虚ろな檻と翡翠の魔石

篠雨

文字の大きさ
193 / 208
余章

第9話:一日目の課題

しおりを挟む
「三日間で、お前がここに居るに相応しいか見極めてあげる」

 そう宣告された翌朝。僕は、ヨハンとエレオノーラが待つ広間に呼び出された。

 重厚な扉を押し開け、僕が一歩足を踏み出したその瞬間だった。

「――そこまで。もう一度やり直しなさい」

 部屋の奥、優雅に椅子に腰掛けていたエレオノーラが、氷のように冷ややかな声で僕を制した。まだ数歩しか歩いていない僕を、彼女は扇の隙間から射抜くように凝視している。

「……姉上、まだ始まったばかりだ。彼も緊張して――」

「黙って、ヨハン。入室の際、扉の重さに指先を負けさせ、目線を迷わせた。そんな落ち着きのない者が、一体誰の許しを得てストルムベルクの広間に立つというの?」

 エレオノーラは、ピシャリと言い放った。  僕は思わず身を縮めた。塔にいた頃は生きることに精一杯で、高貴なマナーなんて教わる機会は一度もなかった。ようやく自由になれたばかりの僕にとって、社交界のような「礼儀」は、まだ白紙に等しいものだった。

「あの……僕、マナーについては、本当に何もわからなくて……」

 僕が正直に白旗を上げると、エレオノーラは信じられないものを見るような目で僕を見据え、それから深々と、額を押さえて溜息をついた。

「……呆れた。国家反逆の嫌疑をかけられるほどの魔導士が、この体たらくなの? どんな生活を送ればこれほど無知でいられるのかしら」

 彼女は容赦なく呆れ、突き放すような言葉を吐く。けれど、その後に続いたのは、僕を追い出すための罵倒ではなかった。

「いいわ。基礎の基礎から叩き込んであげる。一回しか言わないから、その耳と頭に刻みなさい。まずは立ち方からよ」

 彼女のレッスンは、苛烈を極めた。  まずは歴史の講義だ。彼女は古い羊皮紙の地図を広げ、長い指先で北方の峻険な山々をなぞった。

「いい? 我らストルムベルクが守るこの地は、王国の盾なのよ。建国以来、幾千の魔獣をこの雪原で食い止めてきた。地図を見なさい。この国境線の一里ごとに、我が一族の血が流れているといっても過言ではないわ。雪に閉ざされ、魔獣が跋扈するこの過酷な領地を維持するために、先祖たちがどれほどの血を流してきたか。この家の紋章である『銀の狼』は、孤高であれという意味ではない。群れを、民を、一人の犠牲も出さずに守り抜くという誓いなの。その重みを理解せずに、この屋敷の敷居を跨ぐことは許さないわ」

 彼女の語る歴史は、単なる知識の暗記ではなかった。一族が背負ってきた孤独と責任、そして厳しい冬を越えるための強固な意志。それを聞くうちに、ヨハンが時折見せるあの寂しげで、けれど強い眼差しの理由が少しだけ分かった気がした。

 続いて始まったマナーの実技は、拷問に近いほど細かかった。

「まだ顎が上がっているわ。視線は相手の喉元より数センチ下。威圧せず、かといって卑屈にもならず、ただ静かに相手を受け入れる位置に置きなさい。肩の力を抜きなさいと言っているの。お前が緊張すれば、それが周囲に伝播して空気を乱すのよ」

 少しでも姿勢が乱れれば、彼女の手にした教鞭がシュッと空を切る。食事の作法では、空の皿を前に、ナイフとフォークの角度をミリ単位で矯正された。

「カトラリーを置く音は、己の心の乱れと同じよ。布を裂くような音を立ててはいけない。湖の氷を割らぬよう、静かに、かつ毅然と扱いなさい。歩く時に衣擦れの音をさせない。足の裏全体で床を捉えるのではなく、重心を常に一点に保つのよ。……そう、その角度。指先まで意識を張り巡らせなさい。あなたは今、ストルムベルクの看板を背負っているのと同じなのよ」

 一時間のティーレッスンの間、僕はカップを持つ右手の震えを止めるのに必死だった。ソーサーとカップが触れ合ってわずかでもカチャリと音がすれば、エレオノーラの冷徹な指摘が飛んでくる。

「音がしたわよ。優雅さとは心の余裕。死に物狂いの戦場でも、紅茶一杯を完璧に淹れてみせるのが貴族の矜持よ。お前の所作一つで、客人はお前を侮るか、敬意を払うかを決める。ストルムベルクに泥を塗るつもり?」

 彼女は厳しい。指摘は鋭く、一切の妥協を許さない。けれど、不思議と「理不尽」だとは感じなかった。彼女の言葉はどれも的確で、僕が正しく動けるようになるまで、じっと僕を観察し、粘り強く指導してくれている。

(……あ。この感覚、知ってる)

 ふと、胸の奥が温かくなった。  僕がまだ塔に監禁されていた頃、ぶっきらぼうで、何を考えているか分からなかったヨハン。彼は僕が死なないようにと、食事の量や生活のリズムを、それこそ口うるさいほどに、けれど誰よりも真剣に管理してくれた。

 目の前のエレオノーラの、厳しいけれど決して「見捨てない」瞳。 

 それが、僕を救ってくれたヨハンの、不器用な優しさと重なって見えた。

「……ふふっ」 

「……何がおかしいの。今、お前の肘の位置が数ミリずれたわよ?」 

「すみません……。でも、エレオノーラさんはやっぱり、ヨハンの姉さんなんだなって思って。二人とも、すごく厳しくしてくれるけど……本当は、僕のことをすごくよく見てくれる」

 僕が微笑むと、エレオノーラは一瞬、呆気に取られたように言葉を失った。  彼女はあからさまに不機嫌そうに視線を逸らすと、耳元を少しだけ赤くして、持っていた教鞭でテーブルを叩いた。

「無駄口を叩く余裕があるなら、今の挨拶をもう一度。……夜まで終わらせないわよ!」

 その様子を廊下でハラハラしながら、けれど少し誇らしげに見守るヨハンの気配に、僕は気づいていた。


「……今日はここまで。明日の朝は一刻早く始めます。遅れないことね」

 エレオノーラが冷徹にそう告げた時、窓の外はすでに深い夜の闇に包まれていた。 

 彼女が去ったあとの広間で、僕はしばらく立ち上がることすらできなかった。全身の筋肉が強張り、慣れない姿勢を維持し続けた背中には、鉄板を背負っているような鈍い痛みが走っている。

「レリル、大丈夫か」

 廊下で見守っていたヨハンが急いで駆け寄り、僕の肩を支えてくれた。その手は温かく、強張っていた僕の心が少しだけ解けるのがわかった。

「……うん。でも、本当に大変だね、貴族の人たちは。毎日、あんなに気を張って生きてるなんて」

 僕が力なく笑うと、ヨハンは申し訳なさそうに眉を下げた。 

「姉上は昔から、自分にも他人にも、ストルムベルクの誇りに背くことを許さない人なんだ。……だが、今日のお前は本当によく頑張っていた。少なくとも、俺が初めて礼儀作法を叩き込まれた時より、ずっと筋がいい」

「本当に? ヨハンがそう言ってくれるなら、明日も頑張れる気がするよ」

 自室に戻ったあとも、レッスンの余韻は消えなかった。 

 着替えをする指先も、髪を梳く手つきも、エレオノーラの「指先まで意識しなさい」という鋭い声がリフレインして、つい慎重になってしまう。

 ベッドに倒れ込むと、ふかふかのシーツが痛む体を優しく包み込んだ。 

 今日教わったストルムベルクの歴史。銀の狼の紋章が持つ「守るための強さ」。そして、エレオノーラが厳しくも執拗に僕を正そうとしたのは、僕がこの屋敷で「誰にも文句を言われない場所」を得るためなのだと、ようやく気づき始めていた。

(……負けられないな)

 重い瞼を閉じると、暗闇の中にエレオノーラの美しい、けれど冷徹な瞳と、それを見守るヨハンの穏やかな眼差しが交互に浮かんだ。 

 明日になれば、またあの苛烈な指導が始まる。僕は頭の中で今日言われた注意点を一つひとつ復習しながら、吸い込まれるように深い眠りに落ちていった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした

BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。 実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。 オメガバースでオメガの立場が低い世界 こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです 強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です 主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です 倫理観もちょっと薄いです というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります ※この主人公は受けです

すべてはあなたを守るため

高菜あやめ
BL
【天然超絶美形な王太子×妾のフリした護衛】 Y国の次期国王セレスタン王太子殿下の妾になるため、はるばるX国からやってきたロキ。だが妾とは表向きの姿で、その正体はY国政府の依頼で派遣された『雇われ』護衛だ。戴冠式を一か月後に控え、殿下をあらゆる刺客から守りぬかなくてはならない。しかしこの任務、殿下に素性を知られないことが条件で、そのため武器も取り上げられ、丸腰で護衛をするとか無茶な注文をされる。ロキははたして殿下を守りぬけるのか……愛情深い王太子殿下とポンコツ護衛のほのぼの切ないラブコメディです

転生したけどやり直す前に終わった【加筆版】

リトルグラス
BL
 人生を無気力に無意味に生きた、負け組男がナーロッパ的世界観に転生した。  転生モノ小説を読みながら「俺だってやり直せるなら、今度こそ頑張るのにな」と、思いながら最期を迎えた前世を思い出し「今度は人生を成功させる」と転生した男、アイザックは子供時代から努力を重ねた。  しかし、アイザックは成人の直前で家族を処刑され、平民落ちにされ、すべてを失った状態で追放された。  ろくなチートもなく、あるのは子供時代の努力の結果だけ。ともに追放された子ども達を抱えてアイザックは南の港町を目指す── ***  第11回BL小説大賞にエントリーするために修正と加筆を加え、作者のつぶやきは削除しました。(23'10'20) **

【8話完結】いじめられっ子だった僕が、覚醒したら騎士団長に求愛されました

キノア9g
BL
いじめられ続けた僕は、ある日突然、異世界に転移した。 けれど、勇者として歓迎されたのは、僕を苦しめてきた“あいつ”の方。僕は無能と決めつけられ、誰からも相手にされなかった。 そんな僕に手を差し伸べてくれたのは、冷酷と恐れられる騎士団長・ジグルドだった。 なのに、あいつの命令で、僕は彼に嘘の告白をしてしまう――「ジグルドさんのことが、好きなんです」 それが、すべての始まりだった。 あの日から彼は、僕だけをまっすぐ見つめてくる。 僕を守る手は、やさしく、強くて、どこまでも真剣だった。 だけど僕には、まだ知られていない“力”がある。 過去の傷も、偽りの言葉も超えて、彼の隣にいてもいいのだろうか。 これは、いじめられっ子の僕が“愛されること”を知っていく、嘘と覚醒の物語。 全8話。

少女漫画の当て馬キャラと恋人になったけどキャラ変激しすぎませんか??

和泉臨音
BL
 昔から物事に違和感を感じることの多かった衛は周りから浮いた存在だった。国軍養成所で一人の少女に出会い、ここが架空の大正時代を舞台にしたバトルありの少女漫画の世界だと気付く。ならば自分は役に立つモブに徹しようと心に誓うも、なぜかヒロインに惚れるはずの当て馬イケメンキャラ、一条寺少尉に惚れられて絡め取られてしまうのだった。 ※ 腹黒イケメン少尉(漫画では当て馬)×前世記憶で戦闘力が無自覚チートな平凡孤児(漫画では完全モブ) ※ 戦闘シーンや受が不当な扱いを受けるシーンがあります。苦手な方はご注意ください。 ※ 五章で完結。以降は番外編です。

イケメンチート王子に転生した俺に待ち受けていたのは予想もしない試練でした

和泉臨音
BL
文武両道、容姿端麗な大国の第二皇子に転生したヴェルダードには黒髪黒目の婚約者エルレがいる。黒髪黒目は魔王になりやすいためこの世界では要注意人物として国家で保護する存在だが、元日本人のヴェルダードからすれば黒色など気にならない。努力家で真面目なエルレを幼い頃から純粋に愛しているのだが、最近ではなぜか二人の関係に壁を感じるようになった。 そんなある日、エルレの弟レイリーからエルレの不貞を告げられる。不安を感じたヴェルダードがエルレの屋敷に赴くと、屋敷から火の手があがっており……。 * 金髪青目イケメンチート転生者皇子 × 黒髪黒目平凡の魔力チート伯爵 * 一部流血シーンがあるので苦手な方はご注意ください

【8話完結】強制力に負けて死に戻ったら、幼馴染の様子がおかしいのですが、バグですか?

キノア9g
BL
目が覚めたら、大好きだったRPGの世界に転生していた。 知識チートでなんとか死亡フラグを回避した……はずだったのに、あっさり死んで、気づけば一年前に逆戻り。 今度こそ生き残ってみせる。そう思っていたんだけど—— 「お前、ちょっと俺に執着しすぎじゃない……?」 幼馴染が、なんかおかしい。妙に優しいし、距離が近いし、俺の行動にやたら詳しい。 しかも、その笑顔の奥に見える“何か”が、最近ちょっと怖い。 これは、運命を変えようと足掻く俺と、俺だけを見つめ続ける幼馴染の、ちょっと(だいぶ?)危険な異世界BL。 全8話。

神子の余分

朝山みどり
BL
ずっと自分をいじめていた男と一緒に異世界に召喚されたオオヤナギは、なんとか逃げ出した。 おまけながらも、それなりのチートがあるようで、冒険者として暮らしていく。 途中、長く中断致しましたが、完結できました。最後の部分を修正しております。よければ読み直してみて下さい。

処理中です...