朗読幻想録

こががが

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はるのまち

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 オートロック・パネルの丸い数字ボタンを打ち、503と画面に表示されたのを確認してから春人はるとは呼び出しボタンを押した。

 呼び出し音が5、6回鳴ったが、反応はなかった。
 透き通ったガラスの自動ドアの前で、自分の顔がぼんやり映る。

 503号室から反応がなかったのは、最初から予想していた。
 この部屋に住んでいるのは、同じ中学に通う夕美ゆうみで、彼女との付き合い自体は長い。
 しかし、夕美の心の奥底がいつも見えないというのが春人の本音だ。

 春人は自分のバッグから、1週間分のプリントを取り出して503号室の郵便受けに丁寧に入れる。
 夕美の家の郵便受けには、既に大量のチラシやダイレクト・メッセージが詰まっていた。
 プリントをクリア・ファイルにまとめて入れてきたのは正解だったな、と春人は内心で思った。

 夕美が一週間連続で学校を休んでも、もはや同級生が驚くことはなくなっていた。
 夕美がいれば、彼女の周りに自然と女子たちが集まって会話が始まる。
 彼女は決してクラスのリーダーのようなポジションではないが、自然と人を引き寄せる独特の雰囲気を持っていた。
 一方で夕美はよく学校を休む。
 これは今に始まったことではない。
 小学生の、それも低学年の頃から、彼女は唐突に学校を休むようことが多かった。

 彼女の見た目は決して病的に見えない。
 むしろ運動は得意そうで、実際、今も陸上部に所属している。
 それゆえに、夕美と初めて同じクラスになった者たちは、彼女が一週間以上、連続で学校を休むと、とても心配をした。
 何か持病を患っているのか。
 風邪を引きやすい体質なのか。
 家庭に何か問題があるのではないか、と噂されることも多いが、その噂は春人が、しっかりとと否定し続けている。
 きっと、人間は慣れてしまうのだろう。
 夕美が急にいなくなっても、他人ひとの時間は勝手に進む。

 夕美の家庭環境にまつわる噂を、春人がきっぱりと否定する理由は単純明快。
 彼女の家庭が、大きな問題を抱えていることを春人が知っているからだ。

 小学3年生のプールの授業で、「母親から暴力を振るわれている」と夕美は春人に細い声でつぶやいた。
 淡々と天気の話をするかのように、感情がない夕美の言葉に、春人は大きく動揺してしまった。
 夕美はそんな春人をものともせず、プールサイドで両足に水面みなもに足をぱしゃぱしゃひたしながら「これ、みんなには言わないでね」と笑った。
 春人は「うん。わかった」と笑い返したが、この時の返答は正しかったのだろうか。
 夕美と顔を合わせるたびに、春人は過去の記憶を思い出し、心臓が痛み出す。
 そして、こめかみが始める。

 マンションの外に出ると、秋の金木犀きんもくせいの香りがした。
 外で風が吹いたのだろう。
 そして、マンションの外で、高齢の女性が不思議そうに春人の顔を窺っていることに気が付いた。

 初めて見る顔の女性だ。
 年齢は80歳をゆうに超えているだろう。
 太陽の光が反射しているのか、白髪の中にところどころ金色に輝く髪が混ざっている。
 背は低いが、とても姿勢が良く、上品なただずまいだ。
 初対面だが、この女性は自分の敵ではないと、春人は直感した。

「こんにちは」
 話しかけてきたのは、女性の方からだった。
 百人一首の序歌じょかを読み上げるような優美な声だった。

「誰かをお探しかい?」
 まるで自分の目を見透かされているかのような彼女の言葉にぎくりとする。
「お友達さんをお探しなのかしら?」
「友達、より知人です。」
 歯切れの悪い春人の言葉に、女性は不思議そうに「そうなの?」と問い返す。

「友達……というか、同じクラスの子なんです。同じ中学に通ってて」
「あら、そうなのね」
 年老いた女性は優しく笑った。
 今のご時世に夕美の個人情報を明かして良いものか。
 春人は少し悩んだが、この人は害がなさそうに思えた。
「その子が、一週間学校を休んでしまって。プリントを届けに来たんです」
「あら、今どきの中学生はタブレットで送り合うって孫が言ってたわ」
 この女性から「タブレット」という用語が出てきたことに春人はまた驚く。
「うちの中学校は、良くも悪くも、新しいものに疎いんです。タブレットが導入されるのも、都心に比べたら、きっと大幅に遅れていると思います」
「あら、そうなのね」
 女性はふふっと指を口元に当てて、優雅に笑う。
「でも、あなた、その子のことをとても心配されているのね」
「はい。そうです……」
 春人はこくりと頷いた。
 夕美が学校を休むことには慣れているつもりだった。
 しかし、この一週間の彼女の不在に、なぜか春人の心がざわついていた。
 その理由を春人なりに考えてはみたものの「得体の知れない不安」としか表現出来なかった。
「その子、女の子かしら? なにか凶事きょうじが起きていなければいいのだけれど」
「はい。ただ、悪いことには巻き込まれてはいないような気がするんです……」
「どうして、そう思うのかしら」
 老婆が目を逸らさず聞いてきたので、春人は思わず後退あとずさりしてしまう。
「担任の……その……えっと先生が言っていたんです。母親から風邪が長引いているって連絡が入ったそうで……」
「あなたはその言葉を鵜呑うのみに出来ていないわね」
「どうして、そう思うんですか?」
 心を真っ直ぐに見透かされているような気がした。驚きから思わず、春人は自分の語気ごきが強くなるのを感じた。
「あなた自身が、自分の言葉に納得していないような、そんな気がしたからねぇ」
 老婆は空を見上げて、目を細めた。灰色の雲の隙間から、細く陽光が差していた。
「私もね。それなりに長く生きているうちに、さまざまな方々の色々な言葉を聞いてきたの。自分自身を疑っている人の言葉は、とてももろくて、崩れそうな響きに聞こえてしまうのよ」

「脆くて崩れてゆく言葉。その言葉に気がついたときにはね、私はとても切ない気持ちになるの」
 淡々と、しかし、真っ直ぐと老婆はそう語った。

「だからね、あなたが自分を疑っているのなら、それは私にとってもつらいことなのよ。あなたは先生の言葉も、その子の母親の言葉も、きっと信じることができていないのよね。?」
 その問いに、春人は静かにかぶりを振る。
「その子と母親、二人は仲が悪いのかしら」
「いえ、違います」
 今度は春人が、女性の方を真っ直ぐ見据えた。
「仲が悪いなんて次元の話ではないんです。あの家は……あの家庭はとっくの昔に、もう既に崩壊しているんです」
「崩壊ねぇ……。それはそれは、とても悲しい言葉ね」
 そう言って、女性は宙を仰いだ。
 そして、彼女はしばし沈黙をした。
 そして、その老婆は「なぜ、崩壊していることを春人が知っているのか」と聞くことはなかった。

 それでも、沈黙の時間をなんとか破りたくて、春人は言葉をつまみ出しながら、口をゆっくりと開いた。
「先週、その子が……彼女が口にしたんです。やっとわたしがいるべき場所が見つかったって。でも、彼女はすぐに言葉を訂正して『わたしがいても許される世界』と言っていました」
 春人は淡々と話を続けた。高齢の女性も、春人の話をさえぎる気配はなかった。
「彼女はずっと、日常的に母親からつらく当たられていたみたいなんです。生まれてこなければよかったって」
「その話、あなたは誰かにしたのかしら」
「僕は誰にも相談できませんでした。気が引けてしまって……話せていないんです」
「それは責められるべきことではないわ」
「けれども、今年の春、担任には伝えてみたんです。暴力の話も、それとなく、あくまでも『噂』として」
 女性は大きく目を開いた。
「それはとてもすごいことじゃない。すごく勇気のあることじゃない」
 しかし、女性の力強い言葉に反比例するように、春人は萎縮する。
「でも、担任はどうやら、何も動かなかったようなんです。彼女から語られる日常は、結局、いつも悲しくて、いつまでもむなしいものばかりでした」
 春人は息を吸った。
「僕が悪かったんです。あくまで『噂』としてしか、先生に伝えなかったから。だから先生も動けなかったんだと思うんです」

 もし、事実だと先生に伝える選択をしていれば……伝える勇気があったのなら……。

 そう言いかけて、春人は唇をぎゅっと噛んだ。少しだけ、血の味が舌を巡った。
 その時、白髪の女性はゆっくりと手を伸ばして、春人の手を握りしめた。
 秋の夕暮れ時のような、冷たすぎず、暖かすぎない温度が、春人の手の甲から伝わってきた。

「あなたは自分を責めているようだけれど、これだけは覚えておいて。全ての大人が勇敢なわけでもなくて、むしろ子どもたちよりも臆病になることもあって、時にはね、子どもたちから大人の方が守られていることもあるの」
 この世界ではたくさん、数えきれないくらいの大人がいつも迷いながら決断をして、ときに弱くなりながら、なんとか歩いているの。
 女性の白髪が秋の風に揺られていた。
「でも、子どもを守れずに、子どもから守られているときに、そのことに気がつかない大人ほど、自分の心の隙間に目を向けることができない。向き合えない」
 女性の言葉に、春人は戸惑った。
 なんと言葉を返せば良いか、全くわからなかった。
「私のね、言葉の意味は、今は分からなくていいの。この先、大人になっても分からないままでもいいのよ」
 その女性は春人に向き合って、穏やかに語りかけた。
「私はあなたの幸せを願います。」
 女性はもう一度、穏やかにそう言ってから、春人の手を離した。

「でも、やっぱり、僕がが別の先生に相談したり、僕の母に相談していたら、彼女はもっと早く、自分の幸せな世界に住めたと思うんです」
 春人は自分の言葉が震えていることに気がついた。
「だから、彼女の……夕美の言った『存在しても許される世界』という言葉が本当なら、どんな場所であれ、どんな世界であれ、応援すべきだと思うんです。その世界を、僕は知る必要はないはずなんです。知る権利すらないはずなんです」
「本当に?」
 女性は息を吸った。
「先ほど、私は『自分自身を疑う言葉にはすぐに気が付いてしまう』と言いました。その言葉、あなたはまだ、はっきりと覚えているでしょう?」
 彼女の言葉に、春人は頷くことしか出来なかった。
「どんな世界であっても、彼女が幸せならそれでいい。あなたは、自分のその言葉を信じることができていないのよね」
「そのとおりです」
 この人に自分の嘘は到底、通用しない。
 春人は自分の手を固く握りしめて、自分の口から言葉を出し続けることにした。
「夕美が幸せな世界を見つけたとしても、それが本当に夕美がいていい世界なのか、一緒に確認する義務が僕にはあると思うんです」
 春人は続けた。
「夕美の言葉だけを信じて、彼女に関わらない選択をするのは、無責任そのもの。そんな選択、僕には出来ない。それに、夕美の言っていた言葉に、どこか胸がざわつくんです」
「それなら、彼女に会うしかないわ」
 会って確かめないといけないわね。女性の言葉は春人の出した結論と一緒だった。
「でも、僕には全く検討が付かないんです。夕美が見つけた世界がどこなのか。具体的な場所を聞いておけばよかったのですが、今はもう、何も手がかりがなくて」

 うつむく春人の顔には、もう太陽の光は当たっていなかった。
 雲が空を覆い、もうまもなく、雨が降るだろう。
 今日の雨は、きっと強いはずだ。

「なら、もしも、彼女が行く『当て』が分かったとしたなら、あなたはどうするつもり?」
 唐突な女性の言葉に、思わず「え」と春人は聞き返した。
「これは、もしもの話。私が彼女が行きそうな世界を知っていて、そこにあなたを案内できるとしたら。あなたは私と一緒に、その世界を覗く覚悟はあるかしら」
「必ず、会いに行きます」
 春人は迷わずに言い切った。
「その場所に、もしも心当たりがおありでしたら、僕は行ってみたいです。自分の目で見て確認したいです。ただ、僕は完全に余所者よそものですが……」
 女性はゆっくりと頷いてから、姿勢を正した。
 太陽は完全に雲に隠れてしまっていたが、その女性の目は真っ直ぐな光を帯びていた。
「大丈夫よ。最初は皆、自分を余所者だと思っているものだからねぇ。それにあそこは、そんな理由で人を拒むところじゃないわ」
「それなら、どんな理由なら、拒まれてしまうのですか?」
 春人の問いに、女性は「うーん、そうねぇ」と微笑んだ。
「歩きながら、話しましょう」
 春人は頷き、右足のかかとを三回鳴らし、女性と一緒に歩き出した。
「夕美は『受け入れてもらえる世界』と表現していました。それって、比喩的な意味ですか?」
「比喩ではないわね。私は現に、その場所に行ったことがあるから」
「では、『世界』とは『場所』と同じ意味だと捉えても良いということですか?」
「それは見方によるかねぇ」
「見方?」
 春人は自分のこめかみを人差し指で三回叩いた。これは夕美がよくする仕草が、いつの間にか自分にも移ってしまったものだった。

「『場所』を『土地の位置』だと捉えるなら、あなたのいう『世界』は『場所』とは別物になるわ」
「土地の位置ではない、ということは『世界』とはある一定の人たちが集まったグループ、という理解でよろしいのでしょうか?」
「その捉え方は、あながち間違いではないわ」
「すみません……飲み込みが悪くて……」
 ちょっと混乱しています、と素直に伝えると、女性はほがらかに笑った。
「大丈夫よ。行けば分かるから」
「そもそも、なぜあなたはその『世界』をご存じなのですか?」
 質問ばかりですみません、と春人は謝るが、女性は気にする様子もなく答えた。
「質問をすることは悪いことではないわ。疑問が私たちの心を動かして、疑問から得られた知識が私たちの生活を豊かにするんですから」
 そう語ったあとに、白髪の女性は少し遠い目をした。
「私が知ったきっかけは、些細ささいなことだった。ちょっとだけ、人の命の期間について、考えていた時期があってね」
「命の期間? それって、つまり寿命ということですか?」
「そうともいえるかもしれないわね」
 女性の指示に従って、いつもなら入らない少し細い小道に進んだ。
 両脇には、古着屋、小さなライブハウスが構えていた。どちらも春人が入ったことのない種類のお店だ。
 その先には、お皿を専門に扱っているらしいお店と一番奥には、小さなカフェの看板がちらりと見えた。

「あそこのカフェをさらに左に曲がるのよ」
 彼女の指が差していたのは、これまた見慣れない屋根のカフェだった。
 カフェの名前は「tremolo」。
 おそらく「トレモロ」と読むのだろう。
 アルファベットで書かれたカフェの看板は、パステル風味の淡い色合いで、もしかしたら夕美の好みかもしれないと、とふと考えた。
 カフェを曲がった先には、小さな公園があった。
「あら、可愛いわねぇ」
 女性の目線の先には、一匹の灰色の子猫が自分の身体を舐めていた。
 子猫は一瞬、こちら側に気がついて目を合わせる。まるで月のような綺麗な黄色の目をしていた。
「この道を進むと、隣町まで行ってしまいそうですね」
「大丈夫よ。この公園を過ぎたら、目的の『世界』にはたどり着けるから」と女性は笑う。
 その言葉は正しかった。
 公園を完全に通り過ぎたとき、彼女はふと足を止めた。
「私が案内できるのはここまで」
 女性はそう言って、指先で先の通り道を指差した。
「あの通りを真っ直ぐに進めば、おそらく彼女に出会えるわ」
「あなたはこれ以上、進めないのですか?」
「私も進むことは出来るわ。だけど、この場所に入るとしたら、それはもう少し先の未来の話になるでしょうね」
「ここまで案内していただき、ありがとうございました」
 春人はお辞儀をする。
「それと……また、あなたには会えますか? ちゃんとお礼をさせてください」
 春人の不安をかき消すように、女性は美しく微笑んだ。
「今はまだ私にも分からない。けれど、大丈夫。きっと、大丈夫よ」
 彼女の穏やかな言葉は、心の中にすとんと落ちる説得力があった。
 春人が顔を上げると、老婆は煙のように消えていた。

 数メートルも歩かないうちに、あの女性の言っていた「世界」の意味が分かった。
 瞬きをした瞬間、空が青く晴れたのだ。
 大量の灰色の雲が、一瞬でどこかへと消し去ってしまう現象。
 あまりの光景の代わり様に、これは場所ではなくて『世界』という表現が正しかったことを春人は思い知らされた。

 雲一つない大きな青空。

 それ以外は、一見、ごく普通の通り道のように見えた。
 だが建物はほとんど建っておらず、木々と街灯と、横長の木材のベンチがいくつも遠くまで並んでいる。
 こんなに大きな通り道、なぜ今まで気が付かなかったのだろうか。
 それはおそらく、こんな世界が存在するなどと春人が想像したことがなかったからだろう。
 白髪の女性の言うとおり、この世界は特定の「誰かを拒絶」するわけではなさそうだ。
 むしろ、こんな世界が存在するはずがないという自らの思い込みが、この街の存在を拒絶したがっている。

 この道をこのまま進んでよいのだろうか。
 この広大な通り道で、どうやったら夕美に出会えるのだろうか。
 春人の不安は杞憂きゆうだった。
 ゆっくりと目を瞑って、ゆっくりと開く。
 そして、夕美がベンチに腰を下ろして、本を読んでいる姿が見えた。
 白髪の女性が突然消えた時のように、夕美は突然、目の前に現れた。
 そして春人の存在に気がついた夕美は、ゆっくりと笑みを浮かべた。

「来てくれたのはわたしのため?」
 夕美の質問は的確だった。
 春人は素直に「もちろん」と答える。
「なんでこんなところまで来たの?」
「それは僕が聞きたかった。ここはどこ?」
「質問に質問で返さないでよ」
「このやりとり懐かしいね」
 春人と夕美は笑い合う。
「本当はね。わたしもここがどこなのか、よく分かってないの」
 夕美は座ったまま、青空を眺める。
「こんな世界があるなんてね。私、全く予想したことも、想像したことも、妄想したことさえもなかった」
 そう言い夕美は腕をまくった。尖った青いアザが、二の腕にくっきりと残っていた。
 凶器はおそらく、ガラスかステンレス製の鋭い食器。
「わたしはいつも、逃げ場が欲しかった。追いかけられても、誰からもたどり着けない場所なら、どこでもよかった。ずっと雨が降っている世界でも、私が私でいられる世界なら、私は構わなかった」
「ここは……ここの世界はずっと青空なの?」
「ずっと? どれくらいのこと?」
「夕美が学校を休んでいる間の一週間」
「一週間も経っていたんだね」
 夕美は目を丸くした。
「私、そんなに長くここにいたんだ」
「ずっと、このベンチに座っていたの?」
「うん。私の中では10分くらいの間隔だった」
 夕美は本を閉じる。
「でも、経った一週間休んだくらいで、春人くんが探しに来てくれるなんて。意外だった」
「先週、夕美が『許される世界を見つけた』って不思議なことを言ったから」
 そう。だから不安になった。
 心がざわついた。
 心が掻き乱されたのだ。

「この世界がさ。魔法によるものなのか、はたまた霊的な呪いによるものなのか、わたしには全然、判断がつかないの。でも……」
 ようやく夕美は春人の目を見る。
「この世界は私を拒絶しなかった」
 夕美はベンチの右端に少し寄ってから、左手で「ここに座りなよ」と春人に伝えた。
 彼女の言葉に従って、春人もベンチに腰をかけた。
 陽の光は、とても暖かった。
「あたたかいでしょ」
「そうだね」
「わたし、この世界に来てからさ。ずっと思ってる。元の世界で私は無理しすぎてた。学校のみんなはいつも優しくて、私も良い子でいないといけないと思ってたの。私の家の噂が流れそうになると、いつも誰かさんが止めてくれてたみたいだったんだけど、それも私にとっては、実はつらかったんだ」
「ごめん」
 春人は夕美の目を見ることができなかった。
「別に責めてないよ。大丈夫」
 むしろ、ありがとう。
 夕美は笑う。
「元いた世界はね、私にとって害があるものばかりだった。だからね、それから逃げて、保護されて、安心できる。そういう場所を求めることって、いけないことなの?」
「悪いことだなんて、絶対に思わない」
 春人は断言した。
「でも、私に言いたいこと、文句も不満も不平も、たくさん……たくさんあったでしょ。もう、言っていいよ。もう、この世界の空の下なら、何を言われても、私は大丈夫だから」
 夕美の「逃げたい」は、春人にとって「正論」にしか聞こえない。それでも、この世界で時間が過ぎるのを待ち続けるのは、果たして正解なのだろうか? もし、誤っているのだとしたら、その理由は?
 結論を出すのをまるで拒否するかのように、春人の口は動かない。
「じゃあ、春人君の言葉がまとまるまで、わたしは待つね」
 夕美はまた空に目を向けた。
 春人は何度、深呼吸を繰り返しただろう。

 この空の青さは、おそらく春の空だろう。
 この世界には春しかないのかもしれない。
 雨も降らないのかもしれない。
 ぼんやりと空を眺めながら、春人は、そっと、口を開いた。

「この世界ってさ。風、全く吹かないよね」
「そうなの?」
 夕美が意外そうな声を出した。
「でも、風なんて吹かなくても、わたしは何も困らないけどなぁ」
「風がないと、僕は季節の変わり目が分からなくなっちゃう」
「春人くんはよく言ってたよね。季節ごとに風の香りが違うって」
「うん。それで、僕は寒くなったり暑くなったりするのが分かって、衣替えなんかもしてさ。そういうの嫌いじゃなかった。だから、僕は季節を感じられなくなるこの世界、少し困るかも」
「わたしは季節なんて大っ嫌いだった」
 夕美の言葉は、純粋な彼女の感情そのものだった。

「この世界、夕暮れ時の影も、星空の明るさも、暁の光も、きっと感じることができないんだよね。僕にとっては、それも少し寂しいかな」
「春人君はそういう人だよね。そういう感情持てること、私は羨ましかった」
 夕美が寂しそうに、ふふっと笑った。
「私は季節の変わり目も、日が落ちたり、上がったり、全てに関心がなかったの。毎日を生きるだけで、精一杯だったから」
「そうだよね。ごめん」
「謝るのはわたしの方。春人君が好きなものを何も好きになれない。それが、すごく寂しかった」
 二人はやっと目があった。
 そして、理由もなくお互いに笑った。

「それにさ。ここにいると夕美のこと、みんな忘れちゃいそうで……この世界は時間の進み方がとても遅いみたいだし」
「そうだね」
 夕美は青空に右手を伸ばして、目を細めた。
「みんなが私より先に歳を取って、私がみんなから忘れられてしまった世界なら、そのときは昔の家に戻ってみるのも悪くないかなって」
「もし、僕も夕美のことを忘れてしまったら?」
 そうだね……。
 夕美はこめかみに人差し指を当てて三回叩き、少し考え込んだ。
 そして、息をすうっと吸い込んでから春人の目をしっかりと見つめた。
「春人君から忘れちゃうのは、ちょっと悲しいかな。でも、それよりも現実の世界で害を受け続けることが怖くて。たぶん、すぐに耐えられなくなる」
 夕美の目は、悲しそうに輝いていた。
 彼女の目に涙が溜まっているのか、陽光が反射しているだけなのか、春人には分からなかった。
「こんな明るすぎる世界にまで来てもらったのに。ごめんね。本当にごめんね」
 夕美は春人の手を握った。
 彼女の手は、春人が思っていたよりもずっと華奢きゃしゃで、とても冷たくて、小さく震えていた。

〈エピローグ〉

「この通りを真っ直ぐ戻れば、きっと元の世界に戻れると思う」
  夕美の言葉は間違っていなくて、ベンチから離れて、数歩進んだだけで、周りの景色が夜の闇に覆われた。

 振り返れば、夕美が手を振ってるかもしれない。
 そんな淡い期待もむなしく、春人の後ろには、見慣れない夜の交差点が広がっているだけだった。
 雨は既に降り終わっていた。
 春人が空を見上げると、雲はほとんど消えていて、たくさんの星がきらりと光を放っている。
 それらの星々は、何故だろうか、いつもより明るく輝いているように見えるような気がした。
 首元をかすめた風はとても冷たくて、きっと冬の到来も近いのだろう。

 携帯電話の画面を開くと、ちょうど母親から「先に夕飯を食べてしまった」とメッセージが届いていた。
 コンビニで適当に夕飯を探すが、値引きされているコンビニ弁当ばかりで、春人は少々、げんなりとした。
 家に着くと母親から「栄養バランスが悪い」とちくちく言われたので、「明日はちゃんと作るから」と言い訳をして、冷めつつあるコンビニ弁当を胃に流し込んで、自分の部屋に逃げるように帰った。

 春人も母親と二人暮らしだ。
 だが、さいわいなことに、春人は食器を投げつけられたことは一度もない。
 職場の愚痴を永遠と聞かされることはあれど、自分の人格を否定されたことはなかった。
 ひととおりの家事をこなして、入浴前に、一人でベランダから春人は空を眺めた。
 星の光は、昨日よりも輝いているように見えた。
 このまま寒くなって、風も冷たくなって、でも多分、今年は雪は降らなさそうだ。
「お風呂、早くはいっちゃって! もう!」
 リビングから母の声が聞こえてきたので、「わかったって」と春人もベランダから部屋に戻って、そのまま返事をした。
 ヒーターは付けていないが、部屋はとても暖かく感じられた。
 僕は、一人だけで、暖かい部屋で過ごしていいのかな。
 ゆっくりと目の前が霞み始めた気がした。
 結局、どの結末が夕美のためになるのだろう。
 それを繰り返し考えて、結論が出なくて、それで余計にめまいがひどくなる。

「ねえ、何してるの?」
 母の声が春人の不意をついた。
 思わず、びっくりしてしまい、「ごめん」って叫んでしまったため、母は思わず吹き出してしまったようだ。
「もうね、さっきから、こっちは声張ってるんだから」
「わかったって」
「それにあんたねぇ、まだ中学生なんだから、夜はもっと早く帰ってきなよ」
 母親の言葉を正面から受け止めてから、「わかったよ」と返した。

 まだ中学生なんだから。

 その時、なぜか母の強い口調の言葉が、春人の頭の中で木霊こだまのように繰り返された。
 そっか、僕たちは未熟なんだ。
 そして、人差し指で三回こめかみを叩いた。
 それから、くるりと向きを変えて、母の目を見つめた。
「ごめん。やっぱり、僕、ちょっと明日も帰り遅くなるかも」
 はあ? と青筋を立てる母に対して、「本当にごめん! 悪い遊びとかしてるわけじゃないから!」と春人は強い口調で答えた。

 やっぱり、明日の放課後は寄り道をして帰ろう。
 それに寄り道する前に、コンビニで何かお菓子やジュースでも買っていこう。
 
 秋が通り過ぎる前に。
 完全な冬が来てしまう前に。
 夕美と一緒に、あの同じ青空を見よう。
 風が吹かない、春の街で。
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