迷界のアマリリス

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第四幕

金曜日 ~Bottom of the World~ ④

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下へ下へ下へ――
 世界の底へと俺は落ちて行く。
 スローモーション映像のようにゆっくりと。
 押し潰され、飲み込まれるような恐怖が込み上げ、俺は悲鳴にならない悲鳴をあげた。
 しかし、それに応える者は、いない。
 次第に闇が色濃くなってゆく中、どこからともなく蛍のように煌めく、いくつもの小さな光の玉がフラフラと纏わり着いてきた。
 くそ、新手の怪物か……!?
 恐慌状態に陥った俺が警棒を振り回すよりも早く、そのうちの一つが顔の前に肉薄してきた。思わず、俺は目を瞑ってしまう。焼き焦がされるような痛みを想像して。
 だが、そいつは俺に危害を加えたりはしなかった。
 幻のように俺の顔を通り抜けていくだけだった。
 しかし――
「…………!」
 俺は息を飲む。
 まるで俺自身の記憶であるかのように、心になだれ込んできた鮮明な映像に。
「――君に良き夢のご加護がありますように」
 そう言って優しく微笑んだのは、恐ろしく整った顔立ちの若い男だった。
 その周りで、何とも陰鬱な、呪文めいた歌を合唱しているのは黒いフードを頭からスッポリ被った薄気味の悪い連中……。
 薄気味悪いと言っても、そいつらは怪物じゃなかった。
 歴とした人間、ここの信者達だ。
 連中が取り囲んでいるのは、一台のストレッチャー。
 そして、その上に寝かされているのは、一人の小柄な女の子。
 まだ小学校を卒業するくらいの年頃の、井原千夏だ。薬物でも投与されているのか、ストレッチャーの上で彼女は朦朧としている様子だった。
 こいつら、一体、何をやってる……?
 やがて、不気味な合唱が終了した。
 一団のリーダーと思しき人物が周囲を見回し、朗らかに言った。
「それでは次の段階に移行しましょう」
 そう言って、そいつが取り出したのは――、オレンジ色の宝石かゼリーのような物体。それは見覚えのある、卵の形をしていた。
「あの、導師様……」
 小さく男に声をかけたのは、他の信者同様、頭からフードを被った中年の女だった。
 その顔に俺は見覚えがあった。
「娘で、本当にお役に立てるのですか? この子、昔から体が弱くて……」
「心配は無用です」
 導師様と呼ばれた男が即答する。
 その声を聞いて、俺はその男がまだ若い、俺とさほど歳が変わらない青年だと言うことに気がつく。
 その口調は穏やかだったが、有無を言わせぬ迫力があった。
 聞く者を暗示にかけてしまうような、ある種の危険な魅力を感じさせる声。
「肉体の強弱は関係ありません」
 フードの奥に顔を隠したまま、若い男が続ける。
「私に及ばないまでも、娘さんの向こう側と感応する力はとても強い。だからこそ、楽園を創造する使徒の一人に指名したのです。もっと、信じてあげてください」
「は、はい……」
 恐縮したように、女――井原の母親は、男に頭を下げていた。
 まるで相手が神であるかのような低姿勢だった。
「さて――」
 改まって男はストレッチャーの上の井原に向き直る。そして、手にした卵を井原の小さな唇にそっと押し付ける。
「デュカリ・デュケスの印形の力を以って、築き上げなさい。あなただけの楽園を」
「んっ……」
 やめろ!
 俺は全身が鳥肌立つのを感じ、そう叫んだ。
 そいつが、その卵モドキがもたらすのは楽園どころか、最低最悪の地獄じゃねえか!
 しかし、これは過去に起きたことだ。
 連中に俺の声など、聞こえるはずもない。
 こくんっ、と小さな音を立てて井原が卵を飲み込む。
 次の瞬間――、まどろんでいた彼女の瞳がカッと見開かれた。
 そこに宿るのは、激しい苦痛と絶望、それに恐怖。
 大きく開かれた口から、女の子のものとは思えない、惨たらしい悲鳴が迸る。
「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
「千夏……!」
 顔色を変えて、母親が近寄ろうとするがそれを男が遮る。
 フードに隠された口元にゾッとするほど醜い、悪鬼の笑みを浮かべて。
「導師様、娘が!」
「現世における苦しみは祝福と同じこと。心配は要りません」
 その時だった。厳重に閉ざされていたドアが乱暴に蹴り破られた。数人の男が棒や包丁、それに手製の火炎瓶などを手にズカズカと入り込んでくる。
「氷室京士郎! 貴様と言うやつは!」
 男達を率いていたのは、髭面の熊のような大男だった。
 先端に炎が揺らめく棒を若い男に突きつけて、大音声に叫ぶ。
「そんな子供まで……! ペテン師どころか悪魔に人を売り捌く異常者だ、貴様は!」
「おやおや、鷲尾さん。ずいぶんと酷い言われようですね」
 苦笑しながら若い男――氷室が肩を竦める。
「芸能人のスキャンダルばかり扱ってきたゴシップ専門の記者さんが潜り込んだカルト教団で正義の魂にでも目覚めたのですか? 神をたばかるような邪悪な行いを目の前にして? ……懲罰房に閉じ込めておいた連中を抱きかかるとは、ハリウッド映画も真っ青な痛快逆転劇ですね」
 その声には完全に格下の者を見下した時のような、暗い愉悦が感じられた。
「だ、黙れ!」
 激昂する髭面の男。
「馬鹿げた儀式はすぐに中止しろ! さもないと、ここに火をつけるぞ!」
「どうぞ、ご自由に。どうせ、近々、引き払う予定でしたからね」
 事も無げに男は言った。
 その言葉にギョッとしたのは、闖入者達だけではなかった。
 自分達の師を守るように、その前に立ち塞がっていた信者達も驚愕に顔を歪め振り返っている。
「ここでの仕事はあらかた、片付きましたから。何なら、あなた達に差し上げますよ。この教会も土地も一切合財ね」
 そう言うが早いか――、男は井原の眠るストレッチャーを思いっきり蹴り飛ばした。
 勢いよく横滑りしたそれを避け損ね、うおっ、と野太い声をあげて髭面の男は手にした松明を取り落とす。
 あらかじめ、床には発火剤でも振りまかれていたらしい。
 パッと火の手が上がり――、あっと声をあげる間もなく、それは礼拝堂全体に広がってゆく。
「氷室!」
「導師様!」
 沸騰する憎悪と縋りつくような哀れっぽい声が交差する。
 しかし、氷室はどちらにも答えなかった。口元にあの醜い笑みを湛えながら、素早く身を翻し、近くにあったドアから逃げ去ってゆく。
「お、追いかけろ!」
 松明を拾い上げ、髭面の男が叫んだ。
 その声にはまじりっけなしの恐怖があった。
「あいつだけは生かしておけん! ここでケリをつけるんだ!」
 怒号のような叫び声を張り上げながら、先を争うようにして、人々は氷室の後を追いかけて行った。
 そして――、燃え盛る礼拝堂には井原が取り残された。
 彼女の母親ですら、そこには残っていなかった。庇護する者一人いない、孤独を無意識に感じ取ったのか、井原はその胸を掻き毟った。
「怖い、怖いよ……」
 華奢な身体を小刻みに震わせながら、呻く井原。固く閉ざされた瞳から頬を伝って流れ落ちる涙は、炎に赤く照らされ、血のように見えた。
 と――
 炎に嘗め尽くされたシャンデリアが大きく揺らいだ。
「危ないっ! 起きろ! 起きろ、井原!」
 思わず、俺は声をあげていた。
 しかし、それも空しく、甲高い悲鳴のような音を立てて、シャンデリアが落ちる。井原の上に……!

 痛い!
 お母さん!
 お父さん!
 誰か――お願いだから、誰か助けて!

 血も凍るような、絶叫に答える者はいない。
 巨大な物に押し乗られ、炎に身を焙られる彼女の恐怖が、まるで弾丸を撃ち込むかのように、刺々しく俺の心に突き刺さる。
「やめろ! やめてくれぇ!」
 為す術もなく、俺は泣き叫び、のた打ち回った。
 これこそが正に地獄、苦痛だった。今まで、俺が引きずり込まれた迷いの世界など、この苦痛に比べれば楽しい遊園地にしか思えなかった。
 いつしか、遠くから聞こえてくる井原のすすり泣く声にあわせるようにして、俺もすすり泣いていた。
 泣きじゃくりながらも、自分の身体が地面についていることに気がつく。
 全身を苛んでいた、あの激痛はもう消えていた。
 大きく息を吸い込んで俺は自らを落ち着かせ――、それからゆっくりと立ち上がった。
 渾身の力を込め、歯を食いしばって。
「なるほど、ここが世界のどん底か……」
 低く呻きながら、俺はゆっくりと周囲を見回していた。
  ありとあらゆる色を混ぜ合わせて、乱雑に塗りたくったような低く重い空。
 輝く太陽のかわりにぽっかり穿たれた大穴。何やら、薄気味悪いうめき声が木霊してくるそこから俺はこの世界に投げ落とされたらしい。
 また、チェス盤のように白と黒のタイルで敷き詰められた地面は円形に切り取られており、その縁から向こう側には何も存在していなかった。
 光は勿論、闇すらも見えない。
 ただ、無色透明の「無」だけがそこに押し寄せているだけだった。
 なるほど、ここが迷いの世界の最底辺。
 悪夢の震源地と言うわけか。
 そして――
「こいつは……」
 それを見上げながら感嘆の声をあげる。
 壮麗な銀細工が施された、巨大な台座にまるでこの世界の支配者であるかのように飾られていたのは家ほどの大きさもある卵だった。
 その茶色い殻にはベットリとした血糊がこびり付き、まるで血液パックのように何百万本というチューブがその底部に突き刺さっている。そのチューブは地面に潜り込み、その先が見えなかった。
 しかし、俺には思い当たることがあった。
 さっきアマリリスを助け出した、動物園ならぬ怪物園。
 鳥籠の中で、やつらが夢中になって啜り上げていた餌は、確か――
「おいっ、井原っ! 井原千夏ッ!」
 不安に胸の奥がザワザワしてくる。
 それを追い払うように、口元に両手を当て俺は叫び続けた。
「俺だよ、俺! 六道歩! お前、いるんだろ!? 聞こえてるんだろ!? 見えてるんだろ!? こっちからわざわざ来たんだ! 何か、返事してくれ!」
 張り上げた俺の声は、しばらくの間、この孤立した小さな世界にわんわんと木霊していた。
 だが、それもほんの数秒のこと。
 やがてそれは外側に広がる、虚無に吸い込まれ、次第に小さく消失してしまう。
「…………」
 辛抱強く、俺は待つことにした。
 異変の発生――つまり、この世界の主から何らかの合図が送られてくるのを。
 俺は確信していた。井原は、俺の侵入に気がついている。先程からずっと続いている、誰かにジッと見られているような感覚……。
 しかし――
「…………」
 十数分、経過しても何も起きなかった。
 ダンマリかよ……!
 焦りを覚えるのと同時に俺は苛立っていた。
 わざわざこっちから出向いてやったというのに。
 ひょっとして照れているのか?
 仕方なく、俺は辺りを調べ始めた。何か、少しでも、井原の意思を感じ取れるものがあるのではないか、と思って。
 と言っても、ここは半径百メートルもあるかないかの狭い世界だ。
 さして時間もかからないうちに、全てを見回すことができた。
 となると――
 やはり、気になるのは中央に据えられた、巨大な卵だった。
「それにしても、こいつは一体、何なんだ……?」
 恐る恐る、卵を見上げながら俺は呟く。今までのことから、迷いの世界や怪物どもと深い関わりがあるのは間違いない。夢神教会のシンボルでもあったようだ。
 そして、井原が飲み込んだあの物質。あれもこれと何らかの関係があるに違いない。
 この場にアマリリスがいないことが歯がゆかった。彼女なら何か知っていたのかも知れないのに……。
 その時、俺はふと思い出していた。
 リュックに放り込んだままにしておいた手鏡……。
 金城に借り受けた魔除けの鏡だ。

 ――映せばいいの。六道君や他のいろいろなものを。

 脳裏に金城の言葉が蘇る。
 背中を叩かれたような気がして、俺は慌ててそれを取り出していた。
「…………」
 息を殺しながら、俺は手鏡を卵に向ける。
 そして、そっと鏡面を覗き込んで、
「あっ!?」
 思わず、俺は声をあげていた。危うく、手鏡を取り落としそうになる。
 鏡面に映し出されたのは、X線を照射したような卵の断面図だった。現実のものと違い、そこにつまっていたのは卵白や卵黄ではなかった。蛆がわくような、腐肉と腐汁のドロッとしたごった煮。
 その赤黒いスープの中で彼女――井原千夏は浮かんでいた。
 まるで胎児のように、身を屈め、膝を抱きかかえるようにして。
「ま、待ってろ、井原……」
 再び警棒を手に握り締めながら俺は言った。
 今から俺のなすべきことは、やるべきことは――、たった一つ。
「今すぐ、そんなところから出してやるからな」
 卵を殴りつけてやろうと、俺は銀の台座をよじ登ろうとした。
 しかし、その時だった。
 ゴォーン……!
 地鳴りのような轟音が響き渡り、ぐらぐらと足元が揺らいだ。
 振り返り、
「……嘘だろ?」
 かすれる声で俺は呻いていた。
 虚空から振り降り、この世界に覆いかぶさってきたもの。それは巨大な鉄骨を編んで拵えられた格子だった。その形状に俺は見覚えがあった。
「鳥籠だ……!?」
 愕然としながらも、俺は悟った。この世界は、巨大な鳥籠なのだ。考えるまでもないことだが、鳥籠とは、主に鳥類を飼育するためのものだ。
 と、言うことは……!
 けぇええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええっ……!
 怒りに満ちた異形の絶叫が、俺の耳朶を震わす。
 俺は振り返り、そして、見た。
 台座の上に置かれた巨大な卵が孵化をはじめ、その中からおぞましい者が生まれ出ようとしているのを。
 卵の右側面の殻を押し破り、ジュルリジュルリと粘液を撒き散らしながら出てきたのは蛸のような軟体動物を思わせる巨大な触手だった。そして、正面の殻が僅かに剥がれ――そこから覗いたのは、日の光など一度も浴びた事のないような青白い女の顔。
 それはどことなく、井原の面影を感じさせて……。
 この世ならざる者が、井原の姿を真似ようとしているということに直感的に気がつき、俺は強烈な吐き気を覚える。
 正しく、そいつは穢れの塊だった。
「こいつか……!」
 三年間もの間、井原を悪夢に縛り付けていたのはこいつだったのだ。いや、それだけじゃない。井原の孤独に付け込んで、俺を引きずり込み殺そうとしたのもこいつだ。
 目を反らしたい嫌悪感に耐え、俺は歯軋りしていた。そして、込み上げる恐怖心を怒りで塗りつぶそうと試みる。アマリリスに習って、こいつに名前を付けてやる。
 ナナシ、だ。
 こいつだけは絶対に怖がってはやらない……!
「おい、こら! ナナシの怪物!」
 恨めしそうな、どんよりと澱んだ眼差しを払いのけようと俺は声を荒らげていた。
「井原をどこに隠した!」

 デュカリ・デュケス――
 人の子の邪夢を喰らいこの世を喰らう、獣を孕み育む者なり。

 俺の耳元で、男とも女ともつかない、芝居じみた声がそう囁いた。
 それが幻聴かどうか、確かめている暇はない。
 孵化しかけたグロテスクな怪物の触手がウネウネとくねりながら目の前に迫っていた。
「キモイんだよッ!」
 怖気を振るい落とすように激昂し、俺はそれを警棒で殴りつける。
 バチィッ!
 青白い火花が散った。表面を微かに焦がして、触手が怯む。その隙を逃さず、俺はやつに捕まらない位置まで、死に物狂いで逃げる。
「畜生、厄介だな……」
 鉄格子に背中を押し付け、俺は呻いた。
 一方、本体と言っていいのか分からないが、殻に覆われた大きな女の顔は平然とした様子で俺を睨みつけていた。
 触手とは痛覚が分散しているのか?
 しかし、そこであることに気がつく。
 怪物――ナナシのやつ、台座の上から動こうとしない。せっかく、卵から孵れたのに、身体の大部分を殻で覆ったままと言うのも奇妙だ。怪物の気持ちは分からないが、俺だったらあんな中途半端な姿、我慢できないだろう。
 ……中途半端?
「そうか」
 俺は悟った。
 やつは台座の上を動かないんじゃない、動けないのだ。
 俺という外敵の侵入を察知し、迎え撃とうと羽化を急いだはいいが、成長が不完全だったと言うわけだ。そして、やつの直接のエネルギー源になっているのは、間違いなく井原千夏。
 やつの中から井原を引きずり出してやれば、或いは……!
 俺は覚悟を決めた。
 何が何でも、この怪物をぶっ殺し、井原を目覚めさせて現実に戻る。
 俺は手鏡を目の前に翳し――、雄叫びをあげてナナシに突進を開始した。
 鏡の力に恐れをなしたのか、ぎゃあ、と化鳥のような耳障りな悲鳴が女の口から迸る。
 それに命じられたかのように触手が俺に向かって飛んだ。
 予想していた動きだ。身体を前転させ、俺は触手を避けた。
 そして、そのまま勢いよく側転。計算通りだった。凄まじい、般若のような形相で威嚇する、大きな女の顔が起き上がった俺の目と鼻の先にあった。
「くだばれっ!」
 叫びながら、俺は警棒を女の顔に突き出す。渾身の力を込めて。
 棒の先端が、狂った魚のように見開かれた瞳の真ん中に突き刺さった。
 やった! 一発、食らわせてやった!
 生温かい返り血を浴びながら、思わず俺は顔を綻ばせていた。
 しかし、喜ぶのはまだ早かった。
「がっ……!?」
 顔の真ん中をしたたかに殴られ、俺は身体をのけぞらせた。
 回避したはずの触手にやられたのかと思ったが、違った。女の耳元まで裂けた口から、ベロッと飛び出した黒い大蛇のような太く長い舌。あれにぶん殴られてしまったらしい。
 くそ、油断した……!
 ダラダラと溢れ出した鼻血を片手で押さえながら、俺は鏡を手に取ろうとした。
 だが――、自分の失敗に気がつき、俺は絶望に青ざめる。殴り飛ばされた衝撃で、手鏡は砕け散り、その破片が地面に散らばっていた。
「おい、これ……! 借り物なんだぞ!?」
 すっかり俺は気が動転していた。相手が怪物だと言うことも忘れ、こぶしを振り回して抗議の悲鳴をあげる。
 ナナシは、そんな俺を、耳障りな声でギャハハと嘲笑いやがった。
 そして、触手を使い、片目に突き立った警棒を引き抜き――、それを鉄格子の向こうに投げ捨ててしまう。
 おいおい、一気に絶体絶命だな……。
 絶望的な想いとは裏腹に俺は薄笑いを浮かべていた。
 そうでもしなければ、泣き出してしまいそうだった。俺は手探りし、地面に落ちた鏡の破片を一つ拾い上げる。相手が何であれ、抵抗もせずに殺されるなんて真っ平だ。
 俺はコンバット・ナイフのように鏡の破片を構えた。
 と、その時だった。
「――待たせてゴメンね、歩」
 快活な少女の声がすぐ近くから聞こえてきた。
 アマリリス……?
 驚き、俺は周囲を見回す。
「ここ、ここだってば!」
 声が聞こえたのは、俺の持つ破片からだった。
「アマ、リリス…………!?」
「もう、こんな凄い道具を持っているなら早く教えてよね」
 そう言って、軽く腕を組んだのは間違いなく、アマリリスだった。
 彼女は俺の手の中――割れたガラスの破片の中にいた。
「お、お前……! 何で、そんなところにいるんだよ!」
「うん、歩のところに行こうとしたら、ちょっとフライングしちゃった。きゃは♪」
 驚き目を向く俺にアマリリスは照れたようにペロッと舌を出して見せた。
 ちょっとフライングって何だよ……?
 そう俺が食い下がろうとした時だった。ペキペキ、と殻が割れる音が聞こえた。見るとナナシの左側から、もう一本、触手が伸び出てくるところだった。
「聞いて、歩」
 真剣な顔になって、鏡の中のアマリリスが言った。
「あいつは私が何とかするから。歩はその間に千夏を起こしてあげて」
「何とかって、どうするんだよ?」
 羽化を進める怪物をチラチラ気にしながら俺は尋ねていた。
「お前、そんなところにいて……」
「投げつけて」
「あ?」
「この手鏡をわたしごとあいつに投げつけるの。わたしならこの鏡の力を引き出せる」
「で、でも、そんなことしたらお前は」
 どうなるんだよ、と言いかけた時――
 二本になった触手がビチビチ跳ねながら俺に襲い掛かってきた。
「くっ……」
 下唇をかんで、俺は後退する。武器を失った今、悔しいが逃げ惑うしかない。
 そのことはヤツも理解しているらしい。結局、俺は取るに足らない敵だと判断したのだろう。さっさと絞め殺せばいいものを、逃げる俺の足を打ち据えたり、背中を突き飛ばしたりと、まるで鼠を弄ぶ猫だ。
「ほら、歩。このままじゃ、殺されちゃうよ!」
 鏡の中でアマリリスが懇願するように言った。
「わたしは大丈夫だから。あの子が――千夏が生きている限り、ずっと一緒にいるんだから」
「アマリリス、お前……」
 俺はアマリリスを見つめた。
 鏡の破片の中でアマリリスも俺を見つめていた。
 二人の間に短い沈黙があった。
 そして、俺は言った。
「――悪い。任せる」
 そして、振り向きざまに破片を投げつける。
 台座の上に居座り続ける、醜悪な怪物目掛けて。
 しかし、それがヤツに突き刺さる直前――、またしても女の口からどす黒い舌が繰り出され、無残に砕かれていた。
「アマリリス!」
 耐え切れず、俺が叫び声をあげた時だった。
 不可解な現象がそこに発生した。打ち砕かれ、小石のようになった破片の一粒一粒……。それらは宙に浮かんだまま、ビデオの停止ボタンを押したかのように、そのまま止まっていた。かすかに青白い光を放ちながら。
 次の瞬間――、一際強い光線が一粒の破片からほとばしった。
 それは台座の上の怪物の身体を射抜き、その背後に浮かんでいた破片を照らしつける。それに反射され、更に強くなった光は別の破片へと飛ぶ。
「…………!」
 固唾を呑んで、俺はそれを見守るしかなかった。
 いつしか、俺の目の前で怪物は光線の織り成す籠の中にその身を押し込まれてゆく。
 女の顔が苦しげに歪み、その口が驚くほど大きく開かれた。そこには、最早、馴れっこになった闇がどこまでも広がっていて……。
「歩、今だよ……!」
 俺を勇気付けるようなアマリリスの声が聞こえた。
「飛び込んで!」
「こ、この中にかよ!」
 顔を引き攣らせながらも、俺は台座によじ登っていた。
 そして、全く気乗りはしなかったが――、
「南無参!」
 絶叫しながら、俺は怪物の口の中に両手を突っ込みまさぐる。
 そして、その中で眠りこけているはずの友達を探す。
「井原ぁ……! もう、いい加減、悪夢にも飽きただろ?」
 懇願するようにそう言いながら、凄まじい悪臭に俺は気が遠くなってゆく。

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