虚ろな檻と翡翠の魔石

篠雨

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第3章

第70話:束の間の安らぎ

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「……ん……っ」

 深い眠りの底から、重い瞼をゆっくりと押し上げた。視界が白く霞む中、まず最初に脳が認識したのは、頭頂部に置かれた誰かの手の、驚くほど確かな重みと心地よい熱だった。
 その大きな掌は、壊れやすいガラス細工に触れるかのように、躊躇いながらも優しく、慈しむように何度も僕の髪を撫でていた。

「今回は……あまり苦しそうな顔をしていなかったな。……少しは、穏やかな夢でも見ていたのか」

 覗き込んできたヨハンの声は、ここ最近の刺すような鋭さが消え、ひどく掠れて低かった。黄金の瞳が、安堵したようにゆっくりと細められる。
 久しぶりに間近で見る、彼のあの穏やかな、そしてどこか不器用な優しさが滲み出た表情。

 あの日、魔石化の提案で喧嘩別れをしてからというもの、ずっと見ることができなかった「僕の知っているヨハン」の顔がそこにあって、僕は溢れ出しそうな嬉しさを抑えきれず、自然と柔らかな笑みをこぼしていた。

 今日も彼は、かつてのように泊まっていくことはなく、夜の帳が降りる頃には静かに部屋を後にした。

 けれど、重い石造りの扉の向こうへと消えていく彼の後ろ姿を見送る僕の心は、いつもよりずっと軽かった。

 今回の記憶は、魂を削り取られるような疲労感や絶望ではなく、胸の奥をじんわりと温めるような「救い」に満ちていたからだ。

(……よかった。レリルには、あんなふうに笑いかけてくれる人がいたんだ)

 これまでの記憶の中で見てきたレリルは、常に孤独で、周囲からは化け物か、あるいは便利な道具としてしか扱われていなかった。冷たい石壁と、利用しようとする大人たちの視線。それが彼の世界のすべてだと思っていた。 

 けれど、あの青年だけは違った。レリルの力を「役に立つんだと証明したい」と言い、彼の顰め面さえも「大好きだ」と笑い飛ばしてくれたあの人。その存在を知っただけで、まるで自分自身の過去が肯定されたような、言いようのない安堵感が僕を満たしていく。

 レリルは、最初から最後まで独りぼっちで壊れていったわけじゃなかったんだ。

 けれど、安堵と同時に、底知れない疑問が澱のように胸に溜まっていく。

(あの人は一体、誰だったんだろう。あんなに深くレリルに関わっていた人がいたのに、どうしてレリルは『大罪人』として、あんなにも独りきりで処刑台に立たされることになったの?)

 あんなに眩しく笑っていた青年は、レリルが断罪された時、どこで何をしていたのだろう。レリルを救おうとはしなかったのか、それとも、救えなかったのか。あるいは、彼自身もあの凄惨な結末に巻き込まれてしまったのか。  考えれば考えるほど、あの温かな記憶の裏側に潜む「空白」が怖くなる。

 ヨハンの温もりが微かに残っている自分の頭をそっと手でさすりながら、僕はその残り香に抱かれるようにして、再び深い眠りへと落ちていった。 

 窓の外では、不穏な風が塔の壁を不気味に鳴らしている。 

 明日、この静謐な塔を、そして僕とヨハンの脆く危うい平穏を、黒い感情の濁流が飲み込もうとしていることなど、この時の僕は微塵も疑っていなかった。
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