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《五》
しおりを挟むあの忌々しいけものの腹違いの弟、尾上千景はそれから、短い時間でいくつかのことをわたしに教えてくれた。
彼らの祖父、尾上亀千代には五人の妾がいること。
北の離れはその妾らと、妾腹である自分の住まいであるということ。
自分の部屋は別にあり、この屋根裏は誰にも知られていないこと。
この屋根裏にいれば、下での出来事は筒抜けに覗けてしまうこと。
「ほらこの隙間をのぞいてごらんなさい……よく見えるでしょう?」
「まぁほんと……お部屋すべて見えてしまうんですね」
千景の存在はおおやけにされていないこと。
本妻の子はあのけもの一匹だけということ。
「客人が来る日、おじじ様はいつも僕や妾たちに駄賃を渡してよそへ遊びに行かせるのです。客に見つかっては外聞が悪いからでしょう。今日はあれの許嫁のお嬢さんが来ると聞いて……いやな予感がして、出ていくふりをしてこっそり戻って、こうしてのぞいていたのです。当たってほしくはなかったのですが」
表情も声色も一切変えず、淡々と男は話し続ける。
「あれは残忍です。弱いものいじめが好きなひとでなしなのです。生来そういう気性でしたが、戦争で父と母が亡くなって自分が後継に決まるとより悪辣になってしまった。お嬢さん、悪いことは言いませんから、今からでも、この縁談はとりやめたいときっぱりご両親にお伝えなさい」
そう語る男の向こうに、蝶々たちの標本がずらりと並んでいる。
わたしは目が離せなかった。
捕えられ、細い釘ではりつけにされて羽を見せびらかす蝶々たちの死骸。この男はこれらを金のために売るのだと言っていた。
わたしも、売られるためにここにきた。
「わたしもおなじなのです……」
自分でもわかっていた。
着飾って、喜んで、買われるように微笑みさえした。
「ことわれ……ません、今更……」
だというのに怖気づいてしまった。
「あれの言葉を聞き入れてはなりません」
静かな声が耳にするりと入り込む。
「あれの常套手段なのです。言葉巧みにだまくらかして、すべてを自分のいいようにねじ曲げてしまう。どこの親が、十二、三の娘に乱暴しようとするひとでなしを婿にしたいなどと思いますか。親御さんは決して、今回のことは承知でないと僕は思いますよ」
すがりたい。
この男は、言葉は、濁流に流されかけるわたしをつなぎ止める一本の藁だ。冷えた体に体温が戻り、血がめぐり、視界が開けてゆくような気さえする。
それでも不安はぬぐえない。
『なにを今更、カマトトぶって』
気を許せばすぐに、けものの声が脳裏によぎる。
男はわたしに背を向けると、文机からちいさな虫かごを取り出してきた。なかにはなぜだか桃色の花がある。
「これは……きゃあっ!?」
かと思えば、その花はゴソリと奇妙に動いた。驚いたわたしが声をあげると、男ははじめて、困ったように眉を八の字に下げる。
「すみません、そんなに驚くとは」
「お、おどろきます、こんなの! ……これは、虫?」
「花かまきりです。今朝、庭の蘭に……胡蝶蘭に擬態していました」
──胡蝶、蘭?
名前を呼ばれ、顔を上げ、それが名前でないと分かって頬がかぁ、と熱くなる。不思議だった。昼でも薄暗がりの屋根裏で、あんなことに遭ったあとで、ざんばら髪の古びた着流しの男とふたりきりだというのに、
「お嬢さん、あなたは売られるための花や蝶ではない」
──それがちっとも怖くない。
「あの窮迫した状況できちんと頭を回らせ、下衆な男から逃げ切った。これはすごいことです。あなたはきちんと、おのれを守るすべを身につけている」
「でも……それとこれとは……」
「同じことです。いいですか、今日だけ、このあとの夕ごはんの会食だけは素知らぬふりで乗り切って、帰ったら必ず、あれと縁を切るようご両親を説得なさい。聡いあなたの言葉ならば、きっとご両親に届きます。あなたは武器を持っている」
「……この、花かまきりのように?」
おそるおそる虫かごを持ち上げると、男の目がとりわけやさしくかまきりを見つめた。そのまま小さくうなずいて、うっとりと、おだやかな声で語る。
「かまきりは良いですよ……強くて、計算高くて、うつくしい。僕は昆虫ならかまきりが一等好きです。花かまきりは特に美しくて、だからどうにも惜しくて、こうやって眺めていたのです」
花かまきりがうらやましい。
そんなふうに思うことこそ初めてで戸惑う。苦しまぎれに、わたしはつんとして言った。
「つまりあなたは、わたしが花かまきりだとおっしゃりたいの?」
「はっ……!」
鳩が豆鉄砲をくらったように目が丸くなる。
ぱっと片手で口を塞いで、そのまま動かなくなってしまう。
「──ぷはっ、ふふふ!」
耐えられなかった。口から笑いが漏れて止まらない。男はそんなわたしを見てなお、申し訳なさそうにしているのだからおかしさはひとしおだ。わたしは胸がきゅうきゅうと高なった。
「すみません、つい……励ましたかっただけなのですが、でも、ああ、失態でした」
この男なら、ずっと見ていたい。
「──あなたではだめ?」
この男の言葉なら、いつまでだって聞いていたい。
「千景さん、あなたではだめかしら? わたし、あの男は絶対に嫌だけれど、あなたに、な、ら……」
まずいことを。
とんでもないことを、言ってしまっている。
顔がひどく熱い。
「ふっ、はは」
今度こそ眉を八の字に下げて、脱力した男が笑う。
「ごっ、ごめんなさいわたし……こんな、なんてはしたないこと……!」
「いえ、僕の方こそ、笑ってしまってすみません。いや、ははは……思ってもみなかったものですから……」
それまでと違う、どこか弛んだ空気を含みながら男は窓の外へと視線を向けた。いつの間にか空はみかん色に暮れ始めて、秋の虫たちが鳴いている。
リーーーーコロコロコロ……
「僕はいずれ、この家を出ようと思うのです」
「えっ……?」
「もちろんまだ先の話ですが。あと少し金を貯めて、準備が整い次第ここを発ちます。兄のいない、尾上の名もない、だれも僕を知らないところでひとりの人間としてやり直したいのです。だから……すみません。あなたの婿になる資格は、そもそも僕にはないのです」
それは体のいい断り文句にも思える。
けれども頭を下げる男の所作や、潔さには妙な違和感があった。思えばずっと違和感だらけだ。この男、身をやつしている風なのにどこか品性というものがずっとついてまわっている。
「……うそなんですね」
なにより、あのけものと同じ造形の顔こそ一番の決め手だった。
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