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第十七章
第一話
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「あれ?」
智香は目に溜まっていた涙を指で拭い、首を振ると、ついさっき気付いたかのように鼻声で言った。
鬼平は目と鼻を真っ赤にしている智香を見て明らかに動揺していた。
挙動不審になり、髪を掻きむしったり、視線をあちこちに振り回したりしていた。
智香は鬼平の様子を見て笑った。
「偶然だね。こんなところで会うなんて……本当に、凄い偶然」
鬼平は身体を固まらせた。そのまま気まずそうに顔を俯けた。それを見て智香が聞く。
「それとも、私のこと、つけてきた? って、そんなわけないか」
智香は笑い飛ばした。そんなわけがない。いくら、我を失っていたとはいえ、後ろに誰かいたら気付くはずだ。それに自分でも予想できない道を歩いてきたのだ。
「ち……」
初めて、鬼平の声を聞いて智香は頷いた。そして注意深く耳を澄ました。
「ち、近いんだ。い、家から」
「そう」
智香は目を伏せ、微笑んだ。
「なら、私は運がよかったかな。ちょっと前に来られたら、とてもじゃないけど、見せられる顔をしてなかったし」
智香が顔を上げて取り繕って言うと、かわりに鬼平の視線は沈んでいった。やがて智香は鬼平が何かを言うとしていることを感じ取り、首を傾げた。
「……こ、これ!」
鬼平は、持っていた白いびんを智香の目の前に差し出しながら言った。
「え、何?」
智香は驚いてそのびんを見た。鬼平はあたふたしていた。勝手に、このびんを見せれば自分の意図をわかってくれる、と思い込んでいたのだった。鬼平は唾を飲みこみ、自分が言える言葉を探した。
「う、噂。……知ってる?」
ようやくその言葉が見つかり鬼平が言った。智香は首を傾げる。
「何? 噂……? 何のこと?」
ますます混乱していく智香を見て、鬼平は不安になった。自分の足元が崩れ去ってしまうような気がした。智香は怪訝そうな顔をして、びんと鬼平を見つめていた。鬼平はどうにか説明しないといけないと思って、しかし次の言葉が見つからず焦っていた。すると智香が、
「あ」
と声をあげ、一時表情が明るくなったと思うと、すぐに曇がかった。
「え? それ、もしかして、えーと何だっけ『びんの悪魔』って言ったっけ?」
その単語を聞くと、鬼平は顔を明るくさせて、何度も頷いた。だが智香は次の瞬間、口を閉ざしていた。それから鬼平のことを不思議そうに見た。
鬼平は智香の表情を見て俯いた。それを見た智香は突然笑い出した。鬼平は困惑して智香を見つめた。
「何? それって冗談のつもり? でも、なんか今はなんでも面白いかも」
智香が笑うのに合わせて、鬼平も薄っすら笑ったが、自分の思いが何も伝わっていないと気付いて、落胆していた。そして、やはり自分は何もできないのだから、このまま、すべてを冗談で済ませてしまって、智香と別れて、もう二度と会わないことまで考えた。
――そうだ、何も、自分みたいに何も上手く喋れないし勇気もない男が出しゃばらなくても、もっと強くて、優しくて、たくましい、篠田みたいな男が、どうにかしてくれるだろう……。
「ねえ、ちょっとそれ見せてよ」
が、そんな鬼平の思いなど知りもしない智香は笑顔で手を伸ばした。鬼平はすぐにびんを渡そうと腕を伸ばして……そこで止まった。智香は首を傾げた。
鬼平が、智香にこのびんの力を使ってもらいたいのは確かだった。でも急に不安になったのだ。もし(どうしてそんな大事なことを、今まで考えなかったのか不思議だったが)、なにか大変なことを言ったら、どうなるのだろうと。
そんなこと言わないとわかっていたし、確かめたわけでもないけど、このびんには、どこか底知れない力を感じていたのだ。だが、もちろんそんな複雑な感情をどう伝えればいいかわからず、黙り込んだ。
「見るだけだよ。盗らないから」
智香は髪を整えながら立ち上がった。鬼平は、――渡さないわけにもいかず、すぐさまびんを手渡す。
「ふーん。案外普通なんだね。もっとなんか禍々しい感じを想像してたんだけどな」
智香はびんを持って回転させながら、その表面を、まるでどこかから悪魔の尻尾でも飛び出していないかと、探すみたいにしみじみと眺めていた。鬼平の方は、智香がどんな願いを言うのか、ハラハラして見ていた。
「ねえ、これに願いを言うんでしょ?」
鬼平は頷いた。
「どんな願いも叶えるんでしょ? あ、不老不死はダメなんだっけ?」
また頷く。
「それで、死ぬまでに持ってたら地獄行き、だっけ?」
三度目も頷いた。
「あと、びんを手放すために、買った値段よりも一円でも安く売らないといけない……だっけ? ならさ、ちょっと思ったんだけど、ここにびんを置いていったらどうなるの?」
鬼平は頷かなかった。言葉が必要だった。彼は言葉を探した。
「お、置けない。戻ってくる」
「え? 本気で言ってる?」
智香は、からかうのはやめてよ、というように疑わしそうな目で鬼平を見つめた。
「嘘、じゃない」
智香は目に溜まっていた涙を指で拭い、首を振ると、ついさっき気付いたかのように鼻声で言った。
鬼平は目と鼻を真っ赤にしている智香を見て明らかに動揺していた。
挙動不審になり、髪を掻きむしったり、視線をあちこちに振り回したりしていた。
智香は鬼平の様子を見て笑った。
「偶然だね。こんなところで会うなんて……本当に、凄い偶然」
鬼平は身体を固まらせた。そのまま気まずそうに顔を俯けた。それを見て智香が聞く。
「それとも、私のこと、つけてきた? って、そんなわけないか」
智香は笑い飛ばした。そんなわけがない。いくら、我を失っていたとはいえ、後ろに誰かいたら気付くはずだ。それに自分でも予想できない道を歩いてきたのだ。
「ち……」
初めて、鬼平の声を聞いて智香は頷いた。そして注意深く耳を澄ました。
「ち、近いんだ。い、家から」
「そう」
智香は目を伏せ、微笑んだ。
「なら、私は運がよかったかな。ちょっと前に来られたら、とてもじゃないけど、見せられる顔をしてなかったし」
智香が顔を上げて取り繕って言うと、かわりに鬼平の視線は沈んでいった。やがて智香は鬼平が何かを言うとしていることを感じ取り、首を傾げた。
「……こ、これ!」
鬼平は、持っていた白いびんを智香の目の前に差し出しながら言った。
「え、何?」
智香は驚いてそのびんを見た。鬼平はあたふたしていた。勝手に、このびんを見せれば自分の意図をわかってくれる、と思い込んでいたのだった。鬼平は唾を飲みこみ、自分が言える言葉を探した。
「う、噂。……知ってる?」
ようやくその言葉が見つかり鬼平が言った。智香は首を傾げる。
「何? 噂……? 何のこと?」
ますます混乱していく智香を見て、鬼平は不安になった。自分の足元が崩れ去ってしまうような気がした。智香は怪訝そうな顔をして、びんと鬼平を見つめていた。鬼平はどうにか説明しないといけないと思って、しかし次の言葉が見つからず焦っていた。すると智香が、
「あ」
と声をあげ、一時表情が明るくなったと思うと、すぐに曇がかった。
「え? それ、もしかして、えーと何だっけ『びんの悪魔』って言ったっけ?」
その単語を聞くと、鬼平は顔を明るくさせて、何度も頷いた。だが智香は次の瞬間、口を閉ざしていた。それから鬼平のことを不思議そうに見た。
鬼平は智香の表情を見て俯いた。それを見た智香は突然笑い出した。鬼平は困惑して智香を見つめた。
「何? それって冗談のつもり? でも、なんか今はなんでも面白いかも」
智香が笑うのに合わせて、鬼平も薄っすら笑ったが、自分の思いが何も伝わっていないと気付いて、落胆していた。そして、やはり自分は何もできないのだから、このまま、すべてを冗談で済ませてしまって、智香と別れて、もう二度と会わないことまで考えた。
――そうだ、何も、自分みたいに何も上手く喋れないし勇気もない男が出しゃばらなくても、もっと強くて、優しくて、たくましい、篠田みたいな男が、どうにかしてくれるだろう……。
「ねえ、ちょっとそれ見せてよ」
が、そんな鬼平の思いなど知りもしない智香は笑顔で手を伸ばした。鬼平はすぐにびんを渡そうと腕を伸ばして……そこで止まった。智香は首を傾げた。
鬼平が、智香にこのびんの力を使ってもらいたいのは確かだった。でも急に不安になったのだ。もし(どうしてそんな大事なことを、今まで考えなかったのか不思議だったが)、なにか大変なことを言ったら、どうなるのだろうと。
そんなこと言わないとわかっていたし、確かめたわけでもないけど、このびんには、どこか底知れない力を感じていたのだ。だが、もちろんそんな複雑な感情をどう伝えればいいかわからず、黙り込んだ。
「見るだけだよ。盗らないから」
智香は髪を整えながら立ち上がった。鬼平は、――渡さないわけにもいかず、すぐさまびんを手渡す。
「ふーん。案外普通なんだね。もっとなんか禍々しい感じを想像してたんだけどな」
智香はびんを持って回転させながら、その表面を、まるでどこかから悪魔の尻尾でも飛び出していないかと、探すみたいにしみじみと眺めていた。鬼平の方は、智香がどんな願いを言うのか、ハラハラして見ていた。
「ねえ、これに願いを言うんでしょ?」
鬼平は頷いた。
「どんな願いも叶えるんでしょ? あ、不老不死はダメなんだっけ?」
また頷く。
「それで、死ぬまでに持ってたら地獄行き、だっけ?」
三度目も頷いた。
「あと、びんを手放すために、買った値段よりも一円でも安く売らないといけない……だっけ? ならさ、ちょっと思ったんだけど、ここにびんを置いていったらどうなるの?」
鬼平は頷かなかった。言葉が必要だった。彼は言葉を探した。
「お、置けない。戻ってくる」
「え? 本気で言ってる?」
智香は、からかうのはやめてよ、というように疑わしそうな目で鬼平を見つめた。
「嘘、じゃない」
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