【完結】波間に揺れる

谷絵 ちぐり

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夢を知る

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菱海ひしみ藩は二万五千石の小さな、けれどれっきとした譜代大名だ。
温暖な気候と穏やかな海となだらかな山、名産は魚の開きを干した干し魚。
現藩主は永山徳寿ながやまのりとし四十五歳で嫡子は十五歳の徳朋のりともである。
太平の世の中にあって、この自然溢れる小さな藩を治めている。
藩主邸は海を一望出来るなだらかな丘の上に建っており、城ではなく大きな平屋造りであった。
その藩主邸からまっすぐ南にある林を抜けた先、切り立った崖に近い場所。
そこには屋敷がぽつねんと建っており、住んでいるものはいない。

「あそこに住まわすなんて三雲みくも先生は一体何をお考えになっとるんだか」

佐斗のおっとうは魚に食い破られた網の穴を直しながらおっかぁに話している。
おっかぁは、ほんにねぇと言いながら菜っ葉をザクザクと切って鍋に放り込む。

「あそこって化け物屋敷か?」
「佐斗!あそこをそんな風に言うもんじゃねぇ」

おっとうは佐斗を叱る。
佐斗と喜一の言う化け物屋敷はその昔お救い小屋であった。
70年前、ある疫病が蔓延した。
なにを口にいれても吐いてしまい、水を飲むこともできずに衰弱していく。
吐いた物に触れると触れた人がまた病にかかる。
根絶するには匙によると隔離しか方法が無いという。
当時の藩主は現藩主の祖父徳篤のりとくで、最期が粗末な小屋では不憫だということで中はともかくも外側は立派な屋敷のように見せかけた。

「おっとう、ごめんよ」

おっとうは佐斗の潮風でゴワゴワの髪をくしゃりと混ぜっかえす。

「修繕するより新しく普請した方がええと思うけどねぇ」
「そうやなぁ」

おっかぁが鍋をかき混ぜながら言うのにおっとうも大きく頷いた。


カクンと頭が揺れる。
慌てて周りをそっと窺ってみるもカツカツとペンを走らせる音がするだけだ。
教室の中央にある時計の針は五分程しか進んでいない。
たった五分なのにやけに長い夢を見ていたような気がする。
黒板に書かれた数式を解かねばならない。
翔も急いで頭を切り替えた。


昼休み、クラスが離れてしまった勇輝と食堂で合流する。

「菱海藩?」
「そう、これ見て」

翔はスマホの画面を見せる。
菱海藩は実在した。
鮮やかになってきた夢、妄想だとはとても思えない。
調べると菱海藩は確かにここ四国に在り、江戸の世が終わるまで永山家が統治していた。

「へぇ、やっぱりかっちゃんの前世は漁師」

わかめうどんをずずずっと啜って勇輝は笑った。
翔はぐぬぬと思いながら同じようにわかめうどんを啜る。



朝井あさい様!」
「おお、佐斗か」
「はい!おっとうに言われて魚を持って参りました」

佐斗の白い歯がぴかりと光るくらいの眩しい笑顔に朝井は目を細めた。
佐斗は井戸で水汲みをする朝井の立派な体躯に目を奪われている。

「佐斗」

佐斗は振り向く。
お勝手から顔を覗かせるのは飯炊き女のだ。

「おようさん、魚持って来ました」
「聞こえてるよ。早くおいで、そんで捌くのを手伝っておくれ」

はーい、と佐斗は返事して朝井にぺこりと頭を下げた。
化け物屋敷は結局、新しく普請した。
以前より小さくはなったが、住み良く真新しい木の匂いが鼻を擽る。
朝井がかめに水を満たしている間、佐斗はようと一緒に魚を捌いていく。

「煮付けにしようかしら。菜っ葉はおひたしにして、芋汁を作って・・・」
「琴乃様はまだあんまり食べられないのですか?」
「そうね」

ようは悲しそうに目を伏せた。

琴乃様は心の病を患っておられるのだという。
江戸は忙しなく人がひしめき合っているので、この海と山以外何もない菱海藩に療養に来た、と簡単に匙の三雲先生は説明した。
そこから、佐斗と喜一は大人たちの噂話を聞きかじり集めた話を元に推理した。

琴乃様はさる大名家の三の姫で近く輿入れが決まっていた。
それが立ち消えになってしまった。
理由は、輿入れ先の大商家の嫡男に懸想した女中に熱湯を浴びせられたのだ。
その日は姫と嫡男の月に一度の逢瀬の日で、茶と茶菓子を運んだ女中が事に及んだ。
お付の女中が庇ったが姫の美しい顔、その頬には火傷の痕が生々しく残った。
もちろん、女中はその場で姫付きの藩士に切り捨てられた。
傷物になってしまった姫、女中との仲を勘ぐられた嫡男、上手く事が運ぶわけがなかった。
その切り捨てた藩士が朝井恵一郎あさいけいいちろうであった。

琴乃は傷物になってしまったこと、輿入れが立ち消えになったことで塞ぎこみ、へ来た。
姫を庇って火傷を負った女中のと朝井一人を共に付けひっそりとやってきた。
頭からすっぽり頭巾を被った琴乃様。
屋敷の奥座敷で日がな空を見上げているという。

菱海の者たちは皆、この可哀想な姫に同情的でなんとか気を取り戻していただけないかと何かと用をつけ屋敷に赴いた。
佐斗もその内の一人で、やれ魚だ菜っ葉だと持ってやってきた。
海で綺麗な貝殻を見つけた時は、喜一と二人でいの一番に屋敷に走り琴乃様に差し上げた。
そうしていれば、女中のあんとも飯炊き女のようとも親しくなるのに時間はかからなかった。
もちろん、そこには恵一郎も含まれる。

琴乃様がやってきて一年、屋敷の周りには花が咲き乱れぽつねんと建っていたそこはいつの日か『花姫屋敷』と呼ばれるようになっていた。
佐斗は花姫屋敷に通い、恵一郎はたまに海に降りてきて佐斗のおっとうや喜一のおっとうと一緒に酒を酌み交わしたりしていた。

ある日、酒を飲みにやってきた恵一郎と佐斗は夕暮れの海を散策していた。

「朝井様、おっとうがすみません」
「いや、いいんだ。私が日にちを勘違いしていたのかもしれぬ」

おっとうはその日、漁師達の寄合で喜一の家に集まっていた。
喜一の家は今でいう漁業組合長のようなものである。

サクサクと砂を踏みしめ歩き、沈む夕日は砂浜に腰をおろして二人で見た。

「佐斗は字が書けるか?」
「かなならなんとか書けます」

そう言って佐斗は傍にあった棒切れで砂浜に『さと』と書いた。
恵一郎はそうか、と静かに笑いそっと佐斗の肩に手をかけた。
背後から佐斗に覆い被さるようにして、佐斗の手と共に棒切れを握る。

「佐斗はな、こう書く。寺にある届けにもこの字で出されているだろう」

そう言って『さと』と書いた横に『佐斗』と書いた。

「朝井様はなんと書くのですか?」
「ん?私か?私はこうだ」

『佐斗』と『恵一郎』が砂浜に並ぶ。
背中に感じる胸板は広く、握る手は豆だらけで大きく温かい。
佐斗の心臓は跳ねていた。
それはもう、波に跳ねるうさぎのように。
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