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第十六章
第一話
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チャイムが鳴って、鬼平はようやく動けるようになった。その背中を日がさして温めていた。だが、その温もりを感じながら身体を動かしているのに、鬼平には、それがまるで他人の身体のような気がしていた。
そして階段を下りると、急いで智香のいる教室に向かい、中を覗き込んだ。――智香はいなかった。
智香は階段を下りてから、教室には戻らずに、そのまま学校の外に出た。学校に戻るつもりはなかった。どこか遠くへ行きたかった。消えてしまいたかった。
外はまだ昼で、晴れた空には雲がまだらに広がっていた。六月に入って数日、梅雨はもう鼻の先まで来ていたが、今この瞬間、幸いにも傘を持たずに学校を去った智香のもとにはまだ来ていない。
だがその幸運に気づくこともなく、明るい色の街並みを楽しそうに眺めることもなく、智香は一人で歩き続け、やがて公園に入った。そこで座れる場所を探したが、小さい子供を連れた親子が数組、遊具で遊んでいるのが見えて、来た道を戻った。
その後も智香は亡霊のように街をさまよった。歩き続ける内に時々、百川の言葉のつけた真新しい傷が痛んだが、その度に足を早めて、意識を外側へ集中させた。
智香はそれから、他の公園を見つけ、そこの小さなベンチに座ったが、腰を下ろした瞬間、少し向こうで犬の散歩をしている女性がちらちらこっちを見ているのがわかって、急いでそこを去った。
鬼平は、智香を追うために、階段を駆け下り、学校を出た。だが既に彼女の姿はどこにもなかった。その後、しばらくそこで右往左往していた鬼平だったが、やがて迷いを振り切るかのように、一心不乱に自分の家に向かって走った。
こうして、智香は自分でもどうやってたどり着いたか思い出せないうちに、どこかの林の中にある公園のベンチに一人きりで座っていた。
その薄暗い公園は、泥と木くずだらけになった看板と、空に伸びた大きな二つのスギが入り口で、スギやヒノキが植えられた林は真っすぐ空に向かって立ち並び、日の光や、あらゆる視線や人の出入りを防いでいた。
林は中に人を誘い込むようにして一本の道を奥から伸ばしていて、普段なら絶対に足も踏み入れないようなその公園に智香は入ったのだった。
落ち葉で埋め尽くされた道を少し進むと、開けた場所に出て、寂れた遊具がいくつか、忘れられたように置かれていた。そこには他の公園と違い、人っ子一人見当たらない。近くのベンチの上にも、ヒノキの葉が散乱していただけだった。智香はそれを手に取り眺めた後、持ったまま座った。
風が林の中を通り過ぎ、敷き詰められた茶色の枯れ葉の絨毯の上に立っている木々は枝を揺らして音を立てていた。智香は一人だった。一人で、もうどこにも行かなかった。
自宅のアパートに着いた鬼平は、乱暴に鍵をドアに差し込み、玄関に鞄を投げ捨てた。すぐに自分の部屋に入り、押入れを開け、その奥へと手を伸ばす。彼はびんが掴めずにうめき声をあげた。
ようやくびんを掴むと、鬼平は引っ張り上げた。尻もちをつき、思わず手を離すと、びんはカーペットの上でくるくる回って、こっちを向くような角度でピタッと回るのをやめた。
びんは、鈍く光り、変わらぬ怪しげな輝きを放っていた。
迷っている暇はなかった。
鬼平はびんを手に取り、額にくっつけると、願いを言った。
智香は公園のベンチに座っていつまでも、自分でも情けなくなるくらに泣いていた。
そして、泣くと、最近は特に両親が離婚して不登校になった中学時代のことを思い出した。あれから自分は強くなったと思っていたのに。同じようなことで泣いているのに気付いて、彼女は涙を止めた。
そして彼女は、目を真っ赤にしたまま、顔をあげ、ぼんやりとヒノキが揺れているのを眺めていた。林は、互いが囁き合うようにして揺れていた。とても静かだった。誰の声も聞こえない。外は少し蒸し暑いが、ここはひんやりとしていて気持ちがいい。
深呼吸をすると、枯れた草や、樹木の香りが肺の中に入ってきて、そうしていると、さっきは耳に入らなかった鳥のさえずりが聞こえてきた。
葉が揺れる音は、荒れ狂った智香の心を静めてくれて、乱れた呼吸を整える手助けをしてくれた。強い風が吹いて、智香の髪が浮き上がった。風は、頬に残っていた涙一粒をさらっていった。
智香は、その風の中に、思いがけない匂いが混じっているのに気付いた。それがなんの匂いなのかもすぐわかった。だが、すぐには信じられなかった。――そんなこと起こるはずがない。
智香は自分の期待よりも、その感覚が間違っていないことを確かめるためだけに顔を上げた。しかし、涙でぼやけた視界の向こうに見えたのは、智香が思い描いていた、鬼平の姿だった。彼はそこで、片手にびんを持ち、怯えたような表情をして智香を見ながら立っていた。
そして階段を下りると、急いで智香のいる教室に向かい、中を覗き込んだ。――智香はいなかった。
智香は階段を下りてから、教室には戻らずに、そのまま学校の外に出た。学校に戻るつもりはなかった。どこか遠くへ行きたかった。消えてしまいたかった。
外はまだ昼で、晴れた空には雲がまだらに広がっていた。六月に入って数日、梅雨はもう鼻の先まで来ていたが、今この瞬間、幸いにも傘を持たずに学校を去った智香のもとにはまだ来ていない。
だがその幸運に気づくこともなく、明るい色の街並みを楽しそうに眺めることもなく、智香は一人で歩き続け、やがて公園に入った。そこで座れる場所を探したが、小さい子供を連れた親子が数組、遊具で遊んでいるのが見えて、来た道を戻った。
その後も智香は亡霊のように街をさまよった。歩き続ける内に時々、百川の言葉のつけた真新しい傷が痛んだが、その度に足を早めて、意識を外側へ集中させた。
智香はそれから、他の公園を見つけ、そこの小さなベンチに座ったが、腰を下ろした瞬間、少し向こうで犬の散歩をしている女性がちらちらこっちを見ているのがわかって、急いでそこを去った。
鬼平は、智香を追うために、階段を駆け下り、学校を出た。だが既に彼女の姿はどこにもなかった。その後、しばらくそこで右往左往していた鬼平だったが、やがて迷いを振り切るかのように、一心不乱に自分の家に向かって走った。
こうして、智香は自分でもどうやってたどり着いたか思い出せないうちに、どこかの林の中にある公園のベンチに一人きりで座っていた。
その薄暗い公園は、泥と木くずだらけになった看板と、空に伸びた大きな二つのスギが入り口で、スギやヒノキが植えられた林は真っすぐ空に向かって立ち並び、日の光や、あらゆる視線や人の出入りを防いでいた。
林は中に人を誘い込むようにして一本の道を奥から伸ばしていて、普段なら絶対に足も踏み入れないようなその公園に智香は入ったのだった。
落ち葉で埋め尽くされた道を少し進むと、開けた場所に出て、寂れた遊具がいくつか、忘れられたように置かれていた。そこには他の公園と違い、人っ子一人見当たらない。近くのベンチの上にも、ヒノキの葉が散乱していただけだった。智香はそれを手に取り眺めた後、持ったまま座った。
風が林の中を通り過ぎ、敷き詰められた茶色の枯れ葉の絨毯の上に立っている木々は枝を揺らして音を立てていた。智香は一人だった。一人で、もうどこにも行かなかった。
自宅のアパートに着いた鬼平は、乱暴に鍵をドアに差し込み、玄関に鞄を投げ捨てた。すぐに自分の部屋に入り、押入れを開け、その奥へと手を伸ばす。彼はびんが掴めずにうめき声をあげた。
ようやくびんを掴むと、鬼平は引っ張り上げた。尻もちをつき、思わず手を離すと、びんはカーペットの上でくるくる回って、こっちを向くような角度でピタッと回るのをやめた。
びんは、鈍く光り、変わらぬ怪しげな輝きを放っていた。
迷っている暇はなかった。
鬼平はびんを手に取り、額にくっつけると、願いを言った。
智香は公園のベンチに座っていつまでも、自分でも情けなくなるくらに泣いていた。
そして、泣くと、最近は特に両親が離婚して不登校になった中学時代のことを思い出した。あれから自分は強くなったと思っていたのに。同じようなことで泣いているのに気付いて、彼女は涙を止めた。
そして彼女は、目を真っ赤にしたまま、顔をあげ、ぼんやりとヒノキが揺れているのを眺めていた。林は、互いが囁き合うようにして揺れていた。とても静かだった。誰の声も聞こえない。外は少し蒸し暑いが、ここはひんやりとしていて気持ちがいい。
深呼吸をすると、枯れた草や、樹木の香りが肺の中に入ってきて、そうしていると、さっきは耳に入らなかった鳥のさえずりが聞こえてきた。
葉が揺れる音は、荒れ狂った智香の心を静めてくれて、乱れた呼吸を整える手助けをしてくれた。強い風が吹いて、智香の髪が浮き上がった。風は、頬に残っていた涙一粒をさらっていった。
智香は、その風の中に、思いがけない匂いが混じっているのに気付いた。それがなんの匂いなのかもすぐわかった。だが、すぐには信じられなかった。――そんなこと起こるはずがない。
智香は自分の期待よりも、その感覚が間違っていないことを確かめるためだけに顔を上げた。しかし、涙でぼやけた視界の向こうに見えたのは、智香が思い描いていた、鬼平の姿だった。彼はそこで、片手にびんを持ち、怯えたような表情をして智香を見ながら立っていた。
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