上 下
1 / 5

1話 家出

しおりを挟む
「お父様…それでも僕は魔術師になりたい。」

 コウにとって、それは切なる願いだった。幼少の頃より憧れた魔法の数々、不可能を知らない魔術師たち、かつての少年は今まさに、父を目前に赤子のように喘いでいた。
 口論からかれこれ三十分は過ぎただろうか。すでにアイスティーの氷は溶け、流れた結露で白のテーブルクロスは染みになっている。
 いつもならおかわりを催促してくるメイドたちも……いつの間にかいない。メイド長のシアが察して図らってくれたのだろう、なにせ今日は威厳あるマードック本邸に相応しくない騒がしい食卓となっている。
 父とこうして面と向かって口論するのは初めてであり、華々しい反抗期デビュー戦はすでに敗色濃いものになりそうだった。
 それまで一切の表情を変えることのなかった父、カリウス・マードックの悠然とした顔立ちに曇がかかり、顔色を疑っていたコウはすぐさま目線をそらす。眉間の皺、鋭い眼光が息子、コウ・マードックを無慈悲に突き刺すように向けられ、すでに若干涙目で後悔に浸っていた。

「……あかん、もうダメや。お前さっきからほんまにいってたん?」

 勇気への称賛は上がらず、張り詰める空気は聞きなれた兄の高笑いによってこと切れる。ついには腹を抱えて笑う始末だ。
 
「黙りなさい、アラン。今コウは少なくともあなたより真剣です。分をわきまえないのなら今すぐ退室しなさい。」

 場の規律を正そうと姉のミシェルは冷静に叱責を飛ばした。
 先ほどまでの愉快な顔色は険しくなり、不満の発散はテーブルへ。アランの蹴りでテーブルの食器は音を立て、必然のように気まずい空気が訪れる。

「分わきまえるって、は??? なんで俺がこいつに縛られなあかんねん、ボケカス。」

 案の定、火に油を注ぐ形となり、均衡は崩れ落ちる。いつの間にかコウの話し合いの場は乗っ取られ、変な汗をかかずにいられない。
 攻撃的な姿勢を崩さないアラン、対して冷静沈着のミシェル、両者は帝国を代表する魔術師であり、まごうことなき強者だ。
 アランは帝都魔術騎士団に所属し、魔獣戦線を何度も超えてきた現役の異名保持者ライズホルダー。ミシェルは王位直属の護衛を務め、王国最強の声も上がるほどの実力者であり当然こちらも異名保持者ライズホルダー
是非とも二人の行く末を観戦したいところだが、闘技場のみにしていただきたいところだ。

「アラン兄様、ミシェル姉様、今はコウにいの……、コウ兄様の時間です。喧嘩ならよそでやってください。」
 
 一触即発に仲介を入れたのは可愛らしい救世主だった。妹のリアはムッとした表情で立ち上がると、まだ幼さの残る声をあげる。
 舐められまいと胸を張るが、成熟とは程遠い未発達なものである。正直可愛いの一言に尽きるものだ。当然、本人には言及禁止である。
 
「わかったわかった、ごめんて。リアちゃん堪忍な~。」

「ごめんなさい、リア。私も大人げなかった。」

 水を差したリアに以外にも二人の態度は甘いものだった。愛くるしいリアにアランは猫を撫でるように頬を緩ませ、ミシェルも御淑やかな笑みを浮かべる。

「大丈夫、心配いらん。俺は姉さまとやるほど驕ってないし、氷像にされてお陀仏なるんも勘弁や。そやな~、おもろいもんも見れたし、このへんでお暇させてもらおかな。」

 アランはわざとらしい仕草で両手を上げ、骨抜きにされた物腰を披露する。
 「ではこれで。」と簡単にカリウスに会釈した後、後ろの扉が音を立てて開いた。
 扉へと向かうにつれアランが近づいてくるのだが、コウは正直避けたい一心で意味もなく呼吸を止めていた。
 
「あ、そうや。これだけは言っとくけどーー」

 早くどこかに行ってほしい、コウの期待は甘いものだった。
 アランは背後で足を止め、手を伸ばした。いやでも伝わってくる熱と不必要な加重が肩に乗せられる。同時にアランのメッセージが自分へのものだとコウは理解した。

「俺は反対な、というか論外やろ。術式もない、幼稚な魔術すら使えん。お前に何が出来んねん? お前ほんまに家の血引いとるんか? ああ、すまんな~。悪口とかやないで、ただこれが現実なだけ。」

 その回答はコウにとって予想外、ではない。アランの反対は分かりきったことだった。
 名家ながら術式を持たずに産まれ、自己構築術式、通称基本魔法すらも発動しない。もちろんコウは必死に努力したし勉学にも人一倍励んだ。しかし、その一切が報われることなく散っていく。
 理解しているはずなのに、いざ面と向かって言われると胸にどうしようもない痛みが走る。残酷なことに、その痛みが自身の夢と現実が程遠いと心底理解しているからなのだと、コウは知っていた。 

「半歩譲って騎士にでもなるんやったらええと思うよ。でもさっきから聞いてればなんや、魔術師になりたい? 笑わせんといてくれや。もし家名に泥塗るようやったら潰すで…お前?」

 反論はなかった。言い返すこともせず、反抗することもない。ありのままの事実に項垂れるだけの弟をアランの目にはどのように映ったのか。
 徐々にコウの肩から熱が食い込んでくる。時期に熱は痛みへと変わり、常人では考えられないほどの万力が肉と骨を抉ってくる。
 それはアランの脅しが偽物でなく、その瞳に映したのが本物の敵意であったことを証明していた。

「っつ…」

 兄の容赦のない握力は鈍い声とともにコウの顔を歪ませる。
 ーー自分は兄に反抗する権利がない。それがいつしかできた兄との溝だった。
 だからこそ、コウは必死に耐えることを今まで選んできたのだ。

「ちょっと!! アラン兄さま!!」

「…去れ、アラン。」
 
 自身の名前を呼ばれたわけでもないのにも関わらず、コウはその極寒の低音に凍てつかされる。いつも優しいミシェルからは想像もつかないほどの冷たい呼び声、その表裏にあるのが怒りであったことを幼少の記憶と重なった。
 細氷の導はアランの視線の先、ミシェルの細い指先に真冬の霜が降り、その魔術の鼓動を感じさせる。
 外は真夏だというのに不自然な冷気が肌を撫で、コップの端で滴り落ちるはずの結露は動きを止める。白く染まった銀食器がカタカタと一斉に震えだす頃には、食卓は真っ白に染まっていた。
 どちらも引かない状況にコウは動揺を隠せず、時間がギュッと短縮され一秒を小刻みに見ているかのような不思議な感覚を覚えたが、肩の圧迫が失せ始めたことで感覚は急速に醒めだす。
 直後、後ろでとらえた舌打ちだけが残響し、振り返った先にいるはずのアランの姿はどこにもなかった。
 魔術…だよな? 唖然と兄の行方が気になるなか、ふとこんなことをしている場合ではないと姿勢を戻す。思えばまだ何一つ進展していないのだ。
 コウは再び向き合い、細い眼の威圧に耐えながらも、臆さず拳をぎゅっと握り締める。
 一向に退かない息子を見て何を思ったのか。頬杖に乗せた体を起こし、カリウスもまたひそかに拳を固めた。

「決して…退かないのだな。」

 その問いはとても簡単だ。ずっと皆の顔を窺いながら言葉を選んでいた。でもその答えだけは自然と「はい。」とだけ口からこぼれだす。
 そんなコウに「そうか…」とだけ言い、カリウスは静かに目を閉じる。
 今までにない父の姿にリアとミシェルは佇むような表情を浮かべ、長年この本邸で務めてきたシアも部屋の片隅で当主の御心を静かに待つ。
 コウは太ももまで垂れた純白のテーブルクロスをただ呆然と眺め、カリウスの深いため息の後、親子は息を合わせるように再びその眼を合わせた。

「コウよ、つい先日のことだ。お前とマンシュリー嬢との婚約が決まった。」

「はっ…え???」

「お、お父様!! そんな、い、いつの間にーー」

「コウ君が……こん、やく。」

 驚きのあまりコウの顔から表情が抜け落ちる。頭の中が一瞬真っ白になり、反論の余地もなく語彙力が崩壊した。それは姉妹達も同じで、リアは驚きのあまり言及することすらままならず、かというミシェルは婚約の意味さえもまだ頭で消化できていないようだった。

「荷物はメイド達にまとめさせている。向かいの馬車もすでに手配済みだ。」

「えっと、待っーー」

 ――荷物まとめるってどういう、それに向かいの馬車?  
頭の整理も追いつかないまま、カリウスは事務報告のように淡々と告げていく。
 
「コウよ、当主の名において、エステリア家への滞在を命ず。何せ急なこと、すぐ結婚…とはいかないだろう。」

「あの…だからーー」

――家を出る? どこに…? エステリア家? 
 急に他家への滞在を命じられ、知らぬ間に婚約が交わされている。誰だって混乱せずにはいられない。
 
「披露宴の日取りは予定済みだ。後は正式な帝国、王国での式と婚姻の成立をーー」

「ちょっと待ってくださいよ!!」

 気づいたときにはコウはテーブルを叩き、大声で半ば強引に父を止めていた。
 混乱の最中、一点だけ即座に浮かんだ疑問があった。婚約することで得られるものは安泰な人生、何不自由ない生活だ。それ相応の地位も約束される。しかし、それはある一つを犠牲にすることだとコウは気づいていた。
 それは魔術師になるという願いとは違う道であることは明白だった。
 
「どういうことですか。僕は何も婚約の話を聞いてませんし、まだする気もありません。僕には夢があるんです!!! お父様、僕は魔術師になりたい! 帝都魔導学校に入学して、魔術を習いたいんだ! 」

 前のめりに肺の空気を出しきり、コウは思うがままにすべて吐き出した。考えることを放棄し、ぶつけるがままにその旨を伝える。

「コウ、何が不満なのだ。」

「は?」

 息を荒げるコウに対して、カリウスの態度はいたって冷静なものだった。ティーカップを持ち上げ、優雅に一口つけると、次は刺すような切れ目へと変貌する。

「婚姻を交わせば、貴族の地位も授かり、将来も約束されよう。帝都と王都を結ぶエステリア家は有望そのものではないか。中立都市として街は栄え、我々と血を結ぶことで英雄が生まれるのだ。いずれ両国は喉から手が出る程、欲することとなる。それとも婚約者か? マンシュリー嬢は先祖返りの血、一見したが術式は見事なものだったぞ? 素質は本物、足りないのは魔力因子のみ。お前と子を成せば名家に引けを取らない優秀な子が生まれるだろう。それに容姿も見目麗しい才女だ。一体、何が不満なのだ?」

「不満だとか、そういうのではありません。僕は魔術師になりたいのです。婚約など……。」

「そうです! もう少しコウ兄様の声も聞いてあげてくだーー」

「ならぬっ!!!」

 突如、その怒号は響き渡った。声とともに魔力の圧がコウを正面から押さえつけ、その余波で食器は微細に揺れる。味方よりのリアも父の尖り声を初めて目の当たりにし、思わず固唾をのんだ。
 
「前提をはき違えるな。マードックは魔術の名門、代々伝わる魔術因子と血統をもって今に至る。故に、血筋が成すことはその研鑽と継承。術を持つ者は研鑽し、才のない者は継承する。その跡に続いてきたのが揺るぎない爵位の座である。コウよ、父には分からぬのだ。何が不満だ? 本家の血筋でありながら術を扱えないお前が、継承という名誉を授かることの、一体何が不満だというのだ?」
 
 コウはようやく父が築いた魔術師という像を目のあたりにする。思想の違い、概念のずれ、感情の優劣、ずれあう親子の溝は計り知れず。
 ついに諦めに似た感情がうずまき、分かり合えないと頭の片隅で納得しかけていた。
 それはまた、首を傾げる紳士も同じであった。コウの不満は承知の上だが理解できず、共感できない。それは魔術師の家に生まれた者はそうあるべきだという思想に基づくものだった。
 
「コウよ、もう魔術に励む必要も、自身の失望に胸を抑えることもないのだ。私はお前に期待などしていない。ならば、マードックに生まれたものとして役目を果たせ。子を孕ませ、その血統を次代に繋げよ。私の期待はそこにある。これが父の最後の願いだ。」

 ここに自由はなく、血の呪縛はこの姓にあり続ける。それがマードックに生まれた力なき者の行く末なのだ。
 泣き崩れたい衝動と渇きが胸を締め付け、今まで積んできた時間が音もなく崩れおちる。
 先にある人生がゴールの光を指さない暗いものへと変わり、絶望だけが彼を包んだ。

 もう、いいのかもしれない。これ以上傷つかなくても、ここであきらめても、いいのかもしれない。
 コウは静かに瞼を下ろす。暗闇の中、差し伸べられる手、ここで終わらせるように、救われるように、手を伸ばすーー
 
 いいコウ君。家のためじゃない、国のためじゃない、世界のためじゃない、あなたは人のための、優しい魔術師になりなさい。

 忘れかけていたその言葉が心のどこかにあった。いつも勇気づけ、励まし、消えかけた火に力を吹き込んでくれる。それがコウの原動力、眠り続ける母との唯一の約束だった。

「わかりました。ではお父様、僕は家を出ます。」

 そうして、コウは姓を捨てる覚悟を決めた。
しおりを挟む

処理中です...