4 / 33
4・悪役令嬢はナイフを握る
しおりを挟む
王太子やイザベラをいくら殺したくても、今の私に出来る筈もない。でも、彼らは私が今頃山の中で息絶えていると思っているだろうけれど私はこうして生きている。生きてさえいれば、いつか復讐する機会が来るかも知れない。
悪夢から意識が時折浮かび上がって来ると、私は、あの銀髪の男のことを思い出す。殺したい相手の中で、あの男だけは手の届く所にいる。この館はきっとあの男のものだから、同じ屋根の下のどこかにいる筈だ。ジュリアン達は私の持っていたもの殆ど全てを奪ったけれど、あの男は、それでも最後に私に残されて天の国まで持って行くつもりだったもの――誇りを奪った。あの男を殺す為に生きる、と私は言った。殺す事が出来れば私は生きて、他の復讐も果たすことが出来るかも知れない。
夢うつつの中で、傍で女性が看病してくれ、身体をさすり、朦朧としている私にスープを飲ませようとしてくれるのを感じた。医師らしき人が、このまま何も飲まなければやがて私は衰弱して死ぬだろう、と言ったのもわかった。そのまま死ぬのも、生きてあの男を殺すのも、正直どちらでもいいと感じていたけれど、口元にスープを掬ったスプーンを近づけられると、私はそれを啜っていた。生きたいという気持ちが、死にたいという気持ちに僅かに勝ったのかも知れない。
温かいスープが喉を通る回数が多くなる毎に、自分が回復していっているのがわかった。
そうして、幾日が過ぎたのかはわからないけれど、ある時私は目を開けた。白く霞んでいた視界が、徐々に像を結んでくる。私は右手を持ち上げて、顔の上にかざした。随分細くなって肌の艶も褪せていたけれど、私の手だ。私の意志の通りに動く私の身体。私は、生き延びた。
いつも誰かが傍についていたような気がするけれど、この時はたまたま席を外していたようで、部屋には誰もいなかった。ただ、最初に目を覚ました時と同じように、暖炉には赤い火が燃えている。私はゆっくりと身体を起こした。あちこちが強張っているけれど大丈夫だ。
周囲に人の気配がないか探りながら、私はそろそろと足を伸ばして床に降りた。素足に石の床は冷たいけれど、あの雪山に比べればなんということはない。傍の椅子にかけられていた上掛けを羽織って、私は一歩ずつ確かめるような足取りで部屋を横切った。
改めて見ると、立派な造りの客用の寝室だった。冷気を防ぐ為だろう分厚い織りのカーテンも古びているけどかなり上質の品だとわかる。急速に覚めてゆく私の意識は、あるひとつの推測に、目に見えるひとつひとつの事を結び付けつつあった。
暖炉は燃え、部屋の端にはトレイに乗った水差しが置かれ、傍の籠の中には仕事途中の繕い物が無造作に放り込まれている。たった今まで誰かがいたようであるのに、まるで私が目覚めるのに合わせて人の存在を切り取ってしまったかのように辺りはしんとしていた。
私は重たい扉を押して廊下に出た。今にも誰かが別の部屋から出て来てベッドに連れ戻されるのではと思ったけれどそうはならず、私は知らない館の中を、何かに導かれるように歩みを進めた。髪も梳かさず、寝着に上掛けを羽織っただけで寝室の外に出るなんて、淑女のする事ではない。だけど、散々悪夢に脅かされ、いまは目が覚めたとはいえ現実もまだ掴みどころのない状況で、そんな事に構ってはいられなかった。
時代を感じさせる薄暗い廊下を進んでゆくと、小広間のようなところへ出た。誰もおらず、カーテンは閉め切られて薄暗く冷え切っていた。隅には大きなピアノがあるけれど、随分長いこと誰にも触れられていない風だった。調度品は立派なものだがやはり年代を感じさせる。ふと私は、本当は自分は死んで、人の住まない山奥の館を彷徨っているのでは、という妄想に囚われそうになった。
でも、眠っていた部屋の暖炉の火は、決して幻ではなかったし、私の身体もきちんと熱を持っている。しゃんとしなければ……と首を振った時、壁にかかった肖像画に気付いた。
黒髪の男性が描かれている。服装からかなり高位の貴族の肖像画だ。恐らく、この館の代々のあるじの誰かなのだろう。その男性は、少しだけジュリアンに似ていた。私は溜息をついて絵から目を逸らした。
小広間から別の廊下に出た頃には、私の身体も足も冷え切っていた。この寒さでは、外は恐らく雪なのだろう。でも、私は何かに導かれるようにそのまま先に進む。自分でもどうしてそっちへ行くのかわからなかったけれど。
そうして、奥へと進み、ひと際立派な装飾が施された重々しい木製の扉の前に私は立った。鍵はかかっておらず、扉はその重さが嘘のように音を立てずに開いた。私は迷わずに室内に入った。
最初、間違えたかと思った。
不思議な確信に導かれて来たけれど、その部屋は、人がいるには寒すぎたのだ。カーテンの隙間から外の明りは射しこんでいるけれど、人の声も物音もない。きちんと整えられた文机と椅子、キャビネット……女性の部屋ではない。奥の、陽の射さないところに、立派な寝台があった。
(……いた)
寝台にあの銀の髪の男が横たわっていた。背筋がぞっとする程寒い部屋なのに、何故か薄掛け一枚で眠っているようだった。端正な顔には、やはり血の気というものがないように見える。死んでいるのかと一瞬思ったけれど、その胸は規則正しく上下していた。
こんな部屋で平気で眠りに就いているなんて、やはりこれは魔物なのではないだろうか。わからない。魔物なんておとぎ話でしか知らないので、確かめようはない。
魔物に犯されたら魔物になってしまうのだろうか? 私は、これから人を殺そうとしている事に何の躊躇いも感じていない自分に少し驚いていた。『黄金の薔薇』、未来の王太子妃だったアリアンナが、冷たい氷の館で魔物と化して魔物を殺そうとしているなんて、いったい誰が想像するだろう?
男の枕元には椅子と小テーブルが置いてあり、誰かがそこで林檎を剥いたらしい。林檎の籠と、ナフキンに包まれたナイフがテーブルに乗っていた。
私はナイフを手に取った。男が目を覚ます様子はない。果物用のナイフとはいえ、喉に突き立てたら大の男でも命はないだろう。本当に魔物ならわからないけれど……魔物を確実に殺す方法なんて知らない。柄を右手でぎゅっと握った。男を殺してそのあとどうなるのかなんて、この時はまったく考えていなかった。重苦しい静寂に背中を押されるように、私は男の傍へ寄った。
『おまえを死なせない!』
『おまえが生きてくれるのが俺の望み』
いったいどういうつもりであんな事を言ったのだろう。でも、
『言葉になどしなくても、おまえはもう俺のものだ』
そして、塞がれた唇の感触。無理やりに、押さえつけられて。
与えられた屈辱は、返さなければならない。それに、もしも私の想像が当たっているならば、この男は……。
私は息を呑み、ナイフの柄を両手でしっかりと握る。
「――」
でも、身動きもせずに無防備に眠っている相手にナイフを振り下ろすなんて、本当に許されることなのだろうか。男の顔を見ていると、急に弱気が襲って来る。男の顔は、私になにか遠い記憶の彼方から呼びかけるものを揺り動かしてくる気もする。
今しか好機はない。男が目を覚ませば、あっという間に私はナイフを取り上げられ、組み敷かれてしまうだろう。魔物だろうと人間だろうと、とにかく一般的な男性の腕力があることはわかっている。そして、組み敷かれてまたなにかされてしまうかも知れない……。
けれど、だからと言って、これは卑怯ではないのか。卑怯な手段で手を血で汚しては、もう天の国でお父さまと会えないのではないだろうか。
様々な思い、憎しみと躊躇いがせめぎ合う。
その時……。
「どうした。やらないのか」
私ははっとして思わず声を上げそうになった。
男は瞼を開けて、アイスブルーの目をじっと私に向けていたのだった。
「き……気が、ついて」
「おまえが入って来た時から気が付いていた」
男は静かな声で言う。変わらず無防備な姿勢のままだ。ただ、首を傾けて私を見ているのがさっきと違うだけだ。
「気が付いていた? ならどうして。私が躊躇わなかったらどうするつもりだったの」
「言ったろう、おまえになら殺されてもかまわない、と。おまえの苦しみを少しでも癒せるならば、俺の命などどう使ってもかまわないんだ。本当はもっと長くおまえと居たかったが、おまえを助けてここに連れて来てひとときを共に過ごせた、それだけで充分満足だ。俺の願いは叶った。だから、おまえが決心するまで黙っていようかとも思ったが、おまえが迷っているようだったので、これでいいのか確認しようと思っただけだ」
「……これでいいのか、とはどういう意味」
「おまえは、俺を殺す事を生きる目的にする、と言った。なのにこんなに早々目的を果たしてしまっては、おまえが生きる目的を失ってしまうのではないかと、心配になって」
「……」
この男は何を言っているのだろう? 私は本当に、もう少しで喉を掻き切ろうとしたのに、その私が、自分を殺した後に生き甲斐を失わないか心配、ですって? いくら厚かましい人間でも、ここまで偽善が過ぎた事を真顔で言えるものだろうか?
「心配して頂かなくても、他にも殺したい相手はいるわ」
「そうか。ならいいんだ。じゃあ、おまえの気の済むようにすればいい」
男は僅かに唇を動かした。……まさか、笑った……?
「おまえがこの館で何をしても絶対に邪魔をしたり咎めたりするなと皆には言ってあるから、後の事は心配しなくていい。俺の代わりと思って仕えろとも命じてる。おまえは安全だ」
「……」
「ひとつだけ、願いがあるんだが」
「……」
「おまえがナイフを刺すまで、おまえの顔を見ていていいか。刺されたらさすがに目を開けていられなくなるかも知れない。すぐに死ぬだろうし。でも、俺はずっとおまえに会いたかったから。もう会えないだろうと思っていたのに、会えたのだから、少しでも長くおまえを見ていたい」
私はもう何も言えなかった。男は全くなんの企みもない顔で私をじっと見つめている。
「……なんで。なんでそんな事言うの」
「なんでって? 思った事を言っているだけだが」
「……」
「あ、もしや、俺はまたおまえの気に障る事を言ってしまったか? 済まない、俺は時々物言いがおかしいらしくてな。悪気はないのだと思ってもらいたいのだが」
私の手から、ナイフが滑り落ちた。
「おい、落としたぞ」
「……」
「拾ってやろうか? 医師からは、まだ起き上がるなと言われてはいるが」
「……死ぬというのに、医者の言う事を気にするの?」
「ああ、そうか。もうバロー先生に会う事はないんだった。昨日、もっときちんと今までの礼を言っておくべきだったな」
そう言って男は起き上がろうとしたけれど、私はそれより先にナイフを拾った。そして、言った。
「あなたの名前を聞いてなかったわ」
「そう言えば。俺は、ユーグ・ラトゥーリエ。ラトゥーリエ公爵家の当主だ」
――ああ、やっぱりそうなのか。
私は、私が捨てられる山が、ラトゥーリエ公爵の領地だと聞いていた。まさか公爵の方で私に会おうとするとは想像していなかったけれど、領主なら私が刑を受ける時間や場所もおおよそ知っていた筈だ。
この館は明らかに、かなり格の高い地方領主の住まいだと思われた。この館の中で、私に自由にしていいといったこの男は、この地方の領主、即ち、ラトゥーリエ公爵、冷血公爵ではないのか、と私は部屋の様子や館の中を見ながら思っていたのだった。
悪夢から意識が時折浮かび上がって来ると、私は、あの銀髪の男のことを思い出す。殺したい相手の中で、あの男だけは手の届く所にいる。この館はきっとあの男のものだから、同じ屋根の下のどこかにいる筈だ。ジュリアン達は私の持っていたもの殆ど全てを奪ったけれど、あの男は、それでも最後に私に残されて天の国まで持って行くつもりだったもの――誇りを奪った。あの男を殺す為に生きる、と私は言った。殺す事が出来れば私は生きて、他の復讐も果たすことが出来るかも知れない。
夢うつつの中で、傍で女性が看病してくれ、身体をさすり、朦朧としている私にスープを飲ませようとしてくれるのを感じた。医師らしき人が、このまま何も飲まなければやがて私は衰弱して死ぬだろう、と言ったのもわかった。そのまま死ぬのも、生きてあの男を殺すのも、正直どちらでもいいと感じていたけれど、口元にスープを掬ったスプーンを近づけられると、私はそれを啜っていた。生きたいという気持ちが、死にたいという気持ちに僅かに勝ったのかも知れない。
温かいスープが喉を通る回数が多くなる毎に、自分が回復していっているのがわかった。
そうして、幾日が過ぎたのかはわからないけれど、ある時私は目を開けた。白く霞んでいた視界が、徐々に像を結んでくる。私は右手を持ち上げて、顔の上にかざした。随分細くなって肌の艶も褪せていたけれど、私の手だ。私の意志の通りに動く私の身体。私は、生き延びた。
いつも誰かが傍についていたような気がするけれど、この時はたまたま席を外していたようで、部屋には誰もいなかった。ただ、最初に目を覚ました時と同じように、暖炉には赤い火が燃えている。私はゆっくりと身体を起こした。あちこちが強張っているけれど大丈夫だ。
周囲に人の気配がないか探りながら、私はそろそろと足を伸ばして床に降りた。素足に石の床は冷たいけれど、あの雪山に比べればなんということはない。傍の椅子にかけられていた上掛けを羽織って、私は一歩ずつ確かめるような足取りで部屋を横切った。
改めて見ると、立派な造りの客用の寝室だった。冷気を防ぐ為だろう分厚い織りのカーテンも古びているけどかなり上質の品だとわかる。急速に覚めてゆく私の意識は、あるひとつの推測に、目に見えるひとつひとつの事を結び付けつつあった。
暖炉は燃え、部屋の端にはトレイに乗った水差しが置かれ、傍の籠の中には仕事途中の繕い物が無造作に放り込まれている。たった今まで誰かがいたようであるのに、まるで私が目覚めるのに合わせて人の存在を切り取ってしまったかのように辺りはしんとしていた。
私は重たい扉を押して廊下に出た。今にも誰かが別の部屋から出て来てベッドに連れ戻されるのではと思ったけれどそうはならず、私は知らない館の中を、何かに導かれるように歩みを進めた。髪も梳かさず、寝着に上掛けを羽織っただけで寝室の外に出るなんて、淑女のする事ではない。だけど、散々悪夢に脅かされ、いまは目が覚めたとはいえ現実もまだ掴みどころのない状況で、そんな事に構ってはいられなかった。
時代を感じさせる薄暗い廊下を進んでゆくと、小広間のようなところへ出た。誰もおらず、カーテンは閉め切られて薄暗く冷え切っていた。隅には大きなピアノがあるけれど、随分長いこと誰にも触れられていない風だった。調度品は立派なものだがやはり年代を感じさせる。ふと私は、本当は自分は死んで、人の住まない山奥の館を彷徨っているのでは、という妄想に囚われそうになった。
でも、眠っていた部屋の暖炉の火は、決して幻ではなかったし、私の身体もきちんと熱を持っている。しゃんとしなければ……と首を振った時、壁にかかった肖像画に気付いた。
黒髪の男性が描かれている。服装からかなり高位の貴族の肖像画だ。恐らく、この館の代々のあるじの誰かなのだろう。その男性は、少しだけジュリアンに似ていた。私は溜息をついて絵から目を逸らした。
小広間から別の廊下に出た頃には、私の身体も足も冷え切っていた。この寒さでは、外は恐らく雪なのだろう。でも、私は何かに導かれるようにそのまま先に進む。自分でもどうしてそっちへ行くのかわからなかったけれど。
そうして、奥へと進み、ひと際立派な装飾が施された重々しい木製の扉の前に私は立った。鍵はかかっておらず、扉はその重さが嘘のように音を立てずに開いた。私は迷わずに室内に入った。
最初、間違えたかと思った。
不思議な確信に導かれて来たけれど、その部屋は、人がいるには寒すぎたのだ。カーテンの隙間から外の明りは射しこんでいるけれど、人の声も物音もない。きちんと整えられた文机と椅子、キャビネット……女性の部屋ではない。奥の、陽の射さないところに、立派な寝台があった。
(……いた)
寝台にあの銀の髪の男が横たわっていた。背筋がぞっとする程寒い部屋なのに、何故か薄掛け一枚で眠っているようだった。端正な顔には、やはり血の気というものがないように見える。死んでいるのかと一瞬思ったけれど、その胸は規則正しく上下していた。
こんな部屋で平気で眠りに就いているなんて、やはりこれは魔物なのではないだろうか。わからない。魔物なんておとぎ話でしか知らないので、確かめようはない。
魔物に犯されたら魔物になってしまうのだろうか? 私は、これから人を殺そうとしている事に何の躊躇いも感じていない自分に少し驚いていた。『黄金の薔薇』、未来の王太子妃だったアリアンナが、冷たい氷の館で魔物と化して魔物を殺そうとしているなんて、いったい誰が想像するだろう?
男の枕元には椅子と小テーブルが置いてあり、誰かがそこで林檎を剥いたらしい。林檎の籠と、ナフキンに包まれたナイフがテーブルに乗っていた。
私はナイフを手に取った。男が目を覚ます様子はない。果物用のナイフとはいえ、喉に突き立てたら大の男でも命はないだろう。本当に魔物ならわからないけれど……魔物を確実に殺す方法なんて知らない。柄を右手でぎゅっと握った。男を殺してそのあとどうなるのかなんて、この時はまったく考えていなかった。重苦しい静寂に背中を押されるように、私は男の傍へ寄った。
『おまえを死なせない!』
『おまえが生きてくれるのが俺の望み』
いったいどういうつもりであんな事を言ったのだろう。でも、
『言葉になどしなくても、おまえはもう俺のものだ』
そして、塞がれた唇の感触。無理やりに、押さえつけられて。
与えられた屈辱は、返さなければならない。それに、もしも私の想像が当たっているならば、この男は……。
私は息を呑み、ナイフの柄を両手でしっかりと握る。
「――」
でも、身動きもせずに無防備に眠っている相手にナイフを振り下ろすなんて、本当に許されることなのだろうか。男の顔を見ていると、急に弱気が襲って来る。男の顔は、私になにか遠い記憶の彼方から呼びかけるものを揺り動かしてくる気もする。
今しか好機はない。男が目を覚ませば、あっという間に私はナイフを取り上げられ、組み敷かれてしまうだろう。魔物だろうと人間だろうと、とにかく一般的な男性の腕力があることはわかっている。そして、組み敷かれてまたなにかされてしまうかも知れない……。
けれど、だからと言って、これは卑怯ではないのか。卑怯な手段で手を血で汚しては、もう天の国でお父さまと会えないのではないだろうか。
様々な思い、憎しみと躊躇いがせめぎ合う。
その時……。
「どうした。やらないのか」
私ははっとして思わず声を上げそうになった。
男は瞼を開けて、アイスブルーの目をじっと私に向けていたのだった。
「き……気が、ついて」
「おまえが入って来た時から気が付いていた」
男は静かな声で言う。変わらず無防備な姿勢のままだ。ただ、首を傾けて私を見ているのがさっきと違うだけだ。
「気が付いていた? ならどうして。私が躊躇わなかったらどうするつもりだったの」
「言ったろう、おまえになら殺されてもかまわない、と。おまえの苦しみを少しでも癒せるならば、俺の命などどう使ってもかまわないんだ。本当はもっと長くおまえと居たかったが、おまえを助けてここに連れて来てひとときを共に過ごせた、それだけで充分満足だ。俺の願いは叶った。だから、おまえが決心するまで黙っていようかとも思ったが、おまえが迷っているようだったので、これでいいのか確認しようと思っただけだ」
「……これでいいのか、とはどういう意味」
「おまえは、俺を殺す事を生きる目的にする、と言った。なのにこんなに早々目的を果たしてしまっては、おまえが生きる目的を失ってしまうのではないかと、心配になって」
「……」
この男は何を言っているのだろう? 私は本当に、もう少しで喉を掻き切ろうとしたのに、その私が、自分を殺した後に生き甲斐を失わないか心配、ですって? いくら厚かましい人間でも、ここまで偽善が過ぎた事を真顔で言えるものだろうか?
「心配して頂かなくても、他にも殺したい相手はいるわ」
「そうか。ならいいんだ。じゃあ、おまえの気の済むようにすればいい」
男は僅かに唇を動かした。……まさか、笑った……?
「おまえがこの館で何をしても絶対に邪魔をしたり咎めたりするなと皆には言ってあるから、後の事は心配しなくていい。俺の代わりと思って仕えろとも命じてる。おまえは安全だ」
「……」
「ひとつだけ、願いがあるんだが」
「……」
「おまえがナイフを刺すまで、おまえの顔を見ていていいか。刺されたらさすがに目を開けていられなくなるかも知れない。すぐに死ぬだろうし。でも、俺はずっとおまえに会いたかったから。もう会えないだろうと思っていたのに、会えたのだから、少しでも長くおまえを見ていたい」
私はもう何も言えなかった。男は全くなんの企みもない顔で私をじっと見つめている。
「……なんで。なんでそんな事言うの」
「なんでって? 思った事を言っているだけだが」
「……」
「あ、もしや、俺はまたおまえの気に障る事を言ってしまったか? 済まない、俺は時々物言いがおかしいらしくてな。悪気はないのだと思ってもらいたいのだが」
私の手から、ナイフが滑り落ちた。
「おい、落としたぞ」
「……」
「拾ってやろうか? 医師からは、まだ起き上がるなと言われてはいるが」
「……死ぬというのに、医者の言う事を気にするの?」
「ああ、そうか。もうバロー先生に会う事はないんだった。昨日、もっときちんと今までの礼を言っておくべきだったな」
そう言って男は起き上がろうとしたけれど、私はそれより先にナイフを拾った。そして、言った。
「あなたの名前を聞いてなかったわ」
「そう言えば。俺は、ユーグ・ラトゥーリエ。ラトゥーリエ公爵家の当主だ」
――ああ、やっぱりそうなのか。
私は、私が捨てられる山が、ラトゥーリエ公爵の領地だと聞いていた。まさか公爵の方で私に会おうとするとは想像していなかったけれど、領主なら私が刑を受ける時間や場所もおおよそ知っていた筈だ。
この館は明らかに、かなり格の高い地方領主の住まいだと思われた。この館の中で、私に自由にしていいといったこの男は、この地方の領主、即ち、ラトゥーリエ公爵、冷血公爵ではないのか、と私は部屋の様子や館の中を見ながら思っていたのだった。
10
あなたにおすすめの小説
公爵令嬢クラリスの矜持
福嶋莉佳
恋愛
王太子に「完璧すぎて息が詰まる」と婚約破棄された公爵令嬢クラリス。
だがその瞬間、第二王子ルシアンが彼女の手を取る。
嘲笑渦巻く宮廷で、クラリスは“自分に相応しい未来”を選び抜いていく物語。
悪役令嬢の心変わり
ナナスケ
恋愛
不慮の事故によって20代で命を落としてしまった雨月 夕は乙女ゲーム[聖女の涙]の悪役令嬢に転生してしまっていた。
7歳の誕生日10日前に前世の記憶を取り戻した夕は悪役令嬢、ダリア・クロウリーとして最悪の結末 処刑エンドを回避すべく手始めに婚約者の第2王子との婚約を破棄。
そして、処刑エンドに繋がりそうなルートを回避すべく奮闘する勘違いラブロマンス!
カッコイイ系主人公が男社会と自分に仇なす者たちを斬るっ!
幽霊じゃありません!足だってありますから‼
かな
恋愛
私はトバルズ国の公爵令嬢アーリス・イソラ。8歳の時に木の根に引っかかって頭をぶつけたことにより、前世に流行った乙女ゲームの悪役令嬢に転生してしまったことに気づいた。だが、婚約破棄しても国外追放か修道院行きという緩い断罪だった為、自立する為のスキルを学びつつ、国外追放後のスローライフを夢見ていた。
断罪イベントを終えた数日後、目覚めたら幽霊と騒がれてしまい困惑することに…。えっ?私、生きてますけど
※ご都合主義はご愛嬌ということで見逃してください(*・ω・)*_ _)ペコリ
※遅筆なので、ゆっくり更新になるかもしれません。
リトライさせていただきます!〜死に戻り令嬢はイケメン神様とタッグを組んで人生をやり直す事にした〜
ゆずき
恋愛
公爵家の御令嬢クレハは、18歳の誕生日に何者かに殺害されてしまう。そんなクレハを救ったのは、神を自称する青年(長身イケメン)だった。
イケメン神様の力で10年前の世界に戻されてしまったクレハ。そこから運命の軌道修正を図る。犯人を返り討ちにできるくらい、強くなればいいじゃないか!! そう思ったクレハは、神様からは魔法を、クレハに一目惚れした王太子からは武術の手ほどきを受ける。クレハの強化トレーニングが始まった。
8歳の子供の姿に戻ってしまった少女と、お人好しな神様。そんな2人が主人公の異世界恋愛ファンタジー小説です。
※メインではありませんが、ストーリーにBL的要素が含まれます。少しでもそのような描写が苦手な方はご注意下さい。
捨てられた悪役はきっと幸せになる
ariya
恋愛
ヴィヴィア・ゴーヴァン公爵夫人は少女小説に登場する悪役だった。
強欲で傲慢で嫌われ者、夫に捨てられて惨めな最期を迎えた悪役。
その悪役に転生していたことに気づいたヴィヴィアは、夫がヒロインと結ばれたら潔く退場することを考えていた。
それまでお世話になった為、貴族夫人としての仕事の一部だけでもがんばろう。
「ヴィヴィア、あなたを愛してます」
ヒロインに惹かれつつあるはずの夫・クリスは愛をヴィヴィアに捧げると言ってきて。
そもそもクリスがヴィヴィアを娶ったのは、王位継承を狙っている疑惑から逃れる為の契約結婚だったはずでは?
愛などなかったと思っていた夫婦生活に変化が訪れる。
※本作は、一般的な爽快ざまぁ・即溺愛を主軸とした作品ではありません。
主人公は苦悩や葛藤を抱えながら選択を重ねていくタイプの物語です。
また、人によっては元鞘に見える展開や、ヒーローが執着・独占欲強め(ヤンデレ寄り)と感じられる描写があります。
残酷な描写、精神的トラウマ描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。
兄様達の愛が止まりません!
桜
恋愛
五歳の時、私と兄は父の兄である叔父に助けられた。
そう、私達の両親がニ歳の時事故で亡くなった途端、親類に屋敷を乗っ取られて、離れに閉じ込められた。
屋敷に勤めてくれていた者達はほぼ全員解雇され、一部残された者が密かに私達を庇ってくれていたのだ。
やがて、領内や屋敷周辺に魔物や魔獣被害が出だし、私と兄、そして唯一の保護をしてくれた侍女のみとなり、死の危険性があると心配した者が叔父に助けを求めてくれた。
無事に保護された私達は、叔父が全力で守るからと連れ出し、養子にしてくれたのだ。
叔父の家には二人の兄がいた。
そこで、私は思い出したんだ。双子の兄が時折話していた不思議な話と、何故か自分に映像に流れて来た不思議な世界を、そして、私は…
悪役皇女は二度目の人生死にたくない〜義弟と婚約者にはもう放っておいて欲しい〜
abang
恋愛
皇女シエラ・ヒペリュアンと皇太子ジェレミア・ヒペリュアンは血が繋がっていない。
シエラは前皇后の不貞によって出来た庶子であったが皇族の醜聞を隠すためにその事実は伏せられた。
元々身体が弱かった前皇后は、名目上の療養中に亡くなる。
現皇后と皇帝の間に生まれたのがジェレミアであった。
"容姿しか取り柄の無い頭の悪い皇女"だと言われ、皇后からは邪険にされる。
皇帝である父に頼んで婚約者となった初恋のリヒト・マッケンゼン公爵には相手にもされない日々。
そして日々違和感を感じるデジャブのような感覚…するとある時……
「私…知っているわ。これが前世というものかしら…、」
突然思い出した自らの未来の展開。
このままではジェレミアに利用され、彼が皇帝となった後、汚れた部分の全ての罪を着せられ処刑される。
「それまでに…家出資金を貯めるのよ!」
全てを思い出したシエラは死亡フラグを回避できるのか!?
「リヒト、婚約を解消しましょう。」
「姉様は僕から逃げられない。」
(お願いだから皆もう放っておいて!)
せっかく双子で恋愛ゲームの主人公に転生したのに兄は男に妹は女にモテすぎる。
風和ふわ
恋愛
「なんでお前(貴女)が俺(私)に告白してくるんだ(のよ)!?」
二卵生の双子である山田蓮と山田桜がドハマりしている主人公性別選択可能な恋愛ゲーム「ときめき☆ファンタスティック」。
双子は通り魔に刺されて死亡後、そんな恋愛ゲームの主人公に転生し、エボルシオン魔法学園に入学する。
双子の兄、蓮は自分の推しである悪役令嬢リリスと結ばれる為、
対して妹、桜は同じく推しである俺様王子レックスと結ばれる為にそれぞれ奮闘した。
──が。
何故か肝心のリリス断罪イベントでレックスが蓮に、リリスが桜に告白するというややこしい展開になってしまう!?
さらには他の攻略対象男性キャラ達までも蓮に愛を囁き、攻略対象女性キャラ達は皆桜に頬を赤らめるという混沌オブ混沌へと双子は引きずり込まれるのだった──。
要約すると、「深く考えては負け」。
***
※桜sideは百合注意。蓮sideはBL注意。お好きな方だけ読む方もいらっしゃるかもしれないので、タイトルの横にどちらサイドなのかつけることにしました※
BL、GLなど地雷がある人は回れ右でお願いします。
書き溜めとかしていないので、ゆっくり更新します。
小説家になろう、アルファポリス、エブリスタ、カクヨム、pixivで連載中。
表紙はへる様(@shin69_)に描いて頂きました!自作ではないです!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる