逃げられるものならお好きにどうぞ。

小花衣いろは

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寂しい心臓は誰のもの

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「実は俺、最近は仕事もプライベートも結構忙しくて、椿とも全然連絡とれてなかったんですよ。でも椿のやつ、変わらず元気にしてるんですよね?」
「……うん、そうだね。元気にしてるよ」

 どうやら田中くんは、椿くんが記憶喪失であることは知らないみたいだ。といっても美代さんたちのことは覚えていたから、田中くんのことだって忘れているわけではないと思うけど。

「なら安心しました! 今は香月さんがいるから心配ないですけど、昔は相当ヤンチャしてたじゃないですか。無意味な喧嘩吹っ掛けては怪我したり、夜遊びしたりして……まぁそれも、寂しかったからじゃないのかぁなんて、俺は思ってたんすけど」
「え?」
「ほら、椿って親が居なくて、施設育ちだって言ってたじゃないですか。……やべ、もしかして知りませんでしたか?」
「ううん、本人から聞いたことあるよ」

 ホッとした顔で胸をなでおろした田中くんは、話を続ける。

「だいぶ前なんですけど、一緒に飲みに行った時、珍しく椿が酔っぱらった時があったんですよ。その時、言ってたんです。“自分のせいで、周りの奴らは離れていくんだ”って」
「それって、どういう意味?」
「俺も詳しくは分からないですけど……椿の奴、両親のどちらからも面倒は見られないって言われて、施設行きが決まったらしいです。それ以来、親御さんのどっちも、一度も顔を見せにきたことはないって言ってました。その時は何てことない風に言ってましたけど、当時は寂しい思いをしてたんじゃないかなって……だから、人と深く関わるのを怖がってんじゃないかなぁ、なんて。俺は思ってたんすよ」

 沈んだ表情で話していた田中くんだったけど、二ッと口角を上げて微笑む。

「まぁ俺は、そんなこと気にしないで絡んでましたけど! 椿、ああ見えてめちゃくちゃ良い奴だって知ってるんで」
「……うん、そうだね」
「だからあの時、結構マジで驚いたんですよ。あの椿が遅刻した相手のことを楽しそうに待ってたってことにもですけど、何より、あんな優しい顔で笑えるのかって。正直、ちょっと香月さんに妬いちゃいそうになりましたよ」

 ツンッと唇を尖らせた田中くんだったけど、またすぐに相貌を崩して、柔らかく笑った。
 コロコロと変わる表情豊かなところを見ていると、職場の後輩を思い出す。裏表を感じないところとか、素直そうなところとか……心根の優しい子なんだろうな。

「これからも椿のこと、よろしくお願いします。……って、俺ただのダチなのに、何様って感じですよね」
「ううん、そんなことないよ。田中くんみたいに気にかけてくれるお友達がいて、椿くんは幸せだと思う」
「へへ、そうっすかね?」

 照れ臭そうに笑った田中くんは、この後予定があるらしい。話に付き合ってくれたお礼だと言って、レジ横で売っているチョコレートの焼き菓子をわざわざ買ってきてくれた。

「今日は話せてよかったです! 今度は椿も交えて、三人で飲みにでも行きましょうね!」
「うん、そうだね。私も話せて楽しかったよ。お菓子もありがとう」

 店を出ていく田中くんを見送った私は、スマホに登録したばかりの連絡先宛てに、文字を打ち込んで送信した。

「……よし」

 田中くんと話せたおかげで、ごちゃごちゃと考えていた頭の中がすっきりした気がする。
 もし椿くんの記憶を戻す方法があるなら、私はそれが知りたい。だったら悩む必要なんてない。もし罠だったとしても、椿くんの記憶を取り戻せる可能性が、ほんの少しでもあるのなら……やらないで後悔するくらいなら、今自分に出来ることを頑張りたい。

 店を出れば、空は茜色に染まっていた。街路樹もすっかり色づき、秋の装いをしている。だけど、あっという間に冬がやってくるんだろうな。椿くんと、お付き合いすることになった季節。あれからもう一年も経つんだ。
 ……ううん、逆に言えば、まだ一年しか経っていないんだよね。だけど椿くんと出会ってからの毎日は、これまで変わり映えがなく味気ないともいえる日々を過ごしていた私にとって、大げさかもしれないけど、世界が変わっちゃったって思えるくらいにはドキドキの連続で。だけどすごく楽しくて、密度の濃い時間だった。――今年も、椿くんと一緒にクリスマスを過ごせたらいいな。

 ちょっぴりノルスタジックな気持ちになりながら、のんびりと歩いていれば、スマホが着信を知らせた。通話ボタンをタップした私は、足を止めて二言三言会話をすると、自宅の方に向けていた足を方向転換した。――向かう先は、“Bar curación”だ。

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