6 / 10
生きること、死ぬこと
しおりを挟む
今日の彼女は泣いていた。
一度も泣く姿を見せなかった彼女。
全身を激しく震わせながら両手を強く握りしめている。
その腕に抱かれているはずの命が見当たらない。
時々うめき、肩を上下させて苦しそうに呼吸を繰り返す彼女に、彼は言葉ひとつかけられなかった。
そうしてただ立ち尽くしていたら、彼女は机を蹴り倒して暴れるように悶えはじめた。
彼女はまだ彼に気付いていない。
ようやっと彼に気付いた時には子供のままに泣き叫んだ。
何かを話そうとするが、唇が痺れて声も詰まるようだ。
掠れた音だけが何かを虚しく訴える。
彼はコップ一杯の水を用意した。
彼女はそれを何度かこぼしながらもなんとか飲み干した。
それから落ち着くまでには長かった。
彼女は壁の一点を見つめて息を吐くように静かになった。
そして、心の奥に押し込めていたものを少しずつ整理する。
「わたしはたくさん後悔してる」
心が痛いのがずっと続いている。
わたしには小さなものから大きなものまで、たくさん不安がある。
家族のことや友達のこと、過去のことから将来のことまで。
自分で解決しなきゃどうしようもないから、どうにかしようと考えるのだけれど、どうにもならなくて、でもどうにかしたくて、それでも考えるばかりだった。
わたしは行動を起こすのが苦手。
とても臆病なんだ。
今までは友達や親がいたから出来るフリをして威張ってただけ。
ひとりで何とかしてみようと思うんだけれど、思うだけで分からなかった。
バカだから何も分からないんだ。
赤ん坊だけでもどうにかしようと思った。
この温かい生き物を愛して育てようと思った。
でも、わたしにとって赤ん坊は罪だった。
だから段々と見るのも嫌になってきた。
赤ん坊が泣く度に責められているような気がした。
お前のせいで苦しいんだって言われているような気がした。
殺したいと思ったこともあるよ。
だからってそんなこと出来るわけなくて、どうしてか、その瞬間だけとても愛おしくなるんだ。
たまらず、ぎゅって抱き締めると気持ちよかった。
それでも、わたしは毎日が辛い。
朝起きるとまた生きる今日のことが苦しくて。
夜寝るときは生きなきゃいけない明日が恐かった。
ここで赤ん坊と静かに過ごしている間だけ心は静かだった。
寂しい気持ちもあったけど、プリンのおかげで少しはマシになった。
わたしは今できることを精一杯頑張ろうって何度も自分に言って聞かせた。
わたしは賛成して赤ん坊の面倒を頑張ったつもり。
けれど難しいね、うまくいかないもんだ。
赤ん坊てとても弱いの。
急に泣き止まなくなってね。
ミルク上げたりオムツも替えてみた。
でも泣きやまなくてゲロまで吐き出して。
たくさんあやして、ぽんぽん、て優しく背中を叩いてみた。
子守唄だって歌ってみた。
でも泣き止まなくて、わたし不安でたまらなくてそれに恐くなってきて、家には誰もいないし助けてくれる人もいない。
しばらくしたら、泣き声が小さくなってきたの。
わたしは赤ん坊の首を思いっきり絞めた。
どうしてそんなことしたのか今も分からないよ。
でもそうしたら、赤ん坊は最後に笑ってくれたんだ。
わたしも笑った。
ありがとう、て言ったらもう動かなくなってた。
赤ん坊はここに来る途中捨てた。
死んだ人間はゴミなんでしょう。
ねえ、わたしやっぱり分からない。
生きていたら大事にするくせに、どうして死んだらみんなゴミ扱いするの。
「わたしには命が大事だなんて分からない」
話し終えて、彼女はまた泣き出した。
自分を責めたところで他人から批判されるだけだという常識で殴ったり、お前は立派な人殺しだという倫理を投げつけたり、そうして世の大人たちは彼女にトドメを刺すだろう。
彼はそんなくだらないことを考えた。
今の自分に何ができようか。
彼は彼女と同じだった。
まったく分からない。
ここで、突然、ビル全体が小さく揺れた。
それが彼女の意識をはっきりと引き戻した。
本能の死に対する恐怖が、皮肉にも彼女を生かせようと現実に引き戻したのだ。
「地震……?」
「心配ない」
とは言い切れないほど現実は残酷だ。
彼は、間もなく全てが終わろうとしていることを日々何となく感じていた。
下層都市で見た大きな穴はもしかしたら……。
「俺は恐い」
「え?」
彼女の隣へ、気を落とすようにどかっと腰かける。
「死にたくない」
それは彼の本心だった。
子供の頃から死体を何度も見て覚えた死。
下層都市に降りて直接刻まれた死。
そしてこうした自然現象により実感させられる死。
やがて誰にでも訪れる死、彼にとってその恐怖は子供の頃よりますます彼の心を蝕んでいた。
だからこそ、いつか純潔で高貴な人間を目指すことを諦めてそこらの大人に混ざり込んだ。
そしたら僅かでも紛れる気がしたから。
彼がそのことを理解したとき、彼女の小さな手が彼の手に重なった。
とても冷たくてかたい。
「いっしょ?」
彼の顔を覗きこんで彼女が問う。
生きることが恐い彼女、死ぬことが恐い彼。
真逆に思えるかも知れない対する二つの不安。
それはまた同じなのだ。
彼が頷くとようやく安心したのだろう。
彼女はベッドに横たわって目を閉じた。
「わたし、もう帰れない」
「いつまでもここにいればいい」
「いいの」
「構わない。とりあえず今日はゆっくり休むといい」
「うん」
「明日は、楽しい話をしよう」
「楽しい話?」
「のんびり話し合おう」
「うん。わかった」
彼女は少しして、静かに眠った。
一度も泣く姿を見せなかった彼女。
全身を激しく震わせながら両手を強く握りしめている。
その腕に抱かれているはずの命が見当たらない。
時々うめき、肩を上下させて苦しそうに呼吸を繰り返す彼女に、彼は言葉ひとつかけられなかった。
そうしてただ立ち尽くしていたら、彼女は机を蹴り倒して暴れるように悶えはじめた。
彼女はまだ彼に気付いていない。
ようやっと彼に気付いた時には子供のままに泣き叫んだ。
何かを話そうとするが、唇が痺れて声も詰まるようだ。
掠れた音だけが何かを虚しく訴える。
彼はコップ一杯の水を用意した。
彼女はそれを何度かこぼしながらもなんとか飲み干した。
それから落ち着くまでには長かった。
彼女は壁の一点を見つめて息を吐くように静かになった。
そして、心の奥に押し込めていたものを少しずつ整理する。
「わたしはたくさん後悔してる」
心が痛いのがずっと続いている。
わたしには小さなものから大きなものまで、たくさん不安がある。
家族のことや友達のこと、過去のことから将来のことまで。
自分で解決しなきゃどうしようもないから、どうにかしようと考えるのだけれど、どうにもならなくて、でもどうにかしたくて、それでも考えるばかりだった。
わたしは行動を起こすのが苦手。
とても臆病なんだ。
今までは友達や親がいたから出来るフリをして威張ってただけ。
ひとりで何とかしてみようと思うんだけれど、思うだけで分からなかった。
バカだから何も分からないんだ。
赤ん坊だけでもどうにかしようと思った。
この温かい生き物を愛して育てようと思った。
でも、わたしにとって赤ん坊は罪だった。
だから段々と見るのも嫌になってきた。
赤ん坊が泣く度に責められているような気がした。
お前のせいで苦しいんだって言われているような気がした。
殺したいと思ったこともあるよ。
だからってそんなこと出来るわけなくて、どうしてか、その瞬間だけとても愛おしくなるんだ。
たまらず、ぎゅって抱き締めると気持ちよかった。
それでも、わたしは毎日が辛い。
朝起きるとまた生きる今日のことが苦しくて。
夜寝るときは生きなきゃいけない明日が恐かった。
ここで赤ん坊と静かに過ごしている間だけ心は静かだった。
寂しい気持ちもあったけど、プリンのおかげで少しはマシになった。
わたしは今できることを精一杯頑張ろうって何度も自分に言って聞かせた。
わたしは賛成して赤ん坊の面倒を頑張ったつもり。
けれど難しいね、うまくいかないもんだ。
赤ん坊てとても弱いの。
急に泣き止まなくなってね。
ミルク上げたりオムツも替えてみた。
でも泣きやまなくてゲロまで吐き出して。
たくさんあやして、ぽんぽん、て優しく背中を叩いてみた。
子守唄だって歌ってみた。
でも泣き止まなくて、わたし不安でたまらなくてそれに恐くなってきて、家には誰もいないし助けてくれる人もいない。
しばらくしたら、泣き声が小さくなってきたの。
わたしは赤ん坊の首を思いっきり絞めた。
どうしてそんなことしたのか今も分からないよ。
でもそうしたら、赤ん坊は最後に笑ってくれたんだ。
わたしも笑った。
ありがとう、て言ったらもう動かなくなってた。
赤ん坊はここに来る途中捨てた。
死んだ人間はゴミなんでしょう。
ねえ、わたしやっぱり分からない。
生きていたら大事にするくせに、どうして死んだらみんなゴミ扱いするの。
「わたしには命が大事だなんて分からない」
話し終えて、彼女はまた泣き出した。
自分を責めたところで他人から批判されるだけだという常識で殴ったり、お前は立派な人殺しだという倫理を投げつけたり、そうして世の大人たちは彼女にトドメを刺すだろう。
彼はそんなくだらないことを考えた。
今の自分に何ができようか。
彼は彼女と同じだった。
まったく分からない。
ここで、突然、ビル全体が小さく揺れた。
それが彼女の意識をはっきりと引き戻した。
本能の死に対する恐怖が、皮肉にも彼女を生かせようと現実に引き戻したのだ。
「地震……?」
「心配ない」
とは言い切れないほど現実は残酷だ。
彼は、間もなく全てが終わろうとしていることを日々何となく感じていた。
下層都市で見た大きな穴はもしかしたら……。
「俺は恐い」
「え?」
彼女の隣へ、気を落とすようにどかっと腰かける。
「死にたくない」
それは彼の本心だった。
子供の頃から死体を何度も見て覚えた死。
下層都市に降りて直接刻まれた死。
そしてこうした自然現象により実感させられる死。
やがて誰にでも訪れる死、彼にとってその恐怖は子供の頃よりますます彼の心を蝕んでいた。
だからこそ、いつか純潔で高貴な人間を目指すことを諦めてそこらの大人に混ざり込んだ。
そしたら僅かでも紛れる気がしたから。
彼がそのことを理解したとき、彼女の小さな手が彼の手に重なった。
とても冷たくてかたい。
「いっしょ?」
彼の顔を覗きこんで彼女が問う。
生きることが恐い彼女、死ぬことが恐い彼。
真逆に思えるかも知れない対する二つの不安。
それはまた同じなのだ。
彼が頷くとようやく安心したのだろう。
彼女はベッドに横たわって目を閉じた。
「わたし、もう帰れない」
「いつまでもここにいればいい」
「いいの」
「構わない。とりあえず今日はゆっくり休むといい」
「うん」
「明日は、楽しい話をしよう」
「楽しい話?」
「のんびり話し合おう」
「うん。わかった」
彼女は少しして、静かに眠った。
0
あなたにおすすめの小説
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
覚悟は良いですか、お父様? ―虐げられた娘はお家乗っ取りを企んだ婿の父とその愛人の娘である異母妹をまとめて追い出す―
Erin
恋愛
【完結済・全3話】伯爵令嬢のカメリアは母が死んだ直後に、父が屋敷に連れ込んだ愛人とその子に虐げられていた。その挙句、カメリアが十六歳の成人後に継ぐ予定の伯爵家から追い出し、伯爵家の血を一滴も引かない異母妹に継がせると言い出す。後を継がないカメリアには嗜虐趣味のある男に嫁がられることになった。絶対に父たちの言いなりになりたくないカメリアは家を出て復讐することにした。7/6に最終話投稿予定。
五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~
放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」
大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。
生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。
しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。
「すまない。私は父としての責任を果たす」
かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。
だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。
これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
真実の愛は水晶の中に
立木
恋愛
学園の卒業を祝うパーティーの最中、レイシア・マレーニ侯爵令嬢は第三王子とピンク髪の女、その取り巻きたちによって断罪されようとしていた。
しかし断罪劇は思わぬ方向へ進んでいく。
※「なろう」にも重複投稿しています。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる