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第三十章
第二話
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幾つもの変化の中で智香にとって特に意外だったのは、百川が智香を避けるようになったことだ。
相変わらず百川は智香とすれ違うと、憎むような目つきをすることがあったが、それ以上突っかかってくる、ということはなくなった。
それがあの時のせいなのか、それとも三國の件がそうしたのか、智香には知りようがなかったが、とにかく、そうなったのだ。
智香も、百川に申し訳ない気持ちがあったが、だからといって、わざわざ謝りに行くことはなかった。それに正直に言うなら、厄介ごとが一つ減って肩の荷が下りた気分だった。それでも少し、わかりあえなかったことに、寂しさを感じたけれども。
もう一つ。最後に、智香のお母さんとの変化もあった。
智香のお母さんは、学校に説明をする前、朝食の時に、テーブルの上に乗っていたレコーダーを見て、何に使うのか聞いた。
そして事件のことを初めて知ったお母さんは、驚き、悲しんだ後、智香を抱きしめた。その後、自分も手伝うのだと息巻いた。だが、智香は照れくさく感じながら、元々母親に頼る気がなかったのだと気付いた。
そうして、智香はそれを断り、娘があっけらかんとしているのに、智香のお母さんは半ば呆れながら智香の顔を見つめて、「やっぱり私の子だわ」と言って笑っていた。
智香はなんとなく、懐かしいような気がしながらも、何かが変わったことを感じ取って、寂しさを覚えたのだった。
「――大体こんなものかな。あー、本当に疲れた。この一週間、休む暇もなくって」
ようやくすべてを終えた後の放課後。
一週間ぶりに会った鬼平に向かって長い話を終えた智香は、僅かに開いた窓の外を見た。湿った空気が流れ込んできていた。外は雲行きが怪しく、今にも雨が降ってきそうな天気だった。
教室には智香と鬼平の二人だけが向かい合って座っている。智香は元気を装っていたが、目の下にできた隈は、いつものまぶしい笑顔でさえ疲れを隠せていなかった。智香は口元に手をやってあくびをした。
「そっちはどうだった?」
智香に尋ねられて、鬼平は口ごもった。この一週間、鬼平が智香にできることは何もなかった。話しかけようとして迷ってやめることの繰り返しだった。
でも智香は、鬼平の助けなど、もちろんびんの力なんてなくても、大きな苦難を乗り越えたのだった。もしこれが物語なら、ここで終わるべきだ、これ以上何を語ることがあるのだろう、と彼は思った。
「……と、特に何もなかった。……学校中、事件の話で持ちきりだったし」
淡々と、鬼平が答えた。智香は笑って、
「そう」
と上機嫌に返す。それからしばらく無言の時間があり、
「あ、そうだ。これ……」
と、智香は思い出して言って、鞄を開けた。そのまま、おもむろにびんを取り出し、机の上に置いた。
二人は、苦い気持ちでびんを見つめた。
「あの子には悪いことしちゃったな。もちろんあなたにも……」
智香は重くなった瞼を指で擦って、びんを見つめると意識を集中させた。
「あ、あのさ」
鬼平は髪の隙間から智香を覗き見ながら切り出した。
「何?」
「あ、あの時百川に何が起きたの? よ、よくわからなかった」
鬼平が聞くと、智香はしばらく黙って目を伏せた後、答えた。
「ああ、それはね、たぶん……ううん、本当のところは正直何にもわからないんだけど。でも私もあれからよく考えたっていうか、考えさせられたっていうか……」
自信なく、智香は答えた。その瞬間、今まで取り繕って隠していた彼女の疲れが、どっと現れたように見えた。しばらく首元に手をやりながら、それから智香は、自分の手を見つめると、重たい口を開いた。
「たぶんね、悪魔は私の悪意を読み取ってそれに応えたんじゃないかな」
鬼平は智香の言っている意味が分からず、彼女を見つめた。智香は笑って続けた。
「……あのさ、あんまり真面目に受け取らないでよ? 私がそう思ってるだけだから。私の考えでは、あの子が欲しいのはたぶん、誰からも傷つけられない容姿だったと思うんだよね。それで、悪魔はあの子にその姿を与えたの。でも、完璧な容姿なんてたぶんないから、ああいう形になったのね。ほら、美人の基準っていつも変わっていくじゃない。だからあの子は完璧になるために、想像の中で、何度も自分の容姿を否定しないといけなかった」
鬼平は智香をしばらく見つめた。彼には智香の言っていることはわかったが、その意味はよくわからなかった。
智香は悲しそうに笑った。
「正直ね、あれを見てざまあみろって思う自分もいたの。そうやって他人を評価しているだけの人間はそうなって当然だってね。でもね、私も、時々自分の身体に不満を持つことがある。ここがちょっと低いなとかさ」
彼女はそう言って自分の鼻を指差した。だが、鬼平にはそれは、他のどんな鼻よりも美しい鼻に見えた。智香は続けた。
「だから私は、別に百川のこと否定するつもりはないんだよ。あの子がしたことは許せないことだけど、でも、私だって、あの子の母親みたいな人がお母さんだったら、整形していたかもしれない。そうすれば少なくとも当面は酷い言葉を言われなくて済むわけだし。何かを言われても自分の顔じゃないから、痛くもかゆくもないって思うのかもしれない。いざとなったらまた作り替えればいいのかもしれないしね。そっちの方が楽なんだよ。一人しかいないお母さんを変えたり、自分の考えや、他人の考えを変えたりするよりね」
鬼平は黙って聞いていた。智香は苦々しい顔で言った。
「でもね、やっぱり納得できない。うまく言えないんだけどさ、それってやっぱり「自分」を否定しているんじゃないかなってどうしても思っちゃうんだ。意味がないとは思わないし、いいこともあると思うけど、そんな風に顔を変えても、変えられないこともあると思うの。でも、今回のことで、誰かの顔や身体を否定する言葉がどれだけ人を傷つけるかは嫌というほど思い知った。それだけは忘れちゃいけないって、最近、すごく思うようになった。散々あの子に酷いこと言って、今さら何言ってるの? って言われたら、そうなのかもしれないけど、でも、本当にそう思った……。どう? ちょっとは伝わった?」
鬼平は頷いた。
「それじゃ、今度はあなたの番だね」
智香は鬼平に微笑んだ。
相変わらず百川は智香とすれ違うと、憎むような目つきをすることがあったが、それ以上突っかかってくる、ということはなくなった。
それがあの時のせいなのか、それとも三國の件がそうしたのか、智香には知りようがなかったが、とにかく、そうなったのだ。
智香も、百川に申し訳ない気持ちがあったが、だからといって、わざわざ謝りに行くことはなかった。それに正直に言うなら、厄介ごとが一つ減って肩の荷が下りた気分だった。それでも少し、わかりあえなかったことに、寂しさを感じたけれども。
もう一つ。最後に、智香のお母さんとの変化もあった。
智香のお母さんは、学校に説明をする前、朝食の時に、テーブルの上に乗っていたレコーダーを見て、何に使うのか聞いた。
そして事件のことを初めて知ったお母さんは、驚き、悲しんだ後、智香を抱きしめた。その後、自分も手伝うのだと息巻いた。だが、智香は照れくさく感じながら、元々母親に頼る気がなかったのだと気付いた。
そうして、智香はそれを断り、娘があっけらかんとしているのに、智香のお母さんは半ば呆れながら智香の顔を見つめて、「やっぱり私の子だわ」と言って笑っていた。
智香はなんとなく、懐かしいような気がしながらも、何かが変わったことを感じ取って、寂しさを覚えたのだった。
「――大体こんなものかな。あー、本当に疲れた。この一週間、休む暇もなくって」
ようやくすべてを終えた後の放課後。
一週間ぶりに会った鬼平に向かって長い話を終えた智香は、僅かに開いた窓の外を見た。湿った空気が流れ込んできていた。外は雲行きが怪しく、今にも雨が降ってきそうな天気だった。
教室には智香と鬼平の二人だけが向かい合って座っている。智香は元気を装っていたが、目の下にできた隈は、いつものまぶしい笑顔でさえ疲れを隠せていなかった。智香は口元に手をやってあくびをした。
「そっちはどうだった?」
智香に尋ねられて、鬼平は口ごもった。この一週間、鬼平が智香にできることは何もなかった。話しかけようとして迷ってやめることの繰り返しだった。
でも智香は、鬼平の助けなど、もちろんびんの力なんてなくても、大きな苦難を乗り越えたのだった。もしこれが物語なら、ここで終わるべきだ、これ以上何を語ることがあるのだろう、と彼は思った。
「……と、特に何もなかった。……学校中、事件の話で持ちきりだったし」
淡々と、鬼平が答えた。智香は笑って、
「そう」
と上機嫌に返す。それからしばらく無言の時間があり、
「あ、そうだ。これ……」
と、智香は思い出して言って、鞄を開けた。そのまま、おもむろにびんを取り出し、机の上に置いた。
二人は、苦い気持ちでびんを見つめた。
「あの子には悪いことしちゃったな。もちろんあなたにも……」
智香は重くなった瞼を指で擦って、びんを見つめると意識を集中させた。
「あ、あのさ」
鬼平は髪の隙間から智香を覗き見ながら切り出した。
「何?」
「あ、あの時百川に何が起きたの? よ、よくわからなかった」
鬼平が聞くと、智香はしばらく黙って目を伏せた後、答えた。
「ああ、それはね、たぶん……ううん、本当のところは正直何にもわからないんだけど。でも私もあれからよく考えたっていうか、考えさせられたっていうか……」
自信なく、智香は答えた。その瞬間、今まで取り繕って隠していた彼女の疲れが、どっと現れたように見えた。しばらく首元に手をやりながら、それから智香は、自分の手を見つめると、重たい口を開いた。
「たぶんね、悪魔は私の悪意を読み取ってそれに応えたんじゃないかな」
鬼平は智香の言っている意味が分からず、彼女を見つめた。智香は笑って続けた。
「……あのさ、あんまり真面目に受け取らないでよ? 私がそう思ってるだけだから。私の考えでは、あの子が欲しいのはたぶん、誰からも傷つけられない容姿だったと思うんだよね。それで、悪魔はあの子にその姿を与えたの。でも、完璧な容姿なんてたぶんないから、ああいう形になったのね。ほら、美人の基準っていつも変わっていくじゃない。だからあの子は完璧になるために、想像の中で、何度も自分の容姿を否定しないといけなかった」
鬼平は智香をしばらく見つめた。彼には智香の言っていることはわかったが、その意味はよくわからなかった。
智香は悲しそうに笑った。
「正直ね、あれを見てざまあみろって思う自分もいたの。そうやって他人を評価しているだけの人間はそうなって当然だってね。でもね、私も、時々自分の身体に不満を持つことがある。ここがちょっと低いなとかさ」
彼女はそう言って自分の鼻を指差した。だが、鬼平にはそれは、他のどんな鼻よりも美しい鼻に見えた。智香は続けた。
「だから私は、別に百川のこと否定するつもりはないんだよ。あの子がしたことは許せないことだけど、でも、私だって、あの子の母親みたいな人がお母さんだったら、整形していたかもしれない。そうすれば少なくとも当面は酷い言葉を言われなくて済むわけだし。何かを言われても自分の顔じゃないから、痛くもかゆくもないって思うのかもしれない。いざとなったらまた作り替えればいいのかもしれないしね。そっちの方が楽なんだよ。一人しかいないお母さんを変えたり、自分の考えや、他人の考えを変えたりするよりね」
鬼平は黙って聞いていた。智香は苦々しい顔で言った。
「でもね、やっぱり納得できない。うまく言えないんだけどさ、それってやっぱり「自分」を否定しているんじゃないかなってどうしても思っちゃうんだ。意味がないとは思わないし、いいこともあると思うけど、そんな風に顔を変えても、変えられないこともあると思うの。でも、今回のことで、誰かの顔や身体を否定する言葉がどれだけ人を傷つけるかは嫌というほど思い知った。それだけは忘れちゃいけないって、最近、すごく思うようになった。散々あの子に酷いこと言って、今さら何言ってるの? って言われたら、そうなのかもしれないけど、でも、本当にそう思った……。どう? ちょっとは伝わった?」
鬼平は頷いた。
「それじゃ、今度はあなたの番だね」
智香は鬼平に微笑んだ。
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