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未来への恐怖

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彼は今日も所有するビルに訪れ、鍵が開いていることにどこか安心する。
それから真っ直ぐに彼女の部屋へと向かう。
そこにいた彼女の目は、変わりなく夜を見ていて、赤い雲が浮かんでいた。
そして、赤ん坊を抱えてゆっくりと揺れていた。

「おはよ」

間があって、俯いたまま細い声で彼女は挨拶した。
彼はそれに応えず一方的に話しかけた。

「今日は出掛けよう」

彼女の揺れが止まった。
遅れてキョトンとした顔が彼と向き合う。

「出掛けよう」

彼はもう一度繰り返した。
彼女は目をしばたたかせて、まだ驚いている。

「三度も言わせる気か」

「え、あーうん?」

間抜けに首をかしげる彼女。
彼はベッドが深く沈まないよう隣にそっと腰掛けて話を続ける。

「資料館へ行こう」

「そこって、金払って本読むとこだよね」

「本屋より安く済むぞ」

「うん。で、わたしを連れていくの」

「絵本が読み放題だ。お前にも赤ん坊にも良い薬になるだろう」

「薬って、それまるでわたしが病人みたいな言い方じゃん」

「ずっと暗い顔をしているからな」

「あんたもじゃん。人のこと言えんの」

彼女は肘で彼をつついて不機嫌を表す。
対して彼はさらに意地悪く返した。

「構ってほしいんだろう。行くぞ」

「は?なにそれムカつく!」

と怒ったものの、赤ん坊にミルクを飲ませてからついてくることになった。
初めて二人は一緒に出掛けた。
空は曇り模様で風も厳しいが、彼女の心は僅かにほどけたようだった。

 資料館はその名前の通り、資料を集めた施設だ。
一階には一般人に向けた本が幾らかあるのだが、数はそう多くない。
そして、事務室のある二階とその他の部屋がある四階以上に挟まれた三階には、国が発行する許可証を持った者だけが入れる特別な資料室がある。
そこには、探求家達が集めた資料の複製が納められている。
しかし全てではない。
希少価値のあるものは複製は作られず、国のお膝元にある中央資料館にそのまま保管される。
そこは厳しい審査を通して選ばれた者のみが入館を許されるので、彼のような探求家では入館することも難しい。

「入ったことはあるか」

資料館はそう遠くないところにあった。
彼女はボーっと屋上を見上げている。

「入ったことはあるか」

「んーん」

彼に続いて彼女も中へ入る。
空調のせいか、少し埃臭いジメっとした空気がこもっていた。

「外の方がマシかも」

「帰るか」

「や、せっかく来たし我慢くらいするよ」

「なら、金を払うぞ」

「どーも」

入り口の傍らにある受付の女に金を渡して奥へ進む。
さほど広くない室内には適当に本棚が並んでいた。

「左に絵本と、読み聞かせるためのスペースがある」

「椅子あんの」

「絨毯が敷いてある」

「この国にも優しさが残ってたんだ」

「俺は上へ行く。困ったら受付に話すといい」

「上?」

「上には探求家にとって為になる資料があるんだ」

「そう、ごゆっくり」

彼女はそう言って軽く彼の背中を叩いた。
彼は背中に残った小さな手の感触を気にしながらエレベーターへと向かった。
このビルに階段はなく、エレベーターが二基あるだけだ。

三階、受付にシワの入った許可証を置いて中へ進む。
彼の目的は決まっていた、怪物だ。

その資料を探すのに少し苦労したが、運よく一冊見つけることが出来た。
情報はまだまだ少ないらしい。
ファイルのページをめくるも、どれも文章だけだった。
書かれていることも多くなく、どうやら無駄足だったようだ。
そう諦め半ばで辿り着いた最後のページが彼の目を引き戻す。
そこには鮮やかに色付けされた一体の怪物が描かれていた。
赤と青を基調とした巨大な翼には紫の紋様があって、それが体躯の二倍くらい大きく広げられている。
同じく紫に塗られた寸胴なからだに頭はなく、直接黄色く丸い目が二つついていた。

「いい絵だろう。私が描いた」

背後からにわかに囁かれて、彼は驚いた拍子に危うく棚を一つ倒しそうになった。
声の主は茶髪の若い青年だった。
鋭い緑の目が彼をしっかりと捉えて離さない。

「私はここで貴殿のような探求家を待っていた」

「幽霊みたいにずっといるのか」

「午前はここで待つ。探求家は午後に来ないので」

下層都市へ降りる探求家の帰りはだいたい黄昏時になる。
休みならなおのこと、わざわざ午後に来るものは少ないだろう。

「俺に何のようだ」

「貴殿に興味があるなら話がしたい」

「興味はない」

「なら、なぜそれをご覧に?」

「わかった。話ってなんだ」

青年は声を潜めて答える。

「下層都市、それも深部について」

「深部。つまり底について知っているのか」

「静かに。貴殿よりは知っている」

彼も声を潜めて耳を傾けた。

「聞こう」

「では、私の家に招待する」

「ここで話せ」

「ここには監視カメラがついている」

「どこにある」

「向こうの天井に張りついている黒い半円だ」

青年が目配せした先には確かにそれらしいものがあった。
部屋のあちこちにも同じ物が見える。

「あれがそうか」

「あまり見ないで」

「わかった」

「貴殿はあれについてもご存知のようで」

「名前くらいだ」

「そうですか。では、行きましょう」

彼は青年について一階に降りた。
受付に青年を待たせて彼女のもとへ向かう。
彼女は赤ん坊を隣に寝かせて絵本を読んでいた。

「おい」

彼が声をかけると彼女は絵本から目を離さずに言った。

「こんな綺麗な景色があるかな」

「昔はあったらしい」

「天災が起こる時代の前、自然豊かな時代のことね」

「そうだ」

「また見られるかな」

さあな、と言いかけて、近い未来。
彼はそう言い直した。

「それよりも、俺は行くがどうする」

「帰るの」

「用事が出来た」

「そう」

「俺は行くぞ」

振り向いた彼の背中を、彼女がとっさに立ち上がって掴む。

「なんだ」

「冷たい人」

「うるさい。昔からだ」

間があって、彼女は手を離した。
後を追ってくる気配もなかったので、彼はそのまま資料館を後にした。

 青年の家はどこと同じ、横に均等に並ぶ石の塊の一つだった。
中は整然としていて、案内された部屋には珍しい木製の机があった。
家具は基本的にリサイクルの出来る特殊プラスチックが主流で、自然から作られるものは大変に稀少である。

「本物の木だ。昔から残るもので貴重なものだ」

それだけ話して部屋を出た青年を、彼はソファーに
、どかっと腰掛けて待った。
長らくして、青年は資料を脇に抱えて湯気の立つマグカップを二つ運んできた。

「珈琲という飲み物で高級品だ」

「高級品を自慢するのが趣味なのか」

「これは最高のお客様に対するもてなしだ」

「俺が最高のお客様か」

「後味が苦いから気をつけて」

「わかった」

「さて、挨拶が遅れてすまない。はじめまして。私はフレイドマン」

「アドルフだ」

青年は握手をさっと終えたらマグカップを一息に飲み干して、さっそく机の上に資料を広げた。

「これはレジスタンスの残した資料だ」

「レジスタンス?」

青年は簡単に過去を説明する。

爆弾によって焼かれた世界で人類は二つに分かれた。
権力者とそうでないもの。
権力者は楽園に隠れ、そうでないものは流行り病を恐れて世界に蓋をした。
それから都市を築き重ねて上へ上へと逃げ続けた。
その歴史の間に、人類はまた二つに分かれた。
権力者とそうでないもの。
そうでない者はレジスタンスという組織を組んで権力者と戦った。
権力者は歴史を改変するつもりだった。
レジスタンスはそれを阻止するために戦った。
しかし、レジスタンスもまた二つに分かれた。
権力者とそうでないもの。
人類は戦いを繰り返して差別を繰り返した。

「その終わりが現在だ」

「終わりか」

「終わりだよ。貴殿も怪物を見ただろう」

「ああ。見た」

「政府の発刊する動物図鑑を見たことがあるかな」

「それもある」

「なら気付いたはずだ。動物は進化していると」

「だから何だという」

「人間は衰退、いや間違いなく退化している。未来へと何も繋げない人間はもうおしまいなんだ。いずれ怪物がここへと這い上がり世界を支配するだろう」

「おもしろい妄想だな」

彼は吐き捨てるように言って小馬鹿にした。
青年は声を荒らげて言い返す。

「妄想なんかじゃない。宿命だ。その時に人類が生きているかは分からないが」

「人間が未来へと何かを繋げられればそうはならないんだろう」

「人間が何かを繋げられると思うか、思わないだろう。政府が歴史や情報を隠蔽して占有する限り無理だ。彼らだけじゃない、元レジスタンスを祖先に持つ奴らも金を対価に政府と一定の関係を結んでいる」

「詳しいな」

「私の祖先は人類が一度捨てた、友愛と徳を大事にする国作りを目指す正義のレジスタンスの一員だった」

「それはもう叶わないと諦めるのか」

「はっきり言って叶わない。人が折り合うのは簡単じゃない、価値観がそれぞれ違うからだ。数に差があれば価値や思想が大きく傾いて、現在のような現実になる」

「そうか」

彼が適当に返すと、青年は両手を机に叩きつけてついに叫んだ。

「貴殿に危機感はないのか。恐くはないのか」

「ない。俺は現在を生きている。そしていつか死ぬ、それだけだ」

「貴殿には希望を見たが失望した。貴殿も金の為だけに生きる探求家だったか」

「みんなそうだろう」

「いや、怪物の絵を見る貴殿の目は好奇心に満ちていた。他とは違う」

「怪物には興味ある」

「どんな怪物と出会った」

「体に植物が巻きついていた。子供もいた」

「それは出会ったことがない怪物だ。それに子供まで見たとは羨ましい」

「俺はあの日、親に殺されかけた」

「まさか正面から遭遇したのか」

「ああ。殺してやったよ」

「やるじゃないか。しかし植物が気になる、遺伝子を取り込んでの進化か、あるいは植物に寄生されているのか」

青年はぶつくさと独り言をこぼしながら考察を始めた。
長くなると思った彼は、それを遮るように質問した。

「お前はトリニタイトという石を知っているか」

「いいや」

「鉱石図鑑にも載っていなかった。そこの資料に何か情報はないか」

「ないね。それは一体何だ。誰から受け取った。もしかして怪しい露店で買ったものか」

「俺は馬鹿じゃない。トリニタイトは、先祖代々伝わるもので、人間の真実、その遺言だけが残る石だ」

「人間の真実か。ならさっき話した過去を鑑みるに、人間は危険で哀れだということだろう」

「もういい」

彼は珈琲を一口すすってみた。
彼の言ったまま、後味が苦かった。

「もう行くのか」

「ありがとう。過去の歴史については勉強になった。ただ、人間についてはお互い勉強不足のようだ」

「どうもそうらしい。次にまた会う時まで、もう少し深く人間について考えてみるとしよう」

「それと、お前は俺より若い。あまり悲観的になるな」

「痛み入るが。それは、彼女にも言ってあげたらどうだ」

「彼女はいい。お前が未来に怯えているようだったから何となく言っただけだ」

「彼女も思い詰めている目をしていた。同じかも知れない」

「それでもいい」

「どうして」

「わからない」

「もしかして……それで彼女が離れてしまうことが不安なのか」

彼はそれが憶測だと思い小さく笑った。
その顔に笑みはない。
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