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第四幕
金曜日 ~Bottom of the World~ ②
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語り終え、金城は口を閉ざした。
凄まじく面倒な、そして切ない話だった。現実とはとても思えない。
だが、恐らく――、いや、間違いなく金城の言葉は全て正しいのだろう。
だとしたら、この数年間、井原の身に何が起きたと言うのか。あんな、地獄のような景色を心の中に抱えて、人間は生きて生けるものなのか。
「これから、俺はどうすりゃいいんだ……?」
片手で両目を覆い、俺は低く呻いていた。
と、その時だった。
背中に強い視線が注がれているのを感じ、俺は振り返った。
そして――
「お、お前!」
驚きのあまり、俺はソファーから立ち上がり、声を上擦らせていた。
大きく見開かれた俺の瞳が捉えた人物。それは、艶やかな黒髪を背中の辺りまで伸ばした小柄な少女だった。
「い、井原……!?」
声を詰まらせながらも、何とか俺は相手の名を呼んでいた。
「井原千夏……だよな?」
しかし、相手――少女の答えはない。
何の感情もない、凍てついたような眼差しでジッと俺を見つめているだけ。
戸惑う俺の隣で金城がすっと立ち上がった。
「落ち着いて、六道君」
静かな声とは裏腹に、震える俺の手を握り締める力は強かった。
「彼女から目を離さないで。今の彼女の状態は――」
金城の言葉が終らないうちに、くるり、と伊原と思しき少女が踵を返す。
そして、そのまま、ロビーから歩き去ってゆく。
「お、おい!」
思わず、俺は声を大きくしていた。
「ちょっと、ちょっと待てよ! なあ!」
お静かに、と受付の看護士が顔をしかめる。
だが、そんなことに構っている場合じゃない。
「――ついていったほうが良さそうね」
俺の腕をしっかりと取りながら、目を細めた金城が低く言った。
「彼女、何かを教えたがっている。消えてしまわないうちに追いかけましょう」
金城に身体を支えられるようにして、俺は少女の後を追った。
少女――、つまり井原千夏はこちらを振り返ることもなく、モルタルの廊下を滑るように進んでゆく。
と、病室のドアが開き、看護士と患者が談笑しながら出てきた。
「あ、ぶつかる……」
思わず声をあげそうになったが、次の瞬間、俺は絶句していた。
世間話をしながら、井原の身体をすり抜ける看護士と患者。まるで、そこに誰も存在しないかのように。
「あら、こんにちは」
笑顔で会釈し、二人は俺の横を通り過ぎて行く。
「……あれは生霊ね」
ぎこちなく頭を下げた俺に金城が囁く。
「私達以外の人間には見えていないし、触れることもできない。本人の意思とは無関係に病院の中を歩き回っていたみたいね」
無言で俺は頷くしかない。しかし、その一方で激しい胸騒ぎを覚えていた。
このまま、井原を追いかけていった、後戻りできなくなる。そんな予感がした。
やがて……、金城曰く、井原の生霊はとある病室の前で立ち止まった。
はっと息を飲み、俺達は歩調を速める。が、声をかける前にその姿は掻き消えていた。
「それじゃあ、六道君」
ドアノブに手をかけながら、金城が振り返った。
「開けるけど、いいわね?」
一瞬、逡巡し、「ああ、」と俺は頷いていた。「頼むよ」
キィ、と音を立てて、ドアは静かに押し開かれた。
そして――
「……?」
拍子抜けし、俺は首を傾げた。
想像していたような、おぞましい光景はそこにはなかった。キョロキョロと辺りを見回してみるが、迷いの世界に取り込まれたような感じもない。
そこは爽やかな朝日が差し込む、清潔な病室だった。さして、広くなく、ベッドも一基しか置かれていないから、個室のようだ。低く流れるクラシック音楽が妙に心地が良かった。
「――ちょっ、ちょっと? どなたですか?」
ベッドの傍らにいた、中年の女性が怯えたようにこっちを振り返った。
「ノックもなしにいきなり女の子の病室に入ってくるなんて……!」
「すいません」
間髪を入れず、金城が頭を下げる。
「弟のお友達がこちらの病室にいらっしゃるとお聞きしましたから」
「……チーちゃんのお友達? ひょっとして小学校の?」
「はい。弟はいつもお世話になっていましたから……」
さすがは演技力を必要とされる占い師だ。
少々、無理があるがまことしやかな嘘をスラスラと金城が話している。
まあ、全部嘘ってわけじゃないが……。
しかし、俺には二人の会話など聞いている余裕はなかった。
俺の視線は、ベッドの上で、よく洗濯されたシーツにくるめられた、小柄な人物に釘付けになっていた。
大きく可愛らしい、しかし、表情の失せた瞳が天井を見上げている。
身体の所々を包帯とガーゼに覆われてはいたが、それは確かに、この数日間、俺を迷いの世界に引きずり込んだ張本人。
――井原千夏だった。
■2■
病室にいた女の人は、井原の母親の姉――、つまり叔母さんだった。
叔母さんは突然現れた俺達を訝しみながらも、井原のことを話してくれた。
河合先生が教えてくれた通り、やはり、井原は母親と一緒に新興宗教団体、夢神教会に入信していたらしい。
それが、一部の信者が教祖に対して起こした暴動に巻き込まれ、火を放たれた教会本部の地下礼拝堂で意識不明の重体で救出されたらしい。
井原は身体のあちこちに酷い火傷を負っていただけではなく、血液中から多くの薬物が検出され、発見があと数時間遅れたら生命が危なかった。
母親は教祖とともに失踪。本部の焼け跡から発見された無数の焼死死体の中からも発見されず、今もなお、本人から連絡はないと言う。
「可哀想な子なんです」
そう言って叔母さんは涙ぐんだ。
「本当なら、こんな目に遭うような子じゃないのに……」
俺と金城は無言で顔を見合わせあうしかなかった。
それから数十分後――。
金城に促されるまま俺は病院をこっそり抜け出し、夢ノ宮銀座にある占いハウス、夢見館に再びやって来ていた。
勿論、外出許可は得ていない。
後で両親や爺ちゃん、それに病院の人達から大目玉を食らうだろうが、今はそんなことを気にしている場合じゃなかった。
「……夢神教会。やっぱりあそこが絡んでいたせいね。井原千夏さんが迷いの世界を生み出す力を得たのは、そこで何らかのイニシエーションを受けたからよ」
テーブルに着くなり、金城はそう断定した。
そして、ほとんど自分にしか聞こえないような声でブツブツと呟く。
「考え無しにも程があるわね。全く、傍迷惑な話……」
「俺には分かんねぇんだ」
大きく溜息をつき、俺は首を振った。どうしようもない自己憐憫の念が風船のように胸の中で膨らんでいた。
「結局、何で井原は俺を、迷いの世界に閉じ込めようとするんだ? そりゃ、その……無意識の内なのかもしれないけれど、他の誰でもなく俺がって言うのはどうにも納得いかなくて」
「……本当に分からない?」
微かだが、金城の顔に呆れたような表情が浮かんだ。
「それはね、井原さんは六道君のことが好きだからよ。三年たった今でもね」
「えっ……」
刹那、俺の頭の中は真っ白になっていた。
金城の言葉の意味を理解するのに数秒かかり――思わず、俺は赤くなっていた。生きるか死ぬかの時に照れている場合じゃないけれど。
「勿論、六道君を傷つけるのは井原さんだって本望じゃない」
ふと宙を見上げながら金原が続ける。
「だけど無意識の力が生み出す迷いの世界を支配し、制御できる人間なんて、そうはいない。……睡眠中に見る夢を思いのまま操れないようにね。
「井原千夏さんの自我は、恐らく、迷いの世界の最奥に漂っているはず。呪術によって拘束されているのかも知れない。そして、孤独に耐え切れず、過去、自分が好意を寄せていた六道君との楽しい記憶に救いを求めた」
「…………」
「でも、それだけでは元々普通の女の子である、井原さんの迷いの世界が、こんな形で発現することはなかったかもしれない。――六道君、最初に取り込まれそうになったのは何時?」
「火曜日だ」
忘れもしない。俺にとって、その日が今も覚めない悪夢の始まりの日だった。
「地下街だ。金城さんに会ってすぐだよ。その日は俺の退院日で……」
そこまで言って、俺はゾクッと鳥肌立つのを覚えた。
なぜ、今の今まで気がつかなかった?
三年間も、井原はあの病院にいた。
先に俺が彼女を見つけたんじゃない。井原が俺を見つけたんだ。
「なんてこった……!」
俺は自分が顔面蒼白になるのを感じた。
「火元はすぐ足元にあったのに、全然、気がついていなかったのか」
「迷いの世界ってそう言うものだもの。仕方がないわ」
少しも慰めているようには聞こえない口調でそう言ってから金城が口を閉ざす。
「…………」
「…………」
しばらくの間、俺も金城も口をきかなかった。
壁に取り付けられた時計の時を刻む音だけが、押し黙った二人の間を流れていた。
やがて、
「それで――、これからどうするの?」
静かに口を開いたのは金城だった。
「どうする、って言われても……」
「これは私の勝手な推測だけれど」
困惑する俺に金城が続ける。
「六道君が入院している間は、迷いの世界に襲われることはないと思う。井原さんも六道君が近くにいることは感じているだろうから。でも、それじゃあ」
「何の解決にもならない、よな」
頷くと俺はしゃがれた声で呻く。
それにこのまま、井原を放っておく気にもなれない。確かに俺は彼女の迷いの世界に取り込まれたせいで、何度も死ぬ思いをした。
しかし、その度にアマリリスを送り出し、救ってくれたのも他ならない彼女なのだ。例え、井原がそうと意識していなくとも、それは間違いのない事実だった。
しばらく、逡巡した後、
「……つまり、こういうことだろ?」
顔を上げ、俺は言った。
「迷いの世界から、井原自身を解放してやらなきゃ俺は助からない」
一拍の間を置き――、「ええ」と金城がうなずく。
無意味な気休めを口にするつもりはないらしい。
「井原さん自身が悪夢から覚めない限りは、いつか……」
「だったら、」勢い込み、思わず俺は机から身を乗り出していた。
「いっそのこと、こっちから乗り込むなんてことはできねぇかな?」
「え?」
怪訝そうに眉をひそめる金原に俺は辛抱強く説明を続けた。
「金城さん、言っただろ? あいつの自我は、迷いの世界の一番奥にいるって。そこを突いてやれば目を覚ますんじゃねえの?」
「それは可能性としては、あり得るけれど……」
何かを考えるように、再び天井を見上げる金原。
「こちらから迷いの世界に飛び込むとなると、かなりの危険を覚悟しないと」
「危険なのは、こうしている今だって同じだろ?」
そう答え、俺は苦笑していた。
もう、笑うしかない。そんな心境だった。
「それはそうと、金城さん。一つ、聞いていいか?」
「……何?」
「なんで、ここまで俺に付き合ってくれるんだ?」
ずっと疑問に思っていたことを俺は尋ねていた。
「占い師の仕事、忙しいんだろ? 俺達、確かに同じフリースクールの同期だけど、お互い、そんなに話とかしていたわけじゃないし」
「……だって、目覚めが悪いでしょ」
少し間を置いて、溜息交じりに金城が答える。
「目の前で死ぬかも知れない人間がいるのに、六道君だったら見過ごせる?」
「それは、いや、どうかな……」
相変わらず、金城の口調に熱はこもっていなかった。
しかし、曖昧なことを言いながら、俺は自然と顔が綻ぶのを感じていた。
ちょっとばかり変わったところもあるが、悪い人間ではなさそうだ。人気の占い師だと言うのも何となく分かる気がした。
「とは言え、当事者の六道君に迷いの世界に抗う意思を持ち続ける強さがなければ私も手の出しようがなかったけどね。それに――」
どこか遠くを見るような表情になりながら、金城は小さく言った。
「あいつらとは子供の時からの腐れ縁なの」
あいつら?
迷いの世界に巣食う怪物どものことか?
それとも……
「今は私のことよりも、目の前の現実に集中したほうがいいわ」
考え込みかけた俺を金城のやはり淡々とした声が現実に引き戻した。
「井原さんの迷いの世界に飛び込むためには、何か、媒体になる物が必要ね。……彼女が強い執着や思い入れを寄せていた物、何か持っていない?」
咄嗟に俺は胸ポケットを探った。そして、会心の笑みを浮かべ、取り出したそれをテーブルの上に置く。
それはアニメ絵のアマリリスが描かれた、例のテレフォンカードだった。
凄まじく面倒な、そして切ない話だった。現実とはとても思えない。
だが、恐らく――、いや、間違いなく金城の言葉は全て正しいのだろう。
だとしたら、この数年間、井原の身に何が起きたと言うのか。あんな、地獄のような景色を心の中に抱えて、人間は生きて生けるものなのか。
「これから、俺はどうすりゃいいんだ……?」
片手で両目を覆い、俺は低く呻いていた。
と、その時だった。
背中に強い視線が注がれているのを感じ、俺は振り返った。
そして――
「お、お前!」
驚きのあまり、俺はソファーから立ち上がり、声を上擦らせていた。
大きく見開かれた俺の瞳が捉えた人物。それは、艶やかな黒髪を背中の辺りまで伸ばした小柄な少女だった。
「い、井原……!?」
声を詰まらせながらも、何とか俺は相手の名を呼んでいた。
「井原千夏……だよな?」
しかし、相手――少女の答えはない。
何の感情もない、凍てついたような眼差しでジッと俺を見つめているだけ。
戸惑う俺の隣で金城がすっと立ち上がった。
「落ち着いて、六道君」
静かな声とは裏腹に、震える俺の手を握り締める力は強かった。
「彼女から目を離さないで。今の彼女の状態は――」
金城の言葉が終らないうちに、くるり、と伊原と思しき少女が踵を返す。
そして、そのまま、ロビーから歩き去ってゆく。
「お、おい!」
思わず、俺は声を大きくしていた。
「ちょっと、ちょっと待てよ! なあ!」
お静かに、と受付の看護士が顔をしかめる。
だが、そんなことに構っている場合じゃない。
「――ついていったほうが良さそうね」
俺の腕をしっかりと取りながら、目を細めた金城が低く言った。
「彼女、何かを教えたがっている。消えてしまわないうちに追いかけましょう」
金城に身体を支えられるようにして、俺は少女の後を追った。
少女――、つまり井原千夏はこちらを振り返ることもなく、モルタルの廊下を滑るように進んでゆく。
と、病室のドアが開き、看護士と患者が談笑しながら出てきた。
「あ、ぶつかる……」
思わず声をあげそうになったが、次の瞬間、俺は絶句していた。
世間話をしながら、井原の身体をすり抜ける看護士と患者。まるで、そこに誰も存在しないかのように。
「あら、こんにちは」
笑顔で会釈し、二人は俺の横を通り過ぎて行く。
「……あれは生霊ね」
ぎこちなく頭を下げた俺に金城が囁く。
「私達以外の人間には見えていないし、触れることもできない。本人の意思とは無関係に病院の中を歩き回っていたみたいね」
無言で俺は頷くしかない。しかし、その一方で激しい胸騒ぎを覚えていた。
このまま、井原を追いかけていった、後戻りできなくなる。そんな予感がした。
やがて……、金城曰く、井原の生霊はとある病室の前で立ち止まった。
はっと息を飲み、俺達は歩調を速める。が、声をかける前にその姿は掻き消えていた。
「それじゃあ、六道君」
ドアノブに手をかけながら、金城が振り返った。
「開けるけど、いいわね?」
一瞬、逡巡し、「ああ、」と俺は頷いていた。「頼むよ」
キィ、と音を立てて、ドアは静かに押し開かれた。
そして――
「……?」
拍子抜けし、俺は首を傾げた。
想像していたような、おぞましい光景はそこにはなかった。キョロキョロと辺りを見回してみるが、迷いの世界に取り込まれたような感じもない。
そこは爽やかな朝日が差し込む、清潔な病室だった。さして、広くなく、ベッドも一基しか置かれていないから、個室のようだ。低く流れるクラシック音楽が妙に心地が良かった。
「――ちょっ、ちょっと? どなたですか?」
ベッドの傍らにいた、中年の女性が怯えたようにこっちを振り返った。
「ノックもなしにいきなり女の子の病室に入ってくるなんて……!」
「すいません」
間髪を入れず、金城が頭を下げる。
「弟のお友達がこちらの病室にいらっしゃるとお聞きしましたから」
「……チーちゃんのお友達? ひょっとして小学校の?」
「はい。弟はいつもお世話になっていましたから……」
さすがは演技力を必要とされる占い師だ。
少々、無理があるがまことしやかな嘘をスラスラと金城が話している。
まあ、全部嘘ってわけじゃないが……。
しかし、俺には二人の会話など聞いている余裕はなかった。
俺の視線は、ベッドの上で、よく洗濯されたシーツにくるめられた、小柄な人物に釘付けになっていた。
大きく可愛らしい、しかし、表情の失せた瞳が天井を見上げている。
身体の所々を包帯とガーゼに覆われてはいたが、それは確かに、この数日間、俺を迷いの世界に引きずり込んだ張本人。
――井原千夏だった。
■2■
病室にいた女の人は、井原の母親の姉――、つまり叔母さんだった。
叔母さんは突然現れた俺達を訝しみながらも、井原のことを話してくれた。
河合先生が教えてくれた通り、やはり、井原は母親と一緒に新興宗教団体、夢神教会に入信していたらしい。
それが、一部の信者が教祖に対して起こした暴動に巻き込まれ、火を放たれた教会本部の地下礼拝堂で意識不明の重体で救出されたらしい。
井原は身体のあちこちに酷い火傷を負っていただけではなく、血液中から多くの薬物が検出され、発見があと数時間遅れたら生命が危なかった。
母親は教祖とともに失踪。本部の焼け跡から発見された無数の焼死死体の中からも発見されず、今もなお、本人から連絡はないと言う。
「可哀想な子なんです」
そう言って叔母さんは涙ぐんだ。
「本当なら、こんな目に遭うような子じゃないのに……」
俺と金城は無言で顔を見合わせあうしかなかった。
それから数十分後――。
金城に促されるまま俺は病院をこっそり抜け出し、夢ノ宮銀座にある占いハウス、夢見館に再びやって来ていた。
勿論、外出許可は得ていない。
後で両親や爺ちゃん、それに病院の人達から大目玉を食らうだろうが、今はそんなことを気にしている場合じゃなかった。
「……夢神教会。やっぱりあそこが絡んでいたせいね。井原千夏さんが迷いの世界を生み出す力を得たのは、そこで何らかのイニシエーションを受けたからよ」
テーブルに着くなり、金城はそう断定した。
そして、ほとんど自分にしか聞こえないような声でブツブツと呟く。
「考え無しにも程があるわね。全く、傍迷惑な話……」
「俺には分かんねぇんだ」
大きく溜息をつき、俺は首を振った。どうしようもない自己憐憫の念が風船のように胸の中で膨らんでいた。
「結局、何で井原は俺を、迷いの世界に閉じ込めようとするんだ? そりゃ、その……無意識の内なのかもしれないけれど、他の誰でもなく俺がって言うのはどうにも納得いかなくて」
「……本当に分からない?」
微かだが、金城の顔に呆れたような表情が浮かんだ。
「それはね、井原さんは六道君のことが好きだからよ。三年たった今でもね」
「えっ……」
刹那、俺の頭の中は真っ白になっていた。
金城の言葉の意味を理解するのに数秒かかり――思わず、俺は赤くなっていた。生きるか死ぬかの時に照れている場合じゃないけれど。
「勿論、六道君を傷つけるのは井原さんだって本望じゃない」
ふと宙を見上げながら金原が続ける。
「だけど無意識の力が生み出す迷いの世界を支配し、制御できる人間なんて、そうはいない。……睡眠中に見る夢を思いのまま操れないようにね。
「井原千夏さんの自我は、恐らく、迷いの世界の最奥に漂っているはず。呪術によって拘束されているのかも知れない。そして、孤独に耐え切れず、過去、自分が好意を寄せていた六道君との楽しい記憶に救いを求めた」
「…………」
「でも、それだけでは元々普通の女の子である、井原さんの迷いの世界が、こんな形で発現することはなかったかもしれない。――六道君、最初に取り込まれそうになったのは何時?」
「火曜日だ」
忘れもしない。俺にとって、その日が今も覚めない悪夢の始まりの日だった。
「地下街だ。金城さんに会ってすぐだよ。その日は俺の退院日で……」
そこまで言って、俺はゾクッと鳥肌立つのを覚えた。
なぜ、今の今まで気がつかなかった?
三年間も、井原はあの病院にいた。
先に俺が彼女を見つけたんじゃない。井原が俺を見つけたんだ。
「なんてこった……!」
俺は自分が顔面蒼白になるのを感じた。
「火元はすぐ足元にあったのに、全然、気がついていなかったのか」
「迷いの世界ってそう言うものだもの。仕方がないわ」
少しも慰めているようには聞こえない口調でそう言ってから金城が口を閉ざす。
「…………」
「…………」
しばらくの間、俺も金城も口をきかなかった。
壁に取り付けられた時計の時を刻む音だけが、押し黙った二人の間を流れていた。
やがて、
「それで――、これからどうするの?」
静かに口を開いたのは金城だった。
「どうする、って言われても……」
「これは私の勝手な推測だけれど」
困惑する俺に金城が続ける。
「六道君が入院している間は、迷いの世界に襲われることはないと思う。井原さんも六道君が近くにいることは感じているだろうから。でも、それじゃあ」
「何の解決にもならない、よな」
頷くと俺はしゃがれた声で呻く。
それにこのまま、井原を放っておく気にもなれない。確かに俺は彼女の迷いの世界に取り込まれたせいで、何度も死ぬ思いをした。
しかし、その度にアマリリスを送り出し、救ってくれたのも他ならない彼女なのだ。例え、井原がそうと意識していなくとも、それは間違いのない事実だった。
しばらく、逡巡した後、
「……つまり、こういうことだろ?」
顔を上げ、俺は言った。
「迷いの世界から、井原自身を解放してやらなきゃ俺は助からない」
一拍の間を置き――、「ええ」と金城がうなずく。
無意味な気休めを口にするつもりはないらしい。
「井原さん自身が悪夢から覚めない限りは、いつか……」
「だったら、」勢い込み、思わず俺は机から身を乗り出していた。
「いっそのこと、こっちから乗り込むなんてことはできねぇかな?」
「え?」
怪訝そうに眉をひそめる金原に俺は辛抱強く説明を続けた。
「金城さん、言っただろ? あいつの自我は、迷いの世界の一番奥にいるって。そこを突いてやれば目を覚ますんじゃねえの?」
「それは可能性としては、あり得るけれど……」
何かを考えるように、再び天井を見上げる金原。
「こちらから迷いの世界に飛び込むとなると、かなりの危険を覚悟しないと」
「危険なのは、こうしている今だって同じだろ?」
そう答え、俺は苦笑していた。
もう、笑うしかない。そんな心境だった。
「それはそうと、金城さん。一つ、聞いていいか?」
「……何?」
「なんで、ここまで俺に付き合ってくれるんだ?」
ずっと疑問に思っていたことを俺は尋ねていた。
「占い師の仕事、忙しいんだろ? 俺達、確かに同じフリースクールの同期だけど、お互い、そんなに話とかしていたわけじゃないし」
「……だって、目覚めが悪いでしょ」
少し間を置いて、溜息交じりに金城が答える。
「目の前で死ぬかも知れない人間がいるのに、六道君だったら見過ごせる?」
「それは、いや、どうかな……」
相変わらず、金城の口調に熱はこもっていなかった。
しかし、曖昧なことを言いながら、俺は自然と顔が綻ぶのを感じていた。
ちょっとばかり変わったところもあるが、悪い人間ではなさそうだ。人気の占い師だと言うのも何となく分かる気がした。
「とは言え、当事者の六道君に迷いの世界に抗う意思を持ち続ける強さがなければ私も手の出しようがなかったけどね。それに――」
どこか遠くを見るような表情になりながら、金城は小さく言った。
「あいつらとは子供の時からの腐れ縁なの」
あいつら?
迷いの世界に巣食う怪物どものことか?
それとも……
「今は私のことよりも、目の前の現実に集中したほうがいいわ」
考え込みかけた俺を金城のやはり淡々とした声が現実に引き戻した。
「井原さんの迷いの世界に飛び込むためには、何か、媒体になる物が必要ね。……彼女が強い執着や思い入れを寄せていた物、何か持っていない?」
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それはアニメ絵のアマリリスが描かれた、例のテレフォンカードだった。
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【完結】異世界で神の元カノのゴミ屋敷を片付けたら世界の秘密が出てきました
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