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第六章
なにもかも。(4)
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寅猫橋のバス停まで歩き、そこから、バスに乗る。
空いていた席に座ると、背中がじわりと気だるくなった。背もたれに身を任せ、ぼんやり窓の外を見る。でも、なにも見えてなどいない。流れていく景色が、目に映っているだけだ。
脳裏に、さっき奥の部屋で見た光景が甦ってくる。
重なるように、先週深夜のキッチンで見た、マルカさんの笑顔も浮かんだ。
胸がぎゅっと締め付けられる。恋を失くしたような苦しみが、オレの心に広がっていく。
オレがマルカさんに恋をしていたかどうかはわからない。滅茶苦茶で、恐ろしい女性だった。でも、優しいところもあったんだ。彼女のおかげで、前向きにだってなれたのに……。
気がつけば、バスは終点に着いていた。物思いに耽っているうち、オレはうっかり降りるべきバス停を乗り過ごしてしまったようだ。
バスを降り、ぬるい風を浴びた途端、どっと疲労感が増す。
曇り空の下、すぐ目の前には、私鉄の白い駅舎が立っていた。ぽつぽつと、人が吸い込まれ、吐き出されていく。割と大きな駅だけれど、オレは滅多に来ない、馴染みのない場所だ。
帰らなければならないのは分かっている。それなのに、動く気力がない。
歩道沿いに設置された花壇の隅に座り、虚ろな目に行き交う人々の足元だけを映した。
しばらくそうしていたけれど、ふと、名前を呼ばれた気がして、目線を上げる。
「開人くん……!」
気のせいではない。駅へと続く赤レンガの敷かれた歩道で、人の流れに動じず、オレの真正面に女性が立っている。その女性が、オレの名を呼んだ。その声を、オレは知っていた。
棟方園だ。
高校時代とは髪型が違うし、もちろんセーラー服姿でもない。長かったミルクティー色の髪はボブヘアに変わり、ふわりとしたワンピースを着て、長袖の上着を羽織っている。
それでも気付くことができたのは、あのころと変わらない和やかな声色と、キャバクラの匂いを微塵も感じさせないナチュラルメイクのおかげだった。
「園ちゃん……?」
思わず、立ち上がる。どん、と身体に重さを感じたけれど、それでも座ったままではいられないほど、オレの驚きは大きかった。
棟方園が、こちらを見つめながら近付いてくる。
そして、そうすることが当然であるかのように、オレの身体にするりと抱きついた。
一切躊躇いのないその行動に、オレのほうが動揺してしまう。なんせ、突然のことだ。
明るい、フレンドリーな子だったからな。久々に元彼に会って、びっくりした変なテンションでつい、欧米風の挨拶をしちゃったに違いない。
強引にそう納得しようとしたけれど、背中に回された華奢な腕が、一向に離れない。
「開人くん……」
甘みを含んだささやきが、耳を掠める。
それだけで、脳がゆれたようにめまいがした。ぬくもりが押し寄せる。一瞬にして、まろやかないい香りに包まれた。華やかで、落ち着きのあるフレグランスだ。
……たしか付き合ってたころは、もっと爽やかな少女らしい香りをまとっていたけど……。
勝手にフラッシュバックする思い出を頭の隅であしらいながら、オレは持て余している自分の両手をどうすべきか迷った。迷いながら、右手を彼女の背中に軽く添えてみる。
園ちゃんの顔が上がった。頬が、ぽっと上気して見える。目も、とろんと垂れている。
オレの首に、細い腕が回された。引き寄せられ、顔が近づいていく。
ふたりを隔てるものはなにもない。そっと、唇が触れ合った。
温かくも冷たくもない、心地の良い感触を残し、すぐにゆっくりと離れていく。
しかし、鼻先はくっついたままだ。眼前には、かつて夢中で恋した愛らしい顔がある。
「……園ちゃん……?」
つぶやいたオレを黙らせるように、再び口づけられた。
園ちゃんは僅かに顔を傾け、口唇を開く。優しく啄ばまれ、誘われる。
彼女が甘えるときの、キスの仕方だ。それを身体が思い出した途端、一気に気持ちが昂る。
オレはもう、考えることをやめた。
彼女の背中に腕を回し、身体を屈めてキスを深める。
園ちゃんがどういうつもりだろうが、オレの体調が悪くなろうが、ここが路上だろうがどうでもいい。身体を治す方法がなくなったという絶望すら、もうどうでもいいんだ。
なにもかもを放り投げ、この行為に溺れてやろうと決めた。
とろけるように緩やかな口づけを、オレのほうから激しいものに変える。
唇を、舌を擦り合わせ、苦しいほどに貪り合う。
「………ぅん………………。んっ…………」
息を継ぐたび、園ちゃんが甘い吐息を漏らした。その度にオレは焦がされ、疼かされる。
このまま、押し倒してしまいたい。
園ちゃんが欲しい。
身体も心も全部さらけ出して、オレを受け入れてもらいたい。
だって、別れて数年経った今も、彼女はこんなにもオレを求めている。
この子なら、たとえオレがどうなっても、側にいて手を握ってくれるんじゃないのか?
まったりした雰囲気のわりに、実は芯が強い女性だ。自分の信念は絶対に譲らないほど、頑固なのもわかっている。
今ならもう、それも全部受け入れるから。
だから、もう一度オレを受け入れてよ――――……
己のすべてを吐き出したいという欲望を抑えきれず、オレはキスを終わらせた。
名残惜しそうな目をして、園ちゃんが唇を尖らせる。オレはもう一度、触れるだけのキスをしたあと、やんわりと小さな身体を抱きしめた。
彼女の髪を、指で感触を味わうように撫でる。耳もとに唇を這わせ、そっと息を吐いた。
「……園ちゃん、オレ」
言いかけた瞬間、ぱっと身体を離される。あまりにも急な変貌に、オレは呆気にとられた。
「あっ、ごめん」と言いながら、園ちゃんがバッグを探る。取り出されたピンク色のスマホからは、呼び出し音が鳴っていた。
園ちゃんはオレに背を向け、一、二歩向こうへ歩いたところで電話に出る。
「はい……うん……え? えっと、北口のほう……東口? うん……わかった。今からいくね」
電話を切り、スマホをバッグにしまう。それっきり、園ちゃんは動かず、なにも言わなかった。
空いていた席に座ると、背中がじわりと気だるくなった。背もたれに身を任せ、ぼんやり窓の外を見る。でも、なにも見えてなどいない。流れていく景色が、目に映っているだけだ。
脳裏に、さっき奥の部屋で見た光景が甦ってくる。
重なるように、先週深夜のキッチンで見た、マルカさんの笑顔も浮かんだ。
胸がぎゅっと締め付けられる。恋を失くしたような苦しみが、オレの心に広がっていく。
オレがマルカさんに恋をしていたかどうかはわからない。滅茶苦茶で、恐ろしい女性だった。でも、優しいところもあったんだ。彼女のおかげで、前向きにだってなれたのに……。
気がつけば、バスは終点に着いていた。物思いに耽っているうち、オレはうっかり降りるべきバス停を乗り過ごしてしまったようだ。
バスを降り、ぬるい風を浴びた途端、どっと疲労感が増す。
曇り空の下、すぐ目の前には、私鉄の白い駅舎が立っていた。ぽつぽつと、人が吸い込まれ、吐き出されていく。割と大きな駅だけれど、オレは滅多に来ない、馴染みのない場所だ。
帰らなければならないのは分かっている。それなのに、動く気力がない。
歩道沿いに設置された花壇の隅に座り、虚ろな目に行き交う人々の足元だけを映した。
しばらくそうしていたけれど、ふと、名前を呼ばれた気がして、目線を上げる。
「開人くん……!」
気のせいではない。駅へと続く赤レンガの敷かれた歩道で、人の流れに動じず、オレの真正面に女性が立っている。その女性が、オレの名を呼んだ。その声を、オレは知っていた。
棟方園だ。
高校時代とは髪型が違うし、もちろんセーラー服姿でもない。長かったミルクティー色の髪はボブヘアに変わり、ふわりとしたワンピースを着て、長袖の上着を羽織っている。
それでも気付くことができたのは、あのころと変わらない和やかな声色と、キャバクラの匂いを微塵も感じさせないナチュラルメイクのおかげだった。
「園ちゃん……?」
思わず、立ち上がる。どん、と身体に重さを感じたけれど、それでも座ったままではいられないほど、オレの驚きは大きかった。
棟方園が、こちらを見つめながら近付いてくる。
そして、そうすることが当然であるかのように、オレの身体にするりと抱きついた。
一切躊躇いのないその行動に、オレのほうが動揺してしまう。なんせ、突然のことだ。
明るい、フレンドリーな子だったからな。久々に元彼に会って、びっくりした変なテンションでつい、欧米風の挨拶をしちゃったに違いない。
強引にそう納得しようとしたけれど、背中に回された華奢な腕が、一向に離れない。
「開人くん……」
甘みを含んだささやきが、耳を掠める。
それだけで、脳がゆれたようにめまいがした。ぬくもりが押し寄せる。一瞬にして、まろやかないい香りに包まれた。華やかで、落ち着きのあるフレグランスだ。
……たしか付き合ってたころは、もっと爽やかな少女らしい香りをまとっていたけど……。
勝手にフラッシュバックする思い出を頭の隅であしらいながら、オレは持て余している自分の両手をどうすべきか迷った。迷いながら、右手を彼女の背中に軽く添えてみる。
園ちゃんの顔が上がった。頬が、ぽっと上気して見える。目も、とろんと垂れている。
オレの首に、細い腕が回された。引き寄せられ、顔が近づいていく。
ふたりを隔てるものはなにもない。そっと、唇が触れ合った。
温かくも冷たくもない、心地の良い感触を残し、すぐにゆっくりと離れていく。
しかし、鼻先はくっついたままだ。眼前には、かつて夢中で恋した愛らしい顔がある。
「……園ちゃん……?」
つぶやいたオレを黙らせるように、再び口づけられた。
園ちゃんは僅かに顔を傾け、口唇を開く。優しく啄ばまれ、誘われる。
彼女が甘えるときの、キスの仕方だ。それを身体が思い出した途端、一気に気持ちが昂る。
オレはもう、考えることをやめた。
彼女の背中に腕を回し、身体を屈めてキスを深める。
園ちゃんがどういうつもりだろうが、オレの体調が悪くなろうが、ここが路上だろうがどうでもいい。身体を治す方法がなくなったという絶望すら、もうどうでもいいんだ。
なにもかもを放り投げ、この行為に溺れてやろうと決めた。
とろけるように緩やかな口づけを、オレのほうから激しいものに変える。
唇を、舌を擦り合わせ、苦しいほどに貪り合う。
「………ぅん………………。んっ…………」
息を継ぐたび、園ちゃんが甘い吐息を漏らした。その度にオレは焦がされ、疼かされる。
このまま、押し倒してしまいたい。
園ちゃんが欲しい。
身体も心も全部さらけ出して、オレを受け入れてもらいたい。
だって、別れて数年経った今も、彼女はこんなにもオレを求めている。
この子なら、たとえオレがどうなっても、側にいて手を握ってくれるんじゃないのか?
まったりした雰囲気のわりに、実は芯が強い女性だ。自分の信念は絶対に譲らないほど、頑固なのもわかっている。
今ならもう、それも全部受け入れるから。
だから、もう一度オレを受け入れてよ――――……
己のすべてを吐き出したいという欲望を抑えきれず、オレはキスを終わらせた。
名残惜しそうな目をして、園ちゃんが唇を尖らせる。オレはもう一度、触れるだけのキスをしたあと、やんわりと小さな身体を抱きしめた。
彼女の髪を、指で感触を味わうように撫でる。耳もとに唇を這わせ、そっと息を吐いた。
「……園ちゃん、オレ」
言いかけた瞬間、ぱっと身体を離される。あまりにも急な変貌に、オレは呆気にとられた。
「あっ、ごめん」と言いながら、園ちゃんがバッグを探る。取り出されたピンク色のスマホからは、呼び出し音が鳴っていた。
園ちゃんはオレに背を向け、一、二歩向こうへ歩いたところで電話に出る。
「はい……うん……え? えっと、北口のほう……東口? うん……わかった。今からいくね」
電話を切り、スマホをバッグにしまう。それっきり、園ちゃんは動かず、なにも言わなかった。
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