造花楼園 ◇R-18◇

サバ無欲

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case1.亜子の場合

01.亜子、結婚を決める

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どうしてこうなったのだろう。


「う、ふう……」

「泣いていいんだよ。僕のことは気にしないで」


白髪混じりの髪を少し乱しながら、目の前の人は言う。
彼は安宅健治、年齢は43歳。日本自治区の陸軍少将で、高所得者限定区域“リナリア”に居を構える。

彼は彼女を組み敷きながら、優しい口調で囁いた。


「無理やりその人を忘れようとしなくていい。君の心は自由だ」

「んっ、うっ……」


片想いだったあの人のことを言われたその瞬間、彼女のナカにとろりと蜜が溢れた。


彼女は今日、彼の三人目の妻になった。


***


亜子は驚いていた。


自分はただの平凡な高校生だ。
純資産評価は学生のためまだないが、親のそれはB。人格評価はfで可もなく不可もなく、いたって平凡真面目な、強いていえば少し足が速いくらいの女子高生であった。

だから自分に赤紙が来た時は驚いたし、それがまさかS/cの、しかも高所得者限定区域リナリアに住む人からの申し込みであると知ってさらに驚いた。

赤紙ーー配偶依頼用紙とはつまり、結婚の申し込みをする書類のことだ。

封筒が赤いため、通称赤紙。
そう呼ばれているのは知っている。しかし亜子がそれを手にするのはもちろん初めてのことであった。

これはランクが高い人間からランクの低い人間に送ることができる。
中には送ってきた相手のプロフィールと、相手方のサインが入った婚姻届、そして細かい文字の説明書類が入っており、結婚を受諾する場合の返信用封筒がつけられていた。封筒には日本自治区の印鑑が押されていて、間違いはないようだ。

亜子にこの封筒が手渡された時、すでに両親は封を開けて中を見ていた。そして文字通り狂喜乱舞していた。


「お母さん……」

「いいじゃない、亜子。こんなお話、もうきっと一生無いわよ!」


母からプロフィールを奪い取り拝見する。
お相手の名は安宅健治。43歳の陸軍少将であり、既に2人の妻と3人の子どもをもうけている。


まず亜子が感じたのは、歳が離れすぎているということだ。筋骨隆々な変態オヤジはごめんだと写真を見ると、意外とその人は若い風貌をしていた。

若作り、というわけでは無い。

むしろ髪は白髪混じりであるくらいだし、笑い皺もある。

しかし年齢を感じさせるのはその白髪と皺くらいで、顔つきはイケメンとまでいかなくても男らしく、優しげで好印象だ。写真からでもわかる背筋のよさが、彼が陸軍所属であることの証明に思えた。


2枚目と3枚目の写真には、それぞれの家族も写っている。ふたりの妻はそれぞれタイプが違ったが、どちらも一夫多妻の妻にふさわしい美しさである。

やっぱり、私に送られてきたのは間違いではないのかと頭を悩ませたが、どの書類にもきちんと亜子の名前が入っている。


正直言って、身分不相応。

亜子が次に感じたのはこれだった。リナリアに住むほどの金持ちの一員に加わるなど、まったくもって想像できない。一夫多妻の一人となるのもまた同じだ。


ただ、写真の中の人たちは一様にキラキラと眩しかった。それはテレビで芸能人を見るような、自分には関係のない輝かしさであるはずだが……今まさに亜子の手の中に、輝きをつかめるチャンスが巡ってきている。


亜子は一晩考えた。

両親には相談に乗ってもらえそうもない、かと言って友人に話す気にもなれない。朝の電車で思い悩む亜子はいつものように3号車の端に来た。


今日もまた、あの人がいる。


亜子の頭から悩みが消えた。
いや、消えたというより、悩む場所さえないほど亜子の中は目の前の人でいっぱいになった。


その人は地元で有名な進学校の学ランを着て、いつも通り静かに本を読んでいる。あっさりとした端正な面立ちに、すらりと背が高くて細い。髪はやや長く、白髪など一本もなくて黒々と光っている。

その人を、亜子はいつも遠目で見ていた。
本に視線を落とす彼は、亜子と目を合わせたことすらない。でも、亜子は彼の前の座席に座っているだけで十分幸せだった。

とある駅に着き、多少の人が流れる。
彼が降りるのはまだ2駅先だと知っていた。田舎というほどではないが、都心から少し離れた場所を行き来する電車に人は少ない。だから、亜子は向かいの席に座るだけで彼がよく見えた。


こんな日に、一体何の偶然だろう。


彼がふと、視線をあげた。
いつもと違い、そわそわと落ち着かず辺りを見回している。そしてその直後、高くて可愛い女の子の声が聞こえた。


「先輩!  どこにいるのか分かんなかった!」

「もう、言ってただろ、3両目の端だって」

「端ってほら、両方あるじゃないですか。私、反対に行っちゃってて」

「いいから座れよ。ここ、空いてるから」


白い肌の、華奢な女の子は濃い栗色の髪をなびかせると、彼の隣に座っておしゃべりを続けた。

先輩、と言うからには後輩なのだろう。何の後輩だろうか、委員会か、それとも部活か。彼は物静かだから、部活はきっと文化部に違いない。


急に彼を見られなくなった。いつもは本を読んで視線が落ちているから、気づかれずに盗み見ることができたのに。今の彼は後輩のために視線をあげている。まっすぐ彼を見ていれば、不審な女だと思われかねない。それは避けたかった。

亜子は通学カバンから携帯電話を取り出し、朝のニュースをチラチラと見た。

ふりをして、時おり視線を、彼に向けてみる。でも彼の視線は隣の後輩ばかりを見ていて、亜子とは一向に交わらない。いやいや、後輩と話しているのに、よそ見をするような人ではないのだ。亜子はそう思いながらも、たまには私を見てくれないかと視線を動かすのに精一杯だった。


いつもより長く、落ち着かない2駅だった。

彼は後輩と一緒に通学カバンを肩にかけ、後輩と一緒に席を立った。ドアが開くアナウンスがあり、一瞬二人の会話が止まる。
亜子は携帯越しに、二人を観察していた。車内に人は少ないから、そうしていてもよく見えた。


二人は一瞬、手を、繋いでいた。


……あ、そっか。付き合ってるのか。

亜子は自分で思うよりすんなり、その事実を認めた。泣く気にも、胸を痛める気にもならない。
そっか、そっかと胸の内で相槌を打つ。

そして今日のスケジュールを思い出した。数学の小テスト、国語には辞書を持参、お弁当の中身、今日はトンカツが入っていると母が言っていた。
部活ではたくさん走れそうだった。亜子は陸上部である。人よりも少し早い足で、息を切らせて人を追い抜くのは快感だった。


どうせ、声もかけられなかったのだ。
それに、あの女の子が相手では、はじめから叶いっこない。


亜子は平凡な高校生で、部活のために髪は男の子のようなショートヘアだし、黒髪だし、肌はタンクトップの形にあわせて日焼けしている。背は彼と同じくらい高くてガリガリで、胸だって小さい。およそ彼の隣に相応しくないことは、自分でも分かっていた。


だから、亜子は泣くことも、嘆くこともできなかった。


高校に到着して、身の入らない授業を受けて、友達とのおしゃべりに耽る。いつものパターンだ。

亜子のグループは比較的派手な女子が多く、自分がやや浮いているのは自覚していた。彼女達の話題といえば、もっぱら恋愛に化粧、芸能人やゴシップに限られる。亜子はどれにも疎いので、うんうんと頷いて差し障りのない返答をするくらいである。

その日、亜子の隣では恋愛話の好きな女子がリップを塗りながら話題を提供していた。誰々が付き合ったの、誰々が別れたのという話が大半であるのに、今日に限って話していたのは6人の妻を持つ歌手についてのゴシップだった。その歌手は6人の妻を差し置いて外に愛人を作っていたそうだ。

男の人の性欲とは、そんなに凄いものなんだろうか。でもこれ以上は、想像してはいけない気がする。


「でも、やっぱりいいよねー、一夫多妻の旦那様、憧れるわー」

「アンタには縁のない話よ」

「わっかんないよー!  私たちだって、もう独身者名簿に載ってるんだし。どこかの旦那様が見初めてくれるかも!」

「ナイナイ。それなら一妻多夫の奥様目指した方がずっとアリだわ」


この世界の人間はすべからく16歳で結婚が可能となる。

だから人々は16歳以降になると、毎年市役所で独身者名簿の登録申請を行う。簡単なプロフィールを記入し、全身を撮影し、健康診断。加えて学生であれば成績などのデータを独身者名簿サイトに載せるのだ。

そのデータは自治区内の結婚可能な異性であれば、誰でも閲覧可能であった。亜子の元に赤紙が届いたのも、おそらくは独身者名簿を見てのことだろう。


「……でも、旦那様が、すっごくおじさんだったり太ってたりしたら、みんな嫌じゃない?」

「いやいや、それは贅沢言い過ぎだって亜子!」

「さすが陸上部の王子。言うことが違うわー」

「やめてよ」


それは学内での亜子の別名だったが、亜子自身は気に入っていなかった。何が悲しくて、女であるのに王子と呼ばれなくてはならないのか。

しかし亜子の思いとは裏腹に、最高学年になった今ではことさら、友人や後輩の女子だけでなく、男子にまでそのあだ名でからかわれている。

爪に薄い色のマニキュアをした友人を諌めるが、彼女はどこ吹く風で話題を元に戻した。


「大体さー、金持ちでその上性格も良いだなんて人、ホントにいんのかな?  だってAA/d以上の人なんて見たことある?  普通どっちの評価もそんな高く取れなくない?  神か?」

「あはは、確かに神だね!」

「そうそう。だから神なら多少デブでもハゲでも全然オッケーだよね。むしろ喜んで嫁に行くわ」


……そうなのだろうか。


両親と同じようなことを言っているのに、友達の言葉の方がすとんと心に落ちてきた。同じ年齢であるからこそ、彼女たちの言葉には説得力がある。


「そうかなぁ」

「絶対そうだよ。あーあー、私も一夫多妻の妻にしてほしい。リナリアに住みたい」

「ってか受験のない世界に行きたすぎる。勉強が嫌だー」


予鈴が鳴って、友人達と別れて席へ戻った亜子は考えた。

写真の人は、ちょっと年が離れていたが、決して太ってもいなかったし髪が薄いわけでもなかった。その妻たち、子供たちも美しく、かと言って嫌味でない自然な笑顔を向けていた。

自分がなぜ選ばれたのかはいまだに分からない。でも、あの写真の向こう側へ入るチャンスは、きっともう二度とないだろう。受け入れた後で後悔する羽目になるかも知れない。


でも、この話を蹴ったとして、いつかそれを後悔する日が来ることは明確だった。


考えて考えて……
考えた結果、彼女は結婚を受け入れることにした。
友人達の言葉が、亜子の気分を妙に高揚させていた。


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