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菜月の小学校編
宏和の応援
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その電話攻勢は一週間前から始まった。
高木家の次女、菜月が初めて過ごす姉のいない春休み。
口ではあれこれ言っていても姉妹の仲は良好で、元気印が一人いなくなっただけで家の中が静かに感じられる。
多少なりとも覚える寂しさを気遣ったわけではないだろうが、とにもかくにも熱烈なお誘いにさすがの菜月もついに折れる。
了承の返事を告げるや否や、歓喜の雄叫びを放つ受話口から反射的に耳を離す。
鼓膜がキーンとする不快な感覚に顔をしかめながら、菜月は電話向こうの戸高宏和を叱責する。
「小学四年生にもなって、まだ落ち着きがないの? 先が思いやられるわね」
「……菜月が落ち着きすぎてるんだよ。俺の一つ下なのに」
小学校へ入る前から面識があり、母親である高木和葉の実兄の息子。つまりは菜月にとっての従兄にあたる。幼少時の悪戯癖はだいぶ抜けているが、それでも自身の感情に素直な点はあまり進化がない。彼の父親の戸高泰宏を見る限り、恐らくは死ぬまで変わらないだろう。
「とにかく、約束したからな。ちゃんと明日は応援に来てくれよ!
ひゃっほう!」
数秒前に怒られたばかりだというのに、学習能力のない男はまたしても菜月の鼓膜に甲高い音を残して電話を切った。ツーツーという音がやけに静かに感じられ、はあとため息をつきつつも安堵を覚える。
「電話、宏和君?」
キッチンで洗い物をしている和葉が、顔だけを動かして尋ねた。
「いつものやつよ。見に行ったところで、出番なんてあるわけないのに」
リビングのソファに腰を下ろす。途中だったクイズ番組はすっかり出題が変わってしまっている。見逃した答えを隣に座る父親の高木春道に聞き、予想通りだったのを知って満足げに頷くと、話題を宏和のことに戻す。
「それにしてもまさか野球部に入るとはね。何を考えているのやら」
「ハハッ。そんなの決まってるじゃないか」春道が笑う。「菜月の気を引きたいからさ」
元が老け顔だったからなのか、四十代が迫ってきても昔とたいして変わらない父親。下手すれば二十代後半と見間違われてもおかしくない。
世間一般の父親がこうなのかと思ったがそうではないらしく、特に一緒に歩く機会の多い和葉は自身のしわを気にしてよくため息をついている。菜月からすれば、母親も十分に同年代の他の女性より綺麗だと思うのだが。
そんな印象を抱く両親から視線を外す。予想していた通りの答えを言われ、落ち込むではないが俯きたくなったのである。
「春休みも残り少ないんだから、家で本を読んでいようと思ったのに……」
大袈裟なくらいに落胆をアピールするも、余計に春道のニヤニヤぶりを加速させただけだった。
「そう言って菜月は、きちんと応援に行くもんな」
「仕方ないじゃない。約束してしまったんだもの。約束を破るような娘を育てたと、ご近所様からパパが後ろ指を差されないために、わざわざ行ってあげるのよ。感謝してほしいくらいだわ」
「ハハッ。照れると早口になるあたりは、ママにそっくりだな」
愉快そうにする父親は滅多に怒ったり怒鳴ったりはしない。
今年から始まる大学生活のために家を空けている姉の葉月が、小さい頃からそうだったと以前に教えてくれた。だからというわけではないが、ちくりと小さな仕返しをしてみることにする。
「それじゃあ、パパの意地悪な性格は誰に似たの」
「ママ似」
内緒だぞとばかりにこっそり言う春道は知らない。すでに洗い物を終えた和葉がゆっくりしようと、コーヒーカップ片手にソファのすぐ後ろにいる事実を。
「申し訳ありませんが、こんなに大きな男の子を産んだ記憶はありません」
普段から言葉遣いが綺麗な和葉だが、特に丁寧になった場合は怒りを端的に現わしている場合がほとんどだ。ゆえに春道は額に汗を浮かべて、懸命に愛する妻をなだめるのである。
他者から見れば微笑ましいかもしれないが、頻繁に晒される身としては呆れが先に来る。けれどもそれが夫婦のコミュニケーションであるのだろうと、菜月は無言で運命を受け入れるのだ。
「明日はよく晴れるみたいだし、せっかくの機会だもの。応援してあげればいいじゃない」
春道のもう片方の隣に腰を下ろした和葉が、口元に運んだカップを小さなガラステーブルに置きながら言った。
「応援って言ってもね。そもそも春に入部したばかりで試合に出られるとは思えないんだけど」
「そういえば部活に参加できるのは四年生からになったんだったな。宏和君は新入部員になるのか」
「そして初めての練習試合。浮かれるのはわかるけれどね」
両手で持ったキャラクターもののカップから湯気を上げるホットミルクを啜りながら、やれやれとばかりに肩を竦める。子供っぽいかもしれないが、ホットミルクを飲むと寝つきがよくなるので夕食後には必ず愛飲するようになっていた。ちなみにカップは以前の誕生日に、姉がプレゼントしてくれたものである。
「そうはいってもわざわざ応援を頼むくらいだ。ベンチ入りはしてるんだろ?」
「みたいね。野球部の人数自体が少ないっていうのもあるけど」
「ここにも少子化の波が押し寄せてるか。嘆かわしいことだな」
本当にそう思っているのかは不明だが、ソファに背中を預けた春道はどことなく寂しそうでもあった。
「これも時代なのだから、仕方ないわよ。菜月の小学校も再編の話が出ているみたいだし」
「俺の地元の母校も統合されたらしい。
今じゃ残ってるのは中学校くらいのもんだ」
いつものように夫婦の会話を頭上で聞きながら、妙にしんみりしてきた居間で菜月はとりあえずクイズ番組に集中することにした。世の中、なるようにしかならないのである。
*
ベンチに入っているからといって、新入部員が使われるとは限らない。午後一時から始まった練習試合は六年生同士の白熱した勝負の応酬が続いていた。
通う小学校のグラウンドに他校の部員を招いての試合だけに、ベンチ後方のグラウンド隅には野球部の関係者でもある保護者の姿が大勢目につく。友人や好きな男の子の応援をする児童もちらほら見かける。そのうちの一人がジーンズにパーカーというラフな格好をしている菜月でもあるのだが。
「五回を終わって10対0というのも辛いわね」
せっかくだからと応援についてきた和葉が嘆息する。互いの戦力を確かめるという名目のため、コールドゲームをなしにしているので、点差はどこまでも開く様相を見せていた。そして劣勢に立たせられているのは菜月の学校だった。
五回裏の攻撃もあっさり三者凡退に終わり、盛り上がる相手のベンチとは対照的に味方側はお通夜でもかくやという雰囲気になってしまっていた。
「もうちょっと意地を見せてくれないと。私の元職場でもあるんだから」
そう憤るのは和葉と並んで観戦中の戸高祐子だ。元この小学校の教師で、葉月の担任でもあった。当時はいざこざもあったみたいだが、今ではすっかり宏和の良い……かどうかはともかくとして、お母さんである。
「だがこれが不幸とは限らない。点差があるからこそ、新入部員の力を確かめる機会に恵まれるからね」
したり顔で言ってのけたのは、いつの間にやら当たり前のように観戦していた泰宏だった。
菜月や和葉のみならず祐子も気付いていなかったみたいで、目を丸くする。
「あなた……仕事はどうしたの?」
春休みなので平然と応援できているが、今日は平日だ。愛妻のもっともな問いかけに対し、泰宏は何故か春の日差しよりも爽やかな笑みを返して終わる。
「ちょ……サボったの!?」
「違うよ。優秀な部下に任せてきただけさ」
「それをサボったって言うのよ!」
「あ、ほら。宏和が登板するみたいだよ」
紅潮していた祐子の顔がグリンと横回転する。騒いでいるうちに、新入部員の宏和が投手としてマウンドに立った。やや緊張気味に息を吐いたかと思いきや、菜月の姿を横目で確認すると得意げにニッと笑った。
振りかぶり、上げた足を地面についた勢いを利用して腕を振る。放たれた白球は糸を引くようにキャッチャーの構える茶色いミットへと吸い込まれる。球審役の保護者が右手を上げ、大きな声でストライクを宣言した。
「宏和君、なかなかやるじゃない」
和葉が感嘆の声を漏らすと、当たり前じゃないと祐子が胸を張った。
「私の遺伝子が優秀だもの。父親に似なくて本当によかったわ」
「まったくだよ。心から祐子には感謝しているよ」
「そ、それでいいのよ、もう」
なんやかんやで仲良さげな夫婦のイチャつきなど露知らず、さすがに悪戯小僧っぷりを封印した真剣な面持ちの宏和は、二球目三球目とテンポよく投げ込む。
全身を使ったのびやかフォームはしなやかでありながら、力強さに満ちている。素人目にも、先ほどまで投げていた先輩投手よりも優れているのがわかる。
「あっという間に三者凡退ね。意外と宏和君って野球の才能があるのかしら」
「意外とは失礼ね。元から運動神経は良かったわよ。小さい頃から悪戯をして逃げたり、裏山を楽しそうに駆け回っていたおかげでね」
ここぞとばかりに我が子の自慢をする祐子のそばで、菜月はポツリと呟く。
「野生児ね。将来は男版ゴリラになるのかしら」
「ハッハッハ。菜月ちゃんの応援次第ではなるかもしれないね」
「なら、彼のためにも今後は控えた方がよさそうですね」
泰宏と軽口を叩き合っている最中に、甲高い金属音がグラウンドに木霊した。バッターボックスに立っていたのは六回表を難なく抑えたばかりの宏和だ。全速力で走り出した彼の視線の先、外野の左中間深くで弧を描いていた軟球が落ちる。
「三つ、三つ!」
チームメイトの声に背中を押されるように加速する宏和は、二塁ベースも蹴って悠々と三塁にまで到達。軽く握った拳をクッと上に送るポーズは、間違いなく観戦中の菜月に向けられていた。
しかしながら後続が続かずに無死三塁のチャンスも無得点に終わる。宏和は見事に七回表も三者凡退で終わらせたが、今年の課題を露呈するかのごとく味方も反撃の糸口すら掴めずに最終回を終えてしまったのだった。
*
「試合は残念だったけど、監督にアピールできたみたいでよかったわね」
僅かな出番でもユニフォームを土で汚した我が子を、ともすれば人前で抱き締めそうな勢いで祐子が褒め称える。
仕事を途中で抜け出してきた泰宏をどうこう言えない親ばかっぷりだが、自分の両親も似たような感じなので菜月はあえて指摘を避ける。
すでに泰宏は仕事へ戻っているので、和葉も含めた合計四人で近くの大型スーパーで遊んで帰ろうという話になり、全員が徒歩で向かっている最中だった。
バットが見えるバッグを背中に担ぎ、帽子を後ろ前にしてかぶっている宏和が、今にもフフンと調子に乗っている声が聞こえてきそうな態度で菜月に近づいてきた。
「俺の活躍、凄かっただろ。惚れたよな? な?」
「いいえ、まったく」
一瞬の逡巡もなく否定した菜月の前で、哀れな少年が脱力する。
「う、嘘だろ! あんなに頑張ったのに。一体、菜月はいつになったら俺を大好きになってくれるんだよ!」
全力の訴えに対し、菜月が返すのは実に短く、そして冷たい一言だった。
「従兄妹なんだから無理に決まってるでしょ」
「そ、そんな……! 俺は諦めないぞ!」
わけのわからない気合を涙目で入れる宏和を前に、わざとらしくため息をつく。
その光景にショックを受けている彼はきっと気付かないだろう。試合中はほんの少しだけ格好良かったわよという称賛が含まれていたのを。
高木家の次女、菜月が初めて過ごす姉のいない春休み。
口ではあれこれ言っていても姉妹の仲は良好で、元気印が一人いなくなっただけで家の中が静かに感じられる。
多少なりとも覚える寂しさを気遣ったわけではないだろうが、とにもかくにも熱烈なお誘いにさすがの菜月もついに折れる。
了承の返事を告げるや否や、歓喜の雄叫びを放つ受話口から反射的に耳を離す。
鼓膜がキーンとする不快な感覚に顔をしかめながら、菜月は電話向こうの戸高宏和を叱責する。
「小学四年生にもなって、まだ落ち着きがないの? 先が思いやられるわね」
「……菜月が落ち着きすぎてるんだよ。俺の一つ下なのに」
小学校へ入る前から面識があり、母親である高木和葉の実兄の息子。つまりは菜月にとっての従兄にあたる。幼少時の悪戯癖はだいぶ抜けているが、それでも自身の感情に素直な点はあまり進化がない。彼の父親の戸高泰宏を見る限り、恐らくは死ぬまで変わらないだろう。
「とにかく、約束したからな。ちゃんと明日は応援に来てくれよ!
ひゃっほう!」
数秒前に怒られたばかりだというのに、学習能力のない男はまたしても菜月の鼓膜に甲高い音を残して電話を切った。ツーツーという音がやけに静かに感じられ、はあとため息をつきつつも安堵を覚える。
「電話、宏和君?」
キッチンで洗い物をしている和葉が、顔だけを動かして尋ねた。
「いつものやつよ。見に行ったところで、出番なんてあるわけないのに」
リビングのソファに腰を下ろす。途中だったクイズ番組はすっかり出題が変わってしまっている。見逃した答えを隣に座る父親の高木春道に聞き、予想通りだったのを知って満足げに頷くと、話題を宏和のことに戻す。
「それにしてもまさか野球部に入るとはね。何を考えているのやら」
「ハハッ。そんなの決まってるじゃないか」春道が笑う。「菜月の気を引きたいからさ」
元が老け顔だったからなのか、四十代が迫ってきても昔とたいして変わらない父親。下手すれば二十代後半と見間違われてもおかしくない。
世間一般の父親がこうなのかと思ったがそうではないらしく、特に一緒に歩く機会の多い和葉は自身のしわを気にしてよくため息をついている。菜月からすれば、母親も十分に同年代の他の女性より綺麗だと思うのだが。
そんな印象を抱く両親から視線を外す。予想していた通りの答えを言われ、落ち込むではないが俯きたくなったのである。
「春休みも残り少ないんだから、家で本を読んでいようと思ったのに……」
大袈裟なくらいに落胆をアピールするも、余計に春道のニヤニヤぶりを加速させただけだった。
「そう言って菜月は、きちんと応援に行くもんな」
「仕方ないじゃない。約束してしまったんだもの。約束を破るような娘を育てたと、ご近所様からパパが後ろ指を差されないために、わざわざ行ってあげるのよ。感謝してほしいくらいだわ」
「ハハッ。照れると早口になるあたりは、ママにそっくりだな」
愉快そうにする父親は滅多に怒ったり怒鳴ったりはしない。
今年から始まる大学生活のために家を空けている姉の葉月が、小さい頃からそうだったと以前に教えてくれた。だからというわけではないが、ちくりと小さな仕返しをしてみることにする。
「それじゃあ、パパの意地悪な性格は誰に似たの」
「ママ似」
内緒だぞとばかりにこっそり言う春道は知らない。すでに洗い物を終えた和葉がゆっくりしようと、コーヒーカップ片手にソファのすぐ後ろにいる事実を。
「申し訳ありませんが、こんなに大きな男の子を産んだ記憶はありません」
普段から言葉遣いが綺麗な和葉だが、特に丁寧になった場合は怒りを端的に現わしている場合がほとんどだ。ゆえに春道は額に汗を浮かべて、懸命に愛する妻をなだめるのである。
他者から見れば微笑ましいかもしれないが、頻繁に晒される身としては呆れが先に来る。けれどもそれが夫婦のコミュニケーションであるのだろうと、菜月は無言で運命を受け入れるのだ。
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「そういえば部活に参加できるのは四年生からになったんだったな。宏和君は新入部員になるのか」
「そして初めての練習試合。浮かれるのはわかるけれどね」
両手で持ったキャラクターもののカップから湯気を上げるホットミルクを啜りながら、やれやれとばかりに肩を竦める。子供っぽいかもしれないが、ホットミルクを飲むと寝つきがよくなるので夕食後には必ず愛飲するようになっていた。ちなみにカップは以前の誕生日に、姉がプレゼントしてくれたものである。
「そうはいってもわざわざ応援を頼むくらいだ。ベンチ入りはしてるんだろ?」
「みたいね。野球部の人数自体が少ないっていうのもあるけど」
「ここにも少子化の波が押し寄せてるか。嘆かわしいことだな」
本当にそう思っているのかは不明だが、ソファに背中を預けた春道はどことなく寂しそうでもあった。
「これも時代なのだから、仕方ないわよ。菜月の小学校も再編の話が出ているみたいだし」
「俺の地元の母校も統合されたらしい。
今じゃ残ってるのは中学校くらいのもんだ」
いつものように夫婦の会話を頭上で聞きながら、妙にしんみりしてきた居間で菜月はとりあえずクイズ番組に集中することにした。世の中、なるようにしかならないのである。
*
ベンチに入っているからといって、新入部員が使われるとは限らない。午後一時から始まった練習試合は六年生同士の白熱した勝負の応酬が続いていた。
通う小学校のグラウンドに他校の部員を招いての試合だけに、ベンチ後方のグラウンド隅には野球部の関係者でもある保護者の姿が大勢目につく。友人や好きな男の子の応援をする児童もちらほら見かける。そのうちの一人がジーンズにパーカーというラフな格好をしている菜月でもあるのだが。
「五回を終わって10対0というのも辛いわね」
せっかくだからと応援についてきた和葉が嘆息する。互いの戦力を確かめるという名目のため、コールドゲームをなしにしているので、点差はどこまでも開く様相を見せていた。そして劣勢に立たせられているのは菜月の学校だった。
五回裏の攻撃もあっさり三者凡退に終わり、盛り上がる相手のベンチとは対照的に味方側はお通夜でもかくやという雰囲気になってしまっていた。
「もうちょっと意地を見せてくれないと。私の元職場でもあるんだから」
そう憤るのは和葉と並んで観戦中の戸高祐子だ。元この小学校の教師で、葉月の担任でもあった。当時はいざこざもあったみたいだが、今ではすっかり宏和の良い……かどうかはともかくとして、お母さんである。
「だがこれが不幸とは限らない。点差があるからこそ、新入部員の力を確かめる機会に恵まれるからね」
したり顔で言ってのけたのは、いつの間にやら当たり前のように観戦していた泰宏だった。
菜月や和葉のみならず祐子も気付いていなかったみたいで、目を丸くする。
「あなた……仕事はどうしたの?」
春休みなので平然と応援できているが、今日は平日だ。愛妻のもっともな問いかけに対し、泰宏は何故か春の日差しよりも爽やかな笑みを返して終わる。
「ちょ……サボったの!?」
「違うよ。優秀な部下に任せてきただけさ」
「それをサボったって言うのよ!」
「あ、ほら。宏和が登板するみたいだよ」
紅潮していた祐子の顔がグリンと横回転する。騒いでいるうちに、新入部員の宏和が投手としてマウンドに立った。やや緊張気味に息を吐いたかと思いきや、菜月の姿を横目で確認すると得意げにニッと笑った。
振りかぶり、上げた足を地面についた勢いを利用して腕を振る。放たれた白球は糸を引くようにキャッチャーの構える茶色いミットへと吸い込まれる。球審役の保護者が右手を上げ、大きな声でストライクを宣言した。
「宏和君、なかなかやるじゃない」
和葉が感嘆の声を漏らすと、当たり前じゃないと祐子が胸を張った。
「私の遺伝子が優秀だもの。父親に似なくて本当によかったわ」
「まったくだよ。心から祐子には感謝しているよ」
「そ、それでいいのよ、もう」
なんやかんやで仲良さげな夫婦のイチャつきなど露知らず、さすがに悪戯小僧っぷりを封印した真剣な面持ちの宏和は、二球目三球目とテンポよく投げ込む。
全身を使ったのびやかフォームはしなやかでありながら、力強さに満ちている。素人目にも、先ほどまで投げていた先輩投手よりも優れているのがわかる。
「あっという間に三者凡退ね。意外と宏和君って野球の才能があるのかしら」
「意外とは失礼ね。元から運動神経は良かったわよ。小さい頃から悪戯をして逃げたり、裏山を楽しそうに駆け回っていたおかげでね」
ここぞとばかりに我が子の自慢をする祐子のそばで、菜月はポツリと呟く。
「野生児ね。将来は男版ゴリラになるのかしら」
「ハッハッハ。菜月ちゃんの応援次第ではなるかもしれないね」
「なら、彼のためにも今後は控えた方がよさそうですね」
泰宏と軽口を叩き合っている最中に、甲高い金属音がグラウンドに木霊した。バッターボックスに立っていたのは六回表を難なく抑えたばかりの宏和だ。全速力で走り出した彼の視線の先、外野の左中間深くで弧を描いていた軟球が落ちる。
「三つ、三つ!」
チームメイトの声に背中を押されるように加速する宏和は、二塁ベースも蹴って悠々と三塁にまで到達。軽く握った拳をクッと上に送るポーズは、間違いなく観戦中の菜月に向けられていた。
しかしながら後続が続かずに無死三塁のチャンスも無得点に終わる。宏和は見事に七回表も三者凡退で終わらせたが、今年の課題を露呈するかのごとく味方も反撃の糸口すら掴めずに最終回を終えてしまったのだった。
*
「試合は残念だったけど、監督にアピールできたみたいでよかったわね」
僅かな出番でもユニフォームを土で汚した我が子を、ともすれば人前で抱き締めそうな勢いで祐子が褒め称える。
仕事を途中で抜け出してきた泰宏をどうこう言えない親ばかっぷりだが、自分の両親も似たような感じなので菜月はあえて指摘を避ける。
すでに泰宏は仕事へ戻っているので、和葉も含めた合計四人で近くの大型スーパーで遊んで帰ろうという話になり、全員が徒歩で向かっている最中だった。
バットが見えるバッグを背中に担ぎ、帽子を後ろ前にしてかぶっている宏和が、今にもフフンと調子に乗っている声が聞こえてきそうな態度で菜月に近づいてきた。
「俺の活躍、凄かっただろ。惚れたよな? な?」
「いいえ、まったく」
一瞬の逡巡もなく否定した菜月の前で、哀れな少年が脱力する。
「う、嘘だろ! あんなに頑張ったのに。一体、菜月はいつになったら俺を大好きになってくれるんだよ!」
全力の訴えに対し、菜月が返すのは実に短く、そして冷たい一言だった。
「従兄妹なんだから無理に決まってるでしょ」
「そ、そんな……! 俺は諦めないぞ!」
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