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1巻
1-3
そう言うと、諒の目が細められ、冷ややかなものになる。
「え、何? なんかまずい?」
こめかみに手を当てて、記憶を掘り起こす。確かカクテルを飲みすぎて、酔っぱらい、いけすかない遠戚と結婚させられるかもしれないと話してしまった。それは覚えている。しかも、泣きながら。
情けない、もう深酒はやめよう。
そう心に誓いつつ、更に記憶を辿っていると、諒がヒントを寄越した。
「……三択。お前が誰を選んだか覚えてないのか」
「は? 三択?」
一体、何の話?
首を傾げたが、それがキーワードのように働いて、ぼんやりとそのときの諒の顔が頭に浮かんできた。そこから芋づる式に昨夜の会話が思い出され、目を見開いて諒を見つめる。
『結婚は自己責任だ。俺は俺の意思で結婚したいと思っているんだから、ちひろは気にしなくていい。ちひろも、自分で相手を選びたいんだろう?』
そう、夕べ、この顔でそんなセリフを聞いた。
泣きすぎて瞼が腫れてヒリヒリしていたのを覚えている。
『俺は友人の中でも一番ちひろと気が合うし、誰より信頼してる』
『俺は、女にべったり依存されたくない。その点、ちひろとなら結婚しても友人関係を崩さないでいられるだろう? お前はマイペースだし、連絡無精だしな。俺が連絡しないと、そっちからメールも電話もしてこないだろ。やれ連絡がないだのやれ寂しいだの、挙句、仕事と私、どっちが大事なのとか言い出すこともないだろうし』
そうだ、そんなことを言っていた。自分も、面倒な女に付きまとわれて困っているから、私みたいなタイプと結婚できれば都合がいいのだと。
そうして三択を迫られた。私は自分で諒を選び、彼の指を握ったのだ。
嫌な男と結婚せずに済むことにほっとして、盛り上がって散々飲んで、そして酔いつぶれたのだろう。それ以降の記憶を辿るのは無理だった。
「思い出したか?」
頭を抱える私を見て、諒が喉を鳴らして笑う。
「途中までは……ここどこ?」
「ハイアークホテルだ。気が利くだろう」
なんと私が両親と待ち合わせているホテルだった。ここの和食レストランに予約を入れてあるのだ。
「俺との結婚に合意したのは覚えてるな?」
諒が前屈みになり、私の顔を覗き込んでくる。
覚えていますとも――私は眉間にぐっと力を入れた。
いくら酔っていたとはいえ……追い詰められていたとはいえ! どうしてそんな結婚にそこまで乗り気になれたのだ、私!
「……酔っぱらいコワイ」
「俺は酔ってなかった」
諒がきっぱりと言い切るものだから、どきりとする。
酒のせいにしてなかったことにするつもりかと、咎められている気がして罪悪感が生まれた。
いや、でも、酔ってるときにそんな選択をさせる諒も悪い。
「これ以上ない良案だろう? それに、友達が望まない結婚を強要されるのを黙って見てられないし」
むしろ私のためだと言いたげだ。
「だからって、諒と結婚なんてできないでしょ、別に恋人ってわけじゃないんだから。だって結婚って……」
つまり、結婚するということは、昨夜の夢のようなことも現実になるのだ。それを考えたら友達と結婚なんて、ありえない。
口に出しては言えなかったが、顔も耳も火照り出した私を見て察したのか、諒はにや、と意地悪な顔で笑った。
「ちひろが望むなら、俺はもちろん、そういうこともありで構わないが」
「は? え? 何言って」
急に諒の手が私のバスローブの紐に伸びてきたので、咄嗟に後ずさって逃げた。だが、彼の手が紐をほどくことはなく、指でくるりと弄んだだけですぐに離される。
今度はその手が私の目線まで持ち上げられて、ぴんっと額を弾かれた。
「いたっ!」
「冗談だ」
くっくっ、と肩を揺らして笑われ、かあっと顔が熱くなった。
「ちょっと! こっちは真剣な話してるんだから、からかわないでよ!」
憤慨して声を荒らげたが、失礼なことに諒はそれでもおかしそうに笑っている。
「お前が変に重く受け止めるからだ。一時避難的な結婚だと思えばいい。ちひろはそれで嫌な男との結婚から逃げられる。俺は面倒な女を追い払えるし、ゲイ疑惑も払拭できるしな」
「……え? あ、そういうこと?」
ようやく、諒がそんな結婚を言い出した意図がわかった。つまり、便宜上、一時的に夫婦のフリをしよう、ということだ。
ほっとして、肩から力が抜ける。
そういうことなら、友達結婚なんて言い出したのも理解できる。大きく息を吐いた私を見て、諒が少し口角を上げて笑った。
だけど、一時的といっても全く問題がないわけじゃない。
「でも、本当に籍も入れちゃうことになるよ? うちの親、疑い深いから絶対にそこまで確認すると思うし」
「婚姻届もちゃんと出す。俺だってそのほうが助かるからな」
「でも、後で本当に好きな人ができたら?」
私はともかく、諒に好きな人ができたら迷惑がかかる。
「……そうだな。じゃあ、どちらかに真剣に結婚したい相手ができるまで――そう決めておくのは?」
「バツイチになっちゃうよ?」
「今時珍しくもないだろ」
なんでもないことのように、ひょいっと肩を竦める。まあ、確かに今のご時勢、バツイチは珍しくもない。もしかしたら再婚するときにネックになるかもしれないけれど、何にせよバツイチくらいでダメになるような相手なら結婚しないほうがいいだろう。そもそも、そんな未来のことよりも差し迫った分家の男との結婚を回避するのが優先なわけで……
そう考えたら、この提案に対しての異議は、なくなってしまった。
……いいの? 本当に?
諒さえそれでいいのなら、私のほうは助かる。
悩んでいる間にも、刻一刻と時間は過ぎる。実家からこっちまでは新幹線で二時間ほどだ、中止にするなら早く連絡をしなければ両親が家を出てしまう。
「私のスマホ……」
どこだ、と顔を上げると、ベッドサイドのテーブルに置いてあったようで、諒が私に差し出した。
スマホの時刻表示は七時三十五分、新幹線に乗るまでの時間も考えれば九時前には家を出るだろう。
今ならまだ間に合う。逃げられたとは言えないから、都合が合わなくなったと言うしかない。だけど、それじゃあすぐに次の約束を持ちかけられるに決まっている。
本当に諒が協力してくれるなら、これまで散々悩まされたプレッシャーから解放されるのだ。
ごく、と溜まった唾を呑み込む。そして、ぎゅっと、膝の上で手を握った。
「……わかった。親に会って。よろしくお願いします」
その後のことは、また後で考えよう。今は、きっとこれがベストだ。
意を決して諒に向かって頭を下げる。
すると、ふっと笑った気配がして、ぽすんと頭に手が置かれた。
「とりあえず、シャワー浴びてこい。それから何か食いに行こう」
くしゃくしゃっと私の髪をかき混ぜる。
諒の手は大きくて優しくて、温かで。友達なのにこんな甘え方をしていいのかと申し訳なく思う。
諒は本当に、迷惑じゃないのかなあ。
まだ迷いを残してはいたが、夕べの酒の余韻が残っているのか、頭がうまく働かない。
「……わかった」
とにかくシャワーを浴びて、頭をすっきりさせることにした。
脱衣所で、バスローブの合わせを開く。なんとなく、自分の身体を見下ろした。
ブラジャーは外されていたけど、下はちゃんと穿いてる。あの艶めかしい夢の痕はなかった。
「……夢、だよね」
靄がかかって、はっきりしないけれど、断片的に熱い息遣いや諒の声が耳に残っている。
きっと、結婚なんてことになったから変な夢を見たんだ。
ふるりと頭を振って、頭の中の映像を振り払う。バスローブを脱ぎ捨て熱いシャワーを頭から浴びて、肌に残る夢の余韻を洗い流した。
その後、朝食を済ませてからホテルのショッピングフロアに連れ出され、フォーマルなワンピース一式をそろえ、身支度も万端。しかも、自分で払うと言ったのに、強引に諒に払われてしまった。こんなに甘えてしまっていいのだろうか……
こうして昼の十二時を少し過ぎた頃、私の両親をふたりで出迎えたのだった。
和食レストランのお座敷で、テーブルを挟んで両親と向かい合う。大きな窓からは美しく手入れされたホテルの中庭が楽しめる。といっても、真冬のこの時期はどこか物寂しい雰囲気だが、それもまた趣があった。
テーブルの上には、食前酒と色鮮やかな先付けの小鉢が並ぶ。店員が下がったところで、諒が一度座布団から下りた。
「高梨諒と申します。ちひろさんとお付き合いをさせていただいております」
ロビーでも簡単に紹介は済ませていたが、改めて名乗って背筋を正す。父は難しい顔をしたままだが、母が笑みを浮かべて座布団を勧めた。
「昨年、娘から聞きました。それまで結婚を考えている方がいるなんて全く聞いていなくて、驚いてしまって……いつからお付き合いしてるのかしら」
「お嬢さんとは大学で知り合ったのですが、二年前、私のほうから結婚を前提にお付き合いを申し込みました」
「まあ、こんな素敵な方が、どうしてちひろに、ねえ……」
……失礼な。
「心根の優しい、温かな女性です。なかなか頷いてくださらず……そんなところにもますます惹かれました」
一体誰の話をしているのだろう、自分のことのような気がしない。諒の言葉で聞くと、私がとても貞淑で、素敵なお嬢様のように思えてくる。
ふたりの馴れ初めに関しては、今朝モーニングビュッフェを食べながら打ち合わせておいた。
筋書きどおりに答える諒は、少しも狼狽えることがない。大嘘を吐いているというのに大した心臓だ。
私のほうはというと、バレやしないかと気が気じゃないのと、自分のこととは思えない褒め言葉に胃がしくしくと痛んできた。
だけど、母と諒でうまいことやり取りを終えて、父がこのまま黙っていてくれれば、とりあえずこの場は凌げる。そうなることを願っていたのだが――
「その年になってまだ結婚相手も見つからないのかと心配し何度も尋ねたが、ちひろの口から君の名前が出ることはなかった。二年も付き合っておかしくないかね」
ぎくりとして、顔が強張った。
父の言うとおり、本当に付き合っていたのなら、こうなる前に諒の名前が一度くらい出ていてもおかしくない。だけど、不幸中の幸いだったのは、これまで付き合った相手の名前を一度も両親に告げたことがなかったことだ。
「付き合ってるなんて言ったら、すぐ会わせろって言うから黙ってたの」
「当たり前だろう。行き遅れるんじゃないかと心配してやってるのに」
心配してやってる、って何。
かちん、と来たけど、ここで喧嘩をするわけにもいかない。どうにか深呼吸で気持ちを落ち着かせる。
「だから、心配はかけたけど……」
今会わせたんだからもういいでしょ、と投げやりに答えそうになったとき、諒が父に向かい堂々と答えた。
「私ではまだ頼りなく、ご両親に紹介することはできないと考えていたのだと思います。とても堅実なお嬢さんで、本当に私にはもったいないと身が引き締まる思いが致します」
ちょっと持ち上げすぎだと言いたくなるようなセリフで、聞いてるこっちがむずがゆくなってしまった。
よくそんなセリフを考えつくなあとちらりと横目で見たら、まっすぐ父を見ていた目が、ふいに私に向けられた。
どきん、と鼓動が跳ねる。お芝居にしてはできすぎなくらい優しい目で、まるで恋人を見つめるような表情だった。
迫真の演技すぎて、心臓に悪い。思わず諒の視線から逃げて、父へと戻した。
「諒が頼りないとか、そんなことは思ってないから」
照れてないで私も少しは援護射撃をしなければと口を出す。けれど、父が鼻で笑った。
「大学で知り合ったってことは、お前と同じ美大だろう」
「美大の何が悪いのよ」
「ふん、美大なんぞ出て、大した仕事に就けるとは思えん」
再びかちんと来る。今度は頭の中でバトル開始のゴングが鳴った。
私が馬鹿にされるのはいい加減慣れているけれど、紳士的に両親に筋を通そうとしてくれている諒まで馬鹿にするのは許せなかった。
「諒はちゃんと建築デザインの道に進んで身を立ててます。尊敬できる人だから」
声高に主張する。これは本当のことだ。私は結局事務職にしか就けなかったけれど、諒は希望の職種に就けた。それは、諒の努力と才能の賜物に違いなく、誰かに馬鹿にされるいわれなどないはずだ。
父に対する長年の反発心もあり、つい口調がきつくなってしまう。さらに言い募ろうとすると、横から伸びてきた諒の手が私の手に重なり、宥めるように握られた。
「ご心配のほどはわかります。おそらくちひろさんも同じように考えて、これまでご両親に紹介することをためらわれていたのだと思います。ですが今季からようやくアートディレクターの仕事を任されるようになり、こうしてご挨拶の許可をいただきました」
……ちょっと。それではあまりにも、私が上から目線じゃないだろうか。
傍から見れば、『こいつどんだけ自分がいい女だと思ってんの』と白い目で見られそうだ。
だが、どうやら自分の娘が優位に立っていることが、父の矜持を満足させたらしい。
「当然だ。そこいらの男に媚びを売るような娘には育てていない」
あなたの娘は婚活アプリに頼り、しかもそれなりに媚びを売ってましたスミマセン。
――という皮肉は当然呑み込み、ビール瓶に手を伸ばす。ようやく父が少しばかり表情を軟化させたのだ、この機会を逃してはいけない。
「もういいでしょ。それより早く食べないと店員さんが困るでしょう」
「そうね、ほらお父さん」
母が横から父にグラスを持つように促す。諒も近くにあった瓶を手にして、父のほうに向けた。父はすっとグラスを前へ差し出した。
……やった。
父が気に入らない相手から酌を受けることはない。今日の首尾としては十分すぎるほどの成果だ。
それは母も見ていてわかったのか、私に向かって微笑む。
『よくやったわ』なのか『良かったわね』なのかはわからないけれど、その微笑みから察するに母も満足したらしい。
良かった、どうにか今日は乗り切れた……多分。
安堵の息をそっと漏らすと同時に、肩の力が抜けた。
それからも、諒は上手に父と私を持ち上げた。そうしておきながら自分の仕事のことを語り、途中からは父と忌憚なく語り合うまでになっていた。
食事が終わる頃には、いつ籍を入れるのか、と父のほうから先走った話をするほどになっていたのである。
食事後、少しの時間だったが両親を観光に連れ出し、その後新幹線の駅で見送った。
「うまくいったな」
「いきすぎだよ……」
ぴゅる、と凍てついた風がホームを吹き抜ける。今年は暖冬だとテレビで言っていたけれど、さすがに二月上旬は寒い。急ぎ足で暖房の効いた駅構内の地下街を目指す。
不意に、風が緩んだ気がした。見ると、隣に並んだ諒がちょうど風上側で、壁になっている。
……もしかしてわざと? それとも偶然かな?
こんな風に、彼女を気遣うみたいなことをされると戸惑う。それとも、私が変に意識してしまっているだけだろうか。
けど、意識しちゃうのも当然なくらい、今日の諒は頼もしくて……格好良かった。悔しいけれど。
ぼうっとその横顔を見上げていると、彼も目だけ動かして私と目を合わせる。
「どうした?」
どうして諒を見つめてしまっていたのか、その理由を口にするのは気恥ずかしくて、なんでもないと首を振った。
「今日はごめんね。気分悪かったでしょう」
両親が帰ったら謝りたいとずっと思っていた。
最初ロビーで顔を合わせたときなど本当に酷い態度だった。
まるで品定めをするような目をしていた。諒は少しも怯まず、むしろいくらでも品定めすればいい、と堂々としたものだったけれど。
「娘の親なんてそんなもんだろう」
「うちの親は普通と違うよ。でも最後にはふたりともすっかり諒に誑かされてたね……」
「人聞きが悪いな」
最初、諒と私が大学で知り合ったのだと聞いたとき、父の目に馬鹿にするような色が浮かんだ。私が志望大学を決めたときもあんな顔だった。デザインの仕事に就きたいと言ったのに、父の大反対を受け……もっとも、実力行使でデザイナーになってやる、と息巻いても現実は厳しく、結局事務職をしているのだけれど。
父の態度が軟化した後、諒の仕事のことを聞き、勤めている会社が日本最大手の建設会社だと知ってやっと満足したらしい。
そうしてあれよあれよといううちに両親の信頼を勝ち取り、帰る頃には『娘をどうぞよろしく』と頭まで下げさせた。
なんかもう、さすがとしか言いようがない。この世渡り上手め。
「諒はすごいねえ」
「選んで正解だったろ」
「はは、三択ね……確かに」
しかし、こうも両親に気に入られては、本当にこの結婚を実行しなくてはいけなくなった。
エスカレーターを降りて、駅構内の地下街に入る。そこでやっと冷たい風から逃れられた。
「ふあぁ、あったかい。どこかでコーヒーか……あったかいものでも食べていく? 今日のお礼に奢るから」
「何の礼だよ、これはふたりの問題なんだから当たり前だ」
ふたりの、問題。
そう言われて、歩く速度が緩んだ。何やらくすぐったい感覚に襲われて、また隣を見上げる。
するとまた、彼がそれにすぐに気がつく。
「何だ? 今日は何か変だな」
「いやぁ……変、ではないよ」
今更ですが、あなたの高スペック具合に圧倒されているのですよ。偽の恋人をこんなに思いやれるなんて。
なんだか本当に、私と結婚していいのかしらと申し訳なさが募ってしまう。
と、そのときだ。
「ちひろ」
「えっ」
急に腕を掴まれて引き寄せられた。今だって十分近かったのに、まるで諒の腕の中にすっぽり入るように抱き留められて、一瞬身体が硬くなる。
「すみません」
諒のそんな声がして後ろを振り向けば、人がすぐそばを早足で通り過ぎていった。ぶつからないように腕を引いてくれたらしい。
「とりあえず歩きながら店探すか」
「え」
「食いに行くんだろう?」
腕を掴んでいた手が、すっと下りて私の手を握った。そのまま当たり前のように手を繋いで歩いていく。
「う、うん」
「何がいい? 寒いから鍋がいいか?」
冷えた指先を温めるみたいに、彼の指が優しく私の手を摩った。
諒との付き合いは長いけど、こんな扱い、されたことがない。それが今までとは違うこれからの私たちの関係のような気がして。
なんだか不安と期待が入り混じったような、複雑な気分だった。
***
四月、春。
遅咲きの八重桜が美しい季節になった。職場も新しい人材が入ったり部署異動があったりと何かと忙しない時期だが、私はものすごく仕事の早いパートナーのおかげでさらにてんてこ舞いだった。
パートナーとは、職場のではなく生活上のことで、夫となる人。
つまり、高梨諒のことである。
昨年の法事で望まぬ相手との結婚を勧められ、慌てて婚活を始め、相手に逃げられたのが今年の二月。
代打で諒を両親に紹介した。その後当然諒のご両親にも挨拶をして、そちらは拍子抜けするほどすんなり終わり、私たちは両家公認の婚約者となったのだが――
あれから、二か月と少し。たったそれだけしか経っていないというのに、四月の第三日曜日、なぜか私は自分の部屋を引き払い、諒のマンションに越してきていた。
「ありがとうございました」
荷物の搬入をしてくれた引っ越し業者を見送り、ご機嫌な諒のそばで、私はやや呆然と立ち尽くす。
「ちひろ、どうした?」
「あ、いや……ちょっと」
このところ忙しすぎて、考える余裕もなく諒に言われるままに荷造りをして今日を迎えたが、改めて思い返すとあまりにも素早く事が進みすぎている。
両親に紹介し、結婚の許可を得たからといって、現実に結婚するのは早くても半年先だろうと思っていた。
ところが、諒はいつのまにやら私の両親と直接やりとりするようになっていた。特に母親はすっかり諒と仲良くなったらしい。私の知らないうちに実家にまで行っていたうえに、結婚式はいつにするのか、入籍は、などなどを勝手に両親と決めていったのである。
その結果、ひとまず婚姻届を先に提出し、一緒に住むことになったらしい。結婚式は三か月後の七月だそうだ。
まるで他人事のようだけれど、だって私、全部これらの決定に関わってないからね。
「はあ……荷物片づけてくる」
「ちひろ?」
ため息を吐いて諒に背を向け、寝室の横にあるゲストルームの扉を開ける。今日からここが私の生活空間だ。
「え、何? なんかまずい?」
こめかみに手を当てて、記憶を掘り起こす。確かカクテルを飲みすぎて、酔っぱらい、いけすかない遠戚と結婚させられるかもしれないと話してしまった。それは覚えている。しかも、泣きながら。
情けない、もう深酒はやめよう。
そう心に誓いつつ、更に記憶を辿っていると、諒がヒントを寄越した。
「……三択。お前が誰を選んだか覚えてないのか」
「は? 三択?」
一体、何の話?
首を傾げたが、それがキーワードのように働いて、ぼんやりとそのときの諒の顔が頭に浮かんできた。そこから芋づる式に昨夜の会話が思い出され、目を見開いて諒を見つめる。
『結婚は自己責任だ。俺は俺の意思で結婚したいと思っているんだから、ちひろは気にしなくていい。ちひろも、自分で相手を選びたいんだろう?』
そう、夕べ、この顔でそんなセリフを聞いた。
泣きすぎて瞼が腫れてヒリヒリしていたのを覚えている。
『俺は友人の中でも一番ちひろと気が合うし、誰より信頼してる』
『俺は、女にべったり依存されたくない。その点、ちひろとなら結婚しても友人関係を崩さないでいられるだろう? お前はマイペースだし、連絡無精だしな。俺が連絡しないと、そっちからメールも電話もしてこないだろ。やれ連絡がないだのやれ寂しいだの、挙句、仕事と私、どっちが大事なのとか言い出すこともないだろうし』
そうだ、そんなことを言っていた。自分も、面倒な女に付きまとわれて困っているから、私みたいなタイプと結婚できれば都合がいいのだと。
そうして三択を迫られた。私は自分で諒を選び、彼の指を握ったのだ。
嫌な男と結婚せずに済むことにほっとして、盛り上がって散々飲んで、そして酔いつぶれたのだろう。それ以降の記憶を辿るのは無理だった。
「思い出したか?」
頭を抱える私を見て、諒が喉を鳴らして笑う。
「途中までは……ここどこ?」
「ハイアークホテルだ。気が利くだろう」
なんと私が両親と待ち合わせているホテルだった。ここの和食レストランに予約を入れてあるのだ。
「俺との結婚に合意したのは覚えてるな?」
諒が前屈みになり、私の顔を覗き込んでくる。
覚えていますとも――私は眉間にぐっと力を入れた。
いくら酔っていたとはいえ……追い詰められていたとはいえ! どうしてそんな結婚にそこまで乗り気になれたのだ、私!
「……酔っぱらいコワイ」
「俺は酔ってなかった」
諒がきっぱりと言い切るものだから、どきりとする。
酒のせいにしてなかったことにするつもりかと、咎められている気がして罪悪感が生まれた。
いや、でも、酔ってるときにそんな選択をさせる諒も悪い。
「これ以上ない良案だろう? それに、友達が望まない結婚を強要されるのを黙って見てられないし」
むしろ私のためだと言いたげだ。
「だからって、諒と結婚なんてできないでしょ、別に恋人ってわけじゃないんだから。だって結婚って……」
つまり、結婚するということは、昨夜の夢のようなことも現実になるのだ。それを考えたら友達と結婚なんて、ありえない。
口に出しては言えなかったが、顔も耳も火照り出した私を見て察したのか、諒はにや、と意地悪な顔で笑った。
「ちひろが望むなら、俺はもちろん、そういうこともありで構わないが」
「は? え? 何言って」
急に諒の手が私のバスローブの紐に伸びてきたので、咄嗟に後ずさって逃げた。だが、彼の手が紐をほどくことはなく、指でくるりと弄んだだけですぐに離される。
今度はその手が私の目線まで持ち上げられて、ぴんっと額を弾かれた。
「いたっ!」
「冗談だ」
くっくっ、と肩を揺らして笑われ、かあっと顔が熱くなった。
「ちょっと! こっちは真剣な話してるんだから、からかわないでよ!」
憤慨して声を荒らげたが、失礼なことに諒はそれでもおかしそうに笑っている。
「お前が変に重く受け止めるからだ。一時避難的な結婚だと思えばいい。ちひろはそれで嫌な男との結婚から逃げられる。俺は面倒な女を追い払えるし、ゲイ疑惑も払拭できるしな」
「……え? あ、そういうこと?」
ようやく、諒がそんな結婚を言い出した意図がわかった。つまり、便宜上、一時的に夫婦のフリをしよう、ということだ。
ほっとして、肩から力が抜ける。
そういうことなら、友達結婚なんて言い出したのも理解できる。大きく息を吐いた私を見て、諒が少し口角を上げて笑った。
だけど、一時的といっても全く問題がないわけじゃない。
「でも、本当に籍も入れちゃうことになるよ? うちの親、疑い深いから絶対にそこまで確認すると思うし」
「婚姻届もちゃんと出す。俺だってそのほうが助かるからな」
「でも、後で本当に好きな人ができたら?」
私はともかく、諒に好きな人ができたら迷惑がかかる。
「……そうだな。じゃあ、どちらかに真剣に結婚したい相手ができるまで――そう決めておくのは?」
「バツイチになっちゃうよ?」
「今時珍しくもないだろ」
なんでもないことのように、ひょいっと肩を竦める。まあ、確かに今のご時勢、バツイチは珍しくもない。もしかしたら再婚するときにネックになるかもしれないけれど、何にせよバツイチくらいでダメになるような相手なら結婚しないほうがいいだろう。そもそも、そんな未来のことよりも差し迫った分家の男との結婚を回避するのが優先なわけで……
そう考えたら、この提案に対しての異議は、なくなってしまった。
……いいの? 本当に?
諒さえそれでいいのなら、私のほうは助かる。
悩んでいる間にも、刻一刻と時間は過ぎる。実家からこっちまでは新幹線で二時間ほどだ、中止にするなら早く連絡をしなければ両親が家を出てしまう。
「私のスマホ……」
どこだ、と顔を上げると、ベッドサイドのテーブルに置いてあったようで、諒が私に差し出した。
スマホの時刻表示は七時三十五分、新幹線に乗るまでの時間も考えれば九時前には家を出るだろう。
今ならまだ間に合う。逃げられたとは言えないから、都合が合わなくなったと言うしかない。だけど、それじゃあすぐに次の約束を持ちかけられるに決まっている。
本当に諒が協力してくれるなら、これまで散々悩まされたプレッシャーから解放されるのだ。
ごく、と溜まった唾を呑み込む。そして、ぎゅっと、膝の上で手を握った。
「……わかった。親に会って。よろしくお願いします」
その後のことは、また後で考えよう。今は、きっとこれがベストだ。
意を決して諒に向かって頭を下げる。
すると、ふっと笑った気配がして、ぽすんと頭に手が置かれた。
「とりあえず、シャワー浴びてこい。それから何か食いに行こう」
くしゃくしゃっと私の髪をかき混ぜる。
諒の手は大きくて優しくて、温かで。友達なのにこんな甘え方をしていいのかと申し訳なく思う。
諒は本当に、迷惑じゃないのかなあ。
まだ迷いを残してはいたが、夕べの酒の余韻が残っているのか、頭がうまく働かない。
「……わかった」
とにかくシャワーを浴びて、頭をすっきりさせることにした。
脱衣所で、バスローブの合わせを開く。なんとなく、自分の身体を見下ろした。
ブラジャーは外されていたけど、下はちゃんと穿いてる。あの艶めかしい夢の痕はなかった。
「……夢、だよね」
靄がかかって、はっきりしないけれど、断片的に熱い息遣いや諒の声が耳に残っている。
きっと、結婚なんてことになったから変な夢を見たんだ。
ふるりと頭を振って、頭の中の映像を振り払う。バスローブを脱ぎ捨て熱いシャワーを頭から浴びて、肌に残る夢の余韻を洗い流した。
その後、朝食を済ませてからホテルのショッピングフロアに連れ出され、フォーマルなワンピース一式をそろえ、身支度も万端。しかも、自分で払うと言ったのに、強引に諒に払われてしまった。こんなに甘えてしまっていいのだろうか……
こうして昼の十二時を少し過ぎた頃、私の両親をふたりで出迎えたのだった。
和食レストランのお座敷で、テーブルを挟んで両親と向かい合う。大きな窓からは美しく手入れされたホテルの中庭が楽しめる。といっても、真冬のこの時期はどこか物寂しい雰囲気だが、それもまた趣があった。
テーブルの上には、食前酒と色鮮やかな先付けの小鉢が並ぶ。店員が下がったところで、諒が一度座布団から下りた。
「高梨諒と申します。ちひろさんとお付き合いをさせていただいております」
ロビーでも簡単に紹介は済ませていたが、改めて名乗って背筋を正す。父は難しい顔をしたままだが、母が笑みを浮かべて座布団を勧めた。
「昨年、娘から聞きました。それまで結婚を考えている方がいるなんて全く聞いていなくて、驚いてしまって……いつからお付き合いしてるのかしら」
「お嬢さんとは大学で知り合ったのですが、二年前、私のほうから結婚を前提にお付き合いを申し込みました」
「まあ、こんな素敵な方が、どうしてちひろに、ねえ……」
……失礼な。
「心根の優しい、温かな女性です。なかなか頷いてくださらず……そんなところにもますます惹かれました」
一体誰の話をしているのだろう、自分のことのような気がしない。諒の言葉で聞くと、私がとても貞淑で、素敵なお嬢様のように思えてくる。
ふたりの馴れ初めに関しては、今朝モーニングビュッフェを食べながら打ち合わせておいた。
筋書きどおりに答える諒は、少しも狼狽えることがない。大嘘を吐いているというのに大した心臓だ。
私のほうはというと、バレやしないかと気が気じゃないのと、自分のこととは思えない褒め言葉に胃がしくしくと痛んできた。
だけど、母と諒でうまいことやり取りを終えて、父がこのまま黙っていてくれれば、とりあえずこの場は凌げる。そうなることを願っていたのだが――
「その年になってまだ結婚相手も見つからないのかと心配し何度も尋ねたが、ちひろの口から君の名前が出ることはなかった。二年も付き合っておかしくないかね」
ぎくりとして、顔が強張った。
父の言うとおり、本当に付き合っていたのなら、こうなる前に諒の名前が一度くらい出ていてもおかしくない。だけど、不幸中の幸いだったのは、これまで付き合った相手の名前を一度も両親に告げたことがなかったことだ。
「付き合ってるなんて言ったら、すぐ会わせろって言うから黙ってたの」
「当たり前だろう。行き遅れるんじゃないかと心配してやってるのに」
心配してやってる、って何。
かちん、と来たけど、ここで喧嘩をするわけにもいかない。どうにか深呼吸で気持ちを落ち着かせる。
「だから、心配はかけたけど……」
今会わせたんだからもういいでしょ、と投げやりに答えそうになったとき、諒が父に向かい堂々と答えた。
「私ではまだ頼りなく、ご両親に紹介することはできないと考えていたのだと思います。とても堅実なお嬢さんで、本当に私にはもったいないと身が引き締まる思いが致します」
ちょっと持ち上げすぎだと言いたくなるようなセリフで、聞いてるこっちがむずがゆくなってしまった。
よくそんなセリフを考えつくなあとちらりと横目で見たら、まっすぐ父を見ていた目が、ふいに私に向けられた。
どきん、と鼓動が跳ねる。お芝居にしてはできすぎなくらい優しい目で、まるで恋人を見つめるような表情だった。
迫真の演技すぎて、心臓に悪い。思わず諒の視線から逃げて、父へと戻した。
「諒が頼りないとか、そんなことは思ってないから」
照れてないで私も少しは援護射撃をしなければと口を出す。けれど、父が鼻で笑った。
「大学で知り合ったってことは、お前と同じ美大だろう」
「美大の何が悪いのよ」
「ふん、美大なんぞ出て、大した仕事に就けるとは思えん」
再びかちんと来る。今度は頭の中でバトル開始のゴングが鳴った。
私が馬鹿にされるのはいい加減慣れているけれど、紳士的に両親に筋を通そうとしてくれている諒まで馬鹿にするのは許せなかった。
「諒はちゃんと建築デザインの道に進んで身を立ててます。尊敬できる人だから」
声高に主張する。これは本当のことだ。私は結局事務職にしか就けなかったけれど、諒は希望の職種に就けた。それは、諒の努力と才能の賜物に違いなく、誰かに馬鹿にされるいわれなどないはずだ。
父に対する長年の反発心もあり、つい口調がきつくなってしまう。さらに言い募ろうとすると、横から伸びてきた諒の手が私の手に重なり、宥めるように握られた。
「ご心配のほどはわかります。おそらくちひろさんも同じように考えて、これまでご両親に紹介することをためらわれていたのだと思います。ですが今季からようやくアートディレクターの仕事を任されるようになり、こうしてご挨拶の許可をいただきました」
……ちょっと。それではあまりにも、私が上から目線じゃないだろうか。
傍から見れば、『こいつどんだけ自分がいい女だと思ってんの』と白い目で見られそうだ。
だが、どうやら自分の娘が優位に立っていることが、父の矜持を満足させたらしい。
「当然だ。そこいらの男に媚びを売るような娘には育てていない」
あなたの娘は婚活アプリに頼り、しかもそれなりに媚びを売ってましたスミマセン。
――という皮肉は当然呑み込み、ビール瓶に手を伸ばす。ようやく父が少しばかり表情を軟化させたのだ、この機会を逃してはいけない。
「もういいでしょ。それより早く食べないと店員さんが困るでしょう」
「そうね、ほらお父さん」
母が横から父にグラスを持つように促す。諒も近くにあった瓶を手にして、父のほうに向けた。父はすっとグラスを前へ差し出した。
……やった。
父が気に入らない相手から酌を受けることはない。今日の首尾としては十分すぎるほどの成果だ。
それは母も見ていてわかったのか、私に向かって微笑む。
『よくやったわ』なのか『良かったわね』なのかはわからないけれど、その微笑みから察するに母も満足したらしい。
良かった、どうにか今日は乗り切れた……多分。
安堵の息をそっと漏らすと同時に、肩の力が抜けた。
それからも、諒は上手に父と私を持ち上げた。そうしておきながら自分の仕事のことを語り、途中からは父と忌憚なく語り合うまでになっていた。
食事が終わる頃には、いつ籍を入れるのか、と父のほうから先走った話をするほどになっていたのである。
食事後、少しの時間だったが両親を観光に連れ出し、その後新幹線の駅で見送った。
「うまくいったな」
「いきすぎだよ……」
ぴゅる、と凍てついた風がホームを吹き抜ける。今年は暖冬だとテレビで言っていたけれど、さすがに二月上旬は寒い。急ぎ足で暖房の効いた駅構内の地下街を目指す。
不意に、風が緩んだ気がした。見ると、隣に並んだ諒がちょうど風上側で、壁になっている。
……もしかしてわざと? それとも偶然かな?
こんな風に、彼女を気遣うみたいなことをされると戸惑う。それとも、私が変に意識してしまっているだけだろうか。
けど、意識しちゃうのも当然なくらい、今日の諒は頼もしくて……格好良かった。悔しいけれど。
ぼうっとその横顔を見上げていると、彼も目だけ動かして私と目を合わせる。
「どうした?」
どうして諒を見つめてしまっていたのか、その理由を口にするのは気恥ずかしくて、なんでもないと首を振った。
「今日はごめんね。気分悪かったでしょう」
両親が帰ったら謝りたいとずっと思っていた。
最初ロビーで顔を合わせたときなど本当に酷い態度だった。
まるで品定めをするような目をしていた。諒は少しも怯まず、むしろいくらでも品定めすればいい、と堂々としたものだったけれど。
「娘の親なんてそんなもんだろう」
「うちの親は普通と違うよ。でも最後にはふたりともすっかり諒に誑かされてたね……」
「人聞きが悪いな」
最初、諒と私が大学で知り合ったのだと聞いたとき、父の目に馬鹿にするような色が浮かんだ。私が志望大学を決めたときもあんな顔だった。デザインの仕事に就きたいと言ったのに、父の大反対を受け……もっとも、実力行使でデザイナーになってやる、と息巻いても現実は厳しく、結局事務職をしているのだけれど。
父の態度が軟化した後、諒の仕事のことを聞き、勤めている会社が日本最大手の建設会社だと知ってやっと満足したらしい。
そうしてあれよあれよといううちに両親の信頼を勝ち取り、帰る頃には『娘をどうぞよろしく』と頭まで下げさせた。
なんかもう、さすがとしか言いようがない。この世渡り上手め。
「諒はすごいねえ」
「選んで正解だったろ」
「はは、三択ね……確かに」
しかし、こうも両親に気に入られては、本当にこの結婚を実行しなくてはいけなくなった。
エスカレーターを降りて、駅構内の地下街に入る。そこでやっと冷たい風から逃れられた。
「ふあぁ、あったかい。どこかでコーヒーか……あったかいものでも食べていく? 今日のお礼に奢るから」
「何の礼だよ、これはふたりの問題なんだから当たり前だ」
ふたりの、問題。
そう言われて、歩く速度が緩んだ。何やらくすぐったい感覚に襲われて、また隣を見上げる。
するとまた、彼がそれにすぐに気がつく。
「何だ? 今日は何か変だな」
「いやぁ……変、ではないよ」
今更ですが、あなたの高スペック具合に圧倒されているのですよ。偽の恋人をこんなに思いやれるなんて。
なんだか本当に、私と結婚していいのかしらと申し訳なさが募ってしまう。
と、そのときだ。
「ちひろ」
「えっ」
急に腕を掴まれて引き寄せられた。今だって十分近かったのに、まるで諒の腕の中にすっぽり入るように抱き留められて、一瞬身体が硬くなる。
「すみません」
諒のそんな声がして後ろを振り向けば、人がすぐそばを早足で通り過ぎていった。ぶつからないように腕を引いてくれたらしい。
「とりあえず歩きながら店探すか」
「え」
「食いに行くんだろう?」
腕を掴んでいた手が、すっと下りて私の手を握った。そのまま当たり前のように手を繋いで歩いていく。
「う、うん」
「何がいい? 寒いから鍋がいいか?」
冷えた指先を温めるみたいに、彼の指が優しく私の手を摩った。
諒との付き合いは長いけど、こんな扱い、されたことがない。それが今までとは違うこれからの私たちの関係のような気がして。
なんだか不安と期待が入り混じったような、複雑な気分だった。
***
四月、春。
遅咲きの八重桜が美しい季節になった。職場も新しい人材が入ったり部署異動があったりと何かと忙しない時期だが、私はものすごく仕事の早いパートナーのおかげでさらにてんてこ舞いだった。
パートナーとは、職場のではなく生活上のことで、夫となる人。
つまり、高梨諒のことである。
昨年の法事で望まぬ相手との結婚を勧められ、慌てて婚活を始め、相手に逃げられたのが今年の二月。
代打で諒を両親に紹介した。その後当然諒のご両親にも挨拶をして、そちらは拍子抜けするほどすんなり終わり、私たちは両家公認の婚約者となったのだが――
あれから、二か月と少し。たったそれだけしか経っていないというのに、四月の第三日曜日、なぜか私は自分の部屋を引き払い、諒のマンションに越してきていた。
「ありがとうございました」
荷物の搬入をしてくれた引っ越し業者を見送り、ご機嫌な諒のそばで、私はやや呆然と立ち尽くす。
「ちひろ、どうした?」
「あ、いや……ちょっと」
このところ忙しすぎて、考える余裕もなく諒に言われるままに荷造りをして今日を迎えたが、改めて思い返すとあまりにも素早く事が進みすぎている。
両親に紹介し、結婚の許可を得たからといって、現実に結婚するのは早くても半年先だろうと思っていた。
ところが、諒はいつのまにやら私の両親と直接やりとりするようになっていた。特に母親はすっかり諒と仲良くなったらしい。私の知らないうちに実家にまで行っていたうえに、結婚式はいつにするのか、入籍は、などなどを勝手に両親と決めていったのである。
その結果、ひとまず婚姻届を先に提出し、一緒に住むことになったらしい。結婚式は三か月後の七月だそうだ。
まるで他人事のようだけれど、だって私、全部これらの決定に関わってないからね。
「はあ……荷物片づけてくる」
「ちひろ?」
ため息を吐いて諒に背を向け、寝室の横にあるゲストルームの扉を開ける。今日からここが私の生活空間だ。
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