お願い、俺と恋に落ちてよ

砂原雑音

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1巻

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   第一話 雨夜あまよの月


 一眼レフのレンズを下から支えて持つ、男らしく筋張った、大きな手が好きだ。
 カメラを手にした時、彼が被写体を見つめる目は、いつもの穏やかなものとは少し違う。温かく見守る父親のような目を見せる時もあれば、獲物を捕らえる肉食獣のように鋭い時もある。
 じっとその横顔を見つめていたら、気づいた彼がカメラを下ろして苦笑いをした。

美優みゆ

 名前を呼んで、私の頭を引き寄せて髪をでてくれる。旋毛つむじにキスをして髪をき、耳にかけてくれる繊細な指先。

『何か、哀しいことでもあった?』

 優しい言葉しか紡がない、その唇。
 その持ち主である彼の名前を私は知らない。
 だからきっと、いつまでもふたりの隔たりを埋めないでいられた。けれどもしこの距離を、あなたが埋めると言うのなら。

『貴女を救ってあげるから、俺と恋に落ちてよ』

 その言葉を、本当に信じていいですか?


     ◇ ◆ ◇


 スマホの短い着信音で、はっと意識を呼び戻される。どうやら、彼を待つ間に微睡まどろんでしまっていたらしい。
 ソファの背もたれに身体を預けたまま、まぶただけ開いて壁の時計を確認する。時刻はもう、二十二時を過ぎようとしていた。
 ……また、帰らないってことかな。
 この時間に、さっきの短い着信音はメッセージでの連絡に違いない。見なくても、わかる。彼からの一方的な、キャンセルの連絡だ。深く溜息を落とせば、少しは気持ちのよどみも消えるだろうかと思ったけれど、上手くいかなかった。
 目を閉じると、聴覚だけが敏感になる。夕方から降り始めた雨が、今もまだ降っているようだった。

「……どこか行きたいな」

 独り言を零す回数が増えたことに気がついたのは、もうずっと前。このマンションにひとりにされる時間が長くなればなるほど比例して増える。
 シフト表を頭に浮かべて溜息をついた。

「仕事だしなあ。せめて夜勤ならよかったのに」

 朝から仕事じゃ、この時間から飲みに行くわけにもいかない。ならば……大人しくここで眠るしかないのだけど。
 もう一年、ここに住んでいる。だけど、ここは私の家じゃないと、いまだにそう思ってしまう。
 さっきは無視したスマホに、手を伸ばして画面表示を確認した。思った通り「宮下みやした克之かつゆき」の名前と『悪い、帰れなくなった』の一言だけが虚しく浮かび、私は苦笑いをする。

「悪いなんて思ってないくせに」

 私が改まって話がしたいと言ったから、逃げたのだ。
 そうに決まってる。
 元いたマンションよりも高級な住処すみかを与えて、たまに相手をしてやれば私がここに大人しく囲われていると思っている。家なんかじゃない、こんな場所、ただのケージだ。
 ――やめた。考えたら変になりそう。
 たまらなく息苦しくなって、私はソファから起き上がるとバッグを手に玄関を飛び出した。
 多分今日はもう、克之さんは帰ってこない。
 私からの別れ話を聞きたくないから。
 私、綿貫わたぬき美優が克之さんと付き合うきっかけになった夜も、こんな雨だった。彼はこの街で一番大きな医療センターに勤める外科医だ。私は看護師として病棟勤務をしている。二年前の雨の夜、準夜勤後で帰宅するところ傘がなかった私に声をかけてくれた。宮下先生といえば、私達看護師の中でもとびきり評判の良い若いドクターだった。
 若い、といっても当時すでに三十四歳だ。けれど医療の仕事では、その年齢はまだ駆け出しのイメージが抜けない。
 なのに彼と同年代や研修を終えたばかりの新人でも、『医師』というステータスを得ただけで看護師に威圧的な態度をとる人もいる。
 だけど宮下先生は、違った。私達にも気遣いを見せてくれるし、医師としても積極的に手術や術前検査にも顔を出し技術と知識を吸収する。
 だから本部長クラスのドクターからも信頼が厚い。
 加えてイケメン、背も高い。そんな人が、私の名前を覚えてくれていると思わなかったから、驚いた。

『車を出しても良かったんだけどね。そうしたら話す時間が短くなるから』

 当直中で、すぐ近くのコンビニまで買い物に行く途中だったらしい。歩いて十分ほどの距離とはいえ、私の家はコンビニとは反対方向だったのに。
 いたずらっぽく笑った彼は壮絶に色気があった。それでいて、七つも年上の男の人なのに少しだけ可愛らしくも見えた。女慣れしている誘い方だなとは思ったけれど……あこがれのドクターと個人的に話せたことが嬉しくて舞い上がってしまったのを覚えている。


 その後、何かと声をかけられ話す機会が増え、付き合うようになった。話すたびにかれた。彼は医師として高いこころざしを持っていたし、そのための努力もしていた。どれだけ激務で睡眠不足だったとしても、緊急の呼び出しには嫌な顔ひとつ見せずに応じる。
 ドクターとして尊敬に値する人で、同時に強い野心も持った男の人だった。
 二年付き合い、私は今年二十九歳だ。結婚も意識する年齢だけれど、彼にそれを押し付けたことはないし、さとられないようにしていた。彼が今は結婚よりも仕事のことで頭がいっぱいなのはよくわかっていたから。
 だけどある日、信じられないような噂を耳にしてしまった。
 最初にその噂を聞いたのは、一年ほど前だろうか。そのことを思い出すたび、胸が苦しくなる。別れたほうがいいのだ、多分。
 彼がのらりくらりと私の話をかわすのは、あの噂が真実だということの裏付けになるのだろうと、理性ではわかっている。
 だけど、どうしても、情が邪魔をする。
 冷静な判断力を鈍らせる。
 話をかわされているのじゃなくて、ただいつも通り忙しいだけなのかもしれない。あんなのはただの噂だから振り回されるなと言った、彼のその言葉を信じたい。
 会える日が、減っているような気がする。
 連絡がつかない時間が増えているような気がする。
 カレンダーを数える夜が増え、こんな風に家を飛び出すことももう何度目になるかわからない。仮住まいにしか思えない克之さんのマンションを飛び出して、どこに向かうだとかは考えていなかった。
 雨音に混じって背後から車の音が近づき、ヘッドライトの光が私を追い越していく。少し遅れてダークカラーの車体が真横を通り過ぎ、ねた水が足元を濡らした。

「うわ、最悪」

 あの日と違って私の隣には誰もおらず、またしても聞く人のいない独り言で悪態あくたいをついた。
 ああ、やだ。
 なんだか余計に、みじめで寂しい。これ以上雨の中にいたら、孤独でおかしくなりそうで、濡れた靴の中の不快感を踏みしめながら先を急ぐ。
 ひとりで飲みに行くのも躊躇ためらわれ、迷った私は以前住んでいたマンションに向かうことにして、住宅街を歩いた。そこなら、つい最近まで友人が住んでいたから、ベッドもあるし、まだ電気も水道も通っている。
 元々その友人とルームシェアをしていたマンションだ。私が克之さんと暮らすようになってからも、条件が良い物件だったので友人はひとりで住んでいた。
 その彼女も結婚が決まり、婚約者のマンションで同棲どうせいを始めて出て行った。今は、私が買った家具が残っているだけのはずだ。
 ――どうせ、一度見に行かないといけないと思ってたしね。
 そんな風に理由を作れば、行くあてもなく飛び出すしかなかった悔しさも、少しまぎれるような気がした。
 足元を見ながら歩いていくと、正面玄関へと続くコンクリートの外階段が視界に入る。段差の低い、慣れないと少し違和感のある階段をのぼるのは、いつぶりだろうと上を見上げた。

「……?」

 街灯が照らすギリギリのところくらいに、人が座っているのが見えて一瞬だけ足がすくんだ。それでも一応のぼり始めるものの、私はそっと人影とは反対側の端に寄る。
 といっても、それほど幅がある階段じゃないから、同じ高さくらいのぼれば手が届いてしまう距離になる。
 一瞬、他の入り口を使うべきだったかと後悔した。裏に回れば、駐車場側に出る道もある。そう悩んでしまうのは、どう見たって異様だからだ。近づくにつれ、男性だと認識できた人影は傘もささずにずぶ濡れだった。
 あんなとこに腰下ろして、お尻冷たくないのかな、とか、不気味だと感じている割に余計な心配をしてしまう。
 あと少しで同じ高さまでくる、という時だった。どうやら、階段のすぐ傍に植えられている木の枝で、雨宿りをしているつもりだったのだろう。その男の頭上に、いきなりたくさんの雨粒が落下した。

「うわっ」

 多分木の上で枝が揺れて、葉っぱに溜まった水滴に襲われたのだ。うわ、気の毒……と、つい目線を向けてしまった途端、私の歩みが鈍くなる。
 空を見上げる男の横顔に、くぎ付けになったからだ。息を吸うのも忘れるくらい、美しい顔立ちだった。まるで彫刻ちょうこくのような綺麗きれいな横顔の輪郭りんかく
「ははっ」と、苦笑した男が私の視線に気がついてこちらを向いた。
 時間の流れが変わったんじゃないかと思うくらい、スローモーションの視界。目を合わせて数秒、固まった私にゆったりと彼の唇が弧を描く。首を傾げてあごを引き、上目使いの三白眼さんぱくがんが私を見つめる。
 髪を濡らすしずくが明かりを反射して、光が揺れた。

「……きゃっ!」

 男に気を取られすぎたせいか、足元の感覚が鈍って踏み外したように膝がかくんと折れる。そのまま前のめりに倒れそうになってかろうじて手すりをつかんだが、傾いた鞄からバラバラと中身が零れ落ちてしまった。

「やだっ、最悪!」

 絵画の中にいたような感覚から一瞬で現実に戻され、目の前に落ちたスマホや手帳を慌てて拾い上げる。
 このスマホ、防水になってるよね?
 傘を首と肩の間で挟んでしゃがみ込み、膝の上でハンカチを広げて画面を拭く。今のところ支障はないようだった。

「ここにも落ちてるよ」
「えっ」

 顔を上げると、いつのまにかすぐ傍に男がしゃがんで、レジンのキーホルダーがついた鍵を拾い上げてくれた。青く透明な球体のレジンが大きな手のひらの上で転がって、何かを確かめるように男は首を傾げる。

「……あの?」
「あ、ごめんね。傷がつかなかったかと思って」

 差し出された鍵を受け取りながら、笑うとまるで花が咲いたようだと思ってしまった。男の人なのに。

「大丈夫?」
「ありがとうございます。あなたこそ、大丈夫です?」

 ふたり向かい合ってしゃがんだ状態で、ずぶ濡れの男の人に心配されたのがおかしくて、くすりと笑いながら問い返す。
 あー……やっぱイケメンって得だな。
 さっきまで警戒してたくせに……
 人のよさそうな笑顔ひとつで、なんとなく良い人のような気がしてくる。女って簡単だな、と自分のことながら内心で苦笑した。

「知人を待ってたんだよね……マンションの入り口で立ってたら、出入りする人に不審がられて仕方なく、ココ」
「だからって雨の中ここを選ばなくても……」
「その時はまだ降ってなかったんだよ」

 ほんと参ったよー、と、へらりと笑う男に私は呆気あっけにとられてしまう。だって、雨が降り出したのは夕方だ。それ以前から待っていたのなら、もう……六時間は経っている。
 だったら降り出した時に移動すりゃいいのに、とか、ちょっと歩けばコンビニがあるからせめて傘でも買いに行けばいいのに、とか。
 突っ込みどころはたくさんあるけど、なんだか突っ込む気力もかない。ただ、余りにも不憫ふびんになって、私は持っている傘のを男に向けて押し出した。内側に桜の花びらが舞う、お気に入りの傘だけど仕方ない。
 男は差し出されるままに受け取って、ぱちぱちとまばたきを繰り返した。

「いいよ、もう今更だし」
「だからって、そのまま放置できないし。いらなくなったらエントランスの端にでも置いといて」

 そう言い捨てて返事も聞かずに階段を駆け上がり、マンションのエントランスに飛び込んだ。うしろから、ついてくるような足音はしなかった。
 ちょっとだけ良いことをしたような気分になって、沈み込んでいた心がほんの少し高揚こうようする。たんたん、とリズム良く二階まで上がって、久しぶりの我が家の前に立ち、手の中の鍵を差し込んだ。
 青いレジンのキーホルダーをつけた鍵は、一緒に住んでいた友人の夏菜なつなに返してもらったものだ。元々私がここでひとり暮らしをしていて、夏菜が実家を出たいと言い出したのをきっかけにルームシェアする話が出たのだけど、実際に一緒に住んだのは一年くらいだっただろうか。昨年、克之さんが借りたマンションに私が引っ越すまでだったから。
 記憶を辿たどれば、思い出したくもない胸の苦しさにまで届いてしまう。私は思考回路を断ち切るように、差し込んだ鍵を回した。

「あ、綺麗きれいにしてくれてる」

 室内は、私がここを越した後から、さほど変わっていなかった。大型の家具はそのままで、配置もまったく変わってない。後から夏菜が買い足したものはすべて持って行ったか処分したようだ。
 けれどひとつ、覚えのないものがあった。ソファの隅に立てかけられたコルクボードだ。処分しそこねたのか忘れていったのだろうと手に取ると、いくつも写真が貼られていた。
 夏菜は大学の頃から写真を趣味にしていた。といっても、学生の遊びの延長だと本人は言っていたけれど。
 ボードに貼られた写真は、風景写真がいくつかと夏菜の友人だろうか。男女入り交じった写真もあった。

「……えっ?」

 驚いて、思わず間近で確認してしまう。なぜなら、そこにはさっきの男……ずぶ濡れの綺麗きれいな男が写っていたから。
 どこかの観光地だろうか。
 仲間内で撮影旅行にでも行った時の写真?
 もしかして、さっきの男が待ってた知人って夏菜のこと?
 急いで窓に駆け寄りカーテンを開けた。リビングの窓から、あの階段は良く見える。だけど、街灯の下あたりにいたはずの男は、もうそこにはいなかった。

「どうしよう、夏菜に連絡したほうがいいのかな」

 もしかして夏菜の婚約者だろうか。今は一緒に住んでいるはずだけれど、もしかして、喧嘩けんかでもして夏菜が家を飛び出したとか。そうでなければ、あんなところで夏菜を待ってずぶ濡れになんてならないだろうし。
 スマホをいじって、彼女の番号を見つけ発信しようとした時だった。ピンポン、と少し安っぽいと前から思っていたインターホンの音が鳴った。即座にさっきの男だろうと玄関に向かいドアスコープから外をのぞくと、思った通りの端整な顔が魚眼レンズで少しゆがんでそこにある。

「はい」

 扉は開けないままに声を出すと、少し戸惑った返事があった。

「あ、えー……っと。君は、なっちゃんの友達?」

 男の口から夏菜の愛称あいしょうが聞けて安心した私は、鍵を外して扉を開ける。扉越しでなく互いを確認して、男は嬉しそうに破顔した。

「やっぱりさっきの人だ。あの後すぐになっちゃんの部屋の明かりがついたし、それに」

 男は扉が閉じないように手を添える。けれど、押し入るような雰囲気は感じなかったから、またひとつ、私は警戒を解いてしまう。

「さっきの、ブルーのキーホルダー。見覚えあったから」
「あ、あれ。そう、夏菜に貸してたやつ」
「え、なっちゃんのじゃないの?」
「うん、だから……越してった時に返してもらったんだけど」

 そう言うと、男は「えっ」と綺麗きれいな目を見開いた。

「なっちゃん、もうここに住んでないの?」

 そのセリフと同時に、彼が夏菜の婚約者ではないとすぐにさとる。ふたり、なんだか途方に暮れたような顔を見合わせた。
 じゃあ、彼は、誰だ。
 友達か、何か?
 咄嗟とっさにその疑問を彼に投げかけようかと思ったけれど、写真に写った夏菜を見て考え直す。この男に聞くよりも夏菜に聞くべきだろうと、私は開いたままだった夏菜の番号を親指でタップした。

『美優? どうしたのこんな時間に』
「ごめん遅くに。今、彼と一緒にいるの?」

 念のため、夏菜がひとりかどうかを確認する。その間に、共用廊下で人の気配がして、人目をはばかってか邪魔になると思ってか、男が一歩玄関に足を進めた。
 ……あ。と、思った時にはもう遅くて、男の背後で玄関扉が音を立てて閉まる。

「夏菜、今、男の人がマンションに来てる」
『え? 誰?』
「えー……と、夏菜が残してった写真に写ってた人。えらく綺麗きれいな」

 間近で、男の顔を見上げた。家に入れてしまった……という、後悔は不思議と生まれなかった。
 狭い玄関に、ふたり。夏菜と話す私の声が響く中で、コツ、と音が鳴ってうつむいた。私がさっき貸した傘が立てかけられて、三和土たたきに小さな水溜りが作られる。

『あ……もしかして』
「どうしたらいい?」

 一体ふたりはどういう関係だ? ずぶ濡れになって夏菜に会いにきた、それだけでひど勘繰かんぐってしまうのは邪推じゃすいだろうか。夏菜は少し考えた後、電話を代わってくれと言った。

「夏菜が話したいって」

 顔を上げてスマホを差し出すと「うん」と頷いて、私の手からスマホが抜き取られる。

「……なっちゃん?」

 余りに優しい声で名前を呼ぶから、きゅんと胸が締め付けられたように苦しくなった。男と立つこの距離に耐えられなくなって、私は逃げるように室内に上がり洗面所からバスタオルを取って戻ってくる。
 うん、うん、と頷きながら話す男の声は穏やかで優しかったけど、感情は余りうかがえない。

「わかった。結婚おめでとう、なっちゃん」

 男が最後にそう告げたことで、ふたりの関係が尚更よくわからなくなる。スマホを返されて、代わりにバスタオルを差し出した。耳に当てると、まだ繋がったままだ。

「話は終わった? 帰ってもらうわよ」

 ふたりの関係を聞きたい気もするけど、それは後日つっついてやれば済むことだし。とにかく今は夏菜にそう伝えることで目の前の男にも『帰れ』と言ったつもりだったんだけど。

『う……ん。けど、その人行くとこないと思う』
「は?」

 行くとこないって……家がない、実家がない、とか?
 意味を測りかねる私をよそに、夏菜は何かを振り切るような声で言葉を繋ぐ。

『でも、追い返してもらっていいから。私ももう、どうもしてあげられないし……』
「あのね……だったら『行くとこない』なんて私に教えないでよ」

 どうして欲しいのよ……
 そう突っ込みたくなるくらい夏菜が男に情があるのは伝わるけれど、それはズルい。追い出す決断を私にゆだねられても困る。

『あ、誤解しないで。変な関係じゃないのよ、友達ではあるんだけどあんまりよく知らないというか……』
「よく知らないけど、友達なの?」

 私にはその感覚がよくわからない。追及したいけれど、してしまえば余計にこの問題に首を突っ込んでしまうことになって、否応いやおうなく巻き込まれる、そんな気がする。

『私も旦那になる人と一緒だし、旦那カメラとかあんまりで。もう泊めてあげられないんだよね……うん、だから帰ってもらって』
「ってことは過去に泊めたことがあるってこと?」
『だから誤解しないでって! 確かにあったけど、その人だけじゃなくカメラ仲間何人かだったりで仲間内で……あっ、あの人帰ってきたから切る。ほんとごめん!』
「ちょっ……」

 彼女の背後で物音がして、通話が切れる寸前すんぜん話し声は確かに聞こえた。だけどなにやら面倒ごとを押し付けられ逃げられた感はいなめない。

「もう……どうすんのよ」

 目の前には、バスタオルをかぶった男がわしわしと髪を拭いていて……私のぼやきに反応してタオルの隙間すきまから目をのぞかせる。
 ぐっ……と、出かかった言葉を呑み込んでしまった。綺麗きれいな目にじっと見られたら、まるですがられているような気になってしまって。
 いや。
 いやいや、だからって。

「どうしようもないでしょ、うん」
「うん、ごめんね? 悩ませて」

 神妙にそんな風に言われたら、尚更胸が痛むんですけど⁉

『行くとこないと思う』

 夏菜の言葉が、どうしても気にかかる。だけど、駅に行けば、電車はまだギリギリある時間だし、子供じゃないんだから泊まる場所くらい自分で見つけるでしょう。
 ちくりちくりと胸を刺す罪悪感をなだめながら男を見上げていると、タオルがするりと外されて、男の顔があらわになった。
 見れば見るほど綺麗きれいな面立ちに、つい見入ってしまう。年は、私と同年代くらいだろうか。もしかしたら年下かもしれない。はしばみ色の髪は染めているのかとも思ったけど、どうやら地毛で色素が薄いのだろうとわかった。瞳も同じ色をしていたから。

「ありがとう、タオル」
「あ、ううん」
「ひとつだけ、お願いがあるんだけど……」

 濡れたタオルを受け取りながら無言で首を傾げると、男は足元の傘を指差して言った。

「もう少しだけ、これ貸しててくれないかな? 雨が上がったら返すから」
「いいよ、もちろん。持って行って」

 行く当てを尋ねる言葉は、出すに出せなかった。
 ないよ、と言われたって私にはどうすることもできないし、そう思えば無責任に聞くこともできない。そんな薄情はくじょうな私に男はやっぱり、人のよさそうな笑顔で言うのだ。

「ありがとう、すごく助かるよ」
「いえいえ、それくらいしかできなくて」

 お礼なんて言われると、こっちが申し訳なくなって困る。平静をよそおうけれど、胸中きょうちゅうは激しく葛藤かっとうしている真っ最中だ。
 ちくちくからずきずきへと、彼の笑顔は私の罪悪感を激しくあおってくれてその効果は絶大で。頭の中は理性とは反対に働き始めていた。
 知らない男とはいえ、夏菜の知り合いには違いなさそうだし。
 自分の貴重品なんかは全部克之さんのマンションに移してあるんだから、私が困ることは何もない。
 たった一晩、この男に貸すだけなら。

「じゃあ」

 男が一度頭を下げて、背中を向ける。傘を手に取り、出て行こうとするギリギリまで逡巡しゅんじゅんしていたけれど。

「……待って!」

 結局引き留めてしまって、『あーあ』と心の中で嘆息たんそくする。そうなったらもう引けなくなった。振り向いてきょとんとした、その無害そうな表情が、私のお節介心を刺激する。

「……とりあえず、入って」
「えっ?」
「行くとこないなんて聞いたら、ほっとけないじゃないの」

 言えばふにゃりと破顔する、それを見て。
 ――期待してたね絶対。
 男の性質たちの悪さを、なんとなく確信した。入って、とうながしたものの男の足は靴下までぐっしょり濡れていて、靴を脱ぐとつま先からぽたぽたとしずくが落ちる。
 ああ、もう!
 どこまでも面倒な!


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