38 / 51
第七章
マルチューと違和感(1)
しおりを挟む家に帰り着いたのは、夕方だった。
「ただいまー……」
つぶやきながら、玄関に上がる。日曜ということもあり、三和土には父親の靴もあった。母親が居間から出てきて、「あれっ、どうしたの?」と声をかけてくる。目が丸い。伝えていた予定より一日早く帰って来た息子に、驚いたようだ。
あれからオレは、競輪場の近くの駅から、電車を乗りついで自宅の最寄り駅まで帰った。家族に迎えを頼む電話をかけて話すのも面倒で、駅から徒歩十分の自宅までの道のりは、自力で歩いてきたのだ。
だから、疲れた。だるい。もう、部屋で休みたい。
「友達に急な仕事が入ったから、早く帰ってきただけ。近所まで、車で送ってもらった」
最もらしい言い訳を考えるのも億劫で、いかにも説明的なセリフで切り抜ける。
園ちゃん、子供できて結婚するんだって。
そんなことは、もちろん教える気にもならない。
自室に戻り、ベッドに寝転がる。相殺堂のベッドよりもふとんが柔らかく、背中にすっと馴染んできた。安息の地を得た気だるい身体が、ほっと息をついている。
ただ……空気はよくない。ここは落ち着く場所であるけれど、落ち込む場所でもあるからだ。
この数か月、オレはここで何度となく心の苦悩を吐露してきた。その負の感情が滞っているんだろうか。目には見えないけれど、重苦しい空気を肌で感じる。
オレは寝たまま手を伸ばし、ベッドの脇に置いたバッグを探った。駅で買った水を飲むためだ。なんだか、妙に喉が渇く。
ペットボトルを探り当てる前に、指先が固い小さなものに触れた。
……なんだ、これ? 取り出し、確認して溜め息が出る。
爪切りだ。社長から借りたものを、持って帰ってきちゃったのか……。
苛立ちながら、ふっとあることに気がついた。爪切りを握る指先を、じっと見つめてみる。
そういえば……今回は爪、伸びてないんだな。
薬の効果というのは、その時の体調によっても変わるとどこかの真面目なサイトに書いてあったっけ。副作用も、しかりだ。出るも出ないも、そのとき次第ってことなんだろうか。
そこまで考えて、オレは顔をしかめた。爪切りを枕元に置き、タオルケットを握り締める。
今さら、なにを終わったことを掘り返してるんだ。もう、どうでもいいだろうが。
しかし、そう思ったところでオレの頭はそんなに有能ではない。一旦考え始めてしまったことをぱっとは切り替えられず、ずるずると思考が引きずり込まれていくのを止められない。
君縞さん、オレにショック症状が出た原因を、薬の蓄積とか量が多すぎたとか言ってたな。
てことは、あの新薬はそもそも、身体が受け入れられる量が決まっていたってこと? オレはその量を越えたから、ショック症状が出たという意味か?
舌打ちをして、寝返る。
なんでそれ、オレに新薬が投与される前に判明してなかったんだよ。確か、社長を含めて3人の人間で新薬を試したって言ってたよな。本来ならその時、投与できる量が決まっていると気がつくべきだろ。だって、そういうことを知るために、実験をするんでしょ?
じゃあ……実験段階から、ミスがあった可能性があるってこと……?
再び、溜息が出た。仰向けになり、ぼんやり天井を見上げる。
……仕方ないのか。だってあの新薬は、あくまでも試験段階だったんだから。
創薬というのは、途方もない時間を要するものだということはオレももう知っている。あの薬は、まだ、その途中なんだ。だから、こうなったのもなにも不自然ではないのか。
悔しいな。材料さえあれば、この先もっと、研究が進められたはずなのに。
そしたらオレも、まだ希望を持てたかもしれないのに――……
延々と思い悩んでいるうち、夕飯の時間になった。母親に呼ばれ、一階へと向かう。
まだ気だるいし食欲もないけれど、拒否するとまた心配をかけるから顔は出さなければ。
重たい気持ちで階段を下りる。そして、オレの目はある一点に釘付けになった。
わが家は階段を下りたところに玄関がある。その玄関の靴箱の上に、花瓶に生けられた花が数本飾られていた。赤い花と、白い花だ。
オレが注目したのは、白い花弁が五枚ある、丸い形の花だった。
一目見て、相殺堂の研究室で見たあの花――写真立てに飾られていた写真に写されていた、新薬の原料になった花に似ていると思ったのだ。
花瓶を抱え、母親のもとへ急ぐ。廊下まで、揚げ物の匂いが漂っていた。台所のテーブルの上に並べられた家族と同じ数の皿には、切られたとんかつと千切りキャベツが乗っていた。
「ねえ、この花、どうしたの?!」
「え……? なあに、急に」
のん気な顔で、棚から小皿を出しながら母親がふり向く。オレは花瓶を突き出した。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?
水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。
そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
◇小説家になろう、ベリーズカフェにも掲載中です!
◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています
香死妃(かしひ)は香りに埋もれて謎を解く
液体猫
キャラ文芸
第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞受賞しました(^_^)/
香を操り、死者の想いを知る一族がいる。そう囁かれたのは、ずっと昔の話だった。今ではその一族の生き残りすら見ず、誰もが彼ら、彼女たちの存在を忘れてしまっていた。
ある日のこと、一人の侍女が急死した。原因は不明で、解決されないまま月日が流れていき……
その事件を解決するために一人の青年が動き出す。その過程で出会った少女──香 麗然《コウ レイラン》──は、忘れ去られた一族の者だったと知った。
香 麗然《コウ レイラン》が後宮に現れた瞬間、事態は動いていく。
彼女は香りに秘められた事件を解決。ついでに、ぶっきらぼうな青年兵、幼い妃など。数多の人々を無自覚に誑かしていった。
テンパると田舎娘丸出しになる香 麗然《コウ レイラン》と謎だらけの青年兵がダッグを組み、数々の事件に挑んでいく。
後宮の闇、そして人々の想いを描く、後宮恋愛ミステリーです。
シリアス成分が少し多めとなっています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる