剣魔神の記

ギルマン

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第3章

55.悔恨と憤激

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 全力で闘技場から逃れたエイクは、小さな部屋を見つけると身を隠した。
 追っ手がかかっていないことはオドの感知で把握しているが、とても気を落ち着かせられる状況ではなかった。

「くそっ!!」
 エイクはそう声を上げると己の太腿に両手の拳を思い切り打ち下ろした。未だ癒えぬ傷が激痛を発したが、それすら彼の激情を鈍らせる事はなかった。
 彼は余りにも無様な敗北を喫した自分に激しく憤っていた。

(負けた。完全な敗北だ。俺はなんて無様なことをしてしまったんだ。くそっ!くそっ!くそっ!)
 どうにか声に出すのは押さえたものの、心の中ではそう叫ばずにはいられなかった。

 確かに紛れもない敗北だった。
 状況判断を誤って大勢の敵が待ち構える場所に入り込んだ時点で、既にエイクは敗北していたのだ。
 ゴルブロが一騎打ちなど考えず、もう一方の入り口に石でも積んで、爆裂の魔石でも扉を弾き飛ばす事が出来ないようにしていたならば、エイクは全身に飛び道具の攻撃を受けて、物言わぬ骸と化していただろう。

 ゴルブロが一騎打ちなどを望んだめに辛うじて生き残る事はできたが、それは幸運の結果と言わざるを得ない。
 エイクはゴルブロとの戦いの途中から、自己治癒の錬生術を用いていた。遠距離攻撃や魔法、そして爆裂の魔石によるダメージもそれで凌いだ。しかし全く余裕はなかった。

 魔法と爆裂の魔石によるダメージはエイクの魔法への強い耐性のためにそれほどではない。
 むしろ、飛び道具による攻撃の方が深刻だった。

 40以上の飛び道具による攻撃がエイクに当たった。
 その多くをスケイルメイルと錬生術による防御力強化、さらに膨大なオドに裏打ちされた強靭な身体によって弾く事が出来ていたが、それでも17がエイクの体に突き刺さった。
 射手の多さを考えれば、よくぞその程度で凌いだと見るべきだろう。
 もしもあと数回多く喰らっていれば、即死はしなくても真面に走る事が出来なくなって、結果として死んでいた。
 エイクはあの状況をそう理解していた。
 そして、激しい怒りに身を震わせる。

 だが、エイクがこれほど強く憤っているのは、ただ単に敗北したからではない。
 実際彼にとって敗北はこれが初めての経験ではない。
 強さを取り戻す前には、切実な死の危険を感じながら必死で敗走したことが何度かある。

 それにエイクは今まで、勝てる状況だけを選んで負けないことを最優先にして戦っていたわけではない。
 敗北や死の危険を承知の上で戦いに臨んだことも何度もある。
 むしろ強くなる事を至上の目的とするエイクは、そうした危険な戦いの方が己を鍛える糧となると考えて積極的に挑んでいた。
 それどころか、バフォメットと戦った時のように、確実な勝利よりも己の力を試す事を優先した事すらあった。
 そんな行動を採って来たエイクにとって、敗北はあり得る可能性の一つとして覚悟すべきものであり、何が何でも絶対に避けねばならないものではなかった。

 負けて死んでしまえば、父の仇も討てないし最強を目指す事も出来ない。それは事実だ。
 しかし、負けや死を恐れて安全な戦いばかりしていても強くはなれないし、父の仇にも届かない。
 それならば、敗死の可能性を受け入れてでも強くなるための戦いを挑む。
 エイクはそう割り切って戦いに臨んでいた。

 にもかかわらず、今回の敗北によってエイクがこれほど憤激しているのは、敗北そのものに対してではなく、むしろ敗北に至るまでの己の情けない行動に対してだった。

 今回の件に関して、エイクは明らかに油断していた。
 敗北や死の危険を考慮せずに安易に行動してしまった。
 そしてまた今回の危機は、フォルカスがバフォメットに変化した時のように、事前に予期する事が全く不可能な事態でもなかった。
 十分に注意すれば危険を予想し避ける事も出来たはずだったのに、その注意を怠りまんまと罠に嵌って敗北してまったのだ。
 戦いに際して当然持つべき覚悟を欠いていた。
 勝利し生き残る為に全力をつくすという努力を怠っていたともいえる。

 エイクは、油断し、怠惰に落ち、全力を尽くさぬままに敗北を喫した、その己の愚かさに対して憤激していたのだ。

 もちろん、いくら覚悟を決め全力をつくしたところで、志を果たせずに敗死してしまったならば、それはやはり無念の最期だっただろう。
 だが、少なくとも今エイクが感じているほどの、猛烈な自己嫌悪と後悔に苛まれることはなかったはずだ。

 エイクは己の過ちを幾つも思い浮かべていた。
(そもそも、迷宮探索の依頼に対して無警戒過ぎた。
 罠である可能性に気付いていたのに何の手も打たなかった。何が「実力と名声の高まりを考えればこんな依頼が舞い込むのも自然な流れ」だ、そんなもの、依頼が本物かどうかに一切関係ないだろうが!

 他言無用と言われて馬鹿正直に従ったのも愚かだ。そんな約束破っても、ばれなければ何の問題もない。
 アルター達にしっかり相談すれば罠の危険に気付いて対応できたかもしれない。
 自分には補佐が必要だと思ってその為に来て貰っていたのに、相談をしなければ何の意味もない。

 あの女を追った時の判断も冷静ではなかった。捕えて情報を得る必要があると思っただけじゃあなく、あの女を犯したいという欲望にも駆られていた。
 冷静に考えれば未知の迷宮内で逃げる敵を追うことの危険性を、もっと適切に認識できたはずだ。
 色香に迷っていたと言うしかない。

 そして、闘技場に入り込んでしまった判断。
 あれも、罠を正面から打ち破れるかもしれないと、多少なりとも思っていたからこそのものだった。
 罠は相手を確実に仕留めるために張るのだから、何の対策もなしに突っ込んだら死ぬのが当然だ。
 何の準備もせずに罠に正面から突っ込んで、それでも何とかなる可能性など一切考慮してはならなかった。
 「罠は嵌って踏みつぶす」などと口にしたりする一部の愚かな冒険者たちを、心の底から軽蔑していたのに、全く同じ過ちを犯してしまった。
 あそこは、多少不審がられても引き返すべきだったんだ)

 後悔は尽きることがないかのようだった。

(俺は慢心していた。それが根本的な過ちだった。
 要するに、自分なら多少の危険でもどうにか対処できるだろうと思い込んでしまっていたんだ。
 だからこんな不用意な事をしてしまった)
 エイクは、自分が愚かな行いをしてしまった原因をそう理解した。
 そして更に考えを進める。

(俺は今のままでは父さんを殺した魔物には勝てないと理解していた。
 だが同時に、大半の敵は正面から打ち倒すことが可能で、更に強くなるための糧に出来るとも思ってしまっていた。その時点で慢心していた。
 一度はその過ちに気付いたはずなのに、いつの間にかまた同じ過ちを犯してしまっていたんだ)
 エイクは己の力を取り戻した直後、その力の強さに浮かれて慢心してしまっていた。
 そのことに自分で気が付き、己を強く戒めたはずなのに、その後幾度か快勝といえる勝利を得る事で、いつの間にかまた慢心してしまっていたのだ。

(いつからかはともかく、最近特に酷くなっていたのは間違いない。だから、こんな馬鹿な事をしてしまった。
 そして、そうなってしまった理由は、周りから賞賛されていい気になってしまったからだ。
 周りから少しちやほやされて、浮かれていた。
 今の俺なら多少の罠くらい打ち破れると驕り高ぶってしまっていた。
 その挙句のこの有様だ。
 どんなに有利な状況でも油断してはならない。そう教えられていたのに、分かっていたはずなのに!
 俺は何て愚かなんだ!)
 そしてエイクは、己に対してそう判断を下した。

 その考えは、真実の少なくとも一部ではあった。
 エイクは“伝道師”の教えを受けた時から、自分が強くなることだけが尊いと考え、他人の期待に応える事や、賞賛を受ける事に価値はないと思って鍛錬に励み、戦いに臨んでいた。
 だが、その事を強く意識することはなかった。
 なぜなら彼は、つい最近まで、戦う事を他人に期待されたり、その結果を賞賛されたりする経験が、そもそもただの一度もなかったからだ。

 そしてエイクは、最近になって初めてそのような経験をした。即ち戦った事を感謝され、勝つことを期待され、そして勝利を称賛された。
 その経験は彼にとってやはり心地よいものだった。「悪くない」とも「嬉しい」とも思ってしまっていた。そして気持ちを浮つかせていた。
 そしてまた、賞賛を受けたことでエイクは自己評価を高めた。
 だがそれは、彼の驕りにつながってしまったのだ。
 これは確かに、エイクが愚かな誤りを犯した原因の一つではあった。

 普通なら、誰かに期待されて働き、その結果を称賛され、更に働く意欲を高める。という流れは、物事を良い方向に転がして行くものだと言える。
 しかし、エイクに対してはそのようには作用しなかった。
 むしろ極めて悪い結果をもたらしてしまったのだ。

 この結果エイクは、それを無価値どころか有害だと判断した。
(他人の期待の応えて戦い喜ばれること。賞賛を受け嬉しく思うこと。それは俺にとって甘い毒薬だ)
 エイクはそう断じた。

 そしてまたエイクは、他人の期待や賞賛を気にしてしまっていた事に罪悪感さえ感じていた。
 それは幼き日に受けた、彼にとってとても大切な教えに背く行為だったと思われたからだ。

(伝道師さんの言う事が正しかった。やはり他人の賞賛や評価などを気にしてはいけなかったんだ。
 伝道師さんに合わせる顔がない。
 俺は本当になんて愚かなんだ!)

 エイクはそう考えて、激憤のままに再び自らの体を打とうとした。
 しかし、すんでのところで思いとどまった。
 そのような行為は己の体を傷つけるだけで、有害でしかないと思ったからだ。
 今の状況で、更に有害な行いをするなどという愚行を重ねるわけにはいかない。

 だが、己を打つことで発散する事も出来なくなったエイクの激憤は、その身の中に煮えたぎる溶岩のように蓄積された。

 やがてエイクのその憤りは、自分に直接敗北を与えた相手にも向けられた。
(それでも俺は生き残った。生き残ったからにはこのままでは終わらせない)
 エイクの脳裏に哄笑するゴルブロの姿が浮かんだ。
(殺す。この敗北と俺の愚行を雪ぐために、必ずこの手で殺してやる)
 それは八つ当たりと言うべき発想だったが、エイクにはそうでもしなければ己の憤激を制御することが出来なかった。
 そうしてエイクは、憤怒の炎を烈火のごとく燃え滾らせ、報復を誓ったのだった。
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