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二十九話

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 夕刻、エーファ達は屋敷へと戻った。馬車から下りた瞬間、待ち構えていたであろうニーナが「お帰りなさいませ」と笑顔で出迎えてくれた。そのまま急かされる様にして誘導され屋敷に入ると、ある部屋の前まで連れて行かれた。

「さぁ奥様、扉を開けて下さい」

 一体何があるのかと緊張と期待で心臓が煩いくらいに脈打つ。期待なんてしてはいけないーー幼い頃からずっとそう自分に言い聞かせてきた。だって期待なんてしたら必ず幻滅する未来しかなかったから……。だから今少し怖さを感じる。開けるのを躊躇いながらマンフレットに視線を向けると相変わらず無表情だったが、彼は頷いてくれた。それだけで気持ちは軽くなり勇気が出る。
 エーファは意を決してゆっくりと扉を開けた。


「エーファ嬢、お誕生日おめでとう」
「奥様、お誕生日おめでとうございます!」
「奥様、おめでとうございます!」
「エーファ様、お誕生日おめでとうございます」

 広間は沢山の花で飾り付けされ、テーブルには沢山のご馳走が並べられており、レクスを筆頭にギーや屋敷中の使用人達が笑顔でお祝いの声を掛け迎えてくれた。
 直ぐにレクスが近付いて来て大袈裟にエーファの前に跪き手に口付けをする。そして手に抱えきれないくらいの花束を手渡された。

「綺麗……レクス様、ありがとうございます!」

 ニーナや侍女達が興味津々でエーファを囲み花束を見に集まる。

「可愛い形」
「それにしても珍しい花ですね」
「俺の純粋で丸っとした愛らしい目と同じ色で、一目惚れしちゃってさ」
「純粋は関係ないですよね」
「いや、そこが一番重要なんだけど」

 レクスの冗談に一気に笑いが起きた。無論エーファも行儀が悪いと思いつつ声を出して笑ってしまう。

「私、この花見た事あります。えっと確か……エリンジウムとかいう名前だったかと」

 先程から真剣な表情をして花を凝視していたニーナが思い出した様に言った。
 エリンジウム? 聞き慣れない花の名前にエーファは首を傾げ手の中の花束に視線を戻した。
 光沢のある青い色はとても美しく見れば見る程不思議だ。球状に小花が集まりそれを囲む様に葉が生えている。神秘的にも思える花に暫し目が釘付けとなった。


 朝から使用人達とレクスで準備してくれていた豪華な料理を食べながら、酒類が得意でないエーファは先程から木苺のジュースを飲んでいる。我ながら子供っぽいとは思うが気分が悪くなるよりはマシだ。

 にゃぁ~。

 エメにもご馳走が用意されており、足元でご機嫌で食べている。

「沢山包んで頂けたので、後で皆さんで食べましょう。勿論レクス様の分もありますよ」

 今日の出来事をエーファは少し照れながらも皆に話した。兎に角誰かに聞いて貰いたくて仕方がない。店での出来事、馬車で移動している最中、アレースに乗った事ーー今思い出しても高揚感が抑えられない。ただ、マンフレットから額に口付けされた所は伏せた。こんな恥ずかしい話誰にも出来ない。そんな事を考えている内に、顔に熱が集まるのを感じてしまう。
 ふと少し離れた場所で一人ワインを口にするマンフレットに目を遣る。何時もながらに何をしていても本当に絵画の様に美しい。

『男の私より、女の君の方が良く似合う』

 何時も無表情の彼だが、あの時彼はエーファに笑ってくれた。

『綺麗だ……』

 そして彼のあの唇が私の額に触れ……。


「あれ、エーファ嬢。顔が赤いけど大丈夫? もしかして熱でもある?」
「い、いえ! 少し暑くて……」

 レクスからの指摘に、エーファは我に返ると慌てて笑って誤魔化した。

 暫く穏やかな時間を過ごしていた。そんな時だった。先程から愉し気に酒を煽っていたレクスが、不意にマンフレットの元へと覚束ない足取りで近付いて行った。頬を赤らめ大分酔いが回っているのは誰が見ても一目瞭然だ。

「エーファ嬢はさ~本当に素晴らしいよねぇ。可愛いし、優しくて健気で、頑張り屋だし~いいなぁ俺もこんな出来た奥さん欲しいよ。マンフレットもそう思うだろう? 君さ~何時も仏頂面で愛想ないんだから、今日くらい奥さんに愛情表現してあげても良いんじゃない? この際だから愛してるぅ! くらい言って口付けの一つでもしたら?」

 酒の所為か、何時も以上に茶化すレクスにマンフレットの顔は見るからに不機嫌になる。

「お前には関係ない」
「そんな態度ばかりとってると~その内愛想を尽かされちゃうよ? でもさ~そうしたら俺が貰っちゃおうかなぁ。良いのかな? こんなに素敵な奥さん他にいないよ?」
「ーーブリュンヒルデに比べればまだまだだ」

 一瞬間があり、マンフレットが冷たく言い捨てた。
 頭では分かっていた筈なのに、身体が震えた。一瞬心臓が止まった気すらしたのに、直ぐに煩いくらい脈打つのを感じる。
 広間は先程とは打って変わり水を打った様に静まり返った。皆一様に困惑した表情を浮かべマンフレットへと視線を向けている。
 早く何か言わなくてはと焦るが声が出ない。なんて情けないのだろう。悲しむなんて間違っている、当然だ。だって彼は間違った事なんて言っていない、事実なのだから……。早く謝罪を述べて、この重苦しい空気を変えないと。折角皆がこんなに素敵な時間を自分なんかの為に用意してくれたのに、それを全て台無しにしてしまう。だが動揺し過ぎて頭の中は真っ白になっていく一方で……もう何も考えられなかったーー気付いた時には逃げ出していた。
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