虚ろな檻と翡翠の魔石

篠雨

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余章

第10話:二日目の課題

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 二日目の朝、食堂のテーブルを占拠していたのは、優雅な朝食ではなく、めまいがするほど積み上げられた帳簿の山だった。

「二日目の課題は、実務能力の確認よ。これは、昨冬から今春にかけての、ストルムベルク領内の支出台帳。見ての通り、冬を越すための薪代、魔石の補給、食料の備蓄……。どれもが複雑に絡み合って、整合性が取れていない箇所がいくつもあるわ」

 エレオノーラは、扇子で台帳の山を指し示した。

 ヨハンが領主として有能なのは間違いないけれど、彼は武官としての務めや現場の視察で忙しすぎた。台帳の整理はどうしても後回しになり、複数の会計係が走り書きした数字は、書き方も単位もバラバラで、混沌としている。

「これを、今日の夕食までに整理しなさい。無駄な支出を洗い出し、来冬に向けた改善案を出すこと。……魔導士なら、頭の回転も速いのでしょう?」

 ヨハンが「姉上、さすがにこれは数人がかりで一週間はかかる量だ」と口を挟もうとしたが、エレオノーラは鋭い視線でそれを制した。

 僕は、机に積まれた台帳に向き合った。 

 正直、最初は圧倒された。けれど、ページをめくるうちに、僕の脳裏に「何か」がふわりと浮かび上がってきた。

(……なんだろう。この数字の羅列、見たことがある気がする。もっと……整然としていて、一目で全てがわかる形を、僕は知っているような……)

 それは、霧の向こう側にあるような、ひどく曖昧な記憶。かつての自分が、どこか別の場所で、光る板に向かって夜通し数字を打ち込んでいたような――そんな、おぼろげな既視感だった。 

 具体的な名前も場所も思い出せないけれど、ペンを握る手だけが、答えを知っているかのように勝手に動き出した。

 ――バラバラの数字を、まず共通の単位に直す。 
 ――項目ごとに「列」と「行」を分けるように整理すれば、無駄が見えてくる。

「……エレオノーラさん。羽ペンと、大きな白紙を数枚もらってもいいでしょうか」

 僕は、自分でも驚くほど迷いのない手つきで、白紙の上に「枠」を描き始めた。 

 記憶の断片をなぞるように、山のような台帳から必要な情報だけを吸い出し、一つの表にまとめていく。数字がただの記号ではなく、一つの流れとして頭に流れ込んできた。

 さらに僕は、数字の変化を「線の動き」として描き出してみた。なぜそうするのかは分からない。けれど、こうすれば「異常」が浮き彫りになるという確信だけがあった。

 ヨハンは隣で「それは、なんだ? 数字を……絵にしているのか?」と不思議そうに覗き込んでいる。

「これなら、どこでお金が使われているか、一目でわかるんです。……ほら見て、ヨハン。ここの魔石の購入価格、一月だけ異常に跳ね上がってる。周りの数字と繋げて見れば変だってすぐわかるよ。たぶん、仲介業者が冬の嵐に乗じて、相場の三倍も上乗せしてるね」

「……っ、本当だ。数字だけをバラバラに追っていた時は、これほどの差異には気づかなかった」

 一度コツを掴めば、作業は加速した。僕の脳は、呼び覚まされた不思議な感覚と集中力を同期させ、猛烈なスピードで計算をこなしていく。数台あった算盤のような道具も使わず、暗算で空欄を埋めていく僕の様子に、控えていた従僕たちも息を呑んでいる。

 夕方。予定よりも早く、僕は一枚の清書された報告書をエレオノーラに差し出した。

 そこには、煩雑だった数ヶ月分の支出が項目ごとに美しく整列され、異常値には注意を促す印が添えられ、来季に向けた具体的なコスト削減案が論理的にまとめられていた。

 エレオノーラは、無言でその紙を手に取った。

 最初は疑わしげな表情だった彼女の眉が、読み進めるうちに徐々に上がっていく。彼女の瞳が、驚愕に揺れた。

「……素晴らしいわ。単なる集計ではない、これは『戦略』よ。これほどまでの分析を、たった一人で、この短時間で……」

 彼女は紙から顔を上げ、僕を真っ直ぐに見つめた。そこには、昨日までの疑惑ではなく、一人の有能な人間に対する敬意が混じっていた。

「国家反逆などという無意味なことに心血を注ぐには、あまりに明晰すぎる。貴方が大罪人でないことは本当のようね……この能力、ヨハンの補佐としてこれ以上のものはないわね。経理顧問として王都へ出しても恥ずかしくないレベルよ」

 あんなに僕を追い出し、存在すら否定しようとしていた彼女が、僕という人間をその目で見つめ、正当に称賛してくれた。

 僕は、胸が熱くなるのを感じた。

 それは、ただ褒められて嬉しいという幼い感情ではなかった。 

 塔に閉じ込められていた時、僕はただの「忌むべき魔導士」であり、「危険な罪人」だった。誰からも期待されず、ただ管理され、死なない程度に生かされるだけの存在。そんなレッテルでしか見られていなかった僕の中にある価値を、エレオノーラは血筋や噂ではなく、僕自身の出した「結果」だけで判断し、認めてくれたのだ。

(ああ……僕は今、ちゃんと『一人の人間』としてここに立っているんだ)

 その実感が、じわじわと指先まで染み渡っていく。 

 視界が少しだけ潤んだのを悟られないよう、僕はそっと視線を落とした。自分の能力が、誰かのために、この美しい土地を守るために使える。その喜びが、あんなに重く感じていた疲れを、嘘のように吹き飛ばしてくれた。

 ヨハンが僕を信じて、この屋敷に連れてきてくれた理由。 

 それは、ヨハンがただ優しいからだけじゃない。こうして人を公正に評価するエレオノーラのような教育を受けて育ったからこそ、彼は僕という人間の中身を、レッテルに惑わされずに見てくれたのだ。

「ありがとうございます。……僕も、この地の役に立てて嬉しいです」

 少し震える声でそう答えると、エレオノーラはふん、と短く鼻を鳴らした。照れ隠しのようにあからさまに不機嫌な顔を作った彼女だったけれど、その手は僕が整理した報告書を、まるで貴重な古文書でも扱うように、指先ひとつ折らぬよう大切に握りしめていた。

「……今日はもう下がりなさい。明日も早いのだから、さっさと休むことね」

 エレオノーラは報告書を机に置くと、突き放すような口調でそう言った。けれど、その視線は僕の顔をじっと見つめ、目の下に薄く浮き出た隈を捉えていた。

「もし明日の朝、その青白い顔のまま私の前に現れたら、寝不足で頭が鈍っていると見なして不合格にするわよ。……わかったなら、温かいスープでも飲んで、すぐに寝床に入りなさい」

 厳しい言葉の中に、僕の体調を気遣う響きが混じっている。彼女なりの、精一杯の「お疲れ様」なのだと分かって、僕は自然と口元が綻んだ。

「はい、エレオノーラさん。おやすみなさい」

 一礼して食堂を後にすると、背後から「ふん、返事だけは立派ね」という小さな呟きが聞こえた気がした。

 部屋へ戻る廊下。ずっと僕の作業を隣で見守っていたヨハンが、ようやく我慢しきれなかったというように、僕の細い肩に腕を回した。

「レリル、本当によくやった。姉上があそこまで誰かを認めるなんて、滅多にないことだぞ」

「……ヨハン。僕、すごく嬉しい。自分の力で、ここにいてもいいって言ってもらえた気がして」

「ああ、お前はもう、俺が守るだけの存在じゃない。ストルムベルクに不可欠な存在だ」

 ヨハンは僕の部屋の扉の前で立ち止まると、慈しむような手つきで僕の髪を撫でた。

「姉上の言う通りだ。今夜はゆっくり休め。……明日、三日目の課題が終わったら、お祝いをしよう。きっとレリルなら乗り越えられる」

 ヨハンの温かい眼差しに見送られ、僕は自室に入った。 

 あんなに張り詰めていた心が、今は心地よい達成感で満たされている。ベッドに横たわると、シーツからは微かにハーブの香りがした。それは昨日よりもずっと、僕を深く、穏やかな眠りへと誘ってくれるようだった。
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