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《三》
しおりを挟む扉が閉まってすぐ、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
もう歩けるのだから探せばいいのに、ひとり息子だからか、甘えん坊が目にあまる。
「まつ、千之助をおねがい」
「アラ奥様、どちらへ」
「お手水へいってきます。あとそれから、お中元の宛名書きもしたいの。できそうだったら、名簿と筆を出しておいて」
「承知いたしました」
ズッズッズッ
まつと別れて重たい足を引きずり、壁づたいに長い廊下をわたって北のお手水へと向かう。広大な敷地と使用人を持つ尾上邸は、お手水も風呂も、家主や客人用のそれと使用人用のそれとは明確に分けられていた。
北にひとまとめにされた水場は使用人のもの。
分かっていながら、わたしは人知れず北のそまつなお手水に入り鍵を閉める。
「ヨシコちゃん、昨日はずいぶんお楽しみだったわね」
とたんに女たちのかしましい声が耳に入った。
「やめてよアキエねえさん」
「やめて欲しいのはこっちさね、ヨシコの大声でこっち、ろくすっぽ寝れてないのに」
「あははは! いっちゃう死んじゃうゆるしてェ~って子猫みたいに。あたしにもよぉく聞こえたわ」
「もう、いやだわシヅさんまで。お互いさまでしょ? おとといだってその前だって、あたし、ふたりのお声がしっかり聞こえてましてよ?」
不自由な体を壁にあずけて耳をそばだてる。
アキエ、シヅ、ヨシコ。
この三人の妾たちは今、前の晩に女中たちが使いたおした残り湯で身を清めている。一と五のつく日の朝はそうと決まっていて、使用人たちもこの時間はこの辺りには寄りつかない。
「だってねえ、おとといの旦那様ったら、そりゃあもうすごくって」
「そうそう、昨日も全然離してくれなくて、ほんとに死んじゃうって思ったもの」
「ちょっと、あんたそれ旦那様にちゃんと言ってよ。加減してって。あんただって疲れるでしょうに」
「ン……でもぉ、きもちいいんだもの……」
「はー、でたでた。ヨシコちゃんたらほんとお好きなんだから」
からからと女たちの笑い声。
妾たちはその境遇も、妾となった経緯もそれぞれに違う。ヨシコは一年前に旦那様が会社から迎え入れた、もとはただのお茶くみだった。ひとつ年下で、胸とくちびるがぽってりとして、どこかだらしのない喋り方をする。
妾たちは、わたしがお手水にいるとも思わず話し続ける。
「おおかた奥様に相手されなくて溜まってんでしょ。妊娠前はあたしらのことなんてさっぱり忘れたみたいに奥様奥様だったけど、お坊ちゃんが生まれてからは向こうさん、とんとご無沙汰じゃないのさ」
「えー、あたしは反対に、もう飽きたんだと思うなぁ。そもそも、きずものにしちゃった負い目で結婚したようなもんだしさぁ」
「そうよね……旦那様は素敵なのに、あんなお顔の奥様だなんて、おかわいそう……」
わたしはお手水のなかでひとり、ままならない足を開く。
「ん……」
着物のお・く・み・をたくし上げ、まだねばっこい手を股にあわせる。秘裂に指を割り入れれば、そこはあの男のくちのように熱く、ぬかるんでいた。
「旦那様ったらね、最近なんだかさみしそうなのよ。前ほどおしゃべりもしないし……あたしが奥様なら、あんなふうに旦那様をほうっておけないわ」
妾たちが嗤っている。
「ねえヨシコ、そう思うんならいっそのこと寝とっちゃいなさいなよ」
「ええっ……奥様を差し置いてだなんてそんな……申し訳ないわ」
「びっこ片目の胡蝶様が? あんなの、お名前ばかりご立派でなぁんにも出来やしない、いやしいちょうちょじゃない。なにが申し訳ないもんか」
「お仕事も順調のようだし、案外、オネダリすればすんなりくら替えしてくれるんじゃないの?」
「そうそう! あたしたちだって、あんたが奥方様になったほうがよっぽど気楽なんだから……この可愛いおくちで説得なさい、よ!」
「ああん、もう、ねえさんたら……だめえっ……!」
「あははははっ! ほぉらつかまえた!」
目を閉じ、くちびるを噛む。
「……んっ……」
妾たちのたわむれる声を聞きながら、わたしは今しがたのことを思い出す。
『胡蝶』と呼んだあの声を。
ぎゅっと握った大きな手を。
熱い舌のなぞりを、絡みつく視線を思い出し、それらすべてがわたしを責め立てる夜を想像する。
「もうこんなにとがってる。ヨシコちゃんったら、昨日は本当にたっぷり悦くしてもらったのねぇ」
「あ、だめ、だめ、そんな、そこ、されたら」
「いいから、昨日みたいに鳴いてごらんよ? にゃーん、にゃーんって」
「んあああっ……!」
ヨシコの声が水音とともにうわずってゆく。
わたしも指を動かす。あの男の唾液とわたしの愛液が、蜜壷のなかでまざりあって床にしたたり落ちていく。指の動かし方も、自分の慰め方も、わたしはかつて旦那様にいやというほど教え込まれた。だから知っている。
「イク、イクぅ……も、イッ、ちゃうぅ……っ!」
「くっ……ぅ……ッ」
とうに昂っていたわたしの体はヨシコと同じく簡単に絶頂へと引き上げられる。全身に快楽が巡って、内ももにとろとろと蜜が流れて、立っているだけでやっとだ。
「はぁ……は……」
呼吸を、整えなくては。
そろそろ使用人たちが戻ってくるころだろう。
「あはははっ! ほんとに昨日とおんなじじゃないこの女! まぬけだねえ!」
「んぐっ……」
「ほら、イかせてやったんだからあたしのも舐めてよ。上も下も旦那様仕込みなんでしょ、ヨシコの奥様?」
「まーたやってる、ヨシコちゃんがんばれぇー」
「んうっ、ん、んんんー……っ!」
「休むんじゃないよこのアマ。旦那様みたいに、しっかり舌を動かしな……ああ、そう……!」
背中で妾たちの狂宴を聞き流しつつ、股にこぼれた蜜を拭き取って手を洗う。周りに誰もいないことを確認してからわたしはお手水をあとにした。
ズッズッズッズッ
野犬に食いちぎられた足を引きずりながら、もと来た道をひたすらたどる。
あとからあとから妾たちの夢物語が思い出される。
『ねーえ、こうなったらヨシコ、いっそのこと寝とっちゃいなさいよ』
『ええっ……奥様を差し置いてだなんてそんな……申し訳ないわ』
同じ男にたかめられ、同じ男を思い出しながら達したわたしたち。だというのにアキエとシヅはわたしを正妻の座から引きずりおろせとけしかけ、ヨシコはそれにまんざらでもない様子だった。
「くっ……ふふ……」
腹の底からなにかがせり上がってくる。どんどんどんどんのぼってきて、たまらない。嘔吐のように、おさえられない。せめて声が漏れないよう、着物の袂をぎゅっと握って口を塞ぐ。
「くっくっくっ……うっ、ふふ…………うーーーっ!」
よろこべばいいのか。
悲しめばいいのか。
怒ればいいのか。
憐れめば、いいのか。
『旦那様』が人知れずすげ替わった今、わたしはもう吐くような笑いがとまらない。
ただひとつ分かるのは、千景は今度こそ上手くやってのけたのだということだけだった。
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