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《四》
しおりを挟む戦後闇市「尾上組」の元締めであり、摘発を受けて解散してからは数々の訴訟をかわしながら複数の株式会社の経営を担っていた実業家 尾上亀千代の嫡孫、尾上千晃ちあきとはじめて会ったのは、わたしの十三参りの帰りだった。
進駐軍に袖の下を渡して没収をまぬがれたという尾上邸は、実家よりずっと荘厳で、洋風のあつらえが洒落ていて。
五つ年上の尾上千晃は、ちょっと見たことがないような端正な美丈夫で。
両親にうながされ、三つ指をつきつつあいさつしたわたしは、現実離れした世界に子どもらしく胸をときめかせていた。今は亡き大爺様が蔵から出してくださった白地に赤の蝶文様が入った総絞りの振袖も、しゃらしゃらと音のなるかんざしが刺さった結髪も、きっと今このときのためだったのだと合点したものだ。
その日のわたしはなにも聞かされていなかった。
それでも、もしかしたら、五つ歳の離れたこのうつくしい男が自分の将来の夫になるのではないかという予感があった。
実家は戦後、貴族制度の撤廃とともに財産を没収されて生活ぶりは苦しいが、由緒正しい旧華族で親類縁者は財界、政界、法曹界、はてには角界や梨園にまで及ぶ。
対してあこぎなやり方で戦後成金となった尾上は金はあれども地位はなし。息子夫婦は戦死し、いまだ年若い後継に泊をつけてやりたいのだろうという政治的打算も、その頃には理解していた。
「胡蝶さん、着物をお脱ぎなさい」
そして予感は、最悪の形で的中した。
「は……?」
「聞こえなかったのですか? 私は暗愚な小娘に婿入りするつもりはありませんよ。さ、はやいとこ着物をお脱ぎなさい」
「む、むこいり……なんの話です?」
「なにを今更、カマトトぶって」
双方の親から『ふたりでお庭を見ておいで』と言われて、お堀の錦鯉にえさをやり、北の離・れ・の一室で休んでいたときだった。
気づけば周りに人影はなく、わずかな物音さえ聞こえない。
大きすぎる屋敷のなかでは、どうやって戻ればいいのかもわからない。
「この顔合わせが実質の縁談であるということはあなたも気づいておられたはずだ」
縁側に続く障子がぴしゃんと強い音を立てて閉じられた。
「気づいていながら、あなたは私とふたりきりでここまで来た。私が見つめれば頬を染めて、嬉しそうにしなをつくって……あなたはもう充分に女ではありませんか。今更少女ぶるのはおやめなさい」
「っ、そんな……!」
「いいですか、胡蝶」
ひなたを背にして、自分よりもずっと大きな影がにじり寄ってくる。
その表情は杳ようとして知れない。
「時代は変わった。私はもはや地に落ちた旧華族の称号などこれっぽっちも欲しくないのです。それを、おじじ様やあなたがたがどうしてもと言うから恥をしのんで婿入りしてやろうというのに、手形もなしにあと数年待てとはあんまりじゃありませんか……だからね、これはあなたのご両親もみな承知の上なのですよ」
最後のことばに血の気が引く。
立ち尽くすわたしの肩をドンと押し、影が覆いかぶさった。ふうふうとにわかに鼻を鳴らして、わたしの両の手首を押さえつける。
生ぬるい息が顔にかかる。
「幸い、ガキっぽさはない……十三だから期待はしていなかったが、そこだけは僥倖だな。体はまあ、物足りなくともそのうち肉づきもよくなるでしょう」
けものだ。
これは、ひとではない。
「さあ、分かったならそのしみったらしい着物をさっさとお脱ぎなさい。それとも脱がせてあげましょうか」
「ひっ……ぃ、いや……」
「なに、痛いのははじめのうちだけです。逢瀬を重ねれば祝言までには名実ともに立派な女に、わたしの子を産める体になっています……よ……?」
ぱりん、ぱりん
どこか遠くで二度、皿の割れるような音がして、けものが一瞬よそ見をした。それがわたしに与えられた猶予なのだと理解する前に、わたしはけものの手首に歯を立てていた。圧迫されていた手首が一気に放たれる。
「あッ!? お前、くそっ!」
「いやっ! はなして!」
足首をつかまれる。
ふりほどく。
走り出す。つかまれた方の足袋が脱げている。かまわない。
「どこへ行く!」
どこへ?
そんなの、どこだっていい。
部屋をとび出したわたしは迷路のように入り組んだ廊下を健康な両足でひた走った。心臓がどくどくと脈打って、髪も着物も崩れているのに、うしろからけものの咆哮がまだ聞こえる。
どこへ、どこへ。
どこへ行けばお父様とお母様に会える?
ああでも、逃げ出したわたしに居場所はないのだろうか。ほんとうに、あのけものの言うとおり、こうなることはみな承知のうえ、だったのだろうか……!?
それなら……逃げてはいけないのでは……
戻れば……いま、もどれば、ゆるしてもらえる……?
「こちらへ」
足を止めたわたしの手首を、誰かがぐんと引き寄せた。今度は抵抗できない。階段。ぐんぐんとのぼり、やがて昼なのに墨を落としたような暗さの屋根裏部屋へ到達する。
暗がりのなかで見えたのは、ぼろを着た、上背のある、ざんばら髪の──
「ひ! ち、ちあき……!」
「静かに。ゆっくり、ゆっくり息を吐いて……僕は千晃ではありません」
それが信じられるものか。
姿が違えど、ざんばら髪のなかはけものと同じ造形の男が、否応なしに口を塞いでくるというのに。
しかしわたしにはこれ以上なすすべがなかった。
それに口を塞ぐ手が案外と優しくて、わたしはとうとう、ぼろぼろと涙をこぼして泣いていた。
「ふぅ……ううッ……」
「そう、吐いたらゆっくり吸って。ここは安全ですから……よくあの場を逃げ切りましたね」
「あ……」
同じ声で発せられることばには抑揚がなく、淡々としているのにねぎらいに満ちている。それでようやくわたしは男があのけものとは別種であるらしいと、そしてその口ぶりから、どうやらわたしが逃げてきた経緯も知っているのだと思い至った。
──ぱりんぱりんと割れる音が思い出される。
「あっ……あの音……」
「そう、ご明察。標本を二、三、庭へ投げつけてやりました」
「ひょうほん……」
まだ震えている体で屋根裏部屋をぐるりと見渡す。ちりのない広い屋根裏のすみ、一辺の壁にさまざまな昆虫の標本が飾られていた。
かぶと虫、くわがた虫、とんぼ、かみきり虫……
なかでも蝶の標本は見事な出来栄えで、だというのに二か所ほど、不自然に壁に隙間があいていた。すぐそばには窓があるから、なるほど、ここから庭へ投げつけたらしい。
「ごめんなさい、大切なもの、だったんですよね……お代は弁償いたします」
「結構です。標本は進駐軍の研究者やお子さん方に売りつけて日銭を稼ぐための道具に過ぎません。それより、お嬢さんが逃げおおせてよかった」
「あの、あなたは……?」
やっとそう尋ねると、目の前の、あのけものによく似た男は居住まいを正す。その一瞬の振る舞いは、すすけた見た目に反して優雅で洗練されていて、わたしの背にぞわりとむずがゆいものが這い上がってきた。
──この男は、だれ……
「尾上千景ちかげ。あれと同い歳の……妾腹です」
「……しょうふく?」
「本来、十いくつのお嬢さんが知る必要のない言葉ですが……妾の子、という意味です」
底の見えない暗い目が、わたしをぢっと見つめていた。
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