ずつ、まるで消え入りそうな命の灯火を拾い集めるように丁寧に、その記述を追っていく。娯楽も、語らう相手も、明日を保証する希望も何ひとつないこの檻において、古びた羊皮紙に刻まれた文字の列だけが、僕の精神をこの世界に繋ぎ止めるための唯一の綱――切れることの許されない生命線だった。

 頁をめくるたび、僕は魔法という名の全能感に支配されたこの世界の「裏側」を覗き見るような、背徳的な驚きに突き当たった。 

 この国では、赤子が産声を上げる瞬間から、死を看取る最期まで、あらゆる苦痛は魔導師の放つ「治癒魔法」によって瞬時に消し去られるのが当然の摂理だ。けれど、この本に記されていたのは、その神の如き業とは対極にある、あまりに泥臭く、あまりに人間臭い「足掻き」の記録だった。

 魔力に頼ることなく、鋭利な針と細い糸を用いて、裂けた肉を力技で縫い合わせる外科的手法。 

 土にまみれた薬草をすり潰し、その苦い汁を熱病の者に啜らせて快復を待つ、気の遠くなるような忍耐の医学。 

 そこには、魔法という奇跡から見捨てられた者たちが、それでも「生きたい」と願った執念の結晶が、恐ろしいほど緻密な、血の通った筆致で刻み込まれていた。

「すごいな……。魔法という『神の恵み』を奪われてなお、人はこれほどまでに、誰かを救うための理を積み上げられるものなんだ……」

 その歪なまでの情熱は、魔力を奪われ、ただの効率のいい「使い捨ての電池」としてこの塔に放り込まれた僕にとって、直視しがたいほど眩しく、それでいて心強いものだった。

 ふと、指先に紙とは違う、カサついた異質な感触が触れた。 

 慎重に頁を開くと、そこには一枚の栞が眠っていた。 

 押し花にされた、小さな青い花。かつては鮮やかだったであろうその花びらも、今は色を失い、透き通るような薄茶色に変色している。触れれば粉々に砕けてしまいそうなその脆さは、ここでかつて生きていた先住人の、ひそやかな心の欠片のようにも思えた。

「……貴方も、この景色を見ていたの? 寂しいのは、僕だけじゃないんだよね」

 こぼれ落ちた独り言は、窓から差し込む塵の舞う光の中に溶け、答えのない静寂に吸い込まれた。 

 もし、この本の持ち主がまだ時を超えてここに座っていたなら、僕たちはどんな会話をしただろう。魔法のない不便さを呪う代わりに、火を使わずに暖を取る知恵を教わり、塔の窓から見える不自由な空の美しさを分かち合えただろうか。

 僕は名残惜しさに胸を締め付けられながらも、本を机の定位置へと戻した。 

 この机に刻まれた無数の傷やインクの染みが、かつてここで誰かが必死に生きていた証なのだ。ここに眠る知識は、魔法という武器を奪われた僕にとって、唯一の盾になるかもしれない。そんな、今の境遇には似つかわしくない根拠のない希望が、凍てついた僕の心臓の奥に、微かな熱を灯した。

 その時だ。  厚い石壁と、煤けたガラスの向こう側から「バサバサッ」という、乾いた羽ばたきの音が、鼓膜をわずかに震わせた。   

「……っ、鳥?」

 弾かれたように顔を上げたが、窓は積年の汚れと埃に塗りつぶされ、外界の景色を拒絶している。 

 空腹が見せた幻覚か、それとも孤独が作り出した幻聴か。僕は一度激しく波打った動悸を落ち着かせるように、細い胸に手を当てた。

 今日、僕が呼吸することで動いた書庫の空気。 

 今日、僕が触れた、かつての誰かの知恵の感触。 

 それだけが、この孤独の牢獄において、僕が「魔力を持つだけの物体」ではなく、まだ心を持つ「人間」であることを繋ぎ止めてくれる、すべてだった。
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