虚ろな檻と翡翠の魔石

篠雨

文字の大きさ
192 / 208
余章

第8話:強襲の氷雪夫人

しおりを挟む
 冬の厳しさが冬の厳しさが嘘のように、ストルムベルクには穏やかで柔らかな光が降り注いでいた。

 あれほど厚く地面を覆っていた雪は、毎日少しずつ、けれど確実にその姿を消している。屋敷の周囲では、雪解け水が小さな川となって楽しげな音を立てて流れていた。庭の木々の先には、まだ硬いながらも生命力を感じさせる新芽が顔を出し始め、冷たい空気の中にも、どこか鼻をくすぐるような土の匂いと、確かな春の気配が混じり合っている。

「レリル、見ろ。あそこに咲いているのがスノードロップだ。この花はこの地で一番早く春を告げる花なんだ」

 ヨハンが指差した先には、まだ残雪が残る庭の隅に、可憐な白い花が慎ましやかに頭を垂れていた。

「本当だ……。あんなに雪が深かったのに、ちゃんと咲くんだね」

「ああ。ストルムベルクの冬は長いが、その分、春の訪れは格別なんだ。もう少し暖かくなったら、領地の湖まで足を伸ばそう。あそこから見る残雪の山々は、鏡のような湖面に映って本当に絶景なんだ。君にもぜひ見せてあげたい」

 そんな穏やかな約束に、僕は胸を躍らせていた。魔法の特訓も一段落し、これからはこの温かな日常がずっと続いていくのだと、そう信じて疑わなかった。ヨハンと笑い合い、領民たちの活気ある声を聞きながら過ごす日々。それは、塔の中で凍えていた僕にとって、何にも代えがたい宝物だった。

 しかし、その安寧は、ある日の夜、あまりにも唐突に打ち砕かれることとなる。

 その日は、春の訪れを祝うような穏やかな一日だった。

 夕食を終え、ラウンジで温かいお茶を飲みながら今日一日の出来事をのんびりと話したあと、ヨハンはいつものように僕を自室の前まで送ってくれた。

「おやすみ、レリル。また明日」

「うん、おやすみなさい、ヨハン」

 僕が部屋に入り、扉を閉めて寝支度を始めようとした、まさにその時だ。

 静まり返った夜の静寂を切り裂くように、屋敷の正面玄関の方から、激しい馬の嘶きと車輪の音が響いてきた。夜分遅くの不意な訪問者に、僕は心臓を跳ねさせる。

「ヨハン! 説明しなさい、これは一体どういうことなの!」

 廊下から、凍てつくような鋭い女性の声が屋敷中に響き渡った。まだ僕の部屋のすぐ外にいたであろうヨハンの、息を呑む気配が扉越しに伝わってくる。

「……っ、この声は……まさか」

 普段は冷静沈着なヨハンの狼狽した声が聞こえ、急いで彼が玄関ホールへ向かって階段を降りていく足音が響いた。

 何が起きているのか分からず、不安に駆られた僕は、たまらず自室の扉を細く開け、廊下へと顔を出してしまった。一階の玄関ホールを覗き込むと、そこには豪奢な馬車から降り立ったばかりの、一人の貴婦人が立っていた。

 ヨハンと同じ夜の闇を溶かしたような艶やかな黒髪を腰まで伸ばし、冷徹なまでに整った美貌を持つ彼女は、ヨハンよりも十近く年上の実姉、エレオノーラ。彼女は苛烈なストルムベルク家の血を色濃く継いでおり、その場にいる全員を跪かせるほどの圧倒的な威圧感を放っていた。

 歴戦の勇士であり、領民から畏怖される現当主のヨハンだが、彼女の前ではどこか勝手が違うようだった。普段の威厳を鎧のように纏ってはいるものの、その隙間から「隠していたことがばれた弟」のような、気まずさが滲み出ている。

「……姉上。どうしてこちらに。急に帰国されるなど、公爵閣下は許可されたのですか。これでは越境の際の手続きも……」

 ヨハンは必死に冷静な当主としての言葉を紡ごうとするが、その視線は泳いでおり、どこか落ち着かない。

「あの方なら『君が一度言い出したら止められない』と半ば諦めていらしたわ。そんな事務的な話はどうでもいいのよ、ヨハン! それより、王都から届いた不穏な噂を耳にしたわよ。国家反逆を企て、あろうことか他国との全面戦争を引き起こそうとした史上最悪の『悪魔』が、死罪を免れてこの地にのうのうと居座っているんですって?」

 エレオノーラが知っているのは、王都の貴族たちの間で尾ひれをつけて広まっている断片のみだった。あの騒動の末、レリルの罪が真実に基づいて白紙に戻されたという内情までは届いていない。彼女の中で、レリルという存在は今もなお「救いようのない極悪人」のままなのだ。

「すぐに追い出しなさい。そんな恐ろしい毒蛇を、我が故郷に置いておくなんて。甘さは指導者にとって最大の毒だと、幼い頃から嫌というほど教えていたはずでしょう?」

 ヨハンは必死に事の真相を説明しようとするが、エレオノーラは「いいから聞きなさい!」と一喝し、ヨハンを引き連れるようにして二階の私室エリアへと上がってきた。

 そして、最悪なことに、廊下で立ち尽くしていた僕と、エレオノーラの氷の楔のような鋭い視線が真正面からぶつかってしまった。

「あ……あの、初めまして。僕が、その……レリルです……」

 蛇に睨まれた蛙のように、僕は喉を鳴らして萎縮しながら挨拶をした。するとエレオノーラの視線は、僕を汚物を見るかのような険しさを増した。彼女は僕の横をわざと通り過ぎ、あろうことか僕の部屋の隣にある、ヨハンの寝室の扉と見比べた。

「……ヨハン、あなた本当に正気なの?」

 廊下でピタリと立ち止まったエレオノーラが、背筋が凍るような低温の声で弟を問い詰めた。

「国家反逆を企てたような危険人物を、あろうことか当主であるあなたのすぐ隣の部屋に置くなんて。ヨハン、その部屋を使うべきは誰なのか、忘れたわけではないでしょう?もし夜中に寝首を掻かれたとしたらストルムベルクは終わりよ。それに、あなたは当主としての義務がある。跡継ぎのことも考えず、素性も知れぬ年頃の男を側に置いて満足しているなんて、当主としても、弟としても、あまりに無責任ではないかしら」

 僕は、自分の存在がヨハンの立場を危うくしているという事実を突きつけられ、身がすくむ思いだった。申し訳なさで心臓が潰れそうになる。しかし、隣に立つヨハンは違った。彼は一歩も引かず、僕を背中に隠すようにして毅然と前に出た。

「……姉上。彼は、あなたが思っているような賊ではありません。レリルは私の、大切な……」

「大切な何だというの。若さゆえの、行き過ぎた同情でしょう?」

「違います!」

 ヨハンが珍しく、割れんばかりの声で食い下がった。その意外な反抗に、エレオノーラが驚いたように眉を跳ね上げる。

「彼はこの厳しい冬、その身に余る強大な力を使って、この屋敷を、領民を、そして私自身を救ってくれました。私は、この魂を賭けて彼を信じています。たとえ敬愛する姉上の言葉であっても、彼を侮辱することだけは聞き入れられません」

「ヨハン……」

 エレオノーラはふんと鼻を鳴らし、射抜くような眼差しで僕の全身を上から下まで値踏みした。

「……いいわ。そこまで言うのなら、あなたのその『信頼』とやらが、単なる盲目的な熱病ではないことを証明してもらいましょうか」

 彼女は僕を真っ向から見据え、冷ややかに、けれど絶対的な拒絶を込めて最後通牒を突きつけた。

「明日から三日間で、私が出す三つの課題を完璧にこなしなさい。もし私の納得のいく答えが提出できなければ、その時は私の権限で、この方を即刻国外へ追放します。私の夫である公爵を通じて、王家にも正式に異議を申し立て、この地から引き剥がしてあげるわ。……いいわね?」

 嵐のような姉の宣告が、静まり返った夜の廊下に、逃げ場のないほど重く響き渡った。僕は冷や汗を拭いながらも、自分を信じてくれたヨハンの想いに応えるために、この理不尽な試練に立ち向かう覚悟を決めるしかなかった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした

BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。 実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。 オメガバースでオメガの立場が低い世界 こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです 強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です 主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です 倫理観もちょっと薄いです というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります ※この主人公は受けです

すべてはあなたを守るため

高菜あやめ
BL
【天然超絶美形な王太子×妾のフリした護衛】 Y国の次期国王セレスタン王太子殿下の妾になるため、はるばるX国からやってきたロキ。だが妾とは表向きの姿で、その正体はY国政府の依頼で派遣された『雇われ』護衛だ。戴冠式を一か月後に控え、殿下をあらゆる刺客から守りぬかなくてはならない。しかしこの任務、殿下に素性を知られないことが条件で、そのため武器も取り上げられ、丸腰で護衛をするとか無茶な注文をされる。ロキははたして殿下を守りぬけるのか……愛情深い王太子殿下とポンコツ護衛のほのぼの切ないラブコメディです

転生したけどやり直す前に終わった【加筆版】

リトルグラス
BL
 人生を無気力に無意味に生きた、負け組男がナーロッパ的世界観に転生した。  転生モノ小説を読みながら「俺だってやり直せるなら、今度こそ頑張るのにな」と、思いながら最期を迎えた前世を思い出し「今度は人生を成功させる」と転生した男、アイザックは子供時代から努力を重ねた。  しかし、アイザックは成人の直前で家族を処刑され、平民落ちにされ、すべてを失った状態で追放された。  ろくなチートもなく、あるのは子供時代の努力の結果だけ。ともに追放された子ども達を抱えてアイザックは南の港町を目指す── ***  第11回BL小説大賞にエントリーするために修正と加筆を加え、作者のつぶやきは削除しました。(23'10'20) **

イケメンチート王子に転生した俺に待ち受けていたのは予想もしない試練でした

和泉臨音
BL
文武両道、容姿端麗な大国の第二皇子に転生したヴェルダードには黒髪黒目の婚約者エルレがいる。黒髪黒目は魔王になりやすいためこの世界では要注意人物として国家で保護する存在だが、元日本人のヴェルダードからすれば黒色など気にならない。努力家で真面目なエルレを幼い頃から純粋に愛しているのだが、最近ではなぜか二人の関係に壁を感じるようになった。 そんなある日、エルレの弟レイリーからエルレの不貞を告げられる。不安を感じたヴェルダードがエルレの屋敷に赴くと、屋敷から火の手があがっており……。 * 金髪青目イケメンチート転生者皇子 × 黒髪黒目平凡の魔力チート伯爵 * 一部流血シーンがあるので苦手な方はご注意ください

すべてを奪われた英雄は、

さいはて旅行社
BL
アスア王国の英雄ザット・ノーレンは仲間たちにすべてを奪われた。 隣国の神聖国グルシアの魔物大量発生でダンジョンに潜りラスボスの魔物も討伐できたが、そこで仲間に裏切られ黒い短剣で刺されてしまう。 それでも生き延びてダンジョンから生還したザット・ノーレンは神聖国グルシアで、王子と呼ばれる少年とその世話役のヴィンセントに出会う。 すべてを奪われた英雄が、自分や仲間だった者、これから出会う人々に向き合っていく物語。

神子の余分

朝山みどり
BL
ずっと自分をいじめていた男と一緒に異世界に召喚されたオオヤナギは、なんとか逃げ出した。 おまけながらも、それなりのチートがあるようで、冒険者として暮らしていく。 途中、長く中断致しましたが、完結できました。最後の部分を修正しております。よければ読み直してみて下さい。

【8話完結】いじめられっ子だった僕が、覚醒したら騎士団長に求愛されました

キノア9g
BL
いじめられ続けた僕は、ある日突然、異世界に転移した。 けれど、勇者として歓迎されたのは、僕を苦しめてきた“あいつ”の方。僕は無能と決めつけられ、誰からも相手にされなかった。 そんな僕に手を差し伸べてくれたのは、冷酷と恐れられる騎士団長・ジグルドだった。 なのに、あいつの命令で、僕は彼に嘘の告白をしてしまう――「ジグルドさんのことが、好きなんです」 それが、すべての始まりだった。 あの日から彼は、僕だけをまっすぐ見つめてくる。 僕を守る手は、やさしく、強くて、どこまでも真剣だった。 だけど僕には、まだ知られていない“力”がある。 過去の傷も、偽りの言葉も超えて、彼の隣にいてもいいのだろうか。 これは、いじめられっ子の僕が“愛されること”を知っていく、嘘と覚醒の物語。 全8話。

あと一度だけでもいいから君に会いたい

藤雪たすく
BL
異世界に転生し、冒険者ギルドの雑用係として働き始めてかれこれ10年ほど経つけれど……この世界のご飯は素材を生かしすぎている。 いまだ食事に馴染めず米が恋しすぎてしまった為、とある冒険者さんの事が気になって仕方がなくなってしまった。 もう一度あの人に会いたい。あと一度でもあの人と会いたい。 ※他サイト投稿済み作品を改題、修正したものになります

処理中です...