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研修医
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「先生、血圧が下がりました。触診で上が30です」
「ええと、昇圧剤を…」
「先生、呼吸が止まりました」
「気管内挿管します!」
「心停止です」
「心マ、やります。それから、ボスミン…」
「先生、VFです!」
「カウンターショックの準備」
その夜、彼は当直。
そして複数の患者さんで、そういうことが夜中から延々と続いた。
それはまさに戦場。そういう状況は、これまでも一度や二度ではない。
そして彼は疲労困憊し、心が折れてしまいそうだった。
その夜も、彼が当直室へ戻った頃には、辺りはすっかり明るくなっていた。
当直でほぼ一睡も出来ずに、それから当たり前のように始まる、翌日の診療。
そんな日々を過ごす彼は、疲労困憊していた。そしてすっかり自信を失っていた。
それは臨床研修制度のない、随分昔の話。
研修医でも往々にして、厳しい医療の現場で「即戦力」と見なされていた時代。
そんな彼は、過酷な受験を乗り越え医学部に入った。
苦労して卒業した。
医師国家試験に合格したとき、彼の父は涙を流して喜んだ。
彼は周囲の期待を一身に背負っていたのだ。
実際彼は、沢山の人を病気から救いたい、沢山の命を救いたい。そう思って医師を目指した。
だけど現実は厳しかった。
過酷な現場。付き付けられた無力感。
その現実に、彼は押しつぶされそうだった。
今の自分には医者なんて、とても出来ない。
いくら頑張っても…
だけど彼は、周囲の期待を一身に背負い、医者になった。
だから今さら医者を辞める訳にもいかない。
彼は小さい頃から医者を目指し、塾へ行き、添削を受け、受験を乗り越え…
だけどもう自分には、医者を続ける自信がない。
(どうすればいいのだろう?)
彼は自問した。だけどどうしようもなかった。
そして彼にはもう、行き場が無かった。
あんな過酷な医療の現場で医者を続けるも地獄。
周囲の期待を一身に背負った彼には、医者を辞めるも地獄…
一睡も出来ずに当直を明けた彼は、その日、たまたま奇跡的にフリーの日曜日だった。
それで彼はアパートへ帰ろうとした。
本当に何日ぶりにアパートに帰れるのか、彼には思い出すことさえ出来なかった。
それから病院の建物を出て少し歩くと病院の倉庫があり、いろんな物が雑然と置いてあったが、ふと、灯油の入ったプラスチックの容器が彼の目に留った。
医者を続けるも地獄。
医者を辞めるも地獄…
その瞬間、彼の脳裏に、再びその言葉が蘇った。
そして灯油の容器。
最悪のタイミングでそんな物を見てしまった彼。
それから彼は発作的にこんな事を考えた。
(あの灯油をかぶって火を付ければ…)
一睡も出来ず、絶望し、朦朧状態の彼は、そんなおろかなことに「回答」を見出していた。
(あの灯油をかぶって死んでしまえば、全てが解決する…)
彼はそんなとんでもない事を、発作的に考え始めていたのだ。
それから彼はこっそりとその倉庫へ入り、灯油の容器を手に取り、それを自分の車まで運び助手席に乗せ、そして彼は車を走らせた。
タバコを吸わない彼は途中でタバコ屋に寄り、ライターを買った。
それから彼が車で向かったのは、彼の自分のアパートではなく、彼が幼い頃、何度も彼の父親に連れて行ってもらった海だった。
どうしてそこへ行こうと思ったのか、彼にも分からなかった。
だけど何となく彼は、その場所に心魅かれたのだ。
しばらく走るときれいな海岸通りに出た。
朝日がやけにまぶしかった。
(死ぬのには最高の場所だな…)
彼は思った。
それから彼は、海がきれいに見える駐車場に車を止めた。
しかし何故かそこには、一台の軽自動車が止まっていて、一瞬彼は視線を送ったが、それほど気にも留めず、それから彼は灯油の容器とライターを持って車を降りた。
それから少し歩くと、そこは岩場と海が見下ろせる場所だった。
彼はそこに座ってあぐらをかくと、しばらくぼんやりと海を見ていた。
彼が子供の頃、釣りが好きな父親に何度も連れてこられた場所。
あの頃と同じ海。
(あの頃は幸せだったな…)
彼は思った。
だけど今は地獄。
医者を続けるのも地獄。
こんな激務に耐えて行く自信がない。
自分はろくに人を助けることも出来ない。
この仕事は自分にとって肩の荷が重すぎる。
医者を辞めるのも地獄。
父や母や、お世話になったたくさんの人たちのことを思うと、申し訳なくて…
涙が出てきた。
そしてとうとう彼は、自分を袋小路に追い込んでしまった。
その袋小路から後ろを振り返ると、武器を持った兵士たちが、自分を狙っているような気分がしていた。
朦朧状態で錯乱状態。
(やっぱり死ぬしかないな…)
そしてとうとう彼は、発作的に、そういうとんでもない決意をしてしまったのだ。
それから彼は灯油の入った容器のふたを取り、その灯油を頭からざぶざぶと被った。
強烈な灯油の臭い。猛烈に目に浸みた。
それから彼はポケットから、あのタバコ屋で買ったライターを出した。
そして彼は意を決し、火を付けようとした……
と、そのとき、岩場の方から「ドボン」という音と「キャ~」という叫び声が聞こえた。
そして灯油まみれの彼は無意識に立ち上がり、灯油が浸みる目をこじ開け、岩場の方へと走った。
すると岩場の近くの海面で、若い女性が波にもまれ、浮き沈みしていた。
そこは背が届かないほど深い場所だということを、彼は子供の頃、父から聞いていた。
それにその日は白波が立つほど、海は荒かった。
(このままじゃ彼女は溺れてしまう…)
彼は思った。
そしてこの緊迫した状況の中で、彼の、つい今しがたまで彼が抱いていた、「死のう」という思いはどこかへ消し飛び、そして「彼女を助けなければ…」という、彼にまだかろうじて残っていた職業意識が、そのとき彼の心を支配した。
だけどこの波の中にそのまま飛び込んだとしても、彼女を助けられる可能性は極めて低いと、彼は冷静に考えた。
それから彼が辺りを見渡すと、漁業の網を浮かせるための「浮き球」が目に入った。
どこからか漂流していたと思われ、それは岩場近くの波の上でぷかぷかと揺れていた。
それは一抱えほどの大きさで、「浮き輪」としても十分な大きさだった。
それから彼は、自分が全身灯油まみれであったこともすっかり忘れ、岩場を降り、その浮き球めがけて飛び込んだ。
彼が飛び込んだその瞬間、彼の全身を覆っていた灯油は一気に流れて散った。
彼の体から虹色の波が広がり、ゆらゆれと揺れた。
そして今度は海水でずぶ濡れになりながら、彼はその浮き球に付いていた縄をつかみ、それをたぐり寄せ、胸の下にあてがい、まさに沈まんとする彼女の方へとバタ足で泳ぎ、それから彼女に近寄り、その長い髪を掴むと岩場へと泳いだ。
その岩場は切り立っていて、登れそうな場所がなかなか見つからなかったが、「浮き球」のおかげで彼らは沈むことはなく、何とか登れそうな場所を見付けると、彼は必死に岩場へ登り、波が押し寄せた瞬間を利用し、そして「火事場のバカ力」を発揮し、彼女を岩場へ引き上げた。
それから彼は彼女を抱え、駐車場まで運んだ。
そのとき彼女の意識はなく、水を吸い込んで呼吸もしていなかった。
しかし脈は触れることが出来た。
それで彼は彼女を後ろから羽交い絞めにし、水を吐き出させ、それから人工呼吸を続けた。
同時に彼は通りかかった車に救急車を呼ぶよう頼み、救急車が来ると一緒に乗り、救急車は彼の勤める病院へと向かった。
そして病院へ着くと、彼は必死に彼女の治療を続け、程なく彼女の意識が戻り、それから彼は彼女の主治医になった。
彼の治療の甲斐あって、それから彼女は順調に回復していった。
数日後、彼らは病院の屋上で話をしていた。
彼女のきれいな長い髪が風になびいていた。
「どうして君はあんな時間に、あんな危ない岩場に一人でいたんだい?」
「私、死のうと思っていたの」
「何だって?」
「私、あそこに飛び込んだら死ねると思っていたの」
「あの軽自動車は君のだったんだね」
「そうよ。あの朝、一人で車に乗ってあそこへ行って、そして岩場に下りて、そして飛び降りたの。死のうと思って」
「どうして死にたいなんて思ったんだ?」
「だって死にたい理由って、いくらでもあるのよ!」
「死にたい理由が、いくらでも…」
「そうよ。死にたい理由なんて星の数ほど」
「そうか、そうかも知れないな…」
「だから誰にだって、死にたいと思うことってあるの」
「そうだよね。たしかに死にたいことって、誰にだって、あるのかも知れないね」
「ねえ、ところで先生は、どうしてあんな時間に、あんな場所に一人でいたの? もしかして私を助けるため?」
「…そうだね。きっとそうだね。きっと僕は、君を助けるために、あそこへ行ったのかも知れないね。きっと…、きっとそれが、僕の仕事なんだね」
奇跡的な偶然に巡り合い、助かった二つの命
「ええと、昇圧剤を…」
「先生、呼吸が止まりました」
「気管内挿管します!」
「心停止です」
「心マ、やります。それから、ボスミン…」
「先生、VFです!」
「カウンターショックの準備」
その夜、彼は当直。
そして複数の患者さんで、そういうことが夜中から延々と続いた。
それはまさに戦場。そういう状況は、これまでも一度や二度ではない。
そして彼は疲労困憊し、心が折れてしまいそうだった。
その夜も、彼が当直室へ戻った頃には、辺りはすっかり明るくなっていた。
当直でほぼ一睡も出来ずに、それから当たり前のように始まる、翌日の診療。
そんな日々を過ごす彼は、疲労困憊していた。そしてすっかり自信を失っていた。
それは臨床研修制度のない、随分昔の話。
研修医でも往々にして、厳しい医療の現場で「即戦力」と見なされていた時代。
そんな彼は、過酷な受験を乗り越え医学部に入った。
苦労して卒業した。
医師国家試験に合格したとき、彼の父は涙を流して喜んだ。
彼は周囲の期待を一身に背負っていたのだ。
実際彼は、沢山の人を病気から救いたい、沢山の命を救いたい。そう思って医師を目指した。
だけど現実は厳しかった。
過酷な現場。付き付けられた無力感。
その現実に、彼は押しつぶされそうだった。
今の自分には医者なんて、とても出来ない。
いくら頑張っても…
だけど彼は、周囲の期待を一身に背負い、医者になった。
だから今さら医者を辞める訳にもいかない。
彼は小さい頃から医者を目指し、塾へ行き、添削を受け、受験を乗り越え…
だけどもう自分には、医者を続ける自信がない。
(どうすればいいのだろう?)
彼は自問した。だけどどうしようもなかった。
そして彼にはもう、行き場が無かった。
あんな過酷な医療の現場で医者を続けるも地獄。
周囲の期待を一身に背負った彼には、医者を辞めるも地獄…
一睡も出来ずに当直を明けた彼は、その日、たまたま奇跡的にフリーの日曜日だった。
それで彼はアパートへ帰ろうとした。
本当に何日ぶりにアパートに帰れるのか、彼には思い出すことさえ出来なかった。
それから病院の建物を出て少し歩くと病院の倉庫があり、いろんな物が雑然と置いてあったが、ふと、灯油の入ったプラスチックの容器が彼の目に留った。
医者を続けるも地獄。
医者を辞めるも地獄…
その瞬間、彼の脳裏に、再びその言葉が蘇った。
そして灯油の容器。
最悪のタイミングでそんな物を見てしまった彼。
それから彼は発作的にこんな事を考えた。
(あの灯油をかぶって火を付ければ…)
一睡も出来ず、絶望し、朦朧状態の彼は、そんなおろかなことに「回答」を見出していた。
(あの灯油をかぶって死んでしまえば、全てが解決する…)
彼はそんなとんでもない事を、発作的に考え始めていたのだ。
それから彼はこっそりとその倉庫へ入り、灯油の容器を手に取り、それを自分の車まで運び助手席に乗せ、そして彼は車を走らせた。
タバコを吸わない彼は途中でタバコ屋に寄り、ライターを買った。
それから彼が車で向かったのは、彼の自分のアパートではなく、彼が幼い頃、何度も彼の父親に連れて行ってもらった海だった。
どうしてそこへ行こうと思ったのか、彼にも分からなかった。
だけど何となく彼は、その場所に心魅かれたのだ。
しばらく走るときれいな海岸通りに出た。
朝日がやけにまぶしかった。
(死ぬのには最高の場所だな…)
彼は思った。
それから彼は、海がきれいに見える駐車場に車を止めた。
しかし何故かそこには、一台の軽自動車が止まっていて、一瞬彼は視線を送ったが、それほど気にも留めず、それから彼は灯油の容器とライターを持って車を降りた。
それから少し歩くと、そこは岩場と海が見下ろせる場所だった。
彼はそこに座ってあぐらをかくと、しばらくぼんやりと海を見ていた。
彼が子供の頃、釣りが好きな父親に何度も連れてこられた場所。
あの頃と同じ海。
(あの頃は幸せだったな…)
彼は思った。
だけど今は地獄。
医者を続けるのも地獄。
こんな激務に耐えて行く自信がない。
自分はろくに人を助けることも出来ない。
この仕事は自分にとって肩の荷が重すぎる。
医者を辞めるのも地獄。
父や母や、お世話になったたくさんの人たちのことを思うと、申し訳なくて…
涙が出てきた。
そしてとうとう彼は、自分を袋小路に追い込んでしまった。
その袋小路から後ろを振り返ると、武器を持った兵士たちが、自分を狙っているような気分がしていた。
朦朧状態で錯乱状態。
(やっぱり死ぬしかないな…)
そしてとうとう彼は、発作的に、そういうとんでもない決意をしてしまったのだ。
それから彼は灯油の入った容器のふたを取り、その灯油を頭からざぶざぶと被った。
強烈な灯油の臭い。猛烈に目に浸みた。
それから彼はポケットから、あのタバコ屋で買ったライターを出した。
そして彼は意を決し、火を付けようとした……
と、そのとき、岩場の方から「ドボン」という音と「キャ~」という叫び声が聞こえた。
そして灯油まみれの彼は無意識に立ち上がり、灯油が浸みる目をこじ開け、岩場の方へと走った。
すると岩場の近くの海面で、若い女性が波にもまれ、浮き沈みしていた。
そこは背が届かないほど深い場所だということを、彼は子供の頃、父から聞いていた。
それにその日は白波が立つほど、海は荒かった。
(このままじゃ彼女は溺れてしまう…)
彼は思った。
そしてこの緊迫した状況の中で、彼の、つい今しがたまで彼が抱いていた、「死のう」という思いはどこかへ消し飛び、そして「彼女を助けなければ…」という、彼にまだかろうじて残っていた職業意識が、そのとき彼の心を支配した。
だけどこの波の中にそのまま飛び込んだとしても、彼女を助けられる可能性は極めて低いと、彼は冷静に考えた。
それから彼が辺りを見渡すと、漁業の網を浮かせるための「浮き球」が目に入った。
どこからか漂流していたと思われ、それは岩場近くの波の上でぷかぷかと揺れていた。
それは一抱えほどの大きさで、「浮き輪」としても十分な大きさだった。
それから彼は、自分が全身灯油まみれであったこともすっかり忘れ、岩場を降り、その浮き球めがけて飛び込んだ。
彼が飛び込んだその瞬間、彼の全身を覆っていた灯油は一気に流れて散った。
彼の体から虹色の波が広がり、ゆらゆれと揺れた。
そして今度は海水でずぶ濡れになりながら、彼はその浮き球に付いていた縄をつかみ、それをたぐり寄せ、胸の下にあてがい、まさに沈まんとする彼女の方へとバタ足で泳ぎ、それから彼女に近寄り、その長い髪を掴むと岩場へと泳いだ。
その岩場は切り立っていて、登れそうな場所がなかなか見つからなかったが、「浮き球」のおかげで彼らは沈むことはなく、何とか登れそうな場所を見付けると、彼は必死に岩場へ登り、波が押し寄せた瞬間を利用し、そして「火事場のバカ力」を発揮し、彼女を岩場へ引き上げた。
それから彼は彼女を抱え、駐車場まで運んだ。
そのとき彼女の意識はなく、水を吸い込んで呼吸もしていなかった。
しかし脈は触れることが出来た。
それで彼は彼女を後ろから羽交い絞めにし、水を吐き出させ、それから人工呼吸を続けた。
同時に彼は通りかかった車に救急車を呼ぶよう頼み、救急車が来ると一緒に乗り、救急車は彼の勤める病院へと向かった。
そして病院へ着くと、彼は必死に彼女の治療を続け、程なく彼女の意識が戻り、それから彼は彼女の主治医になった。
彼の治療の甲斐あって、それから彼女は順調に回復していった。
数日後、彼らは病院の屋上で話をしていた。
彼女のきれいな長い髪が風になびいていた。
「どうして君はあんな時間に、あんな危ない岩場に一人でいたんだい?」
「私、死のうと思っていたの」
「何だって?」
「私、あそこに飛び込んだら死ねると思っていたの」
「あの軽自動車は君のだったんだね」
「そうよ。あの朝、一人で車に乗ってあそこへ行って、そして岩場に下りて、そして飛び降りたの。死のうと思って」
「どうして死にたいなんて思ったんだ?」
「だって死にたい理由って、いくらでもあるのよ!」
「死にたい理由が、いくらでも…」
「そうよ。死にたい理由なんて星の数ほど」
「そうか、そうかも知れないな…」
「だから誰にだって、死にたいと思うことってあるの」
「そうだよね。たしかに死にたいことって、誰にだって、あるのかも知れないね」
「ねえ、ところで先生は、どうしてあんな時間に、あんな場所に一人でいたの? もしかして私を助けるため?」
「…そうだね。きっとそうだね。きっと僕は、君を助けるために、あそこへ行ったのかも知れないね。きっと…、きっとそれが、僕の仕事なんだね」
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