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第三幕
木曜日 ~noisy goblins of schoolhouse~ ⑤
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■4■
あれこれと物事を考えているような余裕は俺にはなかった。
脇に置いておいたスタンガン警棒を引っ掴み、放送室を飛び出す。
あの子を、アマリリスを死なせてたまるか!
長い鉄骨の階段を駆け下りながら、そんな想いだけに俺は突き動かされていた。そして、アマリリスと歩いた記憶を頼りに、来た道を戻り始める。
まずは直進。そこから三つ目の通路を右折。
あの角を曲がったら、しばらく真っ直ぐ道なりに。
その次は右の狭い通路。
その次は小さな階段を下ったところを左だ。
その次は――
その次は――
「よし、行けるぞ」
思った以上に有刺鉄線の迷路をスムーズに進めていることに気がつき、俺は笑みを漏らしていた。こんなに自分の記憶力が高いとは知らなかった。
やがて、アマリリスと再会した、保健室のドアの前を通り過ぎる。
よし、後は一気に教室まで――そう思った時だった。
何かが足首に引っかかる感触。カクンッと前のめりに倒れこみそうになるが、咄嗟に踏ん張って、俺は体勢を保った。
振り返り、そして、見た。俺の足首に、西部劇でみる投げ縄のようになったロープが絡み付いているのを。
それを外そうと、手を伸ばす暇もなかった。
闇の中から、次から次へと先を輪に括ったロープが投げかけられて来る。
為す術もなく縛り上げられながら、その先にいくつもの悪意が蠢くのを感じた。
誰の仕業か、考えるまでもない。怪物どもだ。
やつら、俺を待ち伏せしていやがった……!
やがて、思った通り、俺の前に数匹のフート・スキャンパーが歩み寄って来た。
その中心にいたのは、阿部……。俺のスタン警棒で顔に火傷を負ったあいつだ。
小さな身体には不釣合いなほど、やつは厳しく大きな刃物を手にしていた。
包丁や果物ナイフといった家庭用品じゃない。いわゆる、アーミーナイフと言うヤツだ。
「そんなもん、どこに隠し持っていたんだよ。見つかったら職務質問されるぞ?」
俺の息も切れ切れの皮肉にも、阿部はニタニタ笑うだけで何も答えなかった。
恐らく、あいつは手にしたナイフで、身動きの取れなくなった俺をゆっくり嬲り殺しにするつもりだ。そして、仲間を呼び集め、生肉パーティでも始める気なのだろう。
しかし、俺が感じたのは恐怖ではなかった。怒りだ。
沸騰し、脳が溶けてしまうのではないかと思えるほど激しい怒りに俺はギリギリと歯軋りしていた。
トンッ、と足音を立てて床を蹴り、阿部の顔をした怪物が俺に飛び掛ってきた。
鋭い刃先を俺に向けて、一直線に。
反射的に俺は目を固く閉じ、身を竦ませていた。
しかし――、予想していた一撃はなかなか襲ってこない。
恐々と俺は目を見開き、
「…………!?」
そこにあった信じられない光景に息を飲んでいた。
もう一匹、怪物がそこにあらわれていた。
ギーギーと苦しげに喚く阿部の顔をした怪物の胴を逞しい腕で鷲掴みにしているのは、髑髏の顔を持つ重厚な鎧を身に纏った巨漢、スローターだ。
「…………」
異形の巨人は無言のまま、黒々とした眼窩でジッと俺を見下ろしていた。
そして、凍り付いている俺の頭上で――、グシャ、と音を立てて、手中の生き物を握り潰した。
よく熟れたトマトをそうしたかのように、赤くベトベトした者が周りに飛び散る。
それ同時に、四方から俺を縛り上げ引っ張っていたロープから力が失われる。
それからは――、阿鼻叫喚の大騒ぎだった。
無残にリーダーが殺されたのを見て、逆上したのか、闇に潜んでいた小さな怪物どもが一斉に飛び出してきた。
その標的は俺ではなく、スローターだった。
それぞれが手にした鋏やらカッターナイフやらを振り回して、死神が着込んだ鎧の隙間につきたてようとする。
一方、スローターは全く慌てる様子もなく、フート・スキャンパーどもを手当たり次第に捕らえ、一匹一匹、丁寧な手つきで有刺鉄線に擦りつけ潰してゆく。その仕草は、蜂の群れにたかられて鬱陶しそうに前足を動かす熊に似ていた。
「よーし、その調子だ」
ロープを解いて戒めから逃れ、阿部が落としたアーミーナイフを拾い上げながら、俺はやつらにエールを送っていた。
「怪物同士、好きなだけ殺し合え!」
また一つ、また一つと発せられる断末魔を背中に聞きながら、俺は迷路を急いだ。
何とか、俺は6年2組の教室の前まで戻ってくることができた。
「おい、大丈夫か!?」
声を張り上げながら、勢いよくドアを開け放つ。
そして、教壇の前で椅子に縛られたまま俯いているアマリリスに気がつき、急いで駆け寄ろうとした。
しかし、
「アマリリス……?」
俺は眉をひそめた。自然と、彼女に近づく足取りが遅くなる。
ツン、と鼻を刺す鉄のような異臭。それはこの迷いの世界に取り込まれるたび、嫌と言うほど嗅がされてきた臭いだった。
そして――、ふと、俺は気がつく。
アマリリスの胸元をジットリと濡らす赤黒い染み……。
それは夥しい吐血の跡だった。
「う、嘘だろ……」
項垂れたまま、身動き一つしないアマリリスの前に俺は崩れるように膝をつく。
「アマリリス! 起きてくれよ、なぁ!」
泣き出しそうな声で揺さぶってみるが――、彼女が息絶えているのは明らかだった。
見ると、か細く白い首筋には吸血鬼に咬まれたような傷跡が二つ。
やつらが、あのおぞましいフート・スキャンパーどもが鋭い針のようなもので突き刺したに違いない。
なんて酷いことを……!
氷のように冷たくなり始めたアマリリスを胸に抱きしめながら、俺は嗚咽を噛み殺す。
自分の心が引き裂かれてゆくようだった。いっそのこと、狂ってしまいたい。しかし、皮肉にも俺を正気に保たせたのは、アマリリスを死に追いやったこの世界への怒りだった。
暫くの後、
「――帰ろう、一緒に」
俺は呟き、彼女の戒めを解いてやった。
例え、遺体であろうとこんな場所に置き去りにするには忍びない。
改めて、俺は教室の中を見回していた。目に止まったのは、先程見つけた、割れた窓から吹き込む風に大きく揺れるカーテン。
これだ……!
拾ったナイフを使って、俺はカーテンを真ん中から二つに引き裂いた。
それをきつく結び合わせて、即席の避難梯子を拵え、しっかりと教室の窓枠に結び付ける。
即席の緊急梯子の出来上がりだ。
「ちょっと、我慢してくれよ」
ロープで背中に括りつけたアマリリスに俺は呼びかけていた。
「一緒に帰ろうな……」
カーテンを手に取り、窓を跨ぎ超え――壁に張り付くようにして俺は下り始める。
校舎の外は相変わらず黒い煙に包まれていて、俺に怖気を震わせたが幸いにも地面に辿り着くまで、さして時間はかからなかった。
息をつく間もなく、俺はアマリリスの遺体を抱えたまま、ピラミッドのように積み上げられた机の山に向かう。その頂上に、あの忌まわしい卵の落書き――デュカリ・デュケスの印形があるのは、校舎から確認済みだ。
ゼェゼェと息を切らしながら、一段一段、机の山を登ってゆく。
頂上まで後、数段という時だった。
「うわっ!」
積み重ねられた机の下から伸び出てきた、死人のそれのように青白い腕に足をつかまれ、俺は短く声を発していた。毒虫に刺された時のような痛痒い感触が足首を貫く。
「畜生、離せっ!」
罵声を挙げながら、殆ど無意識の内に俺はそいつにナイフを突き立てる。
ブチュッ、と厭な音を立てて鮮血が飛び散り、俺の足首に爪を食い込ませていた怪物の力が弱まる。
一閃、ニ閃――。
続けざまに俺はナイフを振るった。
怒声を上げて指を切り飛ばしてやると、恐れをなしたのか、青白い腕は低い苦悶の呻きとともに机の下に引き下がった。
荒い息をついて、それを見送った後、
「……待たせてごめんな」
そう囁きながら、アマリリスを担ぎ直し俺は再び机を昇り始める。
「さあ、一緒に帰ろう」
それからは邪魔者も現れることなく、頂上に登りつめることができた。
何をすればいいのか、もう、分かっている。
件の机――、デュカリ・デュケスの印形が描かれた机を叩き割らんと俺は警棒を力任せに振り落とした。力一杯、叩きつけた警棒が机の落書きを砕いたと思った、次の瞬間だった。ガラガラと轟音を立てて、足元が崩れ始める。
「……!」
声をあげる間もなく、俺とアマリリスは宙に投げ出されていた。
咄嗟に俺はアマリリスの華奢な遺体を抱き締める。
絶対にこの子を現実の世界に連れ帰るんだ……!
凄まじい勢いで重力に引き寄せられる中、俺はその想いをもう一度噛み締めた。
「――ちょっと、六道君?」
ハッと気がつくと、俺は冷たい廊下に倒れ伏していた。
そこは腐肉も異臭もない、勿論、怪物もいない、現実の学校の廊下だ。
呻きながら両手を突き、身体を起こすと蒼白になった河合先生が駆け寄ってきた。
「どうしたの? やだ、怪我しているじゃない!」
あー、何度目だろう、これ……。
迷いの世界から帰還するたび、その場に居合わせた人間に奇妙な印象を抱かせてしまう。当たり前といえば、当たり前だ。河合先生にしたら、数秒前まで普通に話していた俺が、何の脈絡もなくズタボロになっているんだから。
さて、何と、説明したもんかな?
大きく息を吐いてから俺は傍らを振り返り――、表情を強張らせていた。
いない……?
あの子が、アマリリスがいない。
何故だ?
一緒に帰ってきたはずなのに!
「アマリリス!」
立ち上がりながら、俺は叫んでいた。
自分でもどうしようもないくらい動転しているのが分かった。
「アマリリス、どこだ!」
「ちょっ、ちょっとどうしたの!? 何を言ってるの?」
俺の剣幕に河合先生が怯えたように表情を歪ませる。
「だから、一緒に帰ってきたはずの女の子が……」
いないんですよ、と河合先生に叫ぶように答えようとして――
俺は足元に一枚のテレフォンカードが落ちているのを見つけた。
それは一昔前の、アニメのグッズだった。
描かれているのは、活発で明るそうな微笑を浮かべた少女……。
それは鳥肌が立つほど、アマリリスに似ていた。
そして、俺は思い出す。
そのテレフォンカードは、俺が井原千夏に贈ったものだ。
雑誌か何かの懸賞で当てたのを似顔絵を描いてくれた礼として渡したのだ。
その時、井原は学校では一度だって見せたこともない可愛い笑顔で喜んでくれて……。
「嘘だろ。いくらなんでも、そんなこと――」
河合先生が懸命に何か話しかけているが、混乱する俺には意味を為す言葉に聞こえなかった。
情けないくらい、震える手でテレフォンカードを拾い上げる。
そして、そこに記されたアニメのタイトルをうつろな目で追う。
迷界のアマリリス――
がん、と頭を殴られたような気がした。
その衝撃にヘナヘナとその場に膝を着き、それから俺は何も分からなくなった。
あれこれと物事を考えているような余裕は俺にはなかった。
脇に置いておいたスタンガン警棒を引っ掴み、放送室を飛び出す。
あの子を、アマリリスを死なせてたまるか!
長い鉄骨の階段を駆け下りながら、そんな想いだけに俺は突き動かされていた。そして、アマリリスと歩いた記憶を頼りに、来た道を戻り始める。
まずは直進。そこから三つ目の通路を右折。
あの角を曲がったら、しばらく真っ直ぐ道なりに。
その次は右の狭い通路。
その次は小さな階段を下ったところを左だ。
その次は――
その次は――
「よし、行けるぞ」
思った以上に有刺鉄線の迷路をスムーズに進めていることに気がつき、俺は笑みを漏らしていた。こんなに自分の記憶力が高いとは知らなかった。
やがて、アマリリスと再会した、保健室のドアの前を通り過ぎる。
よし、後は一気に教室まで――そう思った時だった。
何かが足首に引っかかる感触。カクンッと前のめりに倒れこみそうになるが、咄嗟に踏ん張って、俺は体勢を保った。
振り返り、そして、見た。俺の足首に、西部劇でみる投げ縄のようになったロープが絡み付いているのを。
それを外そうと、手を伸ばす暇もなかった。
闇の中から、次から次へと先を輪に括ったロープが投げかけられて来る。
為す術もなく縛り上げられながら、その先にいくつもの悪意が蠢くのを感じた。
誰の仕業か、考えるまでもない。怪物どもだ。
やつら、俺を待ち伏せしていやがった……!
やがて、思った通り、俺の前に数匹のフート・スキャンパーが歩み寄って来た。
その中心にいたのは、阿部……。俺のスタン警棒で顔に火傷を負ったあいつだ。
小さな身体には不釣合いなほど、やつは厳しく大きな刃物を手にしていた。
包丁や果物ナイフといった家庭用品じゃない。いわゆる、アーミーナイフと言うヤツだ。
「そんなもん、どこに隠し持っていたんだよ。見つかったら職務質問されるぞ?」
俺の息も切れ切れの皮肉にも、阿部はニタニタ笑うだけで何も答えなかった。
恐らく、あいつは手にしたナイフで、身動きの取れなくなった俺をゆっくり嬲り殺しにするつもりだ。そして、仲間を呼び集め、生肉パーティでも始める気なのだろう。
しかし、俺が感じたのは恐怖ではなかった。怒りだ。
沸騰し、脳が溶けてしまうのではないかと思えるほど激しい怒りに俺はギリギリと歯軋りしていた。
トンッ、と足音を立てて床を蹴り、阿部の顔をした怪物が俺に飛び掛ってきた。
鋭い刃先を俺に向けて、一直線に。
反射的に俺は目を固く閉じ、身を竦ませていた。
しかし――、予想していた一撃はなかなか襲ってこない。
恐々と俺は目を見開き、
「…………!?」
そこにあった信じられない光景に息を飲んでいた。
もう一匹、怪物がそこにあらわれていた。
ギーギーと苦しげに喚く阿部の顔をした怪物の胴を逞しい腕で鷲掴みにしているのは、髑髏の顔を持つ重厚な鎧を身に纏った巨漢、スローターだ。
「…………」
異形の巨人は無言のまま、黒々とした眼窩でジッと俺を見下ろしていた。
そして、凍り付いている俺の頭上で――、グシャ、と音を立てて、手中の生き物を握り潰した。
よく熟れたトマトをそうしたかのように、赤くベトベトした者が周りに飛び散る。
それ同時に、四方から俺を縛り上げ引っ張っていたロープから力が失われる。
それからは――、阿鼻叫喚の大騒ぎだった。
無残にリーダーが殺されたのを見て、逆上したのか、闇に潜んでいた小さな怪物どもが一斉に飛び出してきた。
その標的は俺ではなく、スローターだった。
それぞれが手にした鋏やらカッターナイフやらを振り回して、死神が着込んだ鎧の隙間につきたてようとする。
一方、スローターは全く慌てる様子もなく、フート・スキャンパーどもを手当たり次第に捕らえ、一匹一匹、丁寧な手つきで有刺鉄線に擦りつけ潰してゆく。その仕草は、蜂の群れにたかられて鬱陶しそうに前足を動かす熊に似ていた。
「よーし、その調子だ」
ロープを解いて戒めから逃れ、阿部が落としたアーミーナイフを拾い上げながら、俺はやつらにエールを送っていた。
「怪物同士、好きなだけ殺し合え!」
また一つ、また一つと発せられる断末魔を背中に聞きながら、俺は迷路を急いだ。
何とか、俺は6年2組の教室の前まで戻ってくることができた。
「おい、大丈夫か!?」
声を張り上げながら、勢いよくドアを開け放つ。
そして、教壇の前で椅子に縛られたまま俯いているアマリリスに気がつき、急いで駆け寄ろうとした。
しかし、
「アマリリス……?」
俺は眉をひそめた。自然と、彼女に近づく足取りが遅くなる。
ツン、と鼻を刺す鉄のような異臭。それはこの迷いの世界に取り込まれるたび、嫌と言うほど嗅がされてきた臭いだった。
そして――、ふと、俺は気がつく。
アマリリスの胸元をジットリと濡らす赤黒い染み……。
それは夥しい吐血の跡だった。
「う、嘘だろ……」
項垂れたまま、身動き一つしないアマリリスの前に俺は崩れるように膝をつく。
「アマリリス! 起きてくれよ、なぁ!」
泣き出しそうな声で揺さぶってみるが――、彼女が息絶えているのは明らかだった。
見ると、か細く白い首筋には吸血鬼に咬まれたような傷跡が二つ。
やつらが、あのおぞましいフート・スキャンパーどもが鋭い針のようなもので突き刺したに違いない。
なんて酷いことを……!
氷のように冷たくなり始めたアマリリスを胸に抱きしめながら、俺は嗚咽を噛み殺す。
自分の心が引き裂かれてゆくようだった。いっそのこと、狂ってしまいたい。しかし、皮肉にも俺を正気に保たせたのは、アマリリスを死に追いやったこの世界への怒りだった。
暫くの後、
「――帰ろう、一緒に」
俺は呟き、彼女の戒めを解いてやった。
例え、遺体であろうとこんな場所に置き去りにするには忍びない。
改めて、俺は教室の中を見回していた。目に止まったのは、先程見つけた、割れた窓から吹き込む風に大きく揺れるカーテン。
これだ……!
拾ったナイフを使って、俺はカーテンを真ん中から二つに引き裂いた。
それをきつく結び合わせて、即席の避難梯子を拵え、しっかりと教室の窓枠に結び付ける。
即席の緊急梯子の出来上がりだ。
「ちょっと、我慢してくれよ」
ロープで背中に括りつけたアマリリスに俺は呼びかけていた。
「一緒に帰ろうな……」
カーテンを手に取り、窓を跨ぎ超え――壁に張り付くようにして俺は下り始める。
校舎の外は相変わらず黒い煙に包まれていて、俺に怖気を震わせたが幸いにも地面に辿り着くまで、さして時間はかからなかった。
息をつく間もなく、俺はアマリリスの遺体を抱えたまま、ピラミッドのように積み上げられた机の山に向かう。その頂上に、あの忌まわしい卵の落書き――デュカリ・デュケスの印形があるのは、校舎から確認済みだ。
ゼェゼェと息を切らしながら、一段一段、机の山を登ってゆく。
頂上まで後、数段という時だった。
「うわっ!」
積み重ねられた机の下から伸び出てきた、死人のそれのように青白い腕に足をつかまれ、俺は短く声を発していた。毒虫に刺された時のような痛痒い感触が足首を貫く。
「畜生、離せっ!」
罵声を挙げながら、殆ど無意識の内に俺はそいつにナイフを突き立てる。
ブチュッ、と厭な音を立てて鮮血が飛び散り、俺の足首に爪を食い込ませていた怪物の力が弱まる。
一閃、ニ閃――。
続けざまに俺はナイフを振るった。
怒声を上げて指を切り飛ばしてやると、恐れをなしたのか、青白い腕は低い苦悶の呻きとともに机の下に引き下がった。
荒い息をついて、それを見送った後、
「……待たせてごめんな」
そう囁きながら、アマリリスを担ぎ直し俺は再び机を昇り始める。
「さあ、一緒に帰ろう」
それからは邪魔者も現れることなく、頂上に登りつめることができた。
何をすればいいのか、もう、分かっている。
件の机――、デュカリ・デュケスの印形が描かれた机を叩き割らんと俺は警棒を力任せに振り落とした。力一杯、叩きつけた警棒が机の落書きを砕いたと思った、次の瞬間だった。ガラガラと轟音を立てて、足元が崩れ始める。
「……!」
声をあげる間もなく、俺とアマリリスは宙に投げ出されていた。
咄嗟に俺はアマリリスの華奢な遺体を抱き締める。
絶対にこの子を現実の世界に連れ帰るんだ……!
凄まじい勢いで重力に引き寄せられる中、俺はその想いをもう一度噛み締めた。
「――ちょっと、六道君?」
ハッと気がつくと、俺は冷たい廊下に倒れ伏していた。
そこは腐肉も異臭もない、勿論、怪物もいない、現実の学校の廊下だ。
呻きながら両手を突き、身体を起こすと蒼白になった河合先生が駆け寄ってきた。
「どうしたの? やだ、怪我しているじゃない!」
あー、何度目だろう、これ……。
迷いの世界から帰還するたび、その場に居合わせた人間に奇妙な印象を抱かせてしまう。当たり前といえば、当たり前だ。河合先生にしたら、数秒前まで普通に話していた俺が、何の脈絡もなくズタボロになっているんだから。
さて、何と、説明したもんかな?
大きく息を吐いてから俺は傍らを振り返り――、表情を強張らせていた。
いない……?
あの子が、アマリリスがいない。
何故だ?
一緒に帰ってきたはずなのに!
「アマリリス!」
立ち上がりながら、俺は叫んでいた。
自分でもどうしようもないくらい動転しているのが分かった。
「アマリリス、どこだ!」
「ちょっ、ちょっとどうしたの!? 何を言ってるの?」
俺の剣幕に河合先生が怯えたように表情を歪ませる。
「だから、一緒に帰ってきたはずの女の子が……」
いないんですよ、と河合先生に叫ぶように答えようとして――
俺は足元に一枚のテレフォンカードが落ちているのを見つけた。
それは一昔前の、アニメのグッズだった。
描かれているのは、活発で明るそうな微笑を浮かべた少女……。
それは鳥肌が立つほど、アマリリスに似ていた。
そして、俺は思い出す。
そのテレフォンカードは、俺が井原千夏に贈ったものだ。
雑誌か何かの懸賞で当てたのを似顔絵を描いてくれた礼として渡したのだ。
その時、井原は学校では一度だって見せたこともない可愛い笑顔で喜んでくれて……。
「嘘だろ。いくらなんでも、そんなこと――」
河合先生が懸命に何か話しかけているが、混乱する俺には意味を為す言葉に聞こえなかった。
情けないくらい、震える手でテレフォンカードを拾い上げる。
そして、そこに記されたアニメのタイトルをうつろな目で追う。
迷界のアマリリス――
がん、と頭を殴られたような気がした。
その衝撃にヘナヘナとその場に膝を着き、それから俺は何も分からなくなった。
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