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第1章:氷の王座と、崩れゆく嘘
第10話:冷たい離別
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その朝、王宮の空気はいつも以上に冷え切っていた。
セシルが目覚めると、寝室の枕元に置かれていたのは、アルヴィスがいつも用意していた温かなスープではなく、事務的に冷め切った水と、一通の命令書だった。
『近衛騎士団長アルヴィス・ラインハルト、北方の魔獣討伐の任を受け、本日未明に出陣』
セシルはその紙を、震える指先でなぞった。
あんなに激しくぶつかり合った翌朝に、彼は一度の挨拶もなく城を去った。それが何を意味するのか、今の卑屈なセシルの心には、あまりにも明快すぎる答えとして突きつけられた。
(……愛想を、尽かされたのだな)
当然だ、と自分に言い聞かせる。
自分の命を粗末にする王。救おうとする手を何度も振り払い、嘘の中に逃げ込み続ける哀れな怪物。アルヴィスのような輝かしい男が、そんなものにいつまでも付き合ってくれるはずがない。
「陛下。……準備が整いました」
扉の外から声をかけたのは、アルヴィスに代わって警護に就いた若手の騎士だった。その声には、アルヴィスのような遠慮のない親しみも、痛いほどの執着も含まれていない。ただ、業務を遂行しようとする冷徹な響き。
「……ああ。今、行く」
セシルは、重い体を引きずって起き上がった。
アルヴィスがいない。
その事実だけで、部屋の隅々までが自分の敵になったかのような錯覚に陥る。
鏡の中の自分は、昨日よりもさらに血色を失い、頬はこけ、瞳の奥には虚無が棲みついていた。
回廊を歩く。
いつもなら、少しでも足取りが乱れれば、アルヴィスが鋭く指摘し、強引に腕を支えてくれた。だが今は、誰一人としてセシルの足元の震えに気づく者はいない。あるいは、気づいていても「関わりたくない」と目を逸らしている。
政務室の重い扉を開くと、バルトロ宰相が待ちわびたように顔を上げた。
「おお、陛下! お一人での御足労、痛み入ります。随分とお顔が引き締まられた。やはりあの騎士長は、少しばかり過保護が過ぎたのです。陛下は我らが誇る、不屈の聖王。アルヴィス殿のように、陛下をいつまでも壊れ物のように扱うのは、かえって失礼というものですな。これからは、より大胆に、『奇跡』を全土の民へ分け与えるための協議をいたしましょう」
バルトロの瞳に宿っているのは、邪悪な欲望ではない。救国という大義名分に裏打ちされた、純粋で残酷な「期待」だ。
セシルは、その熱を帯びた言葉を、ただ無機質な壁にねっとりと張り付くノイズのように聞き流した。 (……ああ。そうだ。もう、私を『人間』として繋ぎ止める者は、誰もいない)
アルヴィスがいないのなら、この肉体を惜しむ理由も、明日の命を数える必要も微塵もない。
セシルはその日の政務で、これまでの倍以上の魔力供給を各地域に行うことを二つ返事で承諾した。地盤の固定、疫病の根絶、干ばつの解消――。
「流石は我が国の光! 陛下こそ真の慈悲の体現者だ!」
バルトロたちは、王の顔から急速に赤みが失われ、指先が凍てついていくことなど目にも留めず、手に入れた『奇跡』の物量に狂喜乱舞した。
セシルはその歓声の中で、自分の魂が少しずつ摩耗し、透明になっていくような心地よさすら感じていた。
「……っ、う……」
会議の途中、肺の奥からせり上がってくる熱いものを、セシルは強引に飲み下した。
口の中に広がる、ドロリとした鉄の味。
アルヴィスがいない世界は、こんなにも呼吸がしにくいのか。
北方は今、雪が降っているだろうか。
あのアドレアンの厳しい冬を、アルヴィスは一人で戦っている。
「……お前も、私のような嘘のない世界へ行きたかったんだろうな、アルヴィス」
セシルは、窓の外の北の空を見つめ、誰にも聞こえない声で呟いた。
彼が自分から離れたのは、きっと「幸福」になるための第一歩なのだ。そう自分に言い聞かせるほど、セシルの心臓は冷たく、そして激しく傷ついていった。
聖王アドレアン二十四世。
奇跡を操り、万民に愛される「神の子」。
その実体は、唯一の救いを自ら放り出し、暗い自室で一人、血を吐きながら夜を待つだけの、ただの孤独な少年だった。
セシルが目覚めると、寝室の枕元に置かれていたのは、アルヴィスがいつも用意していた温かなスープではなく、事務的に冷め切った水と、一通の命令書だった。
『近衛騎士団長アルヴィス・ラインハルト、北方の魔獣討伐の任を受け、本日未明に出陣』
セシルはその紙を、震える指先でなぞった。
あんなに激しくぶつかり合った翌朝に、彼は一度の挨拶もなく城を去った。それが何を意味するのか、今の卑屈なセシルの心には、あまりにも明快すぎる答えとして突きつけられた。
(……愛想を、尽かされたのだな)
当然だ、と自分に言い聞かせる。
自分の命を粗末にする王。救おうとする手を何度も振り払い、嘘の中に逃げ込み続ける哀れな怪物。アルヴィスのような輝かしい男が、そんなものにいつまでも付き合ってくれるはずがない。
「陛下。……準備が整いました」
扉の外から声をかけたのは、アルヴィスに代わって警護に就いた若手の騎士だった。その声には、アルヴィスのような遠慮のない親しみも、痛いほどの執着も含まれていない。ただ、業務を遂行しようとする冷徹な響き。
「……ああ。今、行く」
セシルは、重い体を引きずって起き上がった。
アルヴィスがいない。
その事実だけで、部屋の隅々までが自分の敵になったかのような錯覚に陥る。
鏡の中の自分は、昨日よりもさらに血色を失い、頬はこけ、瞳の奥には虚無が棲みついていた。
回廊を歩く。
いつもなら、少しでも足取りが乱れれば、アルヴィスが鋭く指摘し、強引に腕を支えてくれた。だが今は、誰一人としてセシルの足元の震えに気づく者はいない。あるいは、気づいていても「関わりたくない」と目を逸らしている。
政務室の重い扉を開くと、バルトロ宰相が待ちわびたように顔を上げた。
「おお、陛下! お一人での御足労、痛み入ります。随分とお顔が引き締まられた。やはりあの騎士長は、少しばかり過保護が過ぎたのです。陛下は我らが誇る、不屈の聖王。アルヴィス殿のように、陛下をいつまでも壊れ物のように扱うのは、かえって失礼というものですな。これからは、より大胆に、『奇跡』を全土の民へ分け与えるための協議をいたしましょう」
バルトロの瞳に宿っているのは、邪悪な欲望ではない。救国という大義名分に裏打ちされた、純粋で残酷な「期待」だ。
セシルは、その熱を帯びた言葉を、ただ無機質な壁にねっとりと張り付くノイズのように聞き流した。 (……ああ。そうだ。もう、私を『人間』として繋ぎ止める者は、誰もいない)
アルヴィスがいないのなら、この肉体を惜しむ理由も、明日の命を数える必要も微塵もない。
セシルはその日の政務で、これまでの倍以上の魔力供給を各地域に行うことを二つ返事で承諾した。地盤の固定、疫病の根絶、干ばつの解消――。
「流石は我が国の光! 陛下こそ真の慈悲の体現者だ!」
バルトロたちは、王の顔から急速に赤みが失われ、指先が凍てついていくことなど目にも留めず、手に入れた『奇跡』の物量に狂喜乱舞した。
セシルはその歓声の中で、自分の魂が少しずつ摩耗し、透明になっていくような心地よさすら感じていた。
「……っ、う……」
会議の途中、肺の奥からせり上がってくる熱いものを、セシルは強引に飲み下した。
口の中に広がる、ドロリとした鉄の味。
アルヴィスがいない世界は、こんなにも呼吸がしにくいのか。
北方は今、雪が降っているだろうか。
あのアドレアンの厳しい冬を、アルヴィスは一人で戦っている。
「……お前も、私のような嘘のない世界へ行きたかったんだろうな、アルヴィス」
セシルは、窓の外の北の空を見つめ、誰にも聞こえない声で呟いた。
彼が自分から離れたのは、きっと「幸福」になるための第一歩なのだ。そう自分に言い聞かせるほど、セシルの心臓は冷たく、そして激しく傷ついていった。
聖王アドレアン二十四世。
奇跡を操り、万民に愛される「神の子」。
その実体は、唯一の救いを自ら放り出し、暗い自室で一人、血を吐きながら夜を待つだけの、ただの孤独な少年だった。
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