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これはキスの初歩です

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 ウォルターさんと買い物に行った次の日の朝、『絶対に俺が買った服で仕事に行くこと!』という言いつけの通り、私は買ってもらった菫色のスカートに白いシャツを合わせて着替えをした。

 靴も少し高さのあるパンプスを履く。気づかなかったが、高い靴を履くと脚が細く見える気がして美しいということがわかった。世の中の女性はこうして美しさの努力をしているのかと思うと、敬服の気持ちがわいてくる。
 髪型は昨日のお店の人がやってくれたようにはできなかったので、とりあえずポニーテールにして結び目を翠玉のバレッタで留めた。

「これで良い、はずです」

 確実に以前の自分とは違う格好をしているのはわかっても、それが良いかどうかまでは自信がない。
 『結婚相手を見つけて父を喜ばせる』その決意を再確認し、深呼吸を一つして、私は自分の部屋を出た。


 
***


 王城で働く侍女や文官たちはお城の敷地内にある寮で生活している人が多い。私もその一人で仕事場にたどり着く道程は、ものすごく短い。
 ウォルターさんなんかは貴族の名家なので城下町にお屋敷があり、そこからお城へ来ているらしい。

 仕事場まですぐそこ、というはずなのに先ほどからすれ違う人たちの視線が妙に痛い気がしてすごく遠く感じる。
 なにか変だろうか。人によっては、すれ違いざまにわざわざ二度見して私の方を確認している。

 早く事務所に着いてほしい、と念じながら歩いていると、扉の近くでビスティさんとばったり出会った。

「ルルアンナさん! なになに?! めっちゃ可愛いじゃないですかぁ!」

 ビスティさんが目をまん丸くさせて驚いている。
 可愛い、と声をかけられて何となく浮足立つような心地がした。そういった類の誉め言葉には、あまり関心はないと思っていたものの、素直に嬉しく思っている自分に少し驚く。

「ビスティさん、ありがとうございます」
「何か心境の変化ですか~? それとも彼氏できました?」
「彼氏はいません」
「だと思ってました! ってかメガネ取ると美人じゃないですか!」

 自分のことを地味だと思ったことはあるが、美人とは思ったことはない。さすがにそれは美辞麗句だろう、と聞き流す。

「ビスティさん。事務室へ行きましょうか」
「早速仕事の話っ。中身は変わってないですね~。入りますかー」

 事務室へ入ると一斉に視線を集めてしまった。この視線が良いものなのか悪いものなのか判断がつかない。

「みんなルルアンナさんのこと見てますね~。いいな~。私も雰囲気変えようかな」

 そう言ってビスティさんは自分の髪を指でくるくると回し始める。金髪巻き毛のビスティさんは、存在だけで派手で可愛らしいので何もしなくても良い気がするが。

「ビスティさんは何もしなくても可愛いですよ」
「……ルルアンナさんって小悪魔って言われません?」
「小悪魔?」
「いや、いいですいいです~。気づいてないんなら」

 すっきりしない言い方のビスティさんを不思議に思いながらも、いつも通り自分の執務机に座って事務仕事を始めた。


***


 仕事を始めてから、何刻か経ったころ。
 今日はなぜか文官の同僚たちからやたら話しかけられる。それも仕事ではないどうでもいい話だったり、仕事の話でも大した話ではない。
 仕事人間であり、外交的でない私は、次から次へと話しかけられることにだんだんと苛々が募ってきた。

「ルルアンナさ~ん」
「なんでしょう」
「もううんざりって、顔に出てますよ~。まだ昼前なのに~」
「……申し訳ありません」
「別にいいですけど~。気晴らしに騎士団に行ってきます?」

 騎士団、ここから離れられるのなら何処へでも良い。
 私はすがる思いでビスティさんの持っている報告書をひったくった。

「しばらく席を外します」

 ビスティさんのからかうような笑い声を背に、私は急いで事務室を出た。
 



***




 騎士団の屋敷へ行く途中で春の庭園の前を通りかかる。
 そういえば、ここでウォルターさんに初めてお願いをしたのだ。懐かしいな、と目を細めて眺めていると、一人の男性が近づいてきた。
 
「あれ、もしかしてルルアンナさんですか?」

 見覚えのない、騎士の格好をした青年が私を呼び止める。

「何か?」
「すごい可愛くなったから気づかなかったよ。どうしてここに居るの?」

 また仕事に関係のない会話。
 思わずはぁ、とため息が漏れた。

「ここへは仕事で来ました。貴方も仕事があるでしょう。無駄な会話は控えてください」

 そう言って目を見つめると、すみません、と慌てて青年が去って行った。青年の向かった先をじっと見つめていると、後ろの方からくすくすと笑い声が聞こえてくる。
 はっとして振り返ると。庭園の隅で柱に寄っかかっているウォルターさんが笑っていた。

「ウォルターさん!」
「せっかく口説かれてるんですから、あんな言い方しちゃ駄目でしょ!」
「今の口説かれてたんですか?」
「気づかないとは……。いやーやっぱりルルアンナさんは面白いですね」

 ウォルターさんはにこにこと機嫌良さそうに笑っている。

「なぜウォルターさんはここに?」
「ルルアンナさんに用があったんですよ。事務室に行ったら騎士団の方へ向かったって言ってたんで」
「私に?」

 ウォルターさんがゆっくりと近づいて来る。
 用事とはなんだろうか。色々と頭の中を探るも、思い当たることがない。そう思い巡らせている中、目の前まで来たウォルターさんが手を伸ばしてきた。
 何をされるのかわからず、びくっと体を強ばらせる。
 そのままウォルターさんの手は私の耳の辺りまで来て、ひょいと私の髪の毛をすくって耳にかけた。

「今夜、家まで来てもらえますか?」

 その言葉にどきっと心臓が跳ねる。

「は、はい」

 思わず私は二つ返事で頷いた。
 ついに今夜から新しい指導が始まる。緊張から胸がそわそわと音を立て始めた。

 今日は多くの人に話しかけられて鬱蒼とした気分だったのに、ウォルターさんに話しかけられた途端に霧が晴れたかのようにすっきりとした。
 なぜだろう。ウォルターさんの顔を見るだけで安心する気がする。不思議だな、と私は思っていた。
 

***


 
 仕事終わりにウォルターさんが手配してくれていた馬車に乗り込んで公爵邸へと向かった。ウォルターさんは仕事が早く終わったらしく、すでに屋敷へと帰っていた。

 馬車に乗って公爵家の邸宅へとたどり着くと、玄関には侍女が立って待っていた。
 何も言わなくても全てわかっているかのように侍女は私を部屋に案内してくれ、そしてすぐに湯あみの準備もする。

 湯あみから上がれば上品なデザインの軽やかなワンピースが用意されていて、櫛で髪の毛をとかし、オイルまで塗りこめられる。私は、完璧なもてなしにすっかり感心してしまっていた。
 夜の遅い時間に女性が訪ねてくることに、誰も何も思わないのだろうか。
 侍女たちの淡々としているというか慣れているというかのその態度は、それまでのウォルターさんの遍歴を語っているようだった。さすが『奔放貴族』の名を持つだけのことはある。

 準備が整っていよいよウォルターさんの部屋へと向かうことになった。
 自分の体からどきどきと心臓の脈打つ音が聞こえてくる気がする。

――こんこん

 部屋をノックすると、中からどうぞという声が聞こえて来た。ゆっくりとドアを開ける。
 ドアを開けた先にはウォルターさんが見えた。彼はベッドに腰かけていてラフな黒いシャツを着ている。私をみるなりにっ、と口の端を引いた。

「遅かったですね。覚悟はできてます?」
「も、もちろんです」
「じゃあ、隣に座ってください」

 私は部屋に入り、ウォルターさんの座っているベッドへとぽんっと腰掛けた。
 どきどきと体を鼓動させている私にはお構いなく、ウォルターさんはすぐに私の手を掴み、私をじっと見つめてくる。

 どきどきする。

 ここまでで既に体はがちがちで、歯が鳴りそうだった。ウォルターさんはゆっくりと顔を近づけて、私の唇へキスをする。

「んっ」

 どきんっと一際大きく心臓が鼓動した。
 ウォルターさんはそのまま私の頭を手で押さえて、後ろに倒れないようにと支えてくれている。

(あ、柔らかい……)

 ウォルターさんの柔らかい唇が自分の唇に触れている。ふわりとした触感と、生暖かい体温に、体が勝手にぶるりと震えた。なぜか目尻にじわりと涙がうかびそうになってぎゅっと目を瞑る。

(この気持ちは……、何でしょう……?)

 きゅん、となにかが胸に込み上げてきた瞬間、ウォルターさんが唇を離した。

「はぁ、ちょっと可愛いな……」
「?」

 ウォルターさんは横を向いて腕で口を押さえている。心なしか目元が赤いような気がした。

「きゃっ」

 ウォルターさんがベッドへ私を押し倒す。上から覆いかぶさるような形になって、ウォルターさんが私を見下ろした。整った綺麗な顔が私を覗く。ウォルターさんはかっこいい。

「ルルさんって呼んでも良いですか?」

 思わぬ提案に目を見開く。
 ルルさん、誰かに愛称で呼ばれるなんて初めてだ。なんだかくすぐったい。でも、ウォルターさんに呼ばれるなら良い気分だと思った。

「……はい、大丈夫です」

 そう言うとウォルターさんの目尻が下がった。

「ルルさん、」

 少しかすれた声で自分の名を呼ばれ、かぁっと体が熱くなった。なんだか恥ずかしい。

 ウォルターさんはそっと顔を私に近づけてくると、唇にちゅっとキスを落とした。それを皮切りに軽い、触れるだけのキスを何度か繰り返す。

「んっ、ん」

 私もなんとか真似しようと思うものの、体が強張るばかりでなかなか上手くできない。

「大丈夫、力を抜いてください」
「は、はい」
「唇は少し突き出すのがコツです。でも力を入れないで」
「こう、ですか?」

 ウォルターさんが愛おしそうに目を細めた。

「…そう、可愛いです。ついばむように、」
「ん、んんっ」

 ウォルターさんはちゅ、ちゅ、と角度を変えて何度も短いキスを繰り返す。

 厭らしいというよりも、愛情を確かめ合うような可愛らしいキス。愛のある関係ではないはずなのに、不思議と愛しさが増していくような、不思議な感覚。
 何度も唇をあわせる内に、胸の鼓動が早くなって息が上がってきた。

「ふぁ、ん、ん、ぁ」

(なぜでしょう、キスをするたび、どきどきが止まりません……)

 ぎゅっと自分の拳を握って、先ほどからくる切なさをなんとか逃がそうとする。私の手首を掴んでいるウォルターさんは気づいているはずなのに、それでもウォルターさんはキスをやめない。

 短いキスだけじゃなくて、たまにちゅうっと押し付けるようなキスもされて、その緩急に、頭が翻弄されていく。

「んんっ、ん、ぅ、ん!」

 気づけば降り注がれるキスに夢中になっていた。何度かの短いキスの後に、長いキスを一度されると、ぎゅっと胸が締め付けられる切なくなる。

 もっと、もっと、ウォルターさんの柔らかい唇が欲しい。

 私は掴まれてない空いている方の手で、ついウォルターさんのシャツをくしゃりと掴んでしまった。
 ぱっ、と離れてウォルターさんがキスをやめる。

「楽しんできました? バードキスって言うんですよ。軽いキスだから、慣れてなくても楽しめるでしょ」
「んっ」

 ウォルターさんはそう言ってまたキスをひとつ、ふたつ落とす。胸がきゅんと痛くなって、はぁ、と息がこぼれた。

「どんな感じですか?」
「わ、私、なんだか、こんなこと楽しんで良いんでしょうか」

 先ほどから思わぬ自分の感情の変化に混乱して、声が震えてしまう。

「もちろん」

 ウォルターさんが優しい目つきで微笑む。体と顔は火照り、とても熱くなっている。

「私、さっきから、なぜか、ウォルターさんの唇が、何度も私の唇にあたるのが、なんだか、嬉しいんです」

 そう告げた途端、ウォルターさんが目を大きくして、息を呑んだのがわかった。

 そして次の瞬間、ウォルターさんはぎゅうっと私のことを力強く抱きしめて、そのまま私の唇へ、自分の唇を強く押しつけた。

「んんんっ!」

 力強い抱擁に息が苦しくなって、キスの合間から息がこぼれる。そんなことはお構いなしにウォルターさんはちゅうっと、私の唇を強く吸う。

 もう、息が止まってしまう、と思った瞬間、ようやっと体を離した。

「はぁっ、あ、はぁ、く、苦しいです」
「す、すみません、つい」

 ウォルターさんも何故か放心しているようで、顔を赤らめたまま私を見下ろしている。

「あの、」
「はい?」
「今のは何ていうキスなんでしょうか」

 私がそう尋ねると、ウォルターさんは苦々しそうに顔を歪めた。

「今のは……秘密です」

 そう答えたウォルターさんは、私の胸に顔をどかっと埋めた。

 それからウォルターさんは暫くそのままだった。



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