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再起奮闘のトルナーヴァ・シリーズ
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虚飾の光芒が、音を置き去りにして夜空を駆け抜ける。
春の星座は西へ傾き、月の雫は街の光に溶けていく。
ガラス張りの摩天楼の足元では、裾から覗く尻尾が揺れる。
風にそよいだ毛並みを整えながら、獣人たちが街を闊歩する。
ここは、色とりどりの洪犬人たちが暮らす街、トルナーヴァ・シティ。
このネオンに焼かれた近代都市では今、最も熱いとされている興行が行われている。
ジョルシュ・ワン・レーシング――通称ジョルワン。
最高峰のクティベルリーガーたちが陸・海・空、ありとあらゆるマシンを操り、人生をかけた鎬を削る十六人制レースリーグだ。
勝負を決めるのは操舵技術だけじゃない。
ギアや特技が絡む激しい駆け引きに、全世界が熱狂している。
各シリーズの勝者に与えられるトロフィーは栄光の証だ。
全シーズンを通した最優秀選手になることは、クティベルにとって最高の名誉となる。
トルナーヴァ・シティ郊外にある巨大スタジアムでは、今も熱気が渦巻いていた。
毎週末行われるレースの日は、スタジアム内外ともいつもお祭り騒ぎ。
スタジアムへと続く大通りには露店が並び、肉の焼ける匂いが立ちのぼっている。
今日は、トルナーヴァ・シリーズの開幕週。年間シーズンの折り返し地点だ。
スタジアムで行われていたスカイクラスのレースは、たった今、決着がついたところだった。
一番低い表彰台に上がったプミールは、シャツの胸元できらめく銅のバッジにそっと触れ、取り繕った笑顔を浮かべた。
すらりと伸びた細身の身体に、ウェーブの強い毛並みがふわりとなびく。
壇上にはプミールよりも上に二人いるが、それでも一部の観客の視線は彼女の愛らしい垂れ目に釘付けだ。
(最終ラップでハーディング・コールを避けきれなかったのは痛かったわね……。あれさえなければ、二位は守れていた)
内心には後悔しかなかった。
プミールの巻き尾も垂れ耳も、胸に押し込んだ悔しさを決して表に出さない。
一番上の段に立つ選手の胸元に、金のバッジがきらりと輝く。
気品あふれる赤銅色の短毛に包まれた、引き締まった体躯――王者の風格を持つ彼の名が、サーキットに響き渡った。
『トルナーヴァ・シリーズ第一戦の勝者は……皆さんご存知、この男! サイレント・バーガンディこと、ヴィズィ!』
声の直後、スタンドが爆発したかのような歓声が巻き起こった。
スタジアムは一丸となって「ヴィズィ! ヴィズィ!」と祝福の声を上げる。
ヴィズィは人気も成績も、ジョルワンの中で頭一つ抜けた存在だ。
昨シーズンは、そんなヴィズィと激戦を繰り広げていた新人リーガーがいたのだが――。
(あいつ、どこに行ったのかしら)
今日のレースにも参加していたそいつは、周囲に見当たらない。
そして、誰もそんな些細なことを気にとめていない。
赤銅の王は祝福に応えるよう、低い遠吠えを轟かせた。
観客はただただ、目の前の王者の名を興奮気味に叫び続けた。
◇◇◇
レースでの汚れを洗い落としたプミールは、改めて部屋を出た。
シリーズ期間中、関係者はスタジアムに併設されたリーグ・コンプレックスを生活の場としている。
宿泊棟を出たプミールは、ラウンジを抜けて酒場にやって来た。
扉を開けると、煮詰めたソースの甘い匂いが鼻をくすぐる。
その匂いにまぎれて、嗅ぎ慣れた気配を感じ取った。
(やっぱり、ここにいたわね)
騒々しい店内の片隅で、カウンターに突っ伏す一人の青年がいた。
黒灰のまだらな毛並みは強くカールして、ふさふさの尻尾はくるりと巻かれている。
プミールと同期でもある彼の名は、ムディッチ。
昨シーズン、デビュー年でシーズン通算成績二位に食い込んだ超新星は、今や見る影もなかった。
いつもはピンと尖った耳も、どこか萎れている。
ムディッチはビールジョッキを握り、乱暴気味に一気に呷った。
彼の周りは空席が目立ち、誰も好んで近寄ろうとしない。
他の客はムディッチをいないものとして扱い、壁の大型ディスプレイに視線を向けていた。
『今日のレースのハイライトです。いやー! この場面でヴィズィはVZ・ハンティングを仕掛けましたが、見事でしたね!』
『はい。ヴィズィの判断は速かったですね。ムディッチが無理に前へ出ようとしたところを許しませんでした。ムディッチからすると、ここでのスピンは大きく響きましたね』
『ヴィズィはこの後、誰にも一位を譲らず独走する形で今日のレースを締めくくりました。では、改めて今日の結果をご覧ください』
画面の順位表では、ムディッチは下から三番目の十四位。
次々に流れるヴィズィの神ワザ映像に沸き立つ喧騒をよそに、ムディッチは小さく舌打ちをした。
(……少し様子を見ようかしら)
プミールは店内を見回し、空いていた角の席へ移動する。
すれ違う客たちが「わお、プミールじゃん」「チノシュ……」と思わず声を上げた。
プミールが軽く手を振って対応すると、歓喜の声とともにいくつもの尻尾が激しく振られた。
ムディッチとは離れた席に座ったプミールは、注文を取りに来た店員に微笑んだ。
「パプリカーシュチルケとソーダをお願い」
「かしこまり!」
プミールは注文を終えると、カウンター奥の厨房をじっと見つめた。
包丁がまな板を叩く音が小気味よく刻まれ、鼻歌交じりにフライパンが振られる。
普段は茶房など落ち着いた店を利用しているプミールにとって、酒場の空気は新鮮だった。
ムディッチを探しに来たはずの彼女も、今は料理の匂いに心を奪われている。
ほのかにミントが香るソーダを味わいながら、厨房とムディッチの様子を交互に眺めていると、湯気の立つ皿が運ばれてきた。
「パプリカーシュチルケになりやす。ごゆっくりどーぞー!」
「クスィ」
プミールはさっそくシチューに鼻を近づけた。
サワークリームの爽やかさとクリーミーさの奥に、パプリカの甘みと焼いたチキンの香ばしい匂いが包まれている。
匂いだけでも濃厚なおいしさが存分に伝わってくる。
プミールはスプーンを手に取って、シチューに口をつけた。
「フィノム」
プミールは満足気に目を細め、ゆっくりと食事を味わう。
そんな中、カウンターのムディッチに影を落とす二人が現れた。
「おいおい、カウンターの隅にどこの野良犬が紛れ込んだかと思えば、話題のワンダーキッド様じゃねぇか!」
「クーバの兄貴、今はもっぱらブランダーキッドって呼ばれてるッスよ。ワンダーキッドなんて騒がれてたのは半年も前の話ッス」
「おおっと、そうだったそうだった! マガルの言う通りだ。悪かったなぁ、ブランダーキッド! グハハ!」
ジョルワンリーガーでもある真っ白な大柄のクティベル――クーバ。
隣には弟分のマガルを従え、ムディッチを嘲るように笑い続けている。
店内に響く低い声に、周囲の客も耳を尖らせていた。
「クーバ……なんの用だ」
マガルがカウンターの上を指差し、クーバに耳打ちをする。
クーバはムディッチの前に並んだ料理を見て、思わず噴き出した。
「おやおや……こりゃ、マルハジャーキーにワンワンビールじゃねぇか。典型的な呑んだくれだなぁ、おい」
「うるせぇ、関係ないだろ」
ムディッチは低く唸り、歯を剥き出しにした。
しかしクーバはそれを意にも介さず、一方的に言葉を続けた。
「ハッ! お前、勝てなくなったからって、こんなところでウジウジしやがって。そりゃ、そんなんじゃ勝てるわけねぇよなぁ!」
「兄貴の言う通りッスよ。実力が足りないのなら、酒に浸ってないで練習でもしてればいいッス」
「……」
ムディッチは何も言い返せず、クーバたちから視線を逸らして歯を食いしばる。
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる二人は、口を止める気配がない。
「お前のその青いパーカー、去年は売り切れ続出で社会現象だなんだって言ってたよなぁ? 今どうなってるか知ってるか?」
「ハイハイ! オレっち見たッス! 古着屋で山積みになってたッス!」
「……チッ」
次々に飛んでくる悪口に、ムディッチは強く拳を握った。
ムディッチに睨まれたマガルは大げさに怖がってみせ、クーバの影に隠れながらも、にやけ面だけは隠そうともしない。
「ホント、つまんねぇ奴だぜ……あぁ、そうだ。お前、レース中に『メンユンク!』とか我が物顔で叫んでポカミスするの、笑いそうになるから勘弁してくれねぇか?」
「俺がもっといい言葉を教えてあげるッス! 『チャク・ウターナド!』なんてどうッスか? お似合いだと思うッス!」
「お! いいじゃねぇか! それなら失敗しても安心だ! よかったなぁ、ブランダーキッド!」
クーバとマガルが豪快に笑い、周囲からもクスクスと笑い声が聞こえ始めた。
この場でムディッチの味方をしようとする者は誰もいない。
期待が大きかった分、今の彼には余計に冷めた視線が向けられていた。
「つーかよぉ、やる気がねぇなら、さっさと消えろ! マガルを含め、お前の席を狙ってるやつはいくらでもいるんだ」
「これ以上、ジョルワンの看板を汚さないでほしいッス」
目立った反応を示さなくなったムディッチに飽きたのか、好き放題言うだけ言って、クーバとマガルは店を出ていった。
客はまた大型モニターに流れる映像に盛り上がり、もう誰もムディッチに興味を示していない。
すっかり酒場の空気は元通りだった。
「……クソッ!」
ムディッチが叩きつけた拳に食器が揺れる。
店員は少し嫌な顔をしたが、何も言わなかった。
(今は、そっとしておいたほうがよさそうね)
一部始終を傍観していたプミールは、共感も同情もしなかった。
この世界では、結果がすべてだ。
プミールはナプキンを軽くたたんでテーブルの上に置くと、静かに店を後にした。
◇◇◇
トルナーヴァ・シリーズ第二戦。
スタジアムでは、十六艇のボートが激しい勝負を繰り広げていた。
『先頭は二周目に入りました! 一位は変わらずヴィズィ。すぐ後ろにクーバ、プミールが続きます。クーバは良いスタートを切りましたが、しっかりと好位をキープしていますね!』
クーバは機体からギアまで、一貫して妨害に特化した性能を好む。
今もクーバが作り出す引き波が、容易な追随を許さない。
プミールは無理をせず、冷静に好機を待った。
一方、下位では熾烈な潰し合いが始まっていた。
『後方集団は少し離されてしまいました。このあたりで仕掛けなければ、上位入賞は見込めそうにありませんが……おっと、一人抜け出すか?』
妨害ギアが飛び交う乱戦から飛び出したのは、ムディッチだ。
減速をうまく挟みながら、もつれ合いの隙間をすり抜ける。
焦れた展開を断ち切ろうと、思い切って勝負を仕掛けた。
ムディッチは道筋に逆らって舵を切り、力強く叫んだ。
「メンユンク!」
ボートの鼻先が空を向く。
爆発的に速度を上げたボートは、たちまち水面を離れた。
ムディッチは巧みに重心を調整し、カーブをぶった切ってブイの内側を飛び越える。
『ここでムディッチが行ったー! お得意のムディ・ア・レックレス!……しかし、これはさすがに無謀なアタックではないかー!?』
ムディッチは、一気に前へ出た。
集団から五艇身ほど引き離した――しかし、ライバルたちはそれを黙って見過ごさない。
背後から妨害ギアで水面を荒らされ、ムディッチは着水と同時に大波に飲まれかける。
『おおっと! ムディッチ、旋回が間に合っていないぞ!? おわーっ! 壁に激突ー! これはさすがにリタイアかー!?』
激しく揺さぶられ、ムディッチの手が一瞬ハンドルから離れてしまう。
ムディッチはうまく波に乗ることができず、そのまま無惨にもボートは座礁した。
観客はざわつき、次第に嘲笑が聞こえ始めた。
「グハハ! ムディッチの野郎、またポカミスかよ。だっせぇ奴だぜ」
プミールの前方を走るクーバが、実況に被せるように高笑いした。
自身もレース中だというのに、随分と余裕をかましている。
「さて……俺もそろそろ仕掛けさせてもらうぜ」
クーバは口元を引き締め、先頭を走るヴィズィを見据える。
全身の毛を逆立て、猛々しく吠えながらフルスロットルで突き進む。
『バックストレートでクーバが仕掛けたー! ハーディング・コールでヴィズィを落としにかかる!』
クーバの咆哮に呼応して、獣の軍勢がどこからともなく溢れ出た。
唸りを上げて水面を駆け、ヴィズィに襲いかかるが――。
『しかし、ヴィズィにはかすりもしません! 即座に支援ギアで加速し、見事な対応を見せました! 狭い直線での危うい場面でしたが、いやーさすがの判断でしたね!』
怒涛の奔流はヴィズィまで届かず、その姿を消した。
クーバは苦い顔で舌打ちをし――その時、クーバの操舵がわずかに乱れた。
プミールは、その隙を逃さない。
『うおっ! ここでプミールが動いたぞ! プラチナム・ミスト・ルミナスだ! 白銀の霧が周囲を覆う!』
噴き出した濃霧が二人を一瞬で飲み込む。
虚を突かれたクーバは、思わず速度を落として安全を図った。
鼻先すら見えず、方向感覚もめちゃくちゃだ。匂いも頼りにならない。
そんな状況下でも、プミールは一切速度を落とさない。
彼女にだけ見える光の道しるべを辿り、最適ルートを駆け抜けた。
「クソッ! プミールめ!」
クーバもただでは終わらない。
プミールのエンジン音を頼りにダンプをかます――が、プミールは警戒を怠っていなかった。
悠々と躱し、あっさりとクーバの前へ出た。
濃霧を裂くように湧いた歓声を背に、プミールはそのまま二着でゴールラインを割った。
◇◇◇
レース後、プミールはリーグ・コンプレックスへ向かう途中で足を止めた。
(……あいつ)
夜風に乗って嗅ぎ慣れた気配を感じた。
プミールは一瞬迷ったが、匂いを辿ることにした。
スタジアムの裏手。人気のないベンチで、ムディッチがうつむいていた。
「……」
プミールは声をかけず隣に座った。
ムディッチは無言で地面を見つめ続けている。
プミールは、何気なく夜空を仰いだ。
眩しすぎる街の光が空を塗り潰し、星は痕跡さえ残さない。
遠くでゆらめくサーチライトを見つめながら、プミールは静かに口を開いた。
「いつまで腑抜けているつもり?」
ムディッチの耳がぴくりと揺れた。
しかし、返事はなく顔をそむけただけだった。
「そうしていれば、解決するのかしら?」
「……ほっといてくれ」
「もう半年よ。へこんだ顔は見飽きたの」
「……」
ムディッチは横目で睨んだが、プミールは視線を返さない。
「MVPの夢は諦めたの?」
「……違う」
「あら、そうなの。てっきり、上を目指す気は無くなったのかと思っていたけど」
「そんな簡単に捨てられるわけないだろ」
ムディッチの絞り出すような言葉に、プミールは鼻で笑った。
「なら、燻ってないでもっと必死になりなさいよ」
「そんなこと、言われなくてもわかってんだよ!」
ムディッチは苛立ちを露わに吐き捨てるように言った。
「全力でやってる! それ以上が必要なのもわかってる!……けど、開幕戦のあの失敗が、頭から離れねぇんだよ!」
今年最初のレースでの手痛いミス。ムディッチは、そこからどんどん調子を崩していった。
ムディッチは天才肌な分、こういった状況に戸惑っていた。
だが――。
「拍子抜けね」
プミールの声は一層冷たさが増した。
「なんだと?」
「自分の限界を知ることが、そんなに怖いの?」
「……」
「笑わせるわね。『キニーリク』と、大口を叩いていたのは誰?」
「それは……」
「言い訳は必要ない。泥水をすすってでも、もがきなさい」
プミールは立ち上がり、ムディッチを見下ろした。
「今のあなたは、恐れるに値しない。足踏みしてる間に、私は先へ行くから」
プミールは振り向かず立ち去った。
足音は夜のしじまにほどけて、孤独を残した。
ムディッチは静寂の中で深く息をつき、拳を強く握った。
◇◇◇
トルナーヴァ・シリーズ最終戦。
スタジアムでは、カーレースのスタートが目前に迫っていた。
街の賑わいは最高潮を迎え、どこもかしこもお祭り騒ぎ。
そんなトルナーヴァ・シティで、まことしやかにとある噂がささやかれていた――。
スターティンググリッドに並ぶ、多種多様の競技車両たち。
その中で、ひときわ異彩を放つ一台のマシンがあった。
鋭さとしなやかさの共存する流麗なカウル。
触れただけで砕けてしまいそうな、儚い狂気。
加速力と最高速度に振り切った繊細でピーキーな性能は、一時の話題をさらった。
だが、あまりに低速域が不安定すぎるため、乱戦の多いジョルワンでの活躍は難しいと考えられていた。
そんな日の目を浴びることのなかったマシンの登場に、選手も観客もざわついていた。
「グハハ! おいムディッチ。お前、本気でそんなじゃじゃ馬マシンでやるつもりか?」
緊張感漂うスターティンググリッドに、クーバの冷やかしが飛んだ。
しかし、ムディッチはすでにスタートに向けて集中しており、耳を貸さない。
「試合を捨てるのは勝手だが、クラッシュするなら俺を巻き込まないでくれよ?」
クーバの毒づきに、周囲からため息が漏れる。
同じくとばっちりの事故を受けたくない者、レース直前まで罵り声を飛ばすクーバをみっともなく思う者、半々だ。
クーバよりも前、二番手に並ぶプミールは肩越しに後ろを見た。
ムディッチの蒼い瞳は、先頭のマシン――ヴィズィを真っすぐ見据えていた。
(ようやく、少しはましな顔をするようになったのかしら)
プミールは、どこか満足げに目を細めた。
すぐに前を向くと、深く息を吸ってレースの開始を待った。
『いよいよトルナーヴァ・シリーズも最終戦を迎えました! 今宵の陸の王座は誰の手に渡るのか。はたしてヴィズィは、シリーズ三連勝を達成できるのか! 注目の一戦です! レースはまもなく開始します!』
選手たちのハンドルを握る指に、力が入る。
スタートシグナルに視線が集中する。
スタジアムの喧騒が途切れた瞬間、最後のシグナルが点灯した。
『ヴィジャーズ……ロイト!』
合図と同時に爆発した歓声に等しく、初っ端から熾烈な争いになった。
至る所で火花が散り、目まぐるしく順位が入れ替わる。
ヴィズィが接触をうまく利用して早々に抜け出し、プミールは安全を優先して守備に徹した。
『開幕早々怒涛の展開だー! ヴィズィ、圧巻の車体コントロールで単独トップ! クーバ、プミールは少し位置を下げることになったか!?』
ヴィズィにダンプを仕掛けるも軽くいなされたクーバは大きく順位を落とした。
ムディッチはスタートから順位が変わらず最下位のまま。
集団からも取り残されてしまい、もつれ合いに不向きなマシン特性の影響が開始早々響いている。
『第一コーナーを抜けたところで、クーバが妨害ギアを発動! 狙いは後続潰しかー!?』
空力を乱す阻害波が吹き抜ける。
しかし、後続はクーバに注視していたこともあり、誰にも刺さらなかった。
『いい狙いでしたが、クーバの攻撃は不発に終わり……おや?』
クーバの放った妨害ギアの残響を、蒼い閃光が切り裂いた。
『おおっと!? 最下位だったはずのムディッチが、いつの間にか追いついていたぞ! とんでもない速度で中団グループに差し迫る!』
ムディッチは巧みなハンドリングで次々にライバルを躱して行く。
クーバはムディッチを視界に捉えた瞬間、惜しまず妨害ギアを連発した。
だが、ムディッチは一切減速しない。素早い切り返しで妨害ギアの波動を躱し、そのままカーブに侵入した。
明らかなオーバーステアだ――しかし、ムディッチはそのままの勢いで突っ込んだ。
タイヤが側石を踏む刹那、ムディッチが支援ギアを展開した。
車体に上向きの力がかかり、軽やかに宙を駆けた。
鋭角にカーブを割って、慣性のままに奥の壁際を撫でた。
そのまま何事もなくコースに戻ったムディッチは、車体の挙動を完全に制御していた。
「おい、ふざけんな! なんだよそれ! インチキだろ!?」
「クーバ、よそ見してる場合か?」
ムディッチに意識を割きすぎたクーバは、他への対応が疎かになっていた。
後方から飛来する妨害ギアに、避けようもなく被弾してしまう。
『……な、何だ今のはー!! ムディッチ、鮮やかな機体制御を見せ、上位へ浮上! 一方、クーバは被弾により大きく順位を下げました!』
「チクショー!! ムディッチてめぇ、覚えてろよ!」
ムディッチの無茶にも見える走りは、マシンの性能を鑑みればむしろ最適解だ。
クーバの捨て台詞を歯牙にもかけず、ムディッチは前を行く銀灰毛を見据えていた。
プミールは背後から迫ってくる黒灰毛の気配に、問いを投げかけた。
「ようやく、足踏みは終わり?」
「あぁ……腹をくくった」
「そう。でも、簡単には抜かせないわ」
レースは二周目に入り、白熱した二番手争いが続く。
ムディッチとプミールの一進一退の攻防に、会場のボルテージも上がっていく。
プミールは正確無比なライン取りで、ムディッチに進路を譲らない。
――しかし、道なき道を行くムディッチに、徐々に対応しきれなくなっていった。
二周目のバックストレート。
ついに黒と銀が交錯した。
「先に行くのは、俺だ」
短いスキール音を残して、ムディッチは迷いを置き去りにした。
その軌跡は、ネオンに満ちたサーキットでも、ひときわ煌めいていた。
「……セープ」
最終ラップ。
ムディッチの視線が、独走していたヴィズィをついに捉えた。
『さあさあさあ! 盛り上がってまいりました! ヴィズィとムディッチの一騎打ちだ! 昨シーズンを彷彿させる至極の展開! はたしてムディッチは、不調を克服できるのかー!』
超新星が返り咲くのか、またしても王者の前に沈むのか。
ムディッチの真価に、全クティベルが注目していた。
タイトなコーナーで間合いが詰まった瞬間――ヴィズィが呟いた。
「……『キニーリク』、か?」
「いいや、『キニートム』、だ!」
ムディッチの強い口調に、ヴィズィはわずかに口角を上げた。
先にコーナーを抜けたヴィズィは、早々にムディッチを蹴落としにかかった。
『ヴィズィが妨害ギアを発動! 壁の反射を利用したテクニカルな攻撃だ! ムディッチは読み切れるか!?』
勢いよく放たれたギアが、唸りを上げてコースを縫うように弾け飛ぶ。
ムディッチはあえて速度を落とし、影から飛来したギアをやり過ごした。
衝撃波が掻き消えるタイミングで一転。マシンの性能を十全に活かし、急加速でヴィズィを追う。
『ムディッチ、落ち着いた対応を見せました! わずかに差を広げることになったが、まだまだ射程圏内だ!』
後方集団との差は開くばかりだが、ヴィズィとムディッチの距離は一向に縮まらない。
トルナーヴァ・スタジアムの所謂抜きどころに差し掛かると、ヴィズィはまたしても妨害ギアを使用した。
単純に機体性能を比較すれば、速度面ではムディッチが明らかに上だ。
なのに、どうしてもヴィズィを追い抜けない。
操作精度、反射神経、集中力、レースの組み立て。どれをとっても赤銅の王が一枚上手だ。
レースは最終盤。
トルナーヴァ・スタジアムの最終コーナーはブレーキングゾーンが短く、通常は順位の変動が見られない。
しかし、手がないわけではない。
コースをぶった切る、ムディッチの十八番。
目の前の壁さえ越えることができれば、手が届く。
ただしそれは、前人未到の超難関ショートカットだ。
『いよいよ最終コーナーだ!……おぉっ! ムディッチ、これはまさか! 行くのか!? 行くのかー!?』
決めれば勝利、ミスれば敗北。
わずかな誤差も命取り。
ムディッチは、この一手にすべての勝負を賭けた。
「メンユンク!」
ムディッチのマシンが空を向く。
観客は一様に息を呑んだ。
次の瞬間、黒灰毛が風にたなびき、エンジン音は観客の絶叫に掻き消えた。
針の穴を通すように、絶好のタイミングでタイヤが地面を離れた。
『ムディッチ、跳んだー!! ムディ・ア・レックレス! 高さは十分! 角度も悪くなさそうだぞ!?』
ムディッチは壁の縁を踏み台にし、絶妙に角度を調整しコースへ舞い戻る。
ついにムディッチがヴィズィの前に出た、その時――赤銅の王は静かに牙を剥いた。
『これにはサイレント・バーガンディも黙っちゃいない!! VZ・ハンティングだ! ムディッチ、絶対絶命か!?』
深緋の幻影がムディッチを狙い撃つ。
着地寸前のムディッチは無防備に見えたが、その刹那――。
あろうことか、ムディッチは空中で加速した。
『ムディッチ、躱したー! 空中で支援ギア!? 信じられない! どうやって制御しているんだ!?』
ムディッチの度胸が、ヴィズィを完全に上回った瞬間だった。
着地を決めたムディッチは、勢いそのままゴールへ突っ込む。
『うおぉー!! ヴィズィ、首位陥落!! ムディッチ完全復活かー!』
もう、ムディッチを邪魔する者はいない。
『優勝は……! ブレイヴ・ブルーマール!! 帰ってきた超新星、ムディッチ!!』
その瞬間、爆発した歓声は地響きを錯覚させた。
「ネム・ロス」
ヴィズィは悔しさを見せながらも、帰ってきたライバルに目を細めた。
続いてゴールしたプミールは静かにうなずくだけだ。
もう、彼に声をかける必要はない。
ムディッチは天を仰ぎ、拳を掲げた。
喝采の嵐の中、勇壮な遠吠えがスタジアムに響いた。
春の星座は西へ傾き、月の雫は街の光に溶けていく。
ガラス張りの摩天楼の足元では、裾から覗く尻尾が揺れる。
風にそよいだ毛並みを整えながら、獣人たちが街を闊歩する。
ここは、色とりどりの洪犬人たちが暮らす街、トルナーヴァ・シティ。
このネオンに焼かれた近代都市では今、最も熱いとされている興行が行われている。
ジョルシュ・ワン・レーシング――通称ジョルワン。
最高峰のクティベルリーガーたちが陸・海・空、ありとあらゆるマシンを操り、人生をかけた鎬を削る十六人制レースリーグだ。
勝負を決めるのは操舵技術だけじゃない。
ギアや特技が絡む激しい駆け引きに、全世界が熱狂している。
各シリーズの勝者に与えられるトロフィーは栄光の証だ。
全シーズンを通した最優秀選手になることは、クティベルにとって最高の名誉となる。
トルナーヴァ・シティ郊外にある巨大スタジアムでは、今も熱気が渦巻いていた。
毎週末行われるレースの日は、スタジアム内外ともいつもお祭り騒ぎ。
スタジアムへと続く大通りには露店が並び、肉の焼ける匂いが立ちのぼっている。
今日は、トルナーヴァ・シリーズの開幕週。年間シーズンの折り返し地点だ。
スタジアムで行われていたスカイクラスのレースは、たった今、決着がついたところだった。
一番低い表彰台に上がったプミールは、シャツの胸元できらめく銅のバッジにそっと触れ、取り繕った笑顔を浮かべた。
すらりと伸びた細身の身体に、ウェーブの強い毛並みがふわりとなびく。
壇上にはプミールよりも上に二人いるが、それでも一部の観客の視線は彼女の愛らしい垂れ目に釘付けだ。
(最終ラップでハーディング・コールを避けきれなかったのは痛かったわね……。あれさえなければ、二位は守れていた)
内心には後悔しかなかった。
プミールの巻き尾も垂れ耳も、胸に押し込んだ悔しさを決して表に出さない。
一番上の段に立つ選手の胸元に、金のバッジがきらりと輝く。
気品あふれる赤銅色の短毛に包まれた、引き締まった体躯――王者の風格を持つ彼の名が、サーキットに響き渡った。
『トルナーヴァ・シリーズ第一戦の勝者は……皆さんご存知、この男! サイレント・バーガンディこと、ヴィズィ!』
声の直後、スタンドが爆発したかのような歓声が巻き起こった。
スタジアムは一丸となって「ヴィズィ! ヴィズィ!」と祝福の声を上げる。
ヴィズィは人気も成績も、ジョルワンの中で頭一つ抜けた存在だ。
昨シーズンは、そんなヴィズィと激戦を繰り広げていた新人リーガーがいたのだが――。
(あいつ、どこに行ったのかしら)
今日のレースにも参加していたそいつは、周囲に見当たらない。
そして、誰もそんな些細なことを気にとめていない。
赤銅の王は祝福に応えるよう、低い遠吠えを轟かせた。
観客はただただ、目の前の王者の名を興奮気味に叫び続けた。
◇◇◇
レースでの汚れを洗い落としたプミールは、改めて部屋を出た。
シリーズ期間中、関係者はスタジアムに併設されたリーグ・コンプレックスを生活の場としている。
宿泊棟を出たプミールは、ラウンジを抜けて酒場にやって来た。
扉を開けると、煮詰めたソースの甘い匂いが鼻をくすぐる。
その匂いにまぎれて、嗅ぎ慣れた気配を感じ取った。
(やっぱり、ここにいたわね)
騒々しい店内の片隅で、カウンターに突っ伏す一人の青年がいた。
黒灰のまだらな毛並みは強くカールして、ふさふさの尻尾はくるりと巻かれている。
プミールと同期でもある彼の名は、ムディッチ。
昨シーズン、デビュー年でシーズン通算成績二位に食い込んだ超新星は、今や見る影もなかった。
いつもはピンと尖った耳も、どこか萎れている。
ムディッチはビールジョッキを握り、乱暴気味に一気に呷った。
彼の周りは空席が目立ち、誰も好んで近寄ろうとしない。
他の客はムディッチをいないものとして扱い、壁の大型ディスプレイに視線を向けていた。
『今日のレースのハイライトです。いやー! この場面でヴィズィはVZ・ハンティングを仕掛けましたが、見事でしたね!』
『はい。ヴィズィの判断は速かったですね。ムディッチが無理に前へ出ようとしたところを許しませんでした。ムディッチからすると、ここでのスピンは大きく響きましたね』
『ヴィズィはこの後、誰にも一位を譲らず独走する形で今日のレースを締めくくりました。では、改めて今日の結果をご覧ください』
画面の順位表では、ムディッチは下から三番目の十四位。
次々に流れるヴィズィの神ワザ映像に沸き立つ喧騒をよそに、ムディッチは小さく舌打ちをした。
(……少し様子を見ようかしら)
プミールは店内を見回し、空いていた角の席へ移動する。
すれ違う客たちが「わお、プミールじゃん」「チノシュ……」と思わず声を上げた。
プミールが軽く手を振って対応すると、歓喜の声とともにいくつもの尻尾が激しく振られた。
ムディッチとは離れた席に座ったプミールは、注文を取りに来た店員に微笑んだ。
「パプリカーシュチルケとソーダをお願い」
「かしこまり!」
プミールは注文を終えると、カウンター奥の厨房をじっと見つめた。
包丁がまな板を叩く音が小気味よく刻まれ、鼻歌交じりにフライパンが振られる。
普段は茶房など落ち着いた店を利用しているプミールにとって、酒場の空気は新鮮だった。
ムディッチを探しに来たはずの彼女も、今は料理の匂いに心を奪われている。
ほのかにミントが香るソーダを味わいながら、厨房とムディッチの様子を交互に眺めていると、湯気の立つ皿が運ばれてきた。
「パプリカーシュチルケになりやす。ごゆっくりどーぞー!」
「クスィ」
プミールはさっそくシチューに鼻を近づけた。
サワークリームの爽やかさとクリーミーさの奥に、パプリカの甘みと焼いたチキンの香ばしい匂いが包まれている。
匂いだけでも濃厚なおいしさが存分に伝わってくる。
プミールはスプーンを手に取って、シチューに口をつけた。
「フィノム」
プミールは満足気に目を細め、ゆっくりと食事を味わう。
そんな中、カウンターのムディッチに影を落とす二人が現れた。
「おいおい、カウンターの隅にどこの野良犬が紛れ込んだかと思えば、話題のワンダーキッド様じゃねぇか!」
「クーバの兄貴、今はもっぱらブランダーキッドって呼ばれてるッスよ。ワンダーキッドなんて騒がれてたのは半年も前の話ッス」
「おおっと、そうだったそうだった! マガルの言う通りだ。悪かったなぁ、ブランダーキッド! グハハ!」
ジョルワンリーガーでもある真っ白な大柄のクティベル――クーバ。
隣には弟分のマガルを従え、ムディッチを嘲るように笑い続けている。
店内に響く低い声に、周囲の客も耳を尖らせていた。
「クーバ……なんの用だ」
マガルがカウンターの上を指差し、クーバに耳打ちをする。
クーバはムディッチの前に並んだ料理を見て、思わず噴き出した。
「おやおや……こりゃ、マルハジャーキーにワンワンビールじゃねぇか。典型的な呑んだくれだなぁ、おい」
「うるせぇ、関係ないだろ」
ムディッチは低く唸り、歯を剥き出しにした。
しかしクーバはそれを意にも介さず、一方的に言葉を続けた。
「ハッ! お前、勝てなくなったからって、こんなところでウジウジしやがって。そりゃ、そんなんじゃ勝てるわけねぇよなぁ!」
「兄貴の言う通りッスよ。実力が足りないのなら、酒に浸ってないで練習でもしてればいいッス」
「……」
ムディッチは何も言い返せず、クーバたちから視線を逸らして歯を食いしばる。
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる二人は、口を止める気配がない。
「お前のその青いパーカー、去年は売り切れ続出で社会現象だなんだって言ってたよなぁ? 今どうなってるか知ってるか?」
「ハイハイ! オレっち見たッス! 古着屋で山積みになってたッス!」
「……チッ」
次々に飛んでくる悪口に、ムディッチは強く拳を握った。
ムディッチに睨まれたマガルは大げさに怖がってみせ、クーバの影に隠れながらも、にやけ面だけは隠そうともしない。
「ホント、つまんねぇ奴だぜ……あぁ、そうだ。お前、レース中に『メンユンク!』とか我が物顔で叫んでポカミスするの、笑いそうになるから勘弁してくれねぇか?」
「俺がもっといい言葉を教えてあげるッス! 『チャク・ウターナド!』なんてどうッスか? お似合いだと思うッス!」
「お! いいじゃねぇか! それなら失敗しても安心だ! よかったなぁ、ブランダーキッド!」
クーバとマガルが豪快に笑い、周囲からもクスクスと笑い声が聞こえ始めた。
この場でムディッチの味方をしようとする者は誰もいない。
期待が大きかった分、今の彼には余計に冷めた視線が向けられていた。
「つーかよぉ、やる気がねぇなら、さっさと消えろ! マガルを含め、お前の席を狙ってるやつはいくらでもいるんだ」
「これ以上、ジョルワンの看板を汚さないでほしいッス」
目立った反応を示さなくなったムディッチに飽きたのか、好き放題言うだけ言って、クーバとマガルは店を出ていった。
客はまた大型モニターに流れる映像に盛り上がり、もう誰もムディッチに興味を示していない。
すっかり酒場の空気は元通りだった。
「……クソッ!」
ムディッチが叩きつけた拳に食器が揺れる。
店員は少し嫌な顔をしたが、何も言わなかった。
(今は、そっとしておいたほうがよさそうね)
一部始終を傍観していたプミールは、共感も同情もしなかった。
この世界では、結果がすべてだ。
プミールはナプキンを軽くたたんでテーブルの上に置くと、静かに店を後にした。
◇◇◇
トルナーヴァ・シリーズ第二戦。
スタジアムでは、十六艇のボートが激しい勝負を繰り広げていた。
『先頭は二周目に入りました! 一位は変わらずヴィズィ。すぐ後ろにクーバ、プミールが続きます。クーバは良いスタートを切りましたが、しっかりと好位をキープしていますね!』
クーバは機体からギアまで、一貫して妨害に特化した性能を好む。
今もクーバが作り出す引き波が、容易な追随を許さない。
プミールは無理をせず、冷静に好機を待った。
一方、下位では熾烈な潰し合いが始まっていた。
『後方集団は少し離されてしまいました。このあたりで仕掛けなければ、上位入賞は見込めそうにありませんが……おっと、一人抜け出すか?』
妨害ギアが飛び交う乱戦から飛び出したのは、ムディッチだ。
減速をうまく挟みながら、もつれ合いの隙間をすり抜ける。
焦れた展開を断ち切ろうと、思い切って勝負を仕掛けた。
ムディッチは道筋に逆らって舵を切り、力強く叫んだ。
「メンユンク!」
ボートの鼻先が空を向く。
爆発的に速度を上げたボートは、たちまち水面を離れた。
ムディッチは巧みに重心を調整し、カーブをぶった切ってブイの内側を飛び越える。
『ここでムディッチが行ったー! お得意のムディ・ア・レックレス!……しかし、これはさすがに無謀なアタックではないかー!?』
ムディッチは、一気に前へ出た。
集団から五艇身ほど引き離した――しかし、ライバルたちはそれを黙って見過ごさない。
背後から妨害ギアで水面を荒らされ、ムディッチは着水と同時に大波に飲まれかける。
『おおっと! ムディッチ、旋回が間に合っていないぞ!? おわーっ! 壁に激突ー! これはさすがにリタイアかー!?』
激しく揺さぶられ、ムディッチの手が一瞬ハンドルから離れてしまう。
ムディッチはうまく波に乗ることができず、そのまま無惨にもボートは座礁した。
観客はざわつき、次第に嘲笑が聞こえ始めた。
「グハハ! ムディッチの野郎、またポカミスかよ。だっせぇ奴だぜ」
プミールの前方を走るクーバが、実況に被せるように高笑いした。
自身もレース中だというのに、随分と余裕をかましている。
「さて……俺もそろそろ仕掛けさせてもらうぜ」
クーバは口元を引き締め、先頭を走るヴィズィを見据える。
全身の毛を逆立て、猛々しく吠えながらフルスロットルで突き進む。
『バックストレートでクーバが仕掛けたー! ハーディング・コールでヴィズィを落としにかかる!』
クーバの咆哮に呼応して、獣の軍勢がどこからともなく溢れ出た。
唸りを上げて水面を駆け、ヴィズィに襲いかかるが――。
『しかし、ヴィズィにはかすりもしません! 即座に支援ギアで加速し、見事な対応を見せました! 狭い直線での危うい場面でしたが、いやーさすがの判断でしたね!』
怒涛の奔流はヴィズィまで届かず、その姿を消した。
クーバは苦い顔で舌打ちをし――その時、クーバの操舵がわずかに乱れた。
プミールは、その隙を逃さない。
『うおっ! ここでプミールが動いたぞ! プラチナム・ミスト・ルミナスだ! 白銀の霧が周囲を覆う!』
噴き出した濃霧が二人を一瞬で飲み込む。
虚を突かれたクーバは、思わず速度を落として安全を図った。
鼻先すら見えず、方向感覚もめちゃくちゃだ。匂いも頼りにならない。
そんな状況下でも、プミールは一切速度を落とさない。
彼女にだけ見える光の道しるべを辿り、最適ルートを駆け抜けた。
「クソッ! プミールめ!」
クーバもただでは終わらない。
プミールのエンジン音を頼りにダンプをかます――が、プミールは警戒を怠っていなかった。
悠々と躱し、あっさりとクーバの前へ出た。
濃霧を裂くように湧いた歓声を背に、プミールはそのまま二着でゴールラインを割った。
◇◇◇
レース後、プミールはリーグ・コンプレックスへ向かう途中で足を止めた。
(……あいつ)
夜風に乗って嗅ぎ慣れた気配を感じた。
プミールは一瞬迷ったが、匂いを辿ることにした。
スタジアムの裏手。人気のないベンチで、ムディッチがうつむいていた。
「……」
プミールは声をかけず隣に座った。
ムディッチは無言で地面を見つめ続けている。
プミールは、何気なく夜空を仰いだ。
眩しすぎる街の光が空を塗り潰し、星は痕跡さえ残さない。
遠くでゆらめくサーチライトを見つめながら、プミールは静かに口を開いた。
「いつまで腑抜けているつもり?」
ムディッチの耳がぴくりと揺れた。
しかし、返事はなく顔をそむけただけだった。
「そうしていれば、解決するのかしら?」
「……ほっといてくれ」
「もう半年よ。へこんだ顔は見飽きたの」
「……」
ムディッチは横目で睨んだが、プミールは視線を返さない。
「MVPの夢は諦めたの?」
「……違う」
「あら、そうなの。てっきり、上を目指す気は無くなったのかと思っていたけど」
「そんな簡単に捨てられるわけないだろ」
ムディッチの絞り出すような言葉に、プミールは鼻で笑った。
「なら、燻ってないでもっと必死になりなさいよ」
「そんなこと、言われなくてもわかってんだよ!」
ムディッチは苛立ちを露わに吐き捨てるように言った。
「全力でやってる! それ以上が必要なのもわかってる!……けど、開幕戦のあの失敗が、頭から離れねぇんだよ!」
今年最初のレースでの手痛いミス。ムディッチは、そこからどんどん調子を崩していった。
ムディッチは天才肌な分、こういった状況に戸惑っていた。
だが――。
「拍子抜けね」
プミールの声は一層冷たさが増した。
「なんだと?」
「自分の限界を知ることが、そんなに怖いの?」
「……」
「笑わせるわね。『キニーリク』と、大口を叩いていたのは誰?」
「それは……」
「言い訳は必要ない。泥水をすすってでも、もがきなさい」
プミールは立ち上がり、ムディッチを見下ろした。
「今のあなたは、恐れるに値しない。足踏みしてる間に、私は先へ行くから」
プミールは振り向かず立ち去った。
足音は夜のしじまにほどけて、孤独を残した。
ムディッチは静寂の中で深く息をつき、拳を強く握った。
◇◇◇
トルナーヴァ・シリーズ最終戦。
スタジアムでは、カーレースのスタートが目前に迫っていた。
街の賑わいは最高潮を迎え、どこもかしこもお祭り騒ぎ。
そんなトルナーヴァ・シティで、まことしやかにとある噂がささやかれていた――。
スターティンググリッドに並ぶ、多種多様の競技車両たち。
その中で、ひときわ異彩を放つ一台のマシンがあった。
鋭さとしなやかさの共存する流麗なカウル。
触れただけで砕けてしまいそうな、儚い狂気。
加速力と最高速度に振り切った繊細でピーキーな性能は、一時の話題をさらった。
だが、あまりに低速域が不安定すぎるため、乱戦の多いジョルワンでの活躍は難しいと考えられていた。
そんな日の目を浴びることのなかったマシンの登場に、選手も観客もざわついていた。
「グハハ! おいムディッチ。お前、本気でそんなじゃじゃ馬マシンでやるつもりか?」
緊張感漂うスターティンググリッドに、クーバの冷やかしが飛んだ。
しかし、ムディッチはすでにスタートに向けて集中しており、耳を貸さない。
「試合を捨てるのは勝手だが、クラッシュするなら俺を巻き込まないでくれよ?」
クーバの毒づきに、周囲からため息が漏れる。
同じくとばっちりの事故を受けたくない者、レース直前まで罵り声を飛ばすクーバをみっともなく思う者、半々だ。
クーバよりも前、二番手に並ぶプミールは肩越しに後ろを見た。
ムディッチの蒼い瞳は、先頭のマシン――ヴィズィを真っすぐ見据えていた。
(ようやく、少しはましな顔をするようになったのかしら)
プミールは、どこか満足げに目を細めた。
すぐに前を向くと、深く息を吸ってレースの開始を待った。
『いよいよトルナーヴァ・シリーズも最終戦を迎えました! 今宵の陸の王座は誰の手に渡るのか。はたしてヴィズィは、シリーズ三連勝を達成できるのか! 注目の一戦です! レースはまもなく開始します!』
選手たちのハンドルを握る指に、力が入る。
スタートシグナルに視線が集中する。
スタジアムの喧騒が途切れた瞬間、最後のシグナルが点灯した。
『ヴィジャーズ……ロイト!』
合図と同時に爆発した歓声に等しく、初っ端から熾烈な争いになった。
至る所で火花が散り、目まぐるしく順位が入れ替わる。
ヴィズィが接触をうまく利用して早々に抜け出し、プミールは安全を優先して守備に徹した。
『開幕早々怒涛の展開だー! ヴィズィ、圧巻の車体コントロールで単独トップ! クーバ、プミールは少し位置を下げることになったか!?』
ヴィズィにダンプを仕掛けるも軽くいなされたクーバは大きく順位を落とした。
ムディッチはスタートから順位が変わらず最下位のまま。
集団からも取り残されてしまい、もつれ合いに不向きなマシン特性の影響が開始早々響いている。
『第一コーナーを抜けたところで、クーバが妨害ギアを発動! 狙いは後続潰しかー!?』
空力を乱す阻害波が吹き抜ける。
しかし、後続はクーバに注視していたこともあり、誰にも刺さらなかった。
『いい狙いでしたが、クーバの攻撃は不発に終わり……おや?』
クーバの放った妨害ギアの残響を、蒼い閃光が切り裂いた。
『おおっと!? 最下位だったはずのムディッチが、いつの間にか追いついていたぞ! とんでもない速度で中団グループに差し迫る!』
ムディッチは巧みなハンドリングで次々にライバルを躱して行く。
クーバはムディッチを視界に捉えた瞬間、惜しまず妨害ギアを連発した。
だが、ムディッチは一切減速しない。素早い切り返しで妨害ギアの波動を躱し、そのままカーブに侵入した。
明らかなオーバーステアだ――しかし、ムディッチはそのままの勢いで突っ込んだ。
タイヤが側石を踏む刹那、ムディッチが支援ギアを展開した。
車体に上向きの力がかかり、軽やかに宙を駆けた。
鋭角にカーブを割って、慣性のままに奥の壁際を撫でた。
そのまま何事もなくコースに戻ったムディッチは、車体の挙動を完全に制御していた。
「おい、ふざけんな! なんだよそれ! インチキだろ!?」
「クーバ、よそ見してる場合か?」
ムディッチに意識を割きすぎたクーバは、他への対応が疎かになっていた。
後方から飛来する妨害ギアに、避けようもなく被弾してしまう。
『……な、何だ今のはー!! ムディッチ、鮮やかな機体制御を見せ、上位へ浮上! 一方、クーバは被弾により大きく順位を下げました!』
「チクショー!! ムディッチてめぇ、覚えてろよ!」
ムディッチの無茶にも見える走りは、マシンの性能を鑑みればむしろ最適解だ。
クーバの捨て台詞を歯牙にもかけず、ムディッチは前を行く銀灰毛を見据えていた。
プミールは背後から迫ってくる黒灰毛の気配に、問いを投げかけた。
「ようやく、足踏みは終わり?」
「あぁ……腹をくくった」
「そう。でも、簡単には抜かせないわ」
レースは二周目に入り、白熱した二番手争いが続く。
ムディッチとプミールの一進一退の攻防に、会場のボルテージも上がっていく。
プミールは正確無比なライン取りで、ムディッチに進路を譲らない。
――しかし、道なき道を行くムディッチに、徐々に対応しきれなくなっていった。
二周目のバックストレート。
ついに黒と銀が交錯した。
「先に行くのは、俺だ」
短いスキール音を残して、ムディッチは迷いを置き去りにした。
その軌跡は、ネオンに満ちたサーキットでも、ひときわ煌めいていた。
「……セープ」
最終ラップ。
ムディッチの視線が、独走していたヴィズィをついに捉えた。
『さあさあさあ! 盛り上がってまいりました! ヴィズィとムディッチの一騎打ちだ! 昨シーズンを彷彿させる至極の展開! はたしてムディッチは、不調を克服できるのかー!』
超新星が返り咲くのか、またしても王者の前に沈むのか。
ムディッチの真価に、全クティベルが注目していた。
タイトなコーナーで間合いが詰まった瞬間――ヴィズィが呟いた。
「……『キニーリク』、か?」
「いいや、『キニートム』、だ!」
ムディッチの強い口調に、ヴィズィはわずかに口角を上げた。
先にコーナーを抜けたヴィズィは、早々にムディッチを蹴落としにかかった。
『ヴィズィが妨害ギアを発動! 壁の反射を利用したテクニカルな攻撃だ! ムディッチは読み切れるか!?』
勢いよく放たれたギアが、唸りを上げてコースを縫うように弾け飛ぶ。
ムディッチはあえて速度を落とし、影から飛来したギアをやり過ごした。
衝撃波が掻き消えるタイミングで一転。マシンの性能を十全に活かし、急加速でヴィズィを追う。
『ムディッチ、落ち着いた対応を見せました! わずかに差を広げることになったが、まだまだ射程圏内だ!』
後方集団との差は開くばかりだが、ヴィズィとムディッチの距離は一向に縮まらない。
トルナーヴァ・スタジアムの所謂抜きどころに差し掛かると、ヴィズィはまたしても妨害ギアを使用した。
単純に機体性能を比較すれば、速度面ではムディッチが明らかに上だ。
なのに、どうしてもヴィズィを追い抜けない。
操作精度、反射神経、集中力、レースの組み立て。どれをとっても赤銅の王が一枚上手だ。
レースは最終盤。
トルナーヴァ・スタジアムの最終コーナーはブレーキングゾーンが短く、通常は順位の変動が見られない。
しかし、手がないわけではない。
コースをぶった切る、ムディッチの十八番。
目の前の壁さえ越えることができれば、手が届く。
ただしそれは、前人未到の超難関ショートカットだ。
『いよいよ最終コーナーだ!……おぉっ! ムディッチ、これはまさか! 行くのか!? 行くのかー!?』
決めれば勝利、ミスれば敗北。
わずかな誤差も命取り。
ムディッチは、この一手にすべての勝負を賭けた。
「メンユンク!」
ムディッチのマシンが空を向く。
観客は一様に息を呑んだ。
次の瞬間、黒灰毛が風にたなびき、エンジン音は観客の絶叫に掻き消えた。
針の穴を通すように、絶好のタイミングでタイヤが地面を離れた。
『ムディッチ、跳んだー!! ムディ・ア・レックレス! 高さは十分! 角度も悪くなさそうだぞ!?』
ムディッチは壁の縁を踏み台にし、絶妙に角度を調整しコースへ舞い戻る。
ついにムディッチがヴィズィの前に出た、その時――赤銅の王は静かに牙を剥いた。
『これにはサイレント・バーガンディも黙っちゃいない!! VZ・ハンティングだ! ムディッチ、絶対絶命か!?』
深緋の幻影がムディッチを狙い撃つ。
着地寸前のムディッチは無防備に見えたが、その刹那――。
あろうことか、ムディッチは空中で加速した。
『ムディッチ、躱したー! 空中で支援ギア!? 信じられない! どうやって制御しているんだ!?』
ムディッチの度胸が、ヴィズィを完全に上回った瞬間だった。
着地を決めたムディッチは、勢いそのままゴールへ突っ込む。
『うおぉー!! ヴィズィ、首位陥落!! ムディッチ完全復活かー!』
もう、ムディッチを邪魔する者はいない。
『優勝は……! ブレイヴ・ブルーマール!! 帰ってきた超新星、ムディッチ!!』
その瞬間、爆発した歓声は地響きを錯覚させた。
「ネム・ロス」
ヴィズィは悔しさを見せながらも、帰ってきたライバルに目を細めた。
続いてゴールしたプミールは静かにうなずくだけだ。
もう、彼に声をかける必要はない。
ムディッチは天を仰ぎ、拳を掲げた。
喝采の嵐の中、勇壮な遠吠えがスタジアムに響いた。
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