貴族を蔑んでいた俺が、貴族の飼い犬として堕ちるまで

篠雨

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「躾」という名の地獄が始まった。

 マダムの屋敷には、他にも数人の「ペット」がいた。驚くべきことに、その中には没落した小貴族や、元騎士までが混ざっていた。彼らはマダムの絶対的な命令に従う忠実な猟犬だ。

「ご主人様はどうして、こんなスラムの出来損ないを……」

 元貴族の男たちは、俺を「ちんちくりん」と呼び、軽蔑を隠さなかった。彼らはマダムの右腕として、洗練された礼法も暗殺の技術も、すべてを身につけている。俺がテーブルマナーを一つ間違えるたび、彼らはゴミを見るような目で俺を罵倒した。

「見てみろ。スラムの泥犬に絹を着せても、中身は下等な獣のままだ」

 彼らの蔑みに耐えながら、俺のプライドは日に日に削り取られていった。俺はここでは、一人の人間ですらない。ただの、価値のない犬なのだ。

 ある日、マダムとの面会で、一通の手紙を渡された。

「今夜の夜会で、この男のポケットにこれを入れなさい。それだけよ」

 放り出されるように渡された情報。ターゲットが誰なのか、どうやって会場に潜入するのか、警備はどうなっているのか。彼女は一切教えてくれなかった。

「……失敗したら?」

 俺の問いに、マダムは冷たく微笑んだ。

「死ぬだけよ。犬には説明なんて不要でしょう?」

 俺は死に物狂いだった。スラムで培った潜入技術と、屋敷で叩き込まれた最低限の身のこなしを動員し、給仕のふりをして夜会へ潜り込んだ。心臓がうるさく鳴り、指先が震える。だが、俺を馬鹿にしたあのペットたちの顔や、冷徹なマダムの瞳が脳裏をよぎる。

 ――見せてやる。俺がただの犬じゃないことを。

 ターゲットの隙を突き、死角から鮮やかに封筒を滑り込ませた。

 任務完遂。指示通り、俺はホールが見える人影のない暗がりに移動し、息を殺した。

「……終わった後は、そこで見ていなさいと言われたが」

 一体何が起きるのか。そう思った瞬間、会場が騒然となった。

 俺が封筒を忍ばせた男が、衛兵たちに取り囲まれていた。封筒の中身は、彼が長年隠し通してきた汚職の決定的な証拠だったのだ。

「な、なぜこれが私のところに……! 違う、誰かの罠だ!」

 さっきまで傲慢にワインを嗜み、周囲を見下していた男が、一瞬で顔を土色に変えて崩れ落ちた。必死に弁明し、石畳に額を擦り付けて許しを乞う姿。

 ――ああ。

 全身に電気が走った。これだ。

 俺が一人でチマチマと騙して得ていたものとは、次元が違う「破滅」。マダムは、俺を嘲笑った貴族を、俺自身の手を使って地獄に叩き落とさせたのだ。

 だが、一度の任務で心まで売るほど俺は安くない。

「……たまたま、俺の好みに合っただけだ」

 そう自分に言い聞かせ、次の任務、その次の任務とこなしていった。

 ある時は不正な貿易商、ある時は傲慢な公爵夫人。

 マダムは決して詳細を語らない。だが、俺が任務を終えるたび、その最後には必ず、俺が最も渇望してやまない「傲慢な奴らの絶望的な終焉」が、最高に美しい構図で用意されていた。

 回を重ねるごとに、俺の境界線は溶けていった。

 マダムは、俺が何を欲し、何に飢えているのかを完璧に理解している。彼女は俺を虐げながら、同時に俺の魂を、これ以上ないほどの悦楽で満たしてくれていたのだ。

 やがて、あれほど屈辱だった「躾」の時間さえ、俺は必死に食らいつくようになった。

 もっと完璧に、もっと美しく。マダムの期待に応えれば、彼女はまた、あの素晴らしい景色を見せてくれる。

 俺を馬鹿にしていた他のペットたちの視線など、もうどうでもよかった。むしろ、彼らが必死にマダムの機嫌を伺う姿さえ、滑稽なエンターテインメントに思えてきた。

 今、俺はマダムの私室の前に立っている。

「ポチ、入りなさい」

 その声を聞いた瞬間、俺の尾てい骨が歓喜に震えた。

 扉が開く。そこには、この世の誰よりも気高く、恐ろしい俺の主人が座っている。

「ご主人様、お呼びでしょうか」

 俺は迷わず彼女の足元に膝をついた。かつてはあんなに嫌っていた「ポチ」という名前。今は、その名で呼ばれることが、この上ない名誉だとさえ感じる。

 彼女の白い靴先に額を預け、俺は恍惚とした表情で次の命令を待つ。

 誇り高き詐欺師・リュカは、もうどこにもいない。

 ここにいるのは、主人に与えられる「絶望」という餌を求めて尾を振る、一匹の忠実な獣だけだった。
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