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commandとglare
しおりを挟むコクリと頷く。ただ無言で。
それ以外にない。言うべき言葉は思いつかなかった。
「あの、僕、ダイナミクス性……のコトとか、あまりよく、分かってないんですけど」
いや、そんな。恐縮するなよ。
別に当たり前だろ、中学生。
学校で第二次性徴の話なんかが、通り一遍あったくらいか?
そもそも、検査だってまだ少し先なんだろうし。
ともかく。その年齢で「そんなコト」、そうそう分かっててたまるかって。
おずおずと、少年が続ける。
「えっと……command、でしたっけ。Subのひとたちって、なんっていうか、その……言われたことを、なんでも聞いちゃうって」
まあ、厳密には「なんでも」じゃない。
どうしても従えない――従いたくない時もある。
でもオレは、ただ黙って少年の話に――彼の声に、耳を澄ます。
「でも、それ…って、commandって。自分のDomのひとからじゃないと意味がないんじゃないんですか?」
――それは。
「……誰の言葉にでも反応しちゃうもの、なんですか」
「ちがう」
オレは大きく首を横に振った。
誰でも、じゃない。
そうじゃないんだけど。
「commandってのは……普通は『合意』の、しかも『プレイ』の時しか意味をなさないモノだ」
そうなんだ。「普通」は。「本当」は。
でも、時もトコロも構わずに、Domがglareで無理やり力ずくで――
なんてことも、ないワケじゃない。いや、実は割とある。
強いられる事がらは「大なり小なり」色々だ。
他の……特にusualの連中なんかは、まったく気づきもしないような「さりげなさ」で蹂躙されることもある。
いずれにせよ。それは一種、レイプみたいなもの――
けど、「そうしている」Dom自身、自覚すらしていないような無意識の虐待も多い。
だが、それはまあ。
何も今、「いたいけな中学生」に言うことでもない。
「です……よね」
「ちがう」という、オレの短い否定の言葉を受けて、少年が小さな吐息とともに言った。
「そうじゃなきゃ、いちいち、どこかのペットの躾にまで反応しちゃいますよね」
あ――
えーっと、その。
「イヤ、その、さっきは、ごめん。ホント、ビックリさせたよな。ゴメン……突然、あんな」
でもさ。実際のトコロ、オレにだって、アレが何だったのか。
何がどうなってるんだが、まるきりサッパリ分かりゃしないままなんだ。
こんな――
知らない「子ども」の。
それも「犬へのかけ声」に反応して、kneelしちまうとかさ。
「悪かった」
「いえ、僕は別に……特には」
えっと、だな。そこまで淡々と応じられると。
なんか、一周回って癪に触るような触らないような……。
グゴゴと、またオレの腹が鳴った。
なんとかその音を誤魔化そうと、出されたお茶をグビリ飲み干す。
「ずいぶんと、お腹…空いてるんですね」
少年がふと横を向き、チャック付きのビニール袋を手に取った。
「もっと食べますか、ささみジャーキー」「いらん」
「ジャーキー」という言葉に、ムギとかいうデカ犬が、ピクンと鼻先を上げる。
「違うよ、ムギ。お前じゃない」
すかさずご主人サマに否定され、モジャ犬はシュンと俯いた。
少年が立ち上がる。
その所作と真っ直ぐに伸びた背筋は、ひどく凛々しくて。
なんっていうのか「育ちの良さ」みたいなモノを感じずにいられなかった。
そりゃ……「育ち」はいいんだろうな?
こんな大邸宅に住んでるんだし。
って、やけにひと気のない家だけど。
「あのさ、家のひととかは?」
「お手伝いの佐竹さんは、今日はもう帰りました」と応じる。
「え?」
なんだよ、それ?
「えっと、何。こんなだだっ広い家に、君…ひとり? 他に家族とか住んでないってコト?」
「はい」
「そんな……不用心でしょ。夜とかさ」
「そう……言われても……」
そして少年は、棚を開いて何かを取り出すと、ダイニングテーブルへと戻りながら、
「それに『ひとり』ではないです、正確には」と、きっぱり言ってオレを見た。
「ムギがいますから」
そう言い足して、彼はブワリと、ごく屈託のない笑顔をほどけさせた。
*
そしてその後は、何だか好奇心が湧いてきて、オレは少年に、すこし立ち入り過ぎた質問を続けてしまう。
彼は、特に気分を害する様子も見せず、それなりには答えてくれた。
ごく淡々と。大人びた口調で。
「大人びた」
オレがそう感じてしまうのは、つまり。
彼が「大人じゃない」からだ。
この子がまだ、十代半ばの少年だというコトの、明らかな証明――
ここは――この屋敷は、彼の「親戚」の持ち物なのだそうだ。
彼以外に「住んでいる人間」はいないとのこと。
「親御さんは?」と訊ねる言葉は、喉の奥につかえた。
「親戚」の家とだけ。それ以上の説明もない。だから。
彼の親は――もういないのかもしれないと。
そんな想像をしてしまった。
いや、想像と言うより「確信」と言うか。
もちろん、両親が海外赴任とかしてる……なんてオチかもしれないけどさ。
でも――
少年の佇まいからは、なんというか、ひどく「孤独」のようなものが感じられてしょうがないのだ。
そう。「ひとり」で立つ「強さ」とでも言うのか。
いや――ちょっと違うな。
諦念。
そんな感じかもしれない。
「そうだ、まだオレ、名乗ってもいなかったよな?」
唐突に思い至って、オレは自己紹介を始めた。
「旗手っていうんだ、よろしく。今日はホント、迷惑かけちまって」
「はたて……?」
呟くように、少年が訊き返す。
「そう、ちょっと珍しい苗字だろ?」
「それって、日章旗とかの『旗』に手足の『手』…ですか?」
「そう…だけど、よく分かったな? 漢字まで」
っていうか、実はちょっとどころではなくて、「相当に」珍しい苗字だ。
そもそも、普通はさ。
「はたて」すら聞き取れなくて、何度も訊き返されるレベル。
電話対応では、特にそうだ。
なんなら対面の相手だって、初手ではそんなコトばっかだ。なのに。
そうやって、吃驚して瞬くオレから、ちょっと視線をそらしながら、
「だって……」と、少年が続けた。
「なんか、村上水軍関係で見たことある苗字……だったから」
「へぇ、村上水軍とかまで。そんなの良く知ってんな。学校とかでも、別に習わないでしょ?」
「習わないけど……歴史動画とか見て、ちょっと興味湧いたから。本を読んだりして」
そして、少年は手にしたカゴをテーブルに置いた。
バナナが数本入っている。
「朝食用とかで置いてるものなんですけど……よかったら」
「……あ、ありがとう」
うん、キモチはありがたい。
だがさすがに、この子の朝飯から分けてもらうってのは、あまりにあんまりにも大人げないっていうか。
まあ、「ささみジャーキーを犬と取り合ってた」クセに、いまさら何言ってんだかって話もあるが。
なんかさ。ちょっとツンと澄ましてはいるけど。
優しい子……だよな。
いや、あれか。
もしやオレ、憐れまれたりとかしてるのか? こんな子どもに。
「ってか、本とか読むんだな」
「……悪いですか」
「あ、いやいや、そういう意味じゃなくて」
オレは慌てて打ち消す。
「全然。いい意味で。スゴイなって思ってさ」
「別に普通……本くらい読むと思いますけど」
「え、そうか? オレは読まなかったぜ、全然」
そこはかとなく、少年の目線が冷ややかさを増した気がした。
「あ、でも、ちゃんとした大人だし。ホント、オレ、全然怪しいヤツじゃないから」
言い訳しながら、オレはズボンのポケットから出しておいた財布に入れていた職員身分証を取り出す。
「な、ほら。信頼と誠意の地方公務員。市役所職員だ」
ってまあ、警察官すら不祥事ばかりの昨今だ。
公務員の身分に説得力があるのかないのか――
少年は、オレの身分証を注意深げに見つめてから、それをそっとオレへと返した。そして、またわずかに視線をそらすと、
「名前……」とだけ言って、口をつぐんだ。
あ……コイツ。
チクショウ、笑いをこらえてやがるな……。
「そうだよ。名前は『ゲンキ』だ。旗手元気」
「……ヤバい、マジかよ」
それは初めて聞く、彼の「中学生らしい」呟きだった。
そして少年は、ワナワナと肩を震わせる。
「あ、スイマセン、おじ……旗手さん」
一応、メチャメチャ慇懃な口調に戻って詫びはしたものの、少年の笑いの発作はおさまる気配をみせない。
「ってか……その」
必死に笑いをこらえながら、少年が続ける。
「……なんというか、親御さんのセンス、ちょっと疑います」
「へぇ、奇遇だな。オレもだよ」
正直、家裁かなんかに名前変更の申立てをしようかと思ったことは数えきれないほどあるぞ。
少年は笑い終わり、小さく溜息をついた。
そしてオレを、ジッと見る。
「もしかして、元気なかったんですか?」
「え?」
「さっき……公園で見かけた時、なんだかちょっと、暗い顔してたのかなって」
「イヤ……別に」
そりゃまあ、「シゴトに疲れてる」っていえば疲れてるけどな。
「まあ、『ショボンとして見えた』っていうなら、腹減ってたからじゃないか、たぶん」
「ふうん……名前とは違うんですね」
「人間、そういつもいつも元気なワケないだろ」
「そうですね」
少年が応じた。あのごく淡々とした口調で、声で。
「あ、でも……」
「なんだよ」
「場所によっては元気……みたいです」
――って。
オイ、オマエ。
「さっきの、あれは……その、って、やっぱ見てやがったのかよ?!」
脱衣場の――
「さっき、っていうか。今だって」と、少年がスッと目線を下げる。
――え?! なんで。
勃ってるし。また。
だから、なんでだよ?! なんだってこんな。
「生殖器の方は『名が体を表して』元気いっぱいなんですね」
――せいしょ、く…き。
「なっ、えっ……そういうコトを、シレッと、オマエ。中学生だろうが」
「どうしてですか? 中学生だって勃起くらいします」
「ボッ……!?」
「旗手さんだって、もう、してたでしょう?」
「だから、やめ……そんな、ボッ…キ、とか言うな、ハズかしいだろうが」
「別に? 犬の陰茎の勃起とかは、しょっちゅう見ますし」
「だからっ! ちゅうがくせいが、んなコトを言うなぁっ!」
「……ああ、もう。うるさいオッサンだな」
ポソリと、少年がひとりごちるように溜息をつく。
そんな――ごくちいさな不平じみた呟きが。
なぜかあたかも。
「Shush!」というcommandででもあるかのように響いて。
だから――
その瞬間に、オレはピタリと口をつぐまざるをえなくった。
そんなオレを見て、少年がキョトンと瞬く。
「あ、旗手……さん、えっと、僕。そんなつもりじゃ」
激しい戸惑いが、声の揺れに現れていた。
けどオレは、彼に何も言えないまま――何も答えられないままで。
プレイで「黙れ」のcommandに縛られた時のように。
強すぎるDomのglareにねじ伏せられた時のように――
なのに瞳が、期待に、ただただ輝いてしまうのを止められなくて。
腰が背筋に、ひたひたと滴り満ちる痺れ。
張りつめる沈黙。
オレの心臓の音だけが、部屋に溢れて降り積もる。
少年が、ひとつ深く溜息をついた。
瞼を閉じる。
スローモーションの長い睫毛。
そしてまた目を開けると、ゆっくりと腕を組み、軽く首を傾げながら少年は言う。
「Kneel」と――
込み上げる恍惚。
ああ、ダメだ、ヤメロ。
オレにとって、それは――
「魔法のコトバ」
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