虚ろな檻と翡翠の魔石

篠雨

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余章

第1話:引越し

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 ストルムベルク領主の屋敷への引越しは、驚くほどあっけなく終わった。塔での生活で増えたものといえば、ヨハンが持ち込んでくれた本やレイブンのための止まり木くらいだ。元々、何一つ持たぬ「一つ」の状態でこの世界に放り出され、身の回りの品すら持たなかった僕には、荷物と呼べるほどのものがほとんどなかったからだ。

 ヨハンが僕に与えてくれたのは、彼自身の部屋のすぐ隣にある、広くて立派な一室だった。

「……俺の部屋の隣だ。ここを使え。何かあれば、すぐに声が届く場所にいてほしい」

 ヨハンは短くそう告げたが、その視線はどこか落ち着きなく泳いでいた。 

 この世界の貴族社会において、主人の隣室をあてがうことが何を意味するのか。世俗の文化に疎い僕はそれを全く理解できず、「素敵なお部屋ですね。ベッドもふかふかだ、すごいな」と無邪気に受け入れただけだった。ヨハンが内心で「やはり意図は伝わっていないか」と、期待と諦めの入り混じった複雑な心境で少し落ち込んでいたことには、全く気づかずに。

 その日の夜、初めて屋敷の食堂で食卓を囲むことになった。運ばれてくる料理はどれも、塔でヨハンが運んでくれた食材と同じはずなのに、やはりプロの料理人が丹精込めて仕上げたものは、彩りも香りも格段に違っていて素晴らしかった。

 だが、料理を並める使用人たちの手元は、何故かひどく緊張して強張っていた。皿を置いてくれたことに対し、僕がいつもの癖で「ありがとうございます」と微笑んで告げると、彼らは「……っ!」と電流が走ったかのように肩を跳ねさせ、ビクッとした反応を見せる。

「いただきます」

 僕が胸の前で手を合わせると、ヨハンが不思議そうに眉を上げた。

「前から気になっていたのだが、その『いただきます』とは何だ? 祈りの言葉か?」

「これは、僕のいた世界での儀式のようなものです。例えば食材を育んでくれた大地に、慈しんで育ててくれた人に、ここまで運んでくれた人。そして今、こうして美味しく料理してくれた人……すべてに感謝して、『豊かな恵みを頂戴します』という意味だったと思います」

 ヨハンだけでなく、背後に控えていた使用人たちも一斉にこちらを見た。その視線には、驚きと戸惑い、そして拭い去れない罪悪感が激しく混ざり合っている。

「……素敵だな。命と、それに関わる全てを敬う言葉か。俺も今度からは言うようにしよう」

「では、一緒に。……いただきます」

 二人で食べ始めた料理は、頬が落ちるほど美味しかった。僕が素直に「美味しいですね」と感想を述べると、傍に控えていた一人の使用人が、堪えきれなくなったように声を震わせて叫んだ。

「信じられない……! 自分を追い詰めた人間に、どうしてこれほど真っ直ぐに感謝を告げられるのですか! 毒でも入っているのではと疑うこともなく口に運び、あまつさえ賛美するなんて! ……この屋敷の人間は、貴方を密告し、あの塔へ追いやったんですよ! いつ、どの面下げて謝罪すべきか分からず……今日まで謝ることすらできていないというのに」

 その激昂に近い悲鳴に、僕は誤解が解けた日のアイルを思い出して、ふふっと笑みが漏れた。

「皆さんはこの街を、自分の大切な場所を守りたかったんですよね。当時の僕には正体不明の、恐ろしい魔力が宿っていた。……だから、仕方がなかったんだと思います。それに、ヨハンが大切にしている人たちが、僕に毒なんて盛るはずがないでしょう? だから僕は貴方たちを恨もうとは思わないし、作ってくれたものに対し、純粋に感謝がしたいんです」

 すると、それまで沈黙を守っていた執事長が、静かに、重々しく口を開いた。

「『仕方ない』、その一言で済ませていい話ではありません。我々の犯した過ちは、本来なら首を差し出しても償いきれぬもの。それなのに貴方は我々を責めず、罰すら与えてくれない。……それは、あまりに残酷な慈悲ですよ」

「え……っ」

 執事長の絞り出すような言葉に、僕は喉の奥が震えるのを感じた。思わず、手にしていたカトラリーが皿に当たり、カチャンと乾いた音を立てる。

 否定しようとして口を開くが、喉が熱く詰まって、適切な言葉が見つからない。 

 僕に向けられる視線は、かつての憎悪ではなく、自分たちの過ちを直視できない苦しさに満ちていた。その重圧に、視界がわずかに滲む。

(僕が……残酷? そんなつもりじゃなかったのに。僕はただ、皆さんと穏やかに過ごしたいだけで……)

 胸の奥がキュッ、と締め付けられる。 

 赦しが救いになると信じていたけれど、それはこの屋敷の人たちを罪悪感という鎖に縛り付けたままにする行為なのかもしれない。僕の独りよがりな考えは、彼らにとっては傲慢だったのだろうか。何か言わなきゃ、と焦れば焦るほど、言葉は形にならないまま霧散していく。僕はただ、困惑と悲しみが混ざった瞳で、執事長を見つめ返すことしかできなかった。

 唇を微かに震わせ、助けを求めるように視線を彷徨わせる僕の代わりに、ヨハンが静かだが、場を支配するような厳しい声を響かせた。

「謝罪相手を困らせてどうする。……レリルが罰を望んでいないのなら、これからの行動で己の忠義を示せ。それが唯一の償いになるだろう。罪を乞う暇があるなら、誠心誠意、彼に仕えろ」

「……はい。仰せのままに。そのようにいたします」

 塔で世話を焼いてくれる姿しか知らなかったが、冷徹なまでに的確な指示を下すヨハンは、やはりこの地の領主様なのだと改めて実感した。彼の言葉には、人々の動揺を鎮め、進むべき道を示す絶対的な強さがある。

 ヨハンの毅然とした態度のおかげで、ようやく僕の肺に空気が戻り、小さく息を吐いた。 

 食事が終わり、自室へと戻る時間がやってきた。

「今日は慣れない屋敷で、精神的にも疲れただろう。……ゆっくり休んでくれ」

「はい……おやすみなさい、ヨハン」

 当たり前の挨拶。けれど、それをヨハンに言えることが、どこかとても特別で幸せなことのように感じられた。


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今後の更新については、【1日1話、午後6時更新】を目安に投稿していく予定です。 気が向いた際にお楽しみいただければ幸いです。

引き続き、よろしくお願いいたします。
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